50話 その涙、一滴さえ
「ボンゴレ本部を……ミルフィオーレファミリーが、急襲……?」
今しがた草壁から放たれたその言葉を、音羽は譫言のように繰り返した。雲雀は黙って、静かに眉を顰めている。
「はい……。詳しい状況は現在確認中とのことですが、敵はボンゴレの関係者を見境なく狙っているようで……。財団の人間は全員無事なものの、今は迂闊に行動出来ないそうです……」
「そんな……」
草壁は苦虫を噛み潰したような顔で言った。掠れた声が、音羽の喉の奥から漏れ出る。
頭がひどく混乱していた。
それはもちろん、ボンゴレが敵襲を受けた、ということもそうであるが……。何より驚いたのは、ボンゴレに牙を剥いたその相手――。
“ミルフィオーレファミリー”。
それは、近頃着々と力を付けている、と裏社会で噂されていたファミリーだった。
音羽は幸運にも、これまで彼等に遭遇したことはない。
ただ、ミルフィオーレファミリーの組織力はボンゴレとほぼ同等。戦闘力に関しては最新の匣兵器を多用し、それこそボンゴレを上回るのではないか……と一時密かに囁かれていたことさえある。
音羽はその辺りの情報を手に入れる機会がほとんどないので、詳しいことは知らないが……。
ミルフィオーレは、他のファミリーからリングや匣を略奪することによって強くなっていった組織だと聞いている。
つまり、力で相手をねじ伏せる――暴力を厭わない集団なのだ。
目的のためなら、手段を選ばない可能性もある。そのうえ実力も伴った
ただ……、彼等がボンゴレを襲った動機が分からない。ボンゴレは、ミルフィオーレが興味を持つような高ランクリングや匣は、現在所有していないはずだ。
それに、ボンゴレに関わった人間を見境なく狙っているなんて――どう考えてもおかしい。
目的はこれまでのようなリングや匣ではなく、ボンゴレそのもの、なのだろうか……?
「――!!」
そこまで考えた音羽は、ハッと息を呑んだ。
ボンゴレファミリー、イタリア本部。
先日そこで会った皆の顔が、頭を過ったのだ。
ツナ、獄寺、山本――彼等は、今も本部にいるのだろうか……? 皆は、無事でいるの……?
「っ……!」
音羽は瞬時に踵を返した。視界の端で雲雀がこちらを振り返るのが見えたし、「音羽さん……!」と草壁が呼ぶ声も聞こえた気がする。ただ、小走りに動く足は止まらない。
音羽は真っ直ぐベッドに向かい、その上に置いてあったスマホを鷲掴んだ。いつもより硬い指で急いでパスワードを入れて、画面を開く。――ディスプレイを見て、音羽は硬直した。
「――獄寺、く、ん……!」
さっきの着信は――獄寺からのものだった。
彼の名前を見た途端、サアッと身体中から血の気が引く。心臓はバクバクと、まるで皮膚を押し上げるような勢いで重く鳴り、指先も背筋も急激に冷たくなっていく。
それでも今すべきことはたった一つで、音羽は慌てて通話ボタンを押した。獄寺の番号にかけ直して、コール音が鳴り続けて。……彼は、電話に出ない。
「…………」
『電源が入っていません』アナウンスが機械的に繰り返し始めて、音羽はようやく通話を切った。頭の中が真っ白で、その場に呆然と立ち竦んでしまう。
「……どうしよう……」
スマホを握りしめた手は、カタカタと小刻みに震えていた。
さっきの、獄寺からの着信。
あれはきっと、“このこと”を伝えるためだ。しかも、音羽の電話が鳴る前に、雲雀にも着信があった。
タイミングから考えれば、おそらくあの着信も獄寺からのものだろう。音羽より先に雲雀に電話したということは、救援を頼むためのものだったかもしれない――。
だとしたら……彼等が今も窮地に立たされている可能性は、充分にある。
「……っ……、」
――どうして……私はあのとき電話に出なかったの……!
