47話 約束

 翌日の昼過ぎ。音羽はボンゴレ本部にある談話室のソファに腰を掛けて、雲雀が戻って来るのを待っていた。

 彼はツナと二人で話さなければいけないことがあるらしく、音羽はここで待つように言われたのだ。

 彼等の話す内容が昨日の続きなのかどうか……、音羽には分からない。

 ただ、雲雀は巷では“ボンゴレ最強の守護者”と言われていて、ツナはこれまでに内密で彼に仕事を頼むことが何度かあった。
 そういうときも、音羽はこうして談話室で雲雀を待っていたので、彼等が今何を話しているのか見当を付けるのは難しい。


「……」

 考えていても、答えは出ない。
 音羽はさっき自分で淹れた紅茶を一口飲んでふぅっと息を吐き出し、気を紛らわせるべく辺りを見回した。

 談話室には深緑のダマスク模様の三人掛けソファと、一人掛けソファが三つあって、ココナッツブラウンの猫足センターテーブルを挟んで向かい合うように置かれている。

 そして部屋の隅にあるキャビネットの上には、自分たちで好きに淹れられる紅茶や珈琲、お菓子の数々がいつでも用意されていて、誰でも好きに飲食していいことになっていた。

 今は電源をつけていないけれど大きなテレビもあるし、壁に沿って置かれた背の高い本棚には、色々な言語で書かれた本がずらりと隙間なく並んでいる。ちょっとした時間を潰すにはぴったりの部屋だ。

 とはいえ、この談話室はボンゴレ本部の中でも比較的狭くてこじんまりしており、他のもっと広い談話室にはダーツやビリアードなど、まるで娯楽施設のような設備の整った部屋もある。

 皆好みでそれぞれの談話室を使うけれど、音羽はいつも静かで本のあるこの談話室が一番気に入っていた。

 窓を覗けば本部の敷地内にある緑豊かな森が見えるし、少し向こうにはレンガ造りの美しいあの街並みも見ることが出来るのだ。


 音羽は半分中身の入ったティーカップを、テーブルに置いて立ち上がった。窓際に歩いて少しだけそれを開けると、からっとした爽やかな風が室内に入り込んでくる。とても気持ちがいい。

 ――そういえば……ドイツに行く理由、結局聞けてないけど……何なんだろう?

 音羽は、昨日歩いた街をぼんやりと見つめながら思った。

 昨晩は雲雀に流されて聞けなかったし、今朝は疲れて寝坊して、バタバタ準備しているうちに聞き忘れてしまったのだ。


『イタリアでの用事は済んだからね。それに、これからドイツで済ます用事の方が余程大事だよ』

 ……彼はそう、言っていたけど。

 本部で済ます“用事”も大切だったはずなのに、それよりも大事な用とは一体何なのか。雲雀がそこまで言うのなら、きっととても重要なことに違いない。――余計に気になってきた……。


「……」

 音羽はソワソワした気持ちを紛らわせるために、今度は窓から離れて本棚に向き合った。

 分厚くて年代を感じさせる落ち着いた色味の背表紙がぎっしりと並んでいて、そこだけ見たら、まるで考古学者か歴史研究家の研究室みたいだ。

 音羽は言語も色も厚さも違う背表紙を眺め、美しい装丁のものを手にとっては表紙を見てページを繰った。残念ながらほとんど読めない言葉ばかりで、書かれている意味は分からない。

 でも指先に触れる柔らかい紙の感触、音符のような文字の羅列は、触れて見るだけで何となく楽しかった。


 ――コン、コン。

「!」

 取り留めなく本を出しては戻しを繰り返していたとき、不意に談話室のドアが叩かれた。弾かれたように振り返ると、木製の重たげなドアがゆっくりと開く。
 そこから顔を覗かせたのは――。
 
