46話 十年後の世界
窓の外を見てみれば、眼下に広がる薄暗い街中に、少しずつ明かりが灯り始めている所だった。
さっきまで燃えるように赤く鮮烈に輝いていた夕陽は、いつの間にか地平線の向こうに沈み、藍色の夜が高い所から順に空を塗り替えていく。
“ここ”からでは、星の瞬きを見ることはできなかった。街についた電灯と同じように、温かみのあるオレンジ色の光が室内を照らしているからだ。
雲雀は締めきった窓に背を凭せかけ、それから部屋の中央に視線を戻した。
――イタリアに居を構えた、ボンゴレファミリー本部。そのボスの執務室に雲雀はいた。ラセットブラウンの重厚な革張りのソファには、二人の男が向かい合って腰を下ろし、話をしている。
「――決行は今までに話していた通り、やはり明後日になりそうだよ。スケジュールの変更点はない。だから今後はそれぞれ、最終確認した通りに動いて欲しい」
「……分かった。本当にありがとう、正一君。それに雲雀さんも、よろしくお願いします」
「…………」
声を掛けられ、雲雀は二人の顔を見た。
沢田綱吉、そして、入江正一。
この計画のために、この二人とはこれまでに何度もこうして集まってきた。群れるのは嫌いだ、何年経っても嫌悪感しか生まれない。
だが、そう思いながらも雲雀がこうして律儀にこの部屋を訪れ、留まっているのは――そうせざるを得ない理由があるからだ。
そうでなければ、とっくにこの部屋を出ていただろう。
「僕は好きにさせてもらうよ」
雲雀は深く溜息をついて言った。神妙な面持ちでこちらを見てくる二人から視線を外し、目を伏せる。
すると、返ってきたのはいつも通りの反応だ。
「ひ、雲雀君……! 頼むよ、君がいなければこの計画は絶対に不可能なんだから……」
「あはは……大丈夫だよ、正一君。雲雀さんは、きっとちゃんとやってくれるから……」
頭を抱える入江正一に、沢田綱吉は苦笑して答えた。入江が顔を上げる。
視線を合わせると、二人は揃って幾分穏やかに微笑んだ。――まるで「そうだった」、と確かめ合いでもするように。
――下らない。
雲雀は心の中で思いながら、床に敷かれた赤っぽい絨毯の模様を眺めていた。それは雲雀には理解しがたい、何の形とも言えない模様だ。彼等の視線と大差ない。
だが一つ癪に障るのは、二人の“思う所”を自分が否定できないことだった。彼等は知っている。
雲雀が、必ずこの計画を実行するということを。
そうしなければならない理由を、雲雀が持っていることを。
「――話はもう終わり? それなら僕はもう行くよ」
これ以上、ここにいる必要はないだろう。そう判断して雲雀は早々に切り上げた。絨毯からベージュの壁に視線を移して、ドアの方に歩き出す。
「あ、待ってください、雲雀さん!」
「何」
後ろから引き留めたのは沢田綱吉だ。後ろを半分振り向くと、ソファから立ち上がった彼が窺うようにこちらを見ている。
「あの……、明日は予定通り出国するんですよね……? その前に、少しだけ片桐に会えませんか?」
「……どうして?」
その口から出た彼女の名前に、雲雀は身体ごと彼の方を向いた。一体何の意図があるのか――探るために見据えると、沢田綱吉は顔を僅かに引き攣らせる。
「その……片桐に、伝えておきたいことがあるんです。見せたい物もあるんですけど、今はまだそれを渡せないので……。全部終わったら渡せるように約束をしておきたくて、」
「…………」
雲雀は静かに目を細めた。
彼の顔は真剣そのもので、室内を照らす明かりでさえも払い切れない影が、そこに微かに残っている。その理由を推察するのは、模様の分からない雲雀でも簡単なことだった。
“彼”に残されている時間は、日にちにして“あと四日しかない”のだから。
「……いいよ。どうせ音羽も、ここに来ると言うだろうからね」
「……! ありがとうございます!」