音羽は手が白くなるくらいぎゅうと携帯を握って、唇を強く噛みしめた。
――絶対に出なければいけない電話だった……! 皆、凄く大変なことになってるのに! 助けを求める電話だったかもしれないのに!!
激しい後悔に襲われる音羽の脳裏には、彼の姿が浮かんでいた。
中学生の頃からの知人。あの、小さなヒットマン。今はもうこの世にはいない――、リボーンだ。
ツナたちに限って、そんなことにはならないはず、と今もどこかでは思っている。
でも、本当はそんなの分からないのだ。いつ、誰が、どうなったっておかしくない。
だってあのリボーンでさえ――死んでしまった。
もし……もし、これ以上大切な仲間が、死んでしまうことに、なったら……。
「――音羽」
「!!」
最悪の場面を考えていた音羽を、後ろから呼んだ雲雀の声が現実に引き戻した。音羽は慌てて振り返り、
「っ恭弥さん……! どうしよう、さっきの電話獄寺君からで……!! でも、掛け直したんですけど、全然繋がらなくて……!!」
「……落ち着いて、音羽」
「――!」
混乱のあまり早口で捲し立てる音羽を宥めるように、雲雀が音羽の両肩に手を置いた。
肩に載った雲雀の手が、普通より速く上下している。――ああ、自分の呼吸がいつもより浅いから、肩も速く動いているんだ。いつもと同じ冷静な雲雀の目を見て、音羽も少し自分を取り戻す。
冷静に、ならなきゃ……。口を噤んで意識的に深く息をすると、それを確かめるように雲雀が目を細め、それから静かな声で言った。
「……僕にきていた着信も、獄寺隼人からだった。大方君が考えている通り、状況の連絡と救援要請だろうね」
「……! じゃあ、早くイタリアに戻らなきゃ……!」
「それは出来ないよ」
「!? どうしてですか……!?」
平生と同じく落ち着き払っている雲雀に、音羽は咄嗟に声を上げてしまう。すると雲雀は、凪いだ瞳をこちらに向けた。
「ミルフィオーレが見境なくボンゴレの関係者を狙っているのなら、イタリアへの出入り口には既に彼等の監視がついてるはずだ。それに向こうは、救援が来るだろうと見込んで動いているだろうからね。今入国するのは難しい。それに、」
雲雀はそこで言葉を切ると、音羽の瞳をじっと、深く見つめて言葉を続ける。
「今は、君の匣兵器を完成させなければいけない。この機会を逃すと、もう後がない」
「……!!」
そう言った雲雀の瞳も、声も。それらはあまりに真剣だった。
十年近く彼と一緒にいるけれど、これまでに数回しか見たことがないくらいに。
だから、音羽は口を開くことも出来ずに、ただ彼を見上げてしまう。
――でも、言わなきゃ……。いくら恭弥さんの言うことでも、今は沢田君たちの所に行かなきゃいけないって。皆を助けなきゃいけないって……。…………でも、
どうしてだか、言葉にすることは出来ない。
それくらい、雲雀の瞳に宿った力は強かった。
それは、普段から彼が得意としている蹂躙のような支配ではなくて、ただただ彼自身がそうしなければいけないと固く信じている、信念の強さだった。
『もう後がない』――そう言った彼の声に籠められた重みを、音羽は全て理解することが出来ない。
けれど、雲雀がその答えを信じているなら――きっとそこには、何かあるはずなのだ。彼の瞳を見れば、それは何より明らかで。
……だとしたら、音羽は……。
「……」
ややあって、音羽は身体に入っていた力を抜いた。雲雀を見上げれば、彼は音羽が“受け入れた”のを悟ったのか、目が合うとほんの少し表情を緩める。