「――よっ、片桐! 邪魔するぜ」

「……久しぶりだな、片桐」

「! 山本君、獄寺君……!」

 もう半年以上会っていなかった、山本と獄寺だった。





 学生時代の面影を残しつつも、すっかりスーツの似合う大人の男性になった二人は、それぞれ珈琲を淹れて一人掛けのソファに座った。

 聞くと、二人はツナからの情報で音羽が本部にいると知り、わざわざここまで来てくれたらしい。音羽も彼等の向かいの三人掛けソファの隅に腰を落ち着け、それからお互いの近況について語り合った。


 ――獄寺と山本は基本的にツナと行動を共にしつつ、自分たちの任務もそれぞれこなして多忙な日々を送っているそうだ。

 十年経った今でも何だかんだ三人で行動することが多いそうなので、本当に仲がいいんだなあと思う。

 何となく音羽まで嬉しくなるような、ほっとするような。そんな温かい気持ちになって、話を聞いている間はついにこにこしてしまった。

 それに、二人とも相変わらずだ。
 
 山本は昔と同じで明るくてよく笑うし、獄寺は中学生の頃より落ち着いた雰囲気になったけれど、根はほとんどそのままだった。

 山本が屈託ない笑顔でちょっと天然な発言をすると、獄寺はすかさずツッコミを入れて食ってかかり、彼の発言の端々からはツナに対しての信頼と尊敬が昔以上によく伝わってくる。


「――獄寺君も山本君も、元気そうでよかった」

「ははっ、そうだな。オレも、片桐が元気そうで嬉しいぜ」

 二人から話を聞いて微笑むと、山本は今日の晴れ渡った天気のように溌剌(はつらつ)とした顔で笑った。すると、その隣にいた獄寺が少し怪訝そうに眉を寄せる。

「……けどよ、雲雀にあちこち連れ回されてるって聞いてたが……大丈夫なのか?」

「うん、大丈夫。最初の頃は目が回りそうだったけど……、最近はこの生活にも慣れてきたから」

「確か、雲雀は匣について調べてるんだったよな?」

「うん」

 今度は山本に尋ねられて、こくりと頷いた。続いて、獄寺が。

「でも、雲雀はもう大方満足いく答えを見つけたらしいって、前に十代目が仰ってたが……違うのか?」

「うーん……匣についてはそうみたいなんだけど、まだ研究自体は続けてるの……。ただ、今は他の調査の方に力を入れてて……」

「「他の調査?」」

 同時に首を傾ける二人。音羽は少しだけ目を伏せた。

「そう……。実は、私専用の匣について調べるために、ここ一年飛び回ってたんだ……」

 音羽は答えながら、上着のポケットに入れていたリングと匣を取り出した。
 右手には紫色の雲模様の匣を、左手には同じく紫の石が付いたリングを載せて二人に見せる。

「ああ、それ……雲雀が片桐にあげたリングと匣だよな。ボンゴレリングを壊して、暫くしたときだっけか……」

「うん……」

 山本の言葉は、自然と音羽に数年前のことを思い出させた。

 
 それは、ちょうど匣兵器がマフィア間で流通し始めた頃のこと。

 匣兵器が、より精度の高いリングから放出される炎によって強くなることが分かり、長い歴史を持つボンゴレリングが争いの火種になることを防ぐため、ツナはボンゴレリングを全て壊すことに決めた。

 ――もちろん、雲雀や音羽が持っていた雲、天のリングも一緒にだ。

 その甲斐あってか、これまでボンゴレが匣兵器やリングを巡った争いに巻き込まれたことはない。

 ただ、マフィア同士の戦闘では、やはり匣兵器を使った戦い方が主流となってしまったので、今では守護者全員がボンゴレリングの代替リングと匣をそれぞれ所持している。

 けれど――音羽だけは、少し特殊だった。


 現在一般的に使用されているリングと匣の属性は、晴、雨、嵐、雷、雲、霧、大空の全部で七つ。だが、音羽は――。


 その全ての七属性が、『完全に適合していない』。


 音羽は、(そら)――と暫定的に呼んでいる――属性を、恐らくこの世界でただ一人持っている人間なのだ。

 (そら)属性については、研究対象者が現段階で音羽一人しか確認されていないこと。

 また、唯一適合していると思われる天のリングが残存していないことにより、そもそも研究する術がないということで、現在分かっていることが極めて少ない。

 だが、この時代でリングと匣を持たない者はそれだけで戦闘が不利になり、最悪の場合命を失う危険性さえある。

 だから雲雀は、それまで彼自身が行っていた匣研究と並行して、音羽の持つ属性について独自に調べてくれていたのだ。その研究過程で、原理はまだ不明だけれど分かったことが二つある。

