45話 夕暮れとサイダー

 金曜日の放課後。音羽は久しぶりにディーノに呼び出されて、頭上に青空の広がる屋上に来ていた。……もちろん、雲雀も一緒に。

「……」

 雲雀は、へらりと笑うディーノを怪訝な顔で睨み付けていた。そんな彼の顔を盗み見ると、音羽の心臓はまるで早鐘のように何度も勝手に跳ねてしまう。

 約束の日は、もう明日――。そう思うと、どうしてもソワソワしてしまうのだ。音羽は自然と、五日前のことを思い出していた。





 五日前の夜。


『――いいよ』


 一緒にお出掛けしませんか。そう言った音羽に、雲雀はサラリと答えた。

『っほ、本当ですか……!! ありがとうございます!!』

 呆気なく貰えた了承に驚きながら、でもそれよりもすごく嬉しくて。

 音羽は思わず、電話の向こうにぺこりと頭を下げていた。すると、その光景さえ見えているみたいに、雲雀が電話の向こうで微笑する。

『で、どこに行きたいの』

『! えっと……』

 候補はもちろん考えている。けれど、雲雀に「嫌だ」と言われないか少し不安で口籠ってしまった。でも、自分なりにそこを選んだ理由はちゃんとある。

『あの……動物園はどうでしょうか……?」

『……動物園……?』

『は、はい……』

 ややあって繰り返した雲雀の声音は、肯定とも否定とも取れない。いい加減うるさい心臓が、更に脈動を早くする。


 音羽が“動物園”を選んだ理由。それは、動物園なら雲雀も楽しめるのではないかと思ったからだ。

 本人は遠回しにしか認めていないけれど、雲雀は意外にも可愛い動物が好きだ。
 それはヒバードを可愛がっている姿を見たら分かるし、たぶんどんな動物に対してもあんな優しい目を向けるんじゃないかと思う。その場面は、すぐに想像がついたから。

 ただ問題なのは、動物園は普通、二人だけの貸切ではないということだ。もちろん他のお客さんだって沢山いるし、そうなると当然“群れている”人たちもいる。

 そこだけが、ただただ不安だった。
 雲雀がいいと言ってくれるか――、音羽は祈るような気持ちで雲雀の返事を待つ。

 数秒の沈黙。

 ……やっぱりダメかなぁ……、もっと静かな場所ならどこだろう……? 早くも次の候補を必死に考え始めると、雲雀が、ようやく。


『……いいよ、それで。じゃあ、駅に十三時集合ね』

『っ!? は、はいっ!!』

 返ってきたのは、なんと色よい返事だった。

 音羽の感情は嬉しさと安堵で振り切れて、幸福感に満たされる。満面の笑みで、音羽は大きく頷いたのだった――。





 ……そういう訳で音羽は明日、無事に雲雀と動物園に行けることになった。

 電話を切った直後から今も、ずっと物凄く楽しみだ。けど……。

 約束の土曜日が近付くにつれて、楽しみと同じように緊張も膨らんでいた。雲雀を少し見るだけで、胸がドキドキしてしまうのだ。

 そんなのいつものことだろう、と言われたらそうなのだけれど、今回は雲雀との初めてのデート。音羽にとっては人生の一大イベントと言っても全く過言ではなく、ソワソワするなというのが無理な話だ。


 ……だから今も、ぼうっと雲雀を見つめてしまっていたら。不意に、彼がこっちを向いた。

「……!」

 雲雀の切れ長の瞳と目が合って、音羽は息を呑んで我に返る。かあっと頬に熱が集まり、慌てて彼から視線を逸らした。

「ん……、どうした? 音羽。具合でも悪いのか?」

「い、いえ! 大丈夫です……!」

 挙動不審だったのかディーノに顔を覗き込まれて、音羽は勢いよく首を振った。すると、彼はどこかほっとしたように優しく微笑んでくれる。

「そうか、なら良かった。……じゃあそろそろ本題に入るぜ。今日は、リングの炎について話しに来たんだ」

「……、リングの、炎……?」

 ディーノの言葉が、浮ついていた音羽の心を冷静にした。

「ああ、最近一部のマフィアの間で噂になってるんだ。これからの戦いでは、リングの炎が重要になってくるってな」

 ディーノの言葉の意味はよく分からなかったものの、音羽は彼に視線で促されて、制服の中からチェーンにぶら下がったリングを取り出す。雲雀も、手のひらに乗せたリングを静かに見つめていた。