雲雀の承諾の返事を聞くと、沢田綱吉はいくらか表情を明るくした。今度こそ退室しよう思えば、今度は入江正一が。
「あの、雲雀君……。音羽さ――いや、片桐さんは今どこに……?」
入江正一は言い直し、少し罰が悪そうに眼鏡の縁を指先で持ち上げた。彷徨う彼の視線を見ながら、雲雀はドアノブに伸ばしかけていた手を下ろす。
「……哲と外に出ているはずさ」
「そうか、よかった……。誰かと一緒にいるならいいんだ……」
入江はそう言って、安心したように口元を緩ませた。
彼がそうなる理由は、単に彼女が“ボンゴレの守護者の一人だから”、だけではない。
――昔の自分なら、そんなことを知れば何者であろうとすぐに叩きのめし力で分からせていた所だが、今はそんなことをする必要性さえ感じなかった。
雲雀は入江正一を見据えたまま、ゆっくりと口の端を持ち上げる。
「あれは僕のだからね。目を放しはしないさ」
「!」
「じゃあね」
驚いた入江の顔を目に収め、雲雀は今度こそドアノブを回して部屋を出た。しんとした廊下の空気はとても静かで、心地がいい。
◇
日は、暮れ始めるととても早い。
さっきまで赤々とした夕陽が、レンガ造りの建物も多いこの街を照らしていたと思ったのに、気が付くとそれは見えない空の向こうに落ちていた。
けれど、薄闇に視界を覆われたのもほんの数分。少しすると暖炉で燃える炎のような、穏やかな色の明かりが背の高い街灯に灯り、街はこれまでとはまた違った雰囲気を纏ってほんのりと光っている。
雰囲気が変わると、今まで通ってきた道も何だか違うものに見えてきて、音羽はきょろきょろと辺りの建物や影の深い路地を大通りから見回した。
「……草壁さん、こっちでしたっけ……?」
油断なく隣を歩いている草壁を見上げると、彼はこちらを一瞥してから再び前方に目を向ける。
「ええ、こちらのはずです。以前もここを通りましたから」
「そうですか、よかった……」
ほっと胸を撫で下ろし、音羽は少し硬くなっていた頬の力を抜いた。
音羽たちが現在向かっているのは、以前も行ったことのある一件のバールだ。
バールとはイタリアのカフェのことで、コーヒー好きの多いイタリアには沢山のバールがある。
音羽は苦すぎるコーヒーは苦手だが、今向かっているそのお店のカプチーノは本当に美味しくて初めて飲んだときは感動した。エスプレッソの苦みのなかに柔らかいミルクフォームが完璧に溶け合って、苦いのに美味しい飲み物になっていたのだ。
せっかくイタリアに来たのだから、またあのカプチーノを味わいたいと思い、暇を持て余しているこの時間に来てみたのだけれど……。
この辺りの道はどこも似通っているし、こうして夜になると同じ道でも昼間とは違って見える。もし違う道に来てしまっていたらどうしよう……と思ったものの、草壁が合っていると言うのならそれが一番確かだろう。
草壁さんが一緒でよかった――音羽はそう思うと同時に、視線を僅かに下に落とす。……少しだけ、気になることがあったのだ。
どうして、雲雀は草壁を付き添わせてくれるのか。
どうして雲雀は、音羽を置いてボンゴレ本部に向かうのか。
それはここ最近、音羽が気になっていることだった。
夜の街は物騒だから、草壁がついて来てくれるのは分かるしとてもありがたい。でも今日に限らずここ最近、雲雀は音羽が常に一人にならないように配慮してくれている気がする。
それに「大切な用がある」と言う日は、彼が音羽をボンゴレ本部に連れて行くことはない。現に今日もその大切な用があるそうで、音羽は日中ホテルで留守番だった。
……まあ、今回は深夜にイタリアに到着して疲れていたし、昼間ぐっすり眠ることができて結果的にはよかったのかもしれないけど……。
ただ、最近。これまでとは何か違う――何か、色も形も大きさも分からない何かを、雲雀が抱えているような。
