44話 霧の少女
リング争奪戦から、一週間が経った頃。
すっかり日常生活の感覚を取り戻した音羽は毎日学校に行き、休み時間や放課後は雲雀と過ごしたり図書室に行ったりと、とても穏やかな日々を過ごしていた。
そんな折のある休日、音羽は電車に揺られて隣町――黒曜町に来ていた。来週末、一泊二日の温泉旅行に行く母におつかいを頼まれたのだ。
幸運なことに、母は先日商店街の福引で一等の『温泉旅行ペアチケット』を引き当てた。だから、普段は仕事で忙しくなかなかゆっくり出来ない父と夫婦水入らずで旅行に行くことになって、片桐家はいま旅行の準備で大忙しだ。
音羽が母に頼まれた物は、化粧水。
長らく愛用している化粧品メーカーがあるそうなのだが、そのショップは並盛にはなくて、一番近い所がこの黒曜駅を出てすぐにある商店街の中らしい。別の買い物で走り回っている母の代わりに、音羽は品番を控えたメモを渡され黒曜駅までやって来たという訳である。
電車を降り改札を出て、音羽はさっそく外に出た。
以前バスで行った黒曜ランドはすっかり廃れてしまっていたけれど、黒曜駅の方は並盛と変わらないくらいの活気がある。特に休日ということもあって、駅の近くは人の姿で賑わっていた。
音羽は母から聞いた道順を辿って商店街に入り、特に迷うこともなく目的のショップに到着した。店員のお姉さんにメモを見せて、品物もスムーズに購入できた。これで用事は終わりだ、あとは家に帰るだけ。
――うーん……もう帰ってもいいんだけど、黒曜駅まで来ることなんて滅多にないし……。少しだけお店を見て回るのも、たまにはいいかな。
せっかく久しぶりに私服も着たし。そう思って、音羽はショップを出たあと黒曜町の商店街を散策すべく歩き出した。
私服で出掛けるのは、一体どれくらいぶりだろう?
学校のある日は絶対に制服だし、休みの日も雲雀がいるので学校に行くこともあって、私服を着る機会はめっきり少なくなってしまった。今日着ているのは、袖に花模様の刺繍があるお気に入りの白いブラウスに、ネイビーが基調になったチェック柄の膝丈スカートだ。
久しぶりの私服で見慣れない景色の中を歩いていると、何だか新鮮さを感じて楽しくなってくる。
可愛いインテリアや観葉植物が沢山置いてある雑貨屋さん、こじんまりして静かな本屋さん。温かい色のライトでキラキラ照らされているアクセサリー店。音羽はウィンドウショッピングを満喫して、やがてお洋服屋さんに入ってみた。
店内は若い女性客がちらほらいて、各々気になる商品を見ている。音羽も可愛いなぁと思ったワンピースやスカートを物色し、手に取って眺めた。
――考えたことなかったけど、雲雀さんってどういう服が好きなんだろう?
ふと生まれた疑問。
そもそも、彼が女の子の服装に対して好みを持っているのかどうかさえ分からないが、彼女としては気になる所だ。
でも、雲雀は外見に囚われるような人ではないし、何でもいいよと言いそうな気がしないでもない。
ワンピースの掛かったハンガーを元の場所に戻して、音羽はぼんやり考えながら店を出た。そして、商店街へと一歩踏み出したそのとき。
音羽ははたと気が付いてしまった。とても重大なことだ。思わずピタリと足を止める。
――そういえば私……雲雀さんと私服でどこかに出かけたことない……。雲雀さんの私服も見たことないし……。……あれ? っていうか、二人でどこかに出掛けたこと自体、ない……!?
「……」
雲雀と付き合って数ヶ月経つのに、今更ながらその事実に気付いてしまった。音羽は愕然と道端で立ち尽くす。
前に――と言っても付き合う前だけど――夏祭りで浴衣を着て、一緒に花火を見たことはある。でもそれは偶然夏祭りで雲雀に会うことが出来たからであって、約束をして会った訳じゃない。
それに、制服ではないとはいえ私服でもなく、浴衣だ(雲雀に関しては浴衣でもなく制服だった)。
……つまり、音羽は雲雀と付き合ってから、まだ一度もデートをしたことがないのだ。想いが通じ合ってからも落ち着けるような時間のないままヴァリアーとの戦いが始まってしまったので、二人でどこかに出掛けるなんて考える余裕もなかった。
でも、よく思ったら手だって繋ぐしキスもしたことがあるのに、一度もデートをしたことがないなんて……悲しすぎる。
「ああ……でも……、」
音羽は悶々としながら、つい一人で呟いた。
――デート……って、どう誘えばいいんだろう……? そもそも、私から言ってもいいもの……? どこかに行きたいから、一緒に行きませんかって言えば、一緒に行ってくれるのかな……。
付き合うのも初めてならデートをするのも初めてなので、何をどうすればそういう流れが出来るのか分からない。
――でも雲雀さん、人が群れてる所は嫌いだし……。どこなら一緒に行ってくれるんだろう……?