「リングの炎……お前たちも見ただろ? ザンザスを閉じ込めた零地点突破の氷を、このリングの炎が溶かした所を」

 ――確かに……そうだった。あのときのことを思い出して頷くと、ディーノは言葉を続ける。

「あの炎は、これからのマフィアの戦いを左右するものになるはずだ」

「…………」

 ボンゴレリングは、日の光を受けてキラリと輝いていた。


 あのときリングに炎が灯ったのは、特別な場面――リングの継承が行われようとしていたからだと、何となく思っていた。

 でもあのとき灯った炎が今後、マフィアの戦いを左右するものになるというのなら、自分の意思であの炎を灯せるようにならなければ……いけないと思う。

 ……とは言えそもそも、マフィアの戦いなんてこの先一向にない方がいいけれど。

 つい眉を寄せて考えていると、ディーノは音羽の気持ちを察したように肩を竦めて苦笑した。彼も、出来れば戦いなんてない方がいいと思っているのだろう。……雲雀はどうだろうか。


 彼の方を見ると、雲雀は相変わらず無表情だった。そこに特別な感情は読み取れない。興味がないのかもしれない。

「……そうだな……。――恭弥、」

 ディーノが何気なく呼ぶと、雲雀は僅かに眉を動かして顔を上げた。

「リングの炎を大きくするのは、“ムカツキ”だ。よく覚えとけよ、恭弥。お前なら、たぶんすぐ出来るようになると思うぜ」

「…………」

 雲雀はディーノの言葉を聞いていたものの、やっぱり関心なさげにふいと横を向いてしまう。いつもの態度に、ディーノはやれやれと溜息をついて、今度は音羽の方を振り返った。

「音羽」

「はい」

 いささか真剣な声で呼ばれたので、いつもより少し返事が固くなる。ディーノは、真っ直ぐ音羽を見た。

「リングに炎を灯すには、“覚悟”が必要なんだ。強い覚悟がなければ、リングに炎は灯せない」

「……覚悟、ですか……?」

「ああ、そうだ。音羽にも覚えておいてほしい。……ただ、音羽ならきっと大丈夫だと俺は信じてるけどな」

 そう言って、彼は顔を綻ばせた。

「大事なものを守りたいという覚悟……音羽は、その気持ちが人一倍強い。大空戦でもしっかり見せてもらったぜ」

「ディーノさん……」

「オレも鼻が高いぜ! オレの教え子たちは、二人とも優秀だからな!」

 ディーノは、そのときばかりは子供のようにくしゃりと破顔した。彼の温かい言葉に、表情に。少し身体を強張らせていた音羽も、どこか安心して微笑んだ。


 ――戦いなんて、この先ずっとなければいい。そう強く願いながら。







 翌日――土曜日。
 音羽は家の戸締りをしっかりして、雲雀と待ち合わせている駅に向かった。

 まだ時間には余裕があり過ぎるくらいだが、遅刻なんてしたくない。それに、家でじっとしているのも落ち着かなくて、かなり早くに家を出た。
 
 何を着て行こうか本当に散々迷ったけれど、結局選んだのは秋色のボルドーのワンピース。膝丈の長さで、靴は茶色のショートブーツだ。動物園はたくさん歩くだろうから、履き慣れて歩きやすい靴にした。


 雲一つない空の下、住宅街を歩きながら音羽は駅までの道を歩いて行く。お天気も快晴で本当によかった。
 
「……そういえば雲雀さん、制服なのかなぁ……」

 雲雀の私服を見たことがないから、彼が休日にどんな服を着ているのか見当もつかない。もしかしたら、今日も制服を着てくるかもしれないのだ。彼にとっては恐らくそれが、一番着慣れているものだろうから。