「……そう簡単には死なないさ」
「……! はい……」
普段なら絶対言わないような彼の台詞に、一瞬目を瞠った。
でも――それは、音羽のためだ。音羽を、少しでも安心させてくれるために。
目を細めて頷くと、雲雀は音羽の頭をぽん、と温かく撫でてくれた。俯いていた顔を上げたら、彼はゆっくりと爪先を廊下の方に向ける。
「君は先に休んでて。向こうにいる財団の人間に、もう一度電話を掛けてくる」
「……分かりました。何か詳しいことが分かったら、教えてください」
雲雀は音羽の言葉に視線で応えると、草壁と一緒に部屋を出て行った。
残された音羽は身体から力が抜けて、ドサッとベッドの上に座り込んでしまう。
「……皆……どうか、無事でいて……」
音羽は両手を握りしめ、ただ彼等の無事を祈ることしか出来なかった――。
◇
――翌日。
新しい属性を持つ貴重な研究対象――片桐音羽と、今回の件の依頼主、雲雀恭弥は、予定通りここ、ケーニッヒの研究室を訪れていた。
雲雀の部下の草壁は、何やら用事があるらしく今日は来ていない。研究室には、三人しかいなかった。
ケーニッヒは、機械の前の椅子に座って、ぼうっとしている音羽の顔を見下ろした。
昨日同様、測定用のリングで炎のデータと、匣作製用に彼女が灯す死ぬ気の炎を採取しているところだが、音羽はここに来てからずっとこの調子だ。
何を話しかけても一呼吸置いてから気が付いて、ゆっくりと答えが返ってくる。表情も昨日と違ってどんより暗いし、どこかソワソワしているようだった。
ケーニッヒはじっ、と音羽を観察する。伏せられた長い睫毛の奥にある紅茶色の瞳が、微かに左右に揺れていた。……不安? 心配? ……そんなような感じだ。
音羽を見たあと、ケーニッヒは顔を上げて後ろを振り返った。
「……」
背後には昨日と同じ、我が物顔でケーニッヒのお気に入りのソファに座っている雲雀がいる。
彼は鷹のように鋭いあの瞳を閉じていて、まるで眠っているようだった。が、彼が油断なくこちらに注意を払っていることは、前線で戦う機会のない自分でも感じ取れる。
雲雀は音羽とは対照的で、昨日と何一つ変わらない。
――自分のファミリーが、襲撃を受けたにも関わらず。
「…………」
ケーニッヒは静かに二人の姿を眺めてから、モニターへと視線を移した。
マフィアたちに匣兵器を売り捌き、裏社会とも深く繋がっているケーニッヒは、もちろん既に“ボンゴレ襲撃事件”も知っている。
その界隈の情報はすぐに流れてくるし、何と言っても古くから続いている伝統的マフィア――ボンゴレと、今最も勢いに乗っているミルフィオーレの抗争だ。
昨夜勃発したといっても、この世界の人間でこのニュースを知らない者はいないだろう。
――にしても、あそこまで落ち着いていられるか? 普通。
ケーニッヒはモニターを見つめながら、つい思った。当然、先ほど見た雲雀の姿に対して。
今は間違いなく、ファミリーの一大事のはずだ。ケーニッヒにとってはどちらがどうなろうと知ったことではない(どちらも巨大マフィアなので、匣の買い手が減るのは痛手だ)が、対して雲雀は一応の当事者である。しかし、そんなことなどどこ吹く風のあの表情。
しかも、普通なら真っ先に
音羽の方は、あの表情を見るにそれなりのショックは受けているようだけど。雲雀には、それらしい様子がまるで見えない。
恐らく、ここに来るのを決めたのも雲雀なのだろう。
まだ会ってそう時間が経っていないとはいえ、ケーニッヒは雲雀の性格を大まかには把握していた。