そんな気がしてならなかった。それが何なのか、音羽には見当もつかない。
「――音羽さん、着きましたよ」
「!」
草壁の声で、音羽は我に返った。いつの間にか俯いていた顔を上げれば、そこには記憶通りのあの店がある。
「良かった……! 草壁さん、ありがとうございます!」
「いえ、自分は何も……。ですが、少し混んでいるようですね……」
草壁はガラス越しにこじんまりした店内を覗きこんだ。音羽も彼の後ろから、そっと中を見てみる。
たしかに、狭い店の中のカウンターには人がずらりと並んでいて、テーブル席も満席だ。二人で入るのでさえ、少し無理があるかもしれない。
……これは、ササッと買って戻って来た方がよさそうだ。
「私、ちょっと買いに行って来ますね。草壁さんも何か頼みませんか?」
「いえ、自分は出る前に飲んで来たので結構です。すみません……本当は私が買いに行くべきなのですが……。音羽さんを外に一人で待たせる訳にもいかないので……」
申し訳なさそうに眉尻を下げた草壁に、音羽は苦笑した。
ここに来たいと言ったのはそもそも音羽なのだから、自分で買いに行くのは当然だ。
でも自然とそういう風に気遣ってくれるのが、いつも気配り上手な彼らしい。
――でも、外で一人で待つことにも気を付けてくれているなんて……。恭弥さんからどんな指示を受けてるんだろう? 何だかちょっと申し訳ないな……。
「……ありがとうございます、草壁さん。じゃあ、すぐ行って来ちゃいますね」
音羽は草壁に軽く頭を下げて、ガラス扉を押して店内に入った。
中に入ると、焼き立てのパンと香ばしいエスプレッソの香りに包まれた。カウンターの横にあるショーケースには甘くて美味しそうな菓子パンや、チーズたっぷりの切り売りピザが並んでいる。
夕食には少し早い時間だが、エスプレッソと一緒にピザやパニーノを食べて夕食を摂っている人もいた。
店内を軽く見回してもう一度カウンターの方を向くと、ちょうどこちらを振り返った初老のマスターと目が合う。イタリアではいつもそうするように、音羽は挨拶をした。
「Buonasera」
「Buonasera. Che cosa perende?」
「Un cappucino da portare via, perfavore.」
何にする? と聞かれて、音羽はカプチーノを持ち帰りで注文した。マスターは快く微笑んで頷いてくれる。
「Certo. Altro?」
「Basta, grazie.」
他には何か要らない? カプチーノの準備を始める彼に問われ、音羽は「充分です、ありがとうございます」と伝えてから会計を済ませた。人を避けながら、カプチーノが提供されるカウンターの奥の方へ向かう。
音羽が日常的なイタリア語を使えるようになったのは、ここ数年のことだった。ボンゴレ本部がイタリアにあるので必然的にこの国に来る機会も多くなり、どうしても覚える必要があったのだ。
英語のように学校で勉強する機会もなかったし、馴染みのある言語でもない。
だから、日常会話レベルで話せるようになるまではとても苦労したが、雲雀に教えてもらいながら、何とか現地の人とコミュニケーションを取れるくらいにまでは上達した。
そして音羽のイタリア語習得を一から十までサポートしてくれた雲雀はと言うと、彼は勉強する素振りさえ見せないまま、本当にいつの間にかそれを話せるようになっていたのだった。……その件は、今でも深い謎に包まれている。
頭の隅でそんなことを思い出している内に、マスターがカウンターの内側をこちらに向かって歩いて来た。持ち帰り用のカップに入れたカプチーノを渡され、音羽はもう一度お礼を言って受け取る。
手のひらがじんわりと温まって、つい顔が綻んでしまった。早く飲みたいな。草壁さんの所へ戻ろう。――そうして、ゆっくりと踵を返したとき。
――ドン!