 彼の私服が見られないのは少し残念だけど……。でも、落ち込むようなことでもなかった。だって雲雀と二人、学校以外の場所に行けるだけで音羽はもう充分すぎるほど満足だ。

 
 雲雀の服装に様々な想像をしているうち、やがて遠目に並盛駅が見えてきた。音羽は腕時計を確認する。

 時間は、約束のちょうど十五分前。

 余裕を持って来られたなぁと息を付き、ふと改札の方を見ると――見覚えのある姿が目に留まる。

「!」

 それが誰であるか気付いたとき、音羽は地面に足が貼り付いてしまったように、ついその場に立ち止まってしまった。


 雲雀はグレーのシンプルなシャツに黒のシックなジャケットを羽織り、すらりと長いその脚によく映える黒のスキニ―を履いていた。

 初めて見た、彼の私服姿。その破壊力に音羽は歩くことも忘れ、まるで電柱か何かのように立ち尽くしてしまう。

 と、雲雀がこちらを振り向いた。音羽に気付いたのか、彼がこちらに歩いて来てくれる。

「早いね」

「……ひ、雲雀さんも……」

 「お待たせしてすみません」とか、「どれくらい前から来てたんですか」とか、言いたいことはいくつもあるのに、雲雀の姿があまりにも眩しくて言葉を失ってしまう。これじゃあ本当に電柱だ。

 雲雀の整った顔立ちも相俟って、彼はとても格好良かった。言う間でもなく胸はドキドキと高鳴っている。ここにくるとき以上の緊張が、一気に押し寄せていた。

「何ぼうっとしてるの」

「っ!」

 見惚れていると、雲雀に顔を覗き込まれた。――ち、近い……! 今だけはもう少し、これ以上ドキドキしない距離が欲しい……!

「え、あ、ぅ……す、すみません……! 雲雀さんの私服、初めて見たので……ちょっと、緊張しちゃって……」

 一歩後ろに下がってどもりながらもそう伝えれば、雲雀は一度瞬きしたあと元の無表情に戻る。

「ああ……そういうこと。別に、今日は学校には行かないからね」

「そ、そうですよね……! あの、お待たせしてすみません……。雲雀さん、どれくらい前から来てたんですか?」

 『学校に行かない日は、雲雀だって私服を着る』。

 そんな至極当たり前のことを本人から聞かされて、音羽はようやく自分を取り戻すことが出来た。さっきから気になっていたことを聞いてみれば、彼は表情を変えずに答えてくれる。

「君の来る少し前。そんなに待ってないから、気にしなくていいよ」

「! そうだったんですか……、ありがとうございます」

 気にするなと言ってくれた、彼の心遣いが温かい。自然と笑顔になると、雲雀も心なしか表情を緩めてくれた。彼はゆっくりとした動きで改札の方へと踵を返す。

「行くよ。予定より早いけどね」

「はいっ!」

 音羽はしっかり返事して、雲雀の後を追いかけた。

 早く会えた分、長く一緒にいることができる。

 そう思うと胸がぎゅっとして、音羽は雲雀の背中を見つめた。





 改札を通ってホームに行くと、ちょうど電車が来てくれたので二人はそれに乗った。これから行く予定の動物園は、「並盛動物遊園」だ。動物園の隣に遊園地が併設されている所だけれど、今日行くのはとりあえず動物園。

 最寄り駅である「並盛動物遊園前」は、ここから十分ちょっとだ。


 端の車両を選んだためか、電車内は人が少なかった。そのことにほっとしながら、音羽は雲雀と並んで空いている席に座る。こうして雲雀と電車に乗るなんて、何だか不思議な感じだ。