 
「…………」

 音羽は雲のリングを右手の中指に嵌めて、ボウッと炎を灯した。

 小さな紫色の炎がリングに灯り、ゆらゆらと揺れている。それを見て、山本は少しだけ眉を寄せて珍しく厳しい顔をした。

「そうか……。片桐は全属性の炎は灯せるけど、天のリングじゃねーと全力は出せねーんだもんな……」

「うん、そうなの……。だから、きちんと合っているリングや匣がないか――ずっと手掛かりを探してて……」

 音羽は答え、手元に視線を戻す。

 
 まず一つに天属性は、一般的な七属性全てのリングに、こうして炎を灯すことが出来る。

 例えば、嵐のリングを嵌めれば赤い炎が出るし、珍しいと言われる大空属性でさえ、音羽は大空のリングを嵌めればオレンジ色の炎を灯せた。稼働時間は長くはないけれど、リングの属性に合った匣を開匣(かいこう)することも出来る。

 そして、もう一つは――音羽が灯す七属性のリングの炎は、その属性の適合者が灯す炎と比べると、大きさも純度も遥かに劣ってしまう……ということだ。

 炎の総合的な強さは、武器の強化、そして匣の稼働時間、威力に直結する。

 だから、音羽は七つの属性のリングを全て扱うことは出来るが、その本来の属性適合者と比べるとかなり脆弱な炎しか出せない、というのが現状だった。

 雲雀は、『それでも何も持たないよりはマシだろ』と言って、自分のこのBランクの雲のリングとコピーの雲ハリネズミの匣を、護身用として音羽に渡してくれたのだ。


 でも一年前から、雲雀は本格的に音羽専用の匣を用意するため、世界各国を奔走し始めた。

 各地で匣の情報をさらに集めて回り、どこかに天属性の匣やリングの設計図がないか探しつつ、そのうえ実験を重ねて属性の研究も進めてくれたのだ。

「……でも、私しか持っていない力を他の研究者が研究しているはずもないから、匣やリングの設計図も全然見つからなくて……。まだ、収穫は全然ないんだ……」

 音羽はリングの炎を消し、再びポケットに仕舞いながら苦笑した。「そうか……、それは難しいよな、」と山本が肩を竦める。獄寺は持っていた珈琲カップを机に置いて、膝の上で両手を組んだ。