「あっ……!」
肩に、向かいから歩いて来た男の人の腕がぶつかって、音羽は咄嗟に声を上げた。慌ててカップを握る手に力を込めて、カプチーノを見守る。
ミルクフォームを加えてふんわりしているそれは、カップの中でうねる波のようにぐわんと大きく揺れたものの、何とか零れずにいてくれた。はぁ……よかった……。
「っ、ごめんね、大丈夫? 零れてない?」
「! は、はい、大丈夫です、……!」
胸を撫で下ろしていると、ぶつかった男の人の声が後ろからして音羽は答えた。
――あれ? 今……もしかして。
「……日本語……?」
聞こえた声、咄嗟に答えた自分の言葉は、この国ではそうそう耳にしない。
カプチーノに気を付けながらゆっくりと後ろを振り返ると、そこには申し訳なさそうな顔をした、人当たりのよさそうな青年が立っていた。
「良かった、零れてなくて。火傷したら大変だもんね。本当にごめんね……」
青年は流暢な日本語で言いながら、音羽が飲み物を零していないか、腕や周囲の床へ確かめるように視線を配っている。
つい彼の顔をじっと見てしまっていると、青年が瞼を上げた。
淡い、色素の薄い瞳に捉えられる。不思議そうな――それでいてどこか面白がるような、そんな一見複雑な色がそこに宿った。
「ん……ああ、もしかして日本語?」
「! す、すみません……。ここで日本語を聞くのは珍しかったので……」
一呼吸おいて彼が猫のように瞳を細め、音羽は慌てて彼から目を逸らした。
きっと、好奇心がありありと顔に出ていたに違いない。
今度は音羽が眉尻を下げて謝ると、青年はクスクス楽しそうに笑う。
「そうだよね、こんな所で日本語を話す男なんてそういないし。……日本語はね、大学生のときに日本人の友人と話してるうち、上手く話せるようになったんだ。君が日本人に見えたから、その方が聞きとりやすいかなと思って」
「そうだったんですか……。お気遣いありがとうございます」
「どういたしまして♪ 可愛い女の子には優しくしなきゃ」
「……! あ、ありがとうございます……」
青年ににっこりと笑いかけられ、音羽はつい言葉に詰まりながらもお礼を言った。
ここはイタリアだし、こんなのは社交辞令だ。分かっていても、率直な言葉を投げかけられると何と答えればいいか分からなくて、つい困ってしまう。
が、彼はそんな音羽の感情を知ってか知らずか――。ずいと顔を近づけて、こちらを覗き込んできた。
「!」
間近で瞳を見つめられ、音羽は息を呑んで後ろに下がる。
「あ、あの……?」
もっと困りながらおずおず声を掛けたら、彼はさっきと同じように無邪気に笑った。
「ごめんね、あんまり可愛いからつい見たくなっちゃって。君も――そのネックレスも」
「!」
青年の視線は、今は音羽の首元に注がれていた。音羽はその視線を辿るように自分の鎖骨の真ん中に触れ、すでに身体に馴染んだ華奢なチェーンをなぞる。
「あ……ありがとうございます。ずっと大切にしている物なんです」
「そうなんだ、素敵だね♪ 可憐で綺麗な君によく似合ってる」
青年はサラリと自然に褒めてくれた。素直に嬉しくて微笑むと、彼もニコッと笑ってくれる。そして、ふと気が付いたように。
「……あれ。あそこの出口にいる彼、もしかして君の連れ? 誰か探しているようだけど」
「あっ……!」
音羽は少し背を伸ばしたり、身体を横に傾けたりして、人々の隙間から出口の方を覗いた。ガラス扉の向こうで、草壁が中の様子を窺っている。音羽の戻りが遅いから心配しているのかもしれない。
こちらの反応を見て青年も状況を理解したのか、彼は小さく首を竦めた。
「引き留めちゃったみたいだね。……本当は、君のことがもっと知りたかったんだけど。彼を待たせても悪いから」
「は、はい、ありがとうございます。あの……日本語でお話しできて嬉しかったです。それじゃあ、さようなら」
「うん、バイバイ♪ また、どこかで会えるといいな」
「はい!」
音羽は青年に微笑みかけて軽く会釈し、店の外で待ってくれている草壁の元へ急いだ。
青年はにっこりと笑ったまま、彼女の背中に手を振った。
――けれど、彼女が店の扉を開けて外に出た所で、それまで浮かべていた笑みを消す。
それはさながら、蝋燭の火を吹き消すかのように一瞬だった。
「……マーガレット……」