 緩やかに電車が発車する。徐々に速度が上がってくると、向かいの窓から見える景色が流れるように後方に去っていった。

 静かな車両の中で、音羽は雲雀の手元に視線を向けた。本当は顔を見て話したいけれど、距離も近いしまた緊張してしまいそうだから。

 
 雲雀の手は白くて細くて、男の人なのにとても綺麗な手をしていた。けれどどこか骨ばっているのも分かり、やっぱり自分とは違う、男の人の手だなあと思う。

 いつも音羽を守って、抱きしめてくれる優しい手。


「……」

 ――繋ぎたいな、と思ってしまった。

 いつも何気なく彼がそうしてくれるように、自分も彼の手を取ってみたい。温かいぬくもりに触れて、指を絡めて。

 ……でも、やっぱりそんなの無理だ……。
 今この距離で自分から手を繋ぐなんて、とても。想像しただけで、もうこんなに緊張して苦しい。

 勝手に心拍数を上げていく心臓から気を逸らすべく、音羽は小さく息を吐いて雲雀に話し掛けることにした。

「……私、並盛動物園って行ったことないんです。雲雀さんは、行ったことありますか?」

 尋ねると、雲雀は思い出すような仕草で電車の天井を見上げる。

「……随分小さいときならね。もう何年も行ってない」

「へえ……、雲雀さんの小さいとき……」

 音羽も上を見上げて想像してみた。

 ――雲雀さんの小さいとき……。うーん、まったく想像がつかない……。


 今現在“最強の風紀委員長”として生徒たちから恐れられている雲雀の小さいときとは、一体どのような感じだったのだろう。

 雲雀が、音羽の小さい頃のように無邪気に砂遊びをしたり、ブランコに乗ってはしゃぐような姿はとても思い浮かばなかった。

 ――草壁さんなら、もしかしたら知ってるかな? 雲雀さんとの付き合いはかなり長いって、前に聞いたことがあるような気がするし……。

 そんなことを考えながら雲雀と他愛ない会話をしているうちに、音羽に残っていた緊張も少しずつ(ほぐ)れていった。

 「次は並盛動物遊園前、並盛動物遊園前です」電車のアナウンスが聞こえてきて、二人は目的の駅に降り立った。







「――わあ……!」

 動物園のゲートを目の前にして、音羽は興奮して声を上げた。並盛動物遊園はやはり遊園地と併設になっているためか、思っていたよりもずっと大きい。

 ゲート前に設置されている案内図でも動物園の敷地は広く、沢山の動物の絵が案内で描かれている。わくわくして、音羽は小さい頃に戻ったような錯覚を覚えながら、隣にいる雲雀を振り返った。

「雲雀さん、入場券買いに行きましょう!」

 売り場の方を差して言うと、彼はそちらを一瞥して――それからなぜか、ゲートに向けて歩き出す。

「必要ないよ」

「えっ!? で、でも……」

 予想だにしなかった雲雀の返事に、一瞬自分の耳を疑った。でも、雲雀は言葉通りスタスタと歩いて行ってしまう。

 ――もしかして……入場券を買うっていうシステムを知らない……? ……いやいや、でもあの雲雀さんだし……。把握してないはずない……よね?

 ちょっとだけ疑心暗鬼になってしまうのは、彼はこういう所にほとんど来ないだろうと思うからだ。知らない可能性も、ほんの少しくらいはあるかもしれない。

 でも、普段から色んな物事に抜かりない雲雀がそんなおっちょこちょいをかますなんて、ほぼあり得ないことだろう。きっと、何か理由があるんだ。音羽は慌てて、雲雀の背中を追いかけた。
 

 ゲートに向かうと、もぎりをしている男性職員が、当然のように人々から入場券を受け取って切り離していた。

 その作業は機械のように正確で、一部の隙も見られない。……もちろん、タダで入場しようなんて不届き者は見逃されるはずがなかった。

 音羽はハラハラしながら雲雀の後にくっついていた。数名並んでいた人も次々と入場し、段々と自分たちの番が迫ってくる。


 そうして、音羽たちが職員の前に辿り着いたとき。

「入場券を――」

 言いかけた職員が、雲雀の顔を見た瞬間口を噤んだ。――いや、言葉を失ったという表現の方が正しいかもしれない。

 彼は唖然とした顔で雲雀を見つめたあと、明らかに怯えた表情になって唇を震わせた。

「あの……雲雀様で……?」

「!?」

 硬く動いた彼の口から出た名前に、音羽は目を大きく見開いて雲雀を振り向く。が、雲雀は別段気にする素振りさえなく、そうだよと平然と言ってのけた。

 ――何が何やら分からない。ただ一つ示された現実は、「どうぞどうぞ……!!」と慌てた様子の男性職員に園内に通されたことだけだ。

 音羽は愕然としながらゲートをくぐった。前を歩く彼の背中に堪らず声を掛ける。

「あの、雲雀さん……! 今の……」

 振り返った雲雀は無表情のまま。困惑しているであろう自分の顔を、ただ静かに見つめてくる。

「並盛は僕の庭だからね。施設は基本的に自由に出入り出来るんだ」

「か、」

 ――顔パス……!?