彼は自分の興味を引くもの以外への関心が極端に低く、他者に決して迎合しない。
以前、『雲雀恭弥はボンゴレ最強の守護者だが、なぜボンゴレについているのか。真意の掴めない男だ』という噂を聞いたことがあるが、まさにその通りと言えるだろう。
彼には、ボンゴレに対する執着心がまるでない。
現地にいる仲間がどうなろうと――例え、死んでしまっても――彼にとってはそんなこと些末なことなのではないか。……あの顔を見ていると、そんな疑念さえ湧いてくる。
しかし、掴みどころのない、何事にも興味がなさそうなあの雲雀が。
「……」
ケーニッヒは視線を落とした。そこには、自分の知る限りで彼の興味を引く唯一の存在が、大人しく座っている。
雲雀が音羽を何よりも大切にしていることは、ほんの数分彼等と過ごすだけでよく分かった。
それはもちろん、雲雀が音羽に身を守る術を与えるべく、彼女の匣兵器製作を自分に依頼してきたことからも分かる。が、それ以上に。
今も、隙なく放たれている僅かな殺気。
恐らく、ケーニッヒが音羽に対して少しでも不審な動きをとれば、彼は牙を剥いて殴りかかってくるだろう。殴られるだけならまだマシだ、頭が吹っ飛んで即死、も可能性としてはゼロじゃない。
その光景がすぐ想像できるくらいには、雲雀の音羽に対する執着心は明らかだった。
ケーニッヒは、そんな物騒な男に愛玩されている彼女をまじまじと観察した。
片桐音羽――彼女は初代以来空席だったというボンゴレ“天の守護者”に、約百年ぶりに抜擢された女性である。
何でも治癒能力を持っているらしく――本当ならそのメカニズムについても研究したいところだが、今回は匣兵器の納期があまりに短いので残念ながら不可能だ。……この件については、一旦頭から追い出そう――。
あと彼女で有名なのは、“傾国”の美女、という噂だろうか。
見ればどんな男でも虜になる、という話だったが……実際に会ってみると、よく分からない。
伏し目がちの、憂いを帯びた丸い紅茶色の瞳。ほんのり赤い頬と、形の良い薔薇色の唇。全てが美しく整っている。確かに、彼女は可愛らしく、誰が見ても美人だと言う相貌だろう。
ただ彼女は、ケーニッヒが思い描いていたような女性ではなかった。
傾国の美女、というから、もっと妖艶でいかにも魔性の女を想像していたのだ。だが実際に会ってみると、彼女は“意外にも普通の女”だった。
想像していたほど色っぽい訳でもないし、表情や仕草が男に媚びている訳でもない。ケーニッヒが普段遊んでいる女の子たちの方が、よほどそれらしいだろう。
そのうえ、彼女からは裏社会に身を置いている人間が放つ、独特の雰囲気も感じられなかった。とにかく彼女はどこにでもいそうな、一般的な女性とそう変わらないように見えるのだ。
だからケーニッヒは、彼女に対して“研究対象”としての興味しかない。彼女は今の所この世界でただ一人しかいない特別な属性を持った人間で、研究者にとっては未知の宝庫なのだ。
これはある意味、よかったと言えるだろう。もし自分が彼女を女性として見てしまえば、雲雀の鉄拳が飛んでくるパーセンテージは何倍にも跳ね上がる。
その場面を想像して、ケーニッヒはふーっと息を付いた。吐き出したそれと一緒に、背中に張り付いている無言の圧力もどこかに霧散しないかと少し思う。
――でもまあ、それほどこの子が大事なら、雲雀の判断は正しいな。音羽ちゃん、どう見たって戦闘力はなさそうだし、七属性の炎も極端に弱いし……。この炎で既存の匣兵器を使っても、せいぜい開匣時の一撃しか与えられない。……そりゃ、雲雀が大金かけて匣兵器欲しがるわけだ。