青年の唇が小さく動く。
「君は、本当にそれを大切にしているんだね……。――音羽チャン」
無表情に呟いた彼の声は、店にいる人々の楽しそうな話し声に掻き消された。
誰も、彼を気に留める者はいない。彼が店の真ん中に立ち尽くしているにも関わらず。
それは少し異様な光景で、まるで彼の時間の流れだけが、この店にいる人々のそれと違っているかのようだった。
ただ、時間は確かに流れている。ガラス扉の向こうに彼女の姿は既にない。
しかし青年は静かにその場に佇んで、彼女の去った景色をしばらくの間見つめていた。
◇
バールを出て再び街を歩きながら、音羽は草壁を見上げた。
「本当にごめんなさい、草壁さん……。お待たせしてしまって……」
「いえ、音羽さんに何もなければ構いません。それより、こちらで日本語を話す方と会うとは中々珍しいですね」
「はい、私もびっくりしちゃって……。でも、最近日本にも帰ってないので、久しぶりに日本語を話せて嬉しかったです」
「そうですね……。近頃の恭さんは匣の研究にさらに熱心になっていますし……日本に帰るタイミングも中々ありませんからね」
「はい……」
苦笑する草壁に頷いて、音羽は温かいカプチーノから昇る湯気をぼんやりと眺めた。
“
匣とは、主にマフィア間の戦闘で使用される小さな箱型のアイテムのことで、本当に沢山の種類がある。
例えば雲雀が持っているのは、“雲ハリネズミ”という動物型の匣と、彼の愛用武器トンファーを仕舞っている保存用の匣だ。
匣については雲雀の調査にずっと同行してきたこともあり、音羽も多少の知識がある。
匣の発案自体は、四世紀も前に遡る。当時は実現不可能とされていたこの技術だが、今から数年前、イノチェンティ、ケーニッヒ、ヴェルデという三人の発明家の手によって、匣兵器はこの世に形を成して生まれた。
「兵器」という名だけあって戦闘時に使われるこの匣だが、それはただ存在しているだけでは真価を発揮しない。何もしなければ、ただの箱と同じなのだ。
では、その匣をどうやって兵器にするのかというと――。
それは、マフィアに伝わるリングから放出される炎を、匣の開口部に直接注ぎこむのである。
匣兵器は、その炎エネルギーを注入することで稼働する。動物型であればそのまま戦闘に使えるし、保存型であれば中身を取り出せるようになるのだ。
ただこれは匣兵器の成り立ちについての“知識”でしかない。雲雀が調べているのはもっと根源的な――そもそもどうやって匣兵器は出来たのか、ということだ。
雲雀はよく匣兵器について、「知れば知るほど興味深い」と言う。が、彼のなかではもう大よその答えは出ているようだった。
そんな雲雀が今なお匣の調査を続けているのには、もう一つ大きな理由がある。
ここ一年はそのために、彼と慌ただしく各国を飛び回っているのだが……それはあまり上手くいっていない。
だから、日本に帰れるのはまだまだ先になりそうだった。
「……やはり、日本が恋しいですか?」
草壁に微笑まれながら尋ねられて、音羽はゆっくり顔を上げる。
「……少しだけ……。両親や友達もいますし……。でも、恭弥さんが私のためにしてくれていることですから」
そう言って笑うと、草壁も「そうですね」と穏やかに目を細めた。
彼に小さく頷いて、音羽はカプチーノを一口飲む。まろやかな苦みは喉を伝い落ち、少し肌寒さを感じ始めていた身体をじんわりと温めてくれた。
頭の中につい故郷を浮かべていると、
「?」
ポケットに入れていたスマホが震えた。
すぐに取り出してディスプレイを確認すれば、雲雀からメッセージがきている。音羽は慌てて通知を開いた。
そこには、もう用事が終わったからこれから本部を出る、という端的な文章が綴られている。
「恭弥さん、終わったみたいです。これから本部を出るって」
「そうですか。では、我々も向かいましょう」
「はい」
草壁と顔を見合わせて、音羽たちは少しだけ歩調を速めホテルへの帰路を急いだ。
◇
回転扉を開けてホテルのロビーに入ると、そこは程よく暖房が効いていた。白と黒とオレンジの大理石が規則的に並んだ床は曇りなく磨かれて、歩くと靴音をよく反響させる。