 雷に打たれたような衝撃が身体を走った。

 
 雲雀が並盛を牛耳っているという話は、きっと並中生なら誰だって知っていることだろう。ただ、その噂話の“並盛”は“並盛中学校”だと思っていた。

 けれど――この様子を目の当たりにした音羽は、自分の考えを改めなければならない。
 雲雀が“並盛”を支配しているのは、真実だ。それこそ、地球は太陽の周りを回っているという真実と同じ。

 一体どうして……と、音羽は混乱した頭で考えた。雲雀は至極当然という顔で、何も不思議には思っていないようだ。

 ――彼は何者なんだろう……。音羽もさすがに見過ごすことなく考えたが、何となく触れない方がいいような気がした。
 ……そうだ、世の中にはもっと不思議なこともあるし、それに比べれば全然大したことはないだろう。

 例えば、リボーン。

 赤ちゃんで家庭教師でマフィアで。彼は、雲雀でさえも一目置くほど強いのだ。その不思議に比べたら、雲雀が並盛の全てを掌握していることなんて……きっと、ごく些細なことのはず……。

 音羽はそう自分に言い聞かせ、それ以上は考えないようにした。……雲雀はいつか、この謎の答えを教えてくれるだろうか。







 初っ端から大変驚くことがあったものの、雲雀と動物園で過ごす時間は本当に楽しいものだった。ずっと懸念していた人混みもあるにはあるけれど、雲雀もあまりそちらに意識を向けないようにしてくれているのか、特に問題は起きていない。

 キリンを見たり、ゾウを見たり。ここ――並盛動物園にしかいないという、座禅するレッサーパンダ“しまったくん”を見ることも出来た。

 そして音羽の大好きなふれあいコーナーも運よく人がいなくて、貸切で楽しむことが出来たのだ。


 最初は「君だけ楽しんできなよ」と言っていた雲雀だったが、やっぱり優しさが滲み出るのか(音羽はそう確信している)動物に好かれてしまうらしい。彼が近付くと可愛いモルモットやウサギが自然と寄って来て、結局一緒にふれあいを楽しむことになった。

 ただ、足元でふわふわと集まって戯れているモルモットの群れがお気に召さなかったようで、雲雀の滞在時間は十数分。……とは言っても触るときはとても優しく撫でていたし、群れていると口では言っても、本気で気を悪くしている訳じゃない。

 雲雀のそんな優しさが動物たちにも伝わっているのだと思うと、とても温かい気持ちになったのだった。


 ふれあいコーナーを後にして、二人は園内の半分以上を見て回った。ラッコやチーター、可愛い動物やカッコイイ動物を沢山見て、音羽はすでに大満足だ。並盛動物園は広いだけあってとても充実している。