ケーニッヒは胸の内で納得しながら、今度は音羽の物憂げな表情から、彼女の手元に視線を移した。
細い指に嵌められたリングの上では、インディゴの炎が小さく揺れていた。弱々しく掠れたそれに、つい眉を顰めてしまう。
――昨日より、明らかに炎の出力が落ちてるな。
数値として見る間でもない。目視で昨日より小さいと分かるその炎は、まるで霞のようで今にも消えるのではないかと思うほど。
このままでは実験に必要なデータが取れないばかりか、匣作製に必要な炎も、彼女から直接採取することが出来ない。データと材料が不足すればするほど、こちらの進行は遅れてしまう。
ケーニッヒは気を取り直し、腰を屈めた。音羽の顔を覗き込み、にっこりと、努めて柔らかく微笑みかける。
「音羽ちゃん、炎の出力が落ちてるよ?」
「……! す、すみません……」
音羽はぱっと顔を上げて、それからまた項垂れて謝った。
リングに灯る炎と、炎を灯す人間の精神状態は、常に密接に関係している。
元々持っている波動の強さはもちろんあるが、その人間の持つ覚悟が強ければ強いほど炎の力は強くなり、覚悟が足りなければ弱くなる。
今の音羽は――覚悟云々の前に、心ここにあらず、といった様子だった。恐らくは、ボンゴレが襲撃されたというショックのためか。
炎を灯すには、集中力も欠かせない要素の一つだが、この落ち込みようからすると、リングの方に気を向けさせるのは中々骨が折れるだろう。……しかし、報酬を貰っている以上、匣完成に支障が出るのは何より困る。
ケーニッヒはやれやれと思いながら、ゆったりとした調子で口を開いた。
「……ボンゴレの件は俺も知ってる。大変そうだけど、今ここにいる音羽ちゃんが出来ることは、ここで状態の良い炎を出すことだ。だからこっちにも集中して、頑張ろうね」
そう言って笑いかけると、音羽は戸惑ったように瞳を揺らし、やがて苦笑して頷いた。
「……そう、ですよね……。ごめんなさい、どうしても向こうにいる皆が心配で……。でも、今の私に出来ることはやっぱりこれだけだから……皆を信じて、頑張ります」
彼女は言って、ゆっくりと目を伏せた。
大きく呼吸をする彼女が、徐々に集中していくのが気配で分かる。リングの炎もそれに呼応し、先程より少し大きくなって安定した。
次第に純度を高めていく藍色の澄んだ炎。ケーニッヒは思ったより早く成果を出した彼女に、秘かに口角を持ち上げた。
◇
その日の夜。
ツナはボンゴレ本部の最上階――自分の執務室の窓から、外の景色を見つめていた。
眼下に見える本部の敷地内では、あちらこちらから黒煙が立ち昇っている。深夜になった今でも絶え間なく爆発音が響き、時折匣兵器の放つ炎の色が木々の合間を縫って光っていた。
――もうすぐ、本部陥落が近い。
ツナは静かに目を伏せる。
本部が陥落すれば、ミルフィオーレはツナを“交渉”の席に呼び出すだろう。正一の手筈では、そういうことになっている。……そしてそこで、ツナは――。
「……」
考えると、口元に笑みが浮かんだ。昨日までは、まだ少し不安が残っていたのに。
――この計画を正一と立て始めたのは、数年前。あの頃は、ツナも正一も無謀なことをしようとしていると思っていた。これはあまりにも危険で、ひょっとすると今の自分たちの存在さえ揺らぎかねない……一か八かの賭けなのだと。
ただ、何度考えてどれだけ躊躇っても、可能性はこの方法にしか見出せなかった。――なぜなら、あの時代の自分が一番、秘めた可能性を持っていたから。