マホガニー材で出来ているらしい天井には繊細で精巧な模様が彫り込まれ、来客にクラシカルな印象を与えるのに、ロビーの奥に配置されたソファやローテーブルなど置かれているインテリアの数々はモダンなもので統一されていた。
重厚な造りのロビーはとても綺麗で、つい首を巡らせてあちらこちらを見てしまう。フロントスタッフに軽く挨拶してから、音羽と草壁はロビーの奥へ進んだ。
床と同じオレンジ色の大理石で出来た柱を過ぎると、その陰に隠れて見えていなかった彼をようやく見つける。
「……!」
黒いスーツ姿の雲雀は、グレージュの一人掛けソファにゆったりと脚を組んで座っていた。背凭れを使っているのに姿勢のいい彼は、洗練されて紳士的にも思えるこの空間にごく自然に溶け込んでいる。
どうやら先に着いて待っていてくれたらしい彼の側に、音羽は慌てて駆け寄った。
「恭弥さん、お待たせしました……!」
声を掛けると、雲雀はゆっくりと顔を上げてこちらを見た。切れ長の涼やかなその瞳に、つい胸が跳ねてしまう。
「別にいいよ。……それ、またあの店に行ってたのかい?」
「はい。せっかくイタリアに来たので、また飲みたいなと思って」
緩慢な動きで腰を上げながら、雲雀が音羽の持つカプチーノのカップを見るので、音羽は頷いて答えた。雲雀は「そう」と言って、特に表情変えず歩き出す。
「それじゃあ、部屋に戻るよ」
「はい。……あれ、草壁さんは?」
音羽は雲雀に続いて歩き出そうとしたが、背後で立ったまま動く気配のない草壁に気が付いて首を傾けた。雲雀も足を止めて振り返る。
「哲には仕事を頼んでる。……明日の手配、頼んだよ」
「はい、任せてください」
「……?」
――明日の手配……?
さっきより真剣な表情の草壁と雲雀の間では、どうやら話が纏まっているらしい。ただ、音羽には何のことだかさっぱり分からず自然と怪訝な顔になる。
「……きっと、これから恭さんが話してくださるはずです。自分のことは気にせず、お二人とも早く休まれてください」
「そういうことさ。行くよ、音羽」
草壁に微笑まれ、隣にいる雲雀にも宥められて、音羽は彼を窺い見た。
こちらを真っ直ぐ見下ろす雲雀は、視線が合っても誠実に見つめ返してくれる。――本当に、あとで話してくれるかな……?
少し迷ったものの、どのみち雲雀は今話すつもりがなさそうなので、音羽は小さく頷いてから草壁を振り返る。
「……草壁さん。今日は一緒に行ってくださって、ありがとうございました。草壁さんも、早くお休みになってくださいね」
「ええ、ありがとうございます」
音羽が言うと、草壁は穏やかに笑って頷いた。
それを見届けて音羽も踵を返し、雲雀と一緒にエレベーターホールに向かう。上階行きのボタンを押して、二人は客室を目指した。
◇
ダークブラウンの絨毯が敷かれた廊下を歩き角を曲がると、音羽たちの泊まる客室に辿り着いた。雲雀がカードキーを翳して鍵を開けてくれる。
先に入った彼に続いて室内に足を踏み入れると、部屋の電気がパッとついて温かな色合いに包まれた。
昼間はずっと惰眠を貪っていたのできちんと見られていなかったけれど、よくよく見回せば室内がかなり広いことに気付く。
リビングルームに置かれたアンティーク調のテーブルや、アイアンブルーのソファは高級感があり、寝室に見えるベッドはキングサイズだ。
今はしっとりと重そうなキャメルのカーテンが引かれているが、窓も大きくて高いのできっと景色もよく見えるだろう。
ホテル生活にすっかり慣れている音羽が見ても、この客室は色々な意味でかなりいいお部屋だと思った。……本当に、雲雀には頭が下がる。
まるで初めて部屋に入ったときのように辺りを観察し終えた音羽は、リビングルームに入って、持っていた小さめのショルダーバックとカップをテーブルの隅に置いた。
手が自由になった所で、ジャケットを脱いでいる雲雀を振り返る。
「恭弥さん、今日もお疲れ様でした。素敵なお部屋も取ってくれて……本当にありがとうございます」
「まあ、立地が良かったからね。気にしなくていいよ」
と、雲雀は言ってくれるが、彼が音羽の好みも考慮したうえでこのホテルを選んでくれたのはさすがに分かる。だから、もう一度彼にお礼を伝えた。
でも、毎回こういうホテルに泊まるのかというとそういう訳でもないので、今回は何か特別なのだろうか? それは、もしかして明日のことと関係が……?