「片桐。最近は新興マフィアが何かと怪しい動きをしてやがるし、いつ抗争が起きてもおかしくねー。一時しのぎにしかならなくても、使える武器は集めとけよ」

「うん、そうだね……」

 獄寺は心配してくれているのか、さっきより真剣な表情と声で言った。眉尻を下げて頷くと、山本が「あ、」と閃いた声を上げてにかっと笑う。

「そうだ、片桐。今度会うまでにオレの雨燕のコピー手に入れとくから、リングと一緒にやるよ!」

「えっ」
「なっ」

 明るく破顔する山本に、音羽と獄寺は同時に肩を跳ねさせる。けれど、山本は嬉しそうに。

「ほら、雲雀のと合わせて二個くらいあれば安心だろ!」

「で、でも……! それは悪いから、大丈夫!」

 コピーと言っても、作るのにはお金も時間もそれなりに掛かる。そんなものをわざわざ山本に作ってもらうなんて申し訳なくて、音羽はぶんぶんと強く首を横に振った。

「そうだ、このバカ! てめーの軟弱な燕じゃ、片桐の盾にもなんねーだろうが!!」

「え……! いや、そんなことは――」

 獄寺がバッ! とソファから立ち上がって言うので、音羽はつい口を挟む。そんなつもりではないんだけど、と言う前に、彼が勢いよくこちらを振り返った。

「片桐! お前にはオレがもっとすげー武器を見つけてやるから、こんな奴にだけは頼るんじゃねーぞ!」

「え!? えっと……」

「おいおい獄寺、随分な言い様だな……。でもま、沢山あればそれだけ安心だし、お前も何か見つけて来たらいーんじゃね?」

「うるせー! お前に言われなくてもそうするつもりだ!」

「はははっ」

「…………」

 山本は獄寺にこれだけ言われても怒る気配なく、鷹揚に笑ってみせる。

 何の前触れもなく言い合いを始めてしまった二人――というか、獄寺が一方的に怒っているのだけれど――を見て、音羽は呆気にとられてしまった。

 でも、そのやりとりは本当に学生の頃と変わらない。とても懐かしい気持ちが胸に込み上げ、つい笑みが零れた、ときだ。


 ――コン、コン……。

「「「!」」」

 再び響いた控え目なノック音に、三人はピクリと反応した。「はい」と音羽が応えると、ゆっくりした動きでドアが開く。

「――久しぶり、片桐」

 ドアの隙間から顔を覗かせたのは、にっこりと温かい笑顔を浮かべたツナ。そして、彼の後ろで腕組みをして立っている雲雀だった。







「沢田君! 久しぶり……!」

 音羽は声を上げ、反射的に素早く立ち上がった。室内に入る様子なく、廊下側からこちらを覗いているツナたちの方に急いで駆け寄る。


 ツナに会うのも、やはり半年ぶりだった。久しぶりに見た彼は、顔色もよくて元気そうだ。音羽も嬉しくて頬を緩める。

「待たせちゃってごめん。もう終わったから……」

「ううん、二人ともお疲れ様です」

 どこか申し訳なさそうに言うツナに首を振れば、彼は安心したように微笑んだ。


 大人になっても、ツナの人柄は変わらずに穏やかだ。
 今やファミリーの皆から『ボス』と呼ばれて慕われる存在になったけれど、彼は世間一般でいうマフィアのボスとは、余りにイメージのかけ離れた優しい青年だった。

 マフィアらしくないと言えばそうなるかもしれないが、そこがツナの魅力である。


「ありがとう、片桐。良かったよ、元気そうで。雲雀さんから聞いてたから、元気なのは知ってたけど……」

「うん、ありがとう。沢田君も元気そうで――」

 よかった、と言おうとしたとき。

「――音羽」

 唐突に雲雀が割って入った。

 彼に名前を呼ばれ、音羽が振り向こうとした刹那。素早くこちらに数歩歩んだ雲雀に、腕をがしっと掴まれる。

「!」

 有無を言わさず、音羽は廊下に引きずり出された。驚きで目を丸くしながら、未だ自分の腕を掴んで放す様子のない雲雀を見上げる。
 
「あ、あの……?」

「……群れてる」

「……!」

 呟いた雲雀のその声が明らかに不機嫌で、音羽はハッと息を呑んだ。

 談話室で獄寺たちと話していたのが気に障ったのか、それともこの空間にいる彼の中の“定員”がオーバーしてしまったのか。或いは、その両方かも――。

「ひ、雲雀さん……! 片桐とはここで話すので! ここは閉めとくので! お、落ち着いてください……!」

 ツナはどうやら音羽と同じことを思ったらしく、慌てて談話室のドアをバタン! と閉める。

「……そう。それなら早く用件を済ませてよ」

 雲雀は深く息を付くと、音羽の腕を放して廊下の壁に凭れかかった。……あ、よかった……、あの表情はそこまで怒ってないみたい……。

 音羽は雲雀の横顔を見つめて胸を撫で下ろし――それから、ツナの方を見上げてみた。

 二人の様子と口振りからして、ツナはどうやら音羽に用事があるらしい。でも、一体何だろう?