 あとまだ半分も見る所があるので、楽しみも同じ分だけ残っていた。たくさん歩いて笑って、少しだけ喉も渇いているけれど、次の所にも早く行きたい。

 音羽は雲雀の隣を歩きながらパンフレットの地図を開いて、現在地を辿った。

「――雲雀さん、次どこに行きますか? 近くだとライオンとか熊とか……爬虫類もいるみたいですよ」

 顔を上げると、雲雀と目が合う。彼はこちらをじっと見ていた。

「音羽、少し休む?」

「! いえ、大丈夫です。まだ全然歩けます!」

 雲雀が気を遣ってくれているのだと気が付いて、音羽は微笑みかける。すると雲雀は足を止めて、音羽の表情を確かめるように覗き込んだ。

「声、少し掠れてる」

「あ……。さっきたくさん笑ったから……、ちょっと掠れてるだけですよ」

「待ってて」

 大丈夫、と言ったつもりだったけれど、雲雀はさっさと歩き出してしまう。言われた通りその場で待ちながら、音羽は彼の姿を目で追いかけた。

「!」

 雲雀が向かったのは、近くにあった自販機だ。――彼の意図に気が付いて、つい頬が緩んでしまう。

 見落としても普通なくらい、本当に小さなことなのに。雲雀は、ちゃんと音羽を見て気付いてくれた。何より、音羽のために彼自らが動いてくれるなんて……本当に嬉しい。
 
 雲雀は程なくして、飲み物を片手に戻って来てくれた。彼がペットボトルのキャップを開けると、プシュッと空気の飛び出る音がする。

「はい」

「ありがとうございます……!」

 雲雀が差し出してくれたのは、透明のサイダーだった。気泡がシュワシュワ音を立てて、上にぷかぷか昇っている。口をつけるとさっぱりした甘みが広がり、弾けた炭酸が喉を潤してくれた。

 たっぷり歩いたせいか、炭酸の爽快感も合わさって余計に美味しく感じる。

 サイダーを飲んで口を離し、ふぅっと息を付いていると。雲雀の手が音羽の持っていたペットボトルに伸びてきた。

「頂戴」

 雲雀は呟くようにそう言って、音羽の手から炭酸を取っていく。彼は長い睫毛を伏せて、ゆっくりとサイダーを飲んだ。白い首筋に浮き出た喉仏が動くのを、ついじっと見つめてしまう。

 ただ飲み物を飲んでいるだけなのに。雲雀のその姿はそれだけでどこか様になり、艶めいてとても綺麗だ。

「……! ……」

 そうしているうち、音羽ははっと気が付いた。

 雲雀が今飲んでいるサイダーは、その前に音羽が直接口を付けたもので……。それに今、雲雀の唇が触れている。その事実に今更気付くと、たちまち頬がかあぁっと熱くなった。 


「……何赤くなってんの」

「……だって……、」

 ペットボトルから唇を離した雲雀に言われ、音羽は視線を逸らした。“何”なんて、言える訳ない……。恥ずかしくて、サイダーの泡を見つめる。

 すると、雲雀は音羽のその様子で粗方を分かってしまったのか、呆れたような溜息をついた。

「何を今更。直接何度もしただろ」

「っ!? こ、こんな所で言わないでください……!」

「ほんと、君って揶揄い甲斐があるね」

「っ……」

 増々恥ずかしくなって睨んだのに、彼は楽しそうに微笑する。

 ……それだけで思わずドキッとしてしまうのだから、雲雀は本当にずるい……。返せる言葉が何もなくなってしまう。

 項垂れていると、雲雀の手が音羽の手を掴んで絡め取った。

「行くよ。ライオン、見に行くんでしょ」

「……! はいっ!」

 我ながら、なんて単純なんだろう。

 雲雀の笑った顔を見ると、揶揄われても許してしまう。
 手を繋げたことが嬉しくて、その喜びに感情が上書きされる。

 大好きな人と一日を一緒に過ごせること――。それがすごく幸せなことなのだと、音羽は初めて、身を以って実感した。







 動物園の中を全て回り尽くした頃には、空がオレンジ色に染まって夕暮れ時になっていた。

 鮮やかに色付いた辺りの景色は、今この瞬間しか見られないような――そんな特別な空気に包まれている気がした。名残惜しくなりながら園内を出て、音羽は雲雀と駅のホームに向かう。 

 来たときと同じように端の車両を選んだら、案の定人の姿はまばらだった。ぽつりぽつりとしか席の埋まっていない車両の中、空いた場所に雲雀と並んで座る。

「……何だか、あっという間でした」

「そうだね」

「今日一日、すごく楽しかったです。楽しすぎて……」


 ――ちょっと寂しい。


 出掛かった言葉を、音羽は慌てて呑み込んだ。

 口にしてしまうと、もっともっと寂しくなってしまいそうで怖かったのだ。月曜になれば、また学校で会えるのに。

 こんな気持ちになるのも初めてだった。もう雲雀のいない日常なんて、音羽にとっては日常とすら言えないだろう。それくらい彼は余りに大きく深く、自分の中に存在している。


 音羽が言い淀んだのと同時に、電車の扉がゆっくり閉まった。あまねくそうであるように、電車は前へ前へと進んでしまう。
 音羽は、雲雀に視線を向けた。

 彼の背中にある窓から、夕陽の眩しい光が差し込んでくる。少しだけ目が痛い。
 視線を戻して下を見たら、雲雀の右手にはまだサイダーのペットボトルが握られていた。
 
 夕陽の光を透かす、僅かに残ったサイダー。泡がキラキラと輝いて、それが何だかとても綺麗で、胸がぎゅっとした。
 雲雀は、何も言わずにここまで持ち運んでくれていたのだ。改めて気が付いて、音羽は顔を上げる。