「……あの、恭弥さん。それで……明日って、何かあるんですか?」
ずっと気になっていたことを尋ねると、雲雀はジャケットをソファの背凭れに掛けながら。
「ああ。明日の昼前にはボンゴレ本部に行く。それから、十五時にはドイツに向かうよ」
「! ド、ドイツ……!?」
平然と言ってのける雲雀に、音羽は驚きを隠せなかった。
だって、イタリアに着いたのはつい昨日のことで。それなのに早々にドイツに行ってしまうなんて……。
「どうしてまた、こんなに早く……?」
「イタリアでの用事は済んだからね。それに、これからドイツで済ます用事の方が余程大事だよ」
困惑する音羽とは対照的に、雲雀はいつもの落ち着いた様子でソファに腰を下ろして言った。彼は深い呼吸を一つしたあと、ゆっくりと音羽の方を振り返る。
「……!」
「おいで、音羽」
ブルーグレイの瞳に捉えられ、身体の全てを支配されそうな甘い声に名前を呼ばれた。そうすれば音羽の胸は否応なしにときめいて、もう彼から視線を逸らせない。
「…………」
跳ね上がる心臓を抑えるように、音羽は胸の前でぎゅっと右手を握った。
彼に言われた通りその側に歩いて行って、左手を大きくて綺麗な、大好きな彼の手の上に載せる。すると緩い力で引き寄せられて、音羽はあっという間に彼の隣に。
「……っ……」
座ったら肩をきゅ、と抱き寄せられて、雲雀の胸板に凭れかかるようになった。握られた手も包まれた体温も熱くて、耳元にかかる彼の息がくすぐったい。
思わず身を固めていると、雲雀はふ、と微笑んで音羽の頭を優しく撫でた。
「……本当に、君はいつまで経っても変わらないね」
愛おしむようなその声音に、ゆっくりと視線を上げてみる。
吸い込まれるように美しい雲雀の双眼は、音羽だけを見つめていた。
――十年経っても変わらないのは、あなたのそんな優しい眼差しだ。だから、その瞳で見られたら、自然とそうなってしまう。
彼に返したい言葉を呑み込み、音羽はそっと目を閉じた。服の擦れる音がして、頬と耳の後ろに彼の手が添えられる。
降ってきた雲雀の唇は、音羽の唇に柔らかく触れた。温かい、と感じるのは、自分の身体が少し冷えていたからかもしれない。
氷菓子をゆっくりと溶かすような触れ方に、思考が少しずつ遠退いていく。
――聞きたいことは、他にも沢山あったのに。
抗う余地も意思さえも生まれず、音羽は雲雀に身を委ねた。彼の重みが少しずつ加わって、そのままソファに押し倒される。
十年間。与えられ続けてきた愛情と幸福に、音羽はいつまでも溺れ続けている。
◇
雲雀はベッドに横たわり、目の前で寝ている彼女がたてる小さな寝息を、耳を澄まして聞いていた。すぅすぅと繰り返される呼吸は、規則的で穏やかだ。
暗闇の中でもはっきり分かる、見慣れた音羽の寝顔。安心しきって眠る彼女に、つい笑みが零れてしまう。
雲雀は線の細い音羽の肩に布団を掛け直しながら、その顔をよく見つめた。
――これを守るために。守り続けるために、今の自分は存在している。
それはここ最近、雲雀が何度も強く想うことだった。
関わりたくない群れに半ば協力する形をとるのも、雲を掴むような話しかない匣の調査を続けているのも、全ては他ならぬ音羽のためだ。彼女を絶対に――奪わせはしない。
その強い感情は、“あのとき”から雲雀の行動原理となって、いつも雲雀を駆り立てていた。だが明日になれば――、ようやく目的に一歩近づくことが出来るだろう。
「……音羽……」
雲雀は彼女の名前を囁いて、上体を僅かに浮かせた。眠る音羽の額にキスを落とす。
触れた温もりは、彼女が自分の腕のなかにいることを明確に伝えてきた。だから、雲雀も静かに瞼を下ろす。
濃い闇に覆われたこの真夜中を、イタリアで迎えることはしばらくない。