「あ……」

 ツナはまだ引き攣った笑みで雲雀を見ていたけれど、音羽の視線に気が付くとこちらを向き直ってくれる。

「実はさ……片桐に伝えておきたいことがあって、雲雀さんに時間を作ってもらえないかお願いしてたんだ」

「? 私に? 何かあったの?」

「うん……、」

 ツナは頷くと視線を逸らした。彼は少し言い辛いのか、いつもより重たげに上下に閉じた唇をゆっくりと離す。

「今はまだ見せられないんだけど……。今度、片桐に渡したい物があるんだ」

「渡したい物?」

「うん。オレもまだちゃんと見てないから、詳しいことは分からないんだけど……見られる状態になったら、片桐に渡さなきゃと思ってて」

「?」

 ツナはそう答えてくれたが、その“渡したい物”が何なのか、今伝える気はないらしい。

 不思議に思って首を傾げていると、彼は困ったような顔で微笑んだ。

「ごめん、訳分かんないよな……。でも、次に会ったときはきっと渡せると思うから……片桐と、約束しておきたかったんだ」

「沢田君……?」

 瞳を伏せたツナの顔に、言い様のない翳りが生まれる。

 不安、とも悲しみとも言い難いその影は、まるでしばらくのあいだ遠くの国へ行ってしまうみたいな……。そんな、寂しい暗さを孕んでいる。

 その正体を確かめようと、思わずツナの顔を覗き込む――と、彼は音羽が全貌を掴む前に憂いを帯びたその瞳を上げて、いつも通りの穏やかな顔に戻ってしまった。

「片桐とは中々会えないからさ! 次会ったとき、絶対忘れないようにしたくて。だから片桐も、オレが忘れてたら言ってね」

「……」

 ツナは笑って言う。

 その笑顔はいつもと何ら変わらない、皆を包み込んでくれるあの笑顔だ。……さっきまでの翳りは、もうどこにも宿っていない。

 自分の思い過ごしだろうか? ツナの顔を見ていると段々そう思えてきて、音羽は気になりながらも釣られるように微笑み返した。

「……わかった。それじゃあ次に会ったとき、それを見せてもらえるの楽しみにしてるね」

「うん、ありがとう。片桐」

 ツナは頷き、今度は雲雀を振り返る。

「雲雀さんも、お時間を取ってくれてありがとうございました」

「……そう。済んだなら、もう行くよ」

 言うと、雲雀はすぐに壁から背を離し、長い廊下をゆっくりと歩き始めた。


「…………」

 音羽は閉まりっぱなしの談話室のドアを見て、気を遣ってそこにいてくれているのだろう二人を想い、それから目の前のツナを振り返る。

 また、しばらく皆には会えないだろう。そう思うと、やっぱり寂しい……。

 特にこんな職業だ。マフィアなんて常に危険と隣り合わせで、次にまた、必ず生きて会えるという保証はどこにもない。……現に、彼だって――。


 音羽の頭の中には、あの小さな影が浮かんでいた。いつもきちっとスーツを着て、トレードマークのハットを被り、黄色いおしゃぶりを首に付けた赤ん坊。それなのにとんでもなく強い、あの小さなヒットマンのことを。

「……、」

 音羽はきつく眉根を寄せ、隙間なく絨毯の敷かれている廊下の床に視線を落とす。

 ――だから、別れるときはいつも、ずっと寂しい。

 彼がいなくなってから、音羽は前より強くそう思うようになった。何があるか分からない、と身を以って思うようになったのも、あれからのような気がする。


 ……それでも、ツナや他の守護者の皆ならきっと大丈夫だ、と信じている自分も確かにいた。――そう思うことが出来るから、きっとこれまでも不安ななか、笑顔で別れることが出来ていたのだ。

「片桐」

 名残惜しくて、立ち尽くしたままそんなことを思っているとツナに呼ばれた。音羽は現実に返って彼を見上げる。

「これからも元気で、気を付けてね。それから……きっと、いい収穫があると思うよ」

「……うん? ありがとう。……沢田君も皆も、元気でね!」

 笑って言ったツナの言葉の意味が分からず、音羽は少し曖昧に頷いた。けれど別れ際で、雲雀の背中はいつの間にかもう遠くて。深く聞くのも憚られたので、彼に笑顔で手を振る。