今改めてそれを信じると、不思議と気持ちは落ち着いていた。腰を据えて、全てを信じる覚悟は出来ている。
――きっと、正一君も雲雀さんも、上手くやってくれる。それに、過去のオレたちも。
ツナは、普段何気なく閉まっている大切な記憶の引き出しを開け、仲間たちの過去の姿を思い描いた。彼等なら、きっと。
ぐ、と拳を握る――それと同時に、小さなノック音がドアの向こうから聞こえてきた。彼が、来たのだ。ツナはそこにいるはずの人物を頭に浮かべ、ゆっくりと振り返る。
十年前に賭けた未来。
全ては、皆が笑顔でいられる、新しい未来を紡ぐために――。
◇
同時刻。イタリア、ミルフィオーレ本部の最上階。
壁も床も天井も、全てが清潔な白に囲まれたその一室には、間接照明のようなオレンジ色の明かりがぼんやりと淡く灯っていた。
――青年は、ふかふかした真っ白なソファにゆったりと腰を掛け、長い腕を目の前のテーブルに伸ばす。彼の細い指先が摘まんだのは、袋に入ったマシュマロの一つ。
ふにふに摘まんでその弾力を確かめてから、青年はそれをそっと口に含んだ。噛み応えから舌触り、水分と熱を含んでどろりと溶けた甘い塊をじわじわと咀嚼して飲み下す。
そして彼は、満足そうににっこりと。
「うん、美味しい。――それで? ボンゴレはどうなったって?」
青年は細めていた瞳をぱちりと開けて、ずっと側に立っていた伝達係に視線を向けた。
「はっ! ボンゴレは壊滅状態、明日中には本部も陥落するかと思われます」
「そう、思ったより早かったね。まああっちにはリングがないし、当然だよね。……それで、守護者はどうしてるの?」
「はい、」
青年が尋ねると、伝達係は持っていたバインダーに目を落とし、そこに挟まれている書類を読み上げた。
「現在こちらで確認できている守護者は二名。嵐の守護者獄寺隼人と、雨の守護者山本武。その他の守護者は、未だ確認できておりません、」
「ふーん、そう……」
青年は感情の読み取れない瞳を、三日月の形に細めた。
「この前までイタリアにいたんだけどな……。どこに行っちゃったんだろうね? ……まあいいや、その他に報告は?」
「いえ……現時点では、特にありません」
「それならいいよ。また何かあったらよろしくね、ルイジ君」
「はっ、白蘭様」
伝達係は青年――白蘭に頭を下げると、足早に部屋を後にした。
静かになった室内で白蘭はもう一度、袋に入ったマシュマロを一つ取る。白くて小さくて、食べると甘いそれを白蘭はじっと見つめた。
「今、君はどこで何をしているのかな? でも僕と君は、必ずまた会う運命だから。……ね? 音羽チャン」
マシュマロをくい、と口に放り込み、白蘭は楽しげに口の端を持ち上げた。
◇
次の日の夜――。その日の夜は雲の多い、星の見えない夜だった。
「――っ、ぅっ……く、っ……」
今日もケーニッヒの研究室からホテルに帰って来た音羽は、帰るなり草壁から聞かされたその“訃報”に、涙を堪えることが出来なかった。
“本日午後、ボンゴレ本部陥落――。
ミルフィオーレファミリーはボンゴレ十代目、沢田綱吉を交渉の席に呼び出し、
そのまま、射殺した。”
『――混乱した現地での情報です。まだ真偽のほどは分かりません……』
草壁は最後にそう付け足した。音羽も、自分に何度もそう言い聞かせている。…………でも、駄目だった。
――だって、もし本当に沢田君が死んでいたら……? もう二度と会えなくなって……話すことも、できなかったら……?