「…雲雀さん、ありがとうございます……。サイダーも、今日一緒に動物園に行ってくれたことも……」

「偶には悪くないね」

 雲雀はこちらを振り返って、ほんのちょっと頬を緩めた。音羽も「よかったです」、と小さく笑う。


 雲雀も楽しんでくれたなら、本当によかった。


 大切な人と同じ時間を過ごして、少しずつ形は違うかもしれないけれど、似ていたり同じだったり。色んな気持ちを一緒に感じられること。

 それはすごく幸せで、決して当然のように得られるものではなくて、胸を占めるこの想いをもっと強くすることなのだ。


 どうしても、いま伝えたい。


 音羽は、勇気を出して右手を伸ばす。

 空いた雲雀の左手を取って自分の指を絡めると、彼が少しだけ息を呑むのが分かった。しっくりと指に馴染む、この感触を自分はもう知っている。それが何より愛おしい。音羽は目線を上げて、雲雀を見つめた。


「……雲雀さん、大好きです……」


 囁くように小さな声で。けれど、雲雀にはちゃんと聞こえたようだ。驚いた様子で目を瞠っている彼に、音羽は気恥ずかしさを感じながら微笑む。

 すると、雲雀は握った手をぎゅっと握り返してくれた。

「……雲雀さん……?」

 覗き込むと、ふいと顔を背ける雲雀。

「……っ」

「……?」

 彼は何も言わなかったけれど、その頬が少しだけ赤く見えたのは気のせいだろうか。
 夕陽の差す車両の中では、はっきりと確かめることは出来なかった。







 電車を降りて並盛駅に戻ってきた。
 
 もうすぐ雲雀と別れる時間になるのかと思うと、堪らなく寂しい。いつも学校帰りにさよならを言うときも寂しいけれど、デートの帰りはその比ではなかった。

 昨日まではソワソワしっぱなしで、ずっと落ち着かなかったのに……。いざ大切な一日が終わってしまうと、こんな気持ちになるらしい。これも、今日初めて知ったことだ。


 駅の構内で立ち尽くしていると、後ろから雲雀が歩いて来た。ペットボトルを捨てに行ってくれていたのだ。

「ありがとうございます」

「いいよ、別に。……それよりこっち。来て」

「えっ、あの……」

 雲雀に手を掴まれて、音羽は駅の広場を横断した。

 夕陽はすでに沈みかけていて、僅かに残っているはずの日の光は街中の建物に遮られている。辺りは薄暗いもののまだ街灯はついていない。


 雲雀に連れられて、音羽は広場の隅に置かれているベンチの所までやって来た。雲雀に座るように促される。

 訳も分からないまま彼の言う通り腰を下ろすと、雲雀も音羽の隣に座った。

「あの、雲雀さん……?」

「音羽。目を閉じて」

「……っ、」

 いつもより真剣な眼差しを見つめると、静かな声で囁かれた。心臓が強く、鳴り始める。

 何をするんだろう? 頭の中で考える。
 が、雲雀の瞳を見ていたら、何となく大切なことのような気がして音羽は素直に瞼を閉じた。


 大人しく暗闇に身を委ねると、雲雀の方から衣服の擦れる音がする。目が見えない分、自分の心音がひどく大きく、激しくなっていることに気付いてしまう。
 
 彼に聞こえないかな……。思わずぎゅっと膝に載せた手を握りしめると――、

「っ……!」

 首筋に何か、ひやりとした物がそっと触れた。

 反射で肩が跳ねてしまうと、今度はさっきよりずっと近く……耳元で、雲雀の声がする。

「まだ開けちゃ駄目。じっとしてて」

「……は、はい……」

 音羽はきつく目を閉じたまま、小さく頷いた。


 それから少しして、瞼の向こうが少し明るくなったような気がした。……何だろう?