 手を振り返してくれるツナをもう一度見てから、音羽は雲雀の背中を小走りに追いかけた。





「……」

 雲雀に追いついた音羽の背中を、ツナはじっと見守った。


 ――彼女との約束は、自分の、自己満足でしかない。


 雲雀のことも正一のことも、十年前の自分たちのことだって、ツナは信じている。きっと、何もかも上手くいく――。

 が……そうは思っていても、どうしても拭えない不安や悪い想像が時折脳裏を過るのは、どうしようもなかった。

 だから、音羽と一つ約束をした。


 必ず生きて帰って来るんだ。また、皆で笑い合うことができる世界にするんだ。

 そんな願いに似た誓いを、誰かとの“約束”として、自分のなかに刻むために。


「――絶対に、無事でいてくれ……」

 彼女も、そして皆も――。

 小さく呟いた言葉は、ツナの全ての想いだった。それはきっと、直接伝わることがないとしても、“自分”の胸にも変わらず灯る炎だろう。――ツナはそう信じている。

 ツナは踵を返して、未だ友人たちのいる談話室のドアを開けたのだった。







 ボンゴレ本部を出て、音羽たちは広大な敷地内の一角にある駐車場を目指していた。

 昨日聞いていた通りこれからドイツに向かうため、まずは空港に向かうのだ。駐車場には車を手配した草壁が待ってくれている。


 雲雀について行きながら、音羽は一人考えを巡らせていた。ツナが言っていた“渡したい物”とは、一体何なのか? 最後に彼が言った“収穫”とは? 

 ……どちらも一つも思い当たることがないので、答えは全然出てこない。

 うーん……と唸って、音羽はふと隣にいた雲雀を見上げた。彼はこれまでツナと話していたのだから、もしかしたら何か聞いているかもしれない。

「……あの、恭弥さん。沢田君から何か聞いていませんか? さっき言ってた“渡したい物”についてとか……」

「さあ? 知らないね」

「そうですか……。最後に言ってた“収穫”、っていうのも……何のことだったんだろう……?」

 あっさりと返ってきた言葉に、音羽はほんの少し肩を落とす。雲雀が分からないのなら完全に手詰まりだ。悶々としていると、不意に頭上で雲雀が小さく笑う。
 
「“物”のことは知らない。けど、彼が最後に言っていた言葉の意味なら分かるよ」

「!! どういう意味ですか?」

 頭上から聞こえた声にパッと顔を上げると、雲雀はこちらを横目で見下ろしていた。
 
「これから行くドイツの件さ」

「……ドイツの、件……? ……! そういえば私、どうしてドイツに行くのかまだ聞いてません!」

 雲雀の言葉に、大事なその一件もそのままだったことを思い出す。

 思わず声を上げて彼を見ると、雲雀は「言ってなかったっけ」と言わんばかりに音羽を見て目を瞬かせた。そしてゆっくり前を向き直り、彼は事もなげに言ってのける。


「ドイツで――君専用の匣兵器が手に入るって話だよ」

「…………え?」


 音羽はぽかん、とその場に立ち止まった。


 だってそれは、一年以上の時間をかけてずっと調査していたことで。毎回進展がないながらも諦めずにあちこちを飛び回り、自分たちなりに研究だって続けてきたことだ。

 それなのに、突然そんなにサラッと言われたら――当然理解が追い付かない。第一そんなに大事なこと、何でもっと早くに教えてくれなかったのだろう? ……それに、それって本当のこと、だよね……?

 色んな疑問と感情で、音羽はしばらく動けなかった。が、雲雀の歩みは止まらない。
 彼は音羽がもう自分の後ろにいないことなど、とっくに気が付いているはずなのに、音羽を置いたままスタスタと歩き続けている。

 ――そんな音羽が再び動けるようになったのは、雲雀との距離が走って追いかけるほど開いたときだった。

「……!! ちょ、ちょっと待ってください! 恭弥さん、どういうことですか…!?」

「…………」

 雲雀は後ろからバタバタと走って来る音羽の足音を聞きながら、秘かに口の端を持ち上げた。困惑した彼女の顔は、雲雀の頭の中に鮮明に浮かんでいたのだった。


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