そう思うと、思い出すのは彼の温かい笑顔ばかり、で。
中学生のときから変わらない。仲間想いで優しくて、いつも皆に囲まれて穏やかに笑っているツナの姿しか浮かばなかった。
――お願い……何かの間違いであって……。
ソファに座りぼろぼろ落ちてくる涙を拭いながら、同じことを何度も祈る。
……あのとき、音羽が獄寺からの電話に出ていたら。雲雀を押し切ってでも、イタリアに向かっていたら。そうしたら、何かが変わっていただろうか。
どれだけ後悔して、懺悔しても、もうどうすることも出来ない。涙が止まることも、ない。
「…………」
雲雀は音羽の隣に座って、肩を抱いてくれていた。
彼はツナの訃報を聞いてもいつものように落ち着いていたけれど、それでも眉が僅かに寄っていた。から、彼にも何か思う所はあったのかもしれない。
今はただ、彼のぬくもりだけが音羽を支えてくれている。
◇
雲雀は音羽を抱き寄せて、彼女の顔を見下ろした。
音羽は目を赤くして、さっきからぐずぐずと鼻を啜っている。雲雀は彼女の頬に零れ伝う涙を、指先で掬うように拭ってやった。……でも、音羽の涙は止まらない。
悲しそうに顔を歪めて、音羽は大粒の涙を零している。まるで、大切なものを失った、とでも言うように。
――本当……今すぐ咬み殺してやりたいよ、沢田綱吉……。
雲雀は眉を顰め、今頃棺桶に入って日本に向かっているであろうあの男の顔を頭に描いた。
彼女にこんな顔をさせるあの男が腹立たしい。――例え、こうなることが初めから分かっていたとしても。
雲雀は、昨夜かかってきたあの電話が――獄寺隼人か山本武、いずれかからのものであることを初めから知っていた。
彼等は“打ち合わせ”には含まれていないので、彼等の行動のほとんどは雲雀の推測に過ぎない。が、それでもある程度の予想はつく。
この事態になったとき、彼等がまず守護者たちと連絡を取ろうとすることは想像に難くなく、そしてもし、その電話を音羽が取ってしまったら――。
彼等の救援を求める声を直接聞けば、いくら音羽が従順でも雲雀の言うことを聞かず、何が何でも本部に帰ろうとするだろう。
だから、スケジュール通りに事を運ぶためにはまず、何としてもそれを阻止しなければならなかった。
だが、音羽の行動は雲雀が付き添っていればある程度制御できでも、沢田綱吉の訃報だけはどうやっても避けて通れない。
ボンゴレのボスが射殺されたとなれば、その情報は裏社会にすぐに広まる。草壁も間違いなく報告してくる案件だ。
そうなると、全ての事情を何も知らない音羽が、沢田綱吉の訃報で涙するのは当然のことになるのだが――。
逆に全部を知っている雲雀からすれば、面白くないの一言に尽きる。
音羽が自分以外の人間に心を揺さぶられている所なんて、見たくはなかった。しかもそれが泣き顔というのが、増々気に入らない。
ただ――そう思っても、全てを洗いざらい音羽に話すことは出来なかった。雲雀は今、自身の感情よりも大事なことを山ほど抱えているからだ。
「……腫れるよ」
雲雀は囁いて、しきりに目をこすっている音羽の手首を捕まえた。すると、音羽はふらりと顔を上げ、潤んだその大きな瞳でこちらを見上げてくる。
「っ……恭弥さんっ……」
目が合うと、音羽の瞳にはまたじわりと涙が浮かんだ。彼女が辛そうに眉を寄せると、細まった目尻からぽろぽろ透明の雫が零れる。
音羽の瞳は雲雀のことを捉えていたが、今は、雲雀だけを見ていない。
その心に、誰の姿が映っているのか――。彼女は雲雀を見つめながら、悲しい色に変わってしまった懐かしい学生時代の思い出を、指先で丁寧になぞっている。
とめどなく溢れるその涙は一粒も、雲雀のものではなかった。
けれど、音羽の感じている気持ちは、彼女の流す涙の分だけ伝わってくる。雲雀は音羽の頬と瞼にそっと唇を押し当てて、触れた涙を舐めとった。物理的に、だけ自分のものにする。
あの男のために流す涙なんて、早く枯らしてしまえばいい。
そう伝える代わりに、雲雀は音羽の唇をいつもより優しい力でそっと塞いだ。