 不思議に思っていると、ベンチが軽く揺れる。

「いいよ」

「…………、」

 雲雀の声が元通り目の前の方から聞こえて来て、音羽はゆっくり瞼を持ち上げた。

 
 広場には、定刻になったのか温かい色の街灯が灯っていた。暗がりに包まれゆく街を、光が仄かに柔らかく照らしている。
 目の前にいる雲雀の顔も、さっきよりはっきり見えた。


 ――そして、ずっと首元にある慣れない感触。

 確かめるために手を伸ばすと、指先に華奢なチェーンが触れる。
 目を見開いて視線を落とすと、音羽の首には可愛いネックレスが付けられていた。

 銀色の細いチェーンに、白いマーガレットの花と小さな紫の花のトップが付いた、とても綺麗なネックレスだ。光に当たって、花々はキラキラと輝いている。一目見て気に入ってしまうくらい、音羽の好みのものだった。

「可愛い……! でも、どうして……、」

 音羽は嬉しさのあまりいつもより大きな声になりながら、雲雀を見た。

 今日はクリスマスでもなければ、音羽の誕生日でもない。それなのにどうしてこんな素敵な物を、音羽に付けてくれたのだろう。

 雲雀はこちらを見つめたまま、音羽の頬にすっと触れた。そのまま滑らかに彼の指が滑り、顎に触れ、今しがた付けてくれたネックレスにその視線が留まる。

「別に。あげたくなったからあげただけだよ」

「でも……!」

 こんな素敵なもの、本当にもらってもいいのだろうか……?
 
 戸惑いを隠せずいると、彼はこちらを覗き込み、少ししてから口を開いた。

「前に君、クラスの女子からお守りもらってたよね」

「! は、はい……」

 音羽は大空戦の前、京子たちがくれたお守りを思い出して頷く。

 それは友達からもらった初めての手作りのプレゼントで、音羽の宝物の一つだ。今も、いつも使っている学校用の鞄の中に入れてある。

 音羽の頷きを確かめた雲雀は、触れていた手を放し、ふと口の端を持ち上げた。

「僕以外の人間から渡された物で、君があんなに喜ぶのは気に入らないからね」

「!」

 だからと言って、こんなに素敵なものを選んでくれるなんて。

 雲雀からもらえるものなら、音羽は何だって絶対に一番嬉しい。雲雀だってそれは分かっているはずだ。

 それなら、音羽にくれるものなど何でもいいのだ。こんなに、音羽の好みに即したものでなくても、良かったはずなのに。

 雲雀が音羽のために、わざわざこの品物を選んでくれたのは明白だった。

 彼が選んでくれたこと、何かあげようと思ってくれたこと。嬉しくて、音羽は目が潤むのを感じながらネックレスに触れる。

「っ……雲雀さんっ、ありがとうございます……! 間違いなく私の一番の宝物です!」

「当然だね」

 今にも涙が零れそうになっていると、雲雀は柔らかく目を細めた。

「……僕の一番は君だ。だから、君の一番が僕以外なのは許さない」

「っ……はいっ……」

 大きく頷いた拍子に、我慢していた涙がぽろりと落ちる。頬を伝ったそれを、雲雀は指先でそっと掬ってくれた。

 そして少しだけ、意地悪に微笑んで。

「電車での仕返し」

「……?」

「何でもないよ。その顔を見たら満足した」

 雲雀の言葉の意味は分からなかったけれど、今の音羽はその謎よりも、もっともっと深い幸福感に包まれていた。


 大好きな雲雀からもらった、初めてのプレゼント。


 それは音羽の中で、すでに最も特別で大切な物になっている。絶対に、ずっとずっと大事にしよう。

 誓いのような想いを胸に、音羽はもう一度そっとネックレスに触れた。


 雲雀に対するこの気持ちだけは、きっと一生変わらない。

 音羽は幸せで微笑みながら、静かにその想いを確信していた。


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