これは難問だ……。外に出たら必ず人はいるし、それこそデートスポットとなると場所によっては人混みもあるだろう。
往来でつい眉を険しく寄せて、考え込んでいると――。
「――音羽……?」
「!」
背後から聞き覚えのある、透き通った女の子の声が聞こえてきた。音羽は我に返って後ろを振り向く。
「ク、クロームちゃん……!」
黒曜中の制服を着た彼女は紫色の綺麗な瞳をパチパチと瞬かせ、不思議そうな顔で音羽を見ていた。
思考の海から急に引き上げられて驚いたのもあるけれど、まさかクロームに遭うとは思ってなくてつい声を上げてしまう。
でも、よくよく考えればここは黒曜だ。黒曜中に通うクロームがいても何も不思議ではない。どころか、「何でここにいるの?」と思われるのは恐らく音羽の方だろう。
「どうしたの……?」
「あ、えっと……」
案の定、彼女は小首を傾げて音羽の顔を覗き込んできた。
クロームの言う「どうしたの?」が「どうして黒曜にいるの?」なのか、「どうしてこんな所に突っ立って、独り言を呟いてるの?」なのか分からなくて、音羽は一瞬答えに困る。が、取り敢えず一般的だと思われる方を口にした。
「ちょっと、買い物に来てて。……クロームちゃんも?」
クロームが手に握っているビニール袋を見て尋ねると、彼女も自分の手元を見て小さくこくりと頷いてくれる。
「リップクリーム買いに来たの。あと、――!」
「……?」
言いかけて、クロームはハッとしたように口を閉ざした。続けて顔を俯ける彼女に、今度は音羽が目を瞬かせる。
――何か、悪いことでも聞いちゃったかな……?
「……クロームちゃん?」
「……」
ちょっと不安になりながら覗き込むと、クロームは頬をピンク色に染めて、何か言いたそうにもごもごと口を動かしていた。――その表情で、音羽は何となく彼女の気持ちを察する。
言いたいけど、言っていいのか分からない。クロームは、そんな顔をしていたのだ。誰かと話しているとそういう時があるのを、音羽もよく知っている。
初めて会ったときから、不思議な雰囲気を持っていた女の子、クローム。
彼女はあの骸と深い繋がりがあるし、少し話しづらいかもしれないと何となく思ってしまっていた。でも、体育館で初めて話したあのときと同じように、今目の前にいるクロームの瞳は美しく澄んでいる。
霧戦のときは凛々しく戦っていたクロームが、こういう――ちょっと人間味のある表情をしているのは初めて見て、前より少しだけ彼女を身近に感じた。確かに骸と関係はあるけれど、クロームはきっといい子だ。
「あの……クロームちゃん。もしよかったらなんだけど……、ちょっとだけどこかでお話ししない……?」
「!」
言うと、クロームは勢いよく顔を上げて大きく頷いてくれた。彼女の丸い瞳がキラキラ輝いているのを見て、音羽は微笑んだのだった。
◇
商店街から少し離れた所にある公園で、音羽とクロームはベンチに並んで座っていた。
「クロームちゃん、イタリア語の勉強するんだ……! すごいね!!」
音羽はクロームにイタリア語の本を見せてもらいながら、彼女を振り返った。クロームがさっき言いかけていたのは、「このイタリア語の本を買った」ということだったらしい。
音羽は全く思わなかったが、クローム曰く「自分のことばかり話し過ぎていると思った……」そうだ。どちらかと言うと、もっと沢山話してもいいくらいだと思うけど……自分も余りお喋りな方ではないので彼女の気持ちは何となく分かる。
短い時間にクロームとの共通点を幾つも見つけられて、音羽は嬉しくなった。
クロームも、同じようなことを思ってくれているのかもしれない。商店街で声を掛けてくれたときより表情は緩まって、彼女は自分のことを語ってくれる。
「私……骸様と、いつかイタリア語で話したいの……」
「! そっか……骸さん、イタリアにいたんだもんね。あの……骸さんは、大丈夫……?」
出てきた彼の名前に一瞬息を呑んだものの、どうしても気になってクロームに聞いてしまった。
骸とは黒曜ランドの一件で色々あったので、自分が彼の安否を心配していい立場なのかは分からない。ただ、彼が今どうなっているのか気になる気持ちは確かにあって、それはきっと、“彼の記憶”を見たからだ。
これまで知らなかった骸の一面を、あのときに知ったから。
クロームはこちらを振り向くと、音羽の目をじっと見つめた。音羽を気遣うような、そんな思いやりを彼女の眼差しから感じる。
見つめ返すと、ややあってクロームはほっとしたように微笑んだ。
「……骸様なら、大丈夫。この前力を使い過ぎたから、まだ眠っている時間が長いけど……。最近、少しずつ力が戻ってきてるみたいだから……」
「! そうなんだ……、良かった……」
音羽は息を付いて、思わず本音を零してしまう。すると、クロームは静かに目を細めた。
「あなたにそう思ってもらえたら、骸様、きっと喜ぶ。私も……嬉しい」
「……? クロームちゃんも……?」
骸はともかくとして、どうしてクロームがそう思うのか? 首を傾けると、彼女は恥ずかしそうに視線を逸らして、膝に置いている自分の手を眺めた。
「骸様いつも言ってたの、あなたのこと。優しくて温かくて、昔からずっと……とても大切な人だって。だから私も、あなたに初めて会ったとき初めて会ったように思えなくて……。音羽が骸様のこと心配してくれるの、嬉しい……」
「……クロームちゃん……」
クロームは、とても優しい色をした瞳でそう言った。
ほんのり赤く染まった頬も、柔らかい微笑みも。クロームにとって、骸がとても大切な人だということを教えてくれる。
彼女のそれが、音羽が雲雀に対して想う気持ちと同じなのか、それともよく似た別のものなのかは分からない。ただ、クロームにとって骸は唯一無二の存在なのだ。それがよく伝わってくる。
「……あの、音羽、」
ふとクロームが顔を上げて、音羽の方を見たとき。
「――おい! こんなとこで何やってんら!!」
「「!!」」
クロームを遮って公園に響いた声は、これまた聞き覚えのあるものだった。音羽もクロームも肩を跳ねさせ、慌てて声のした前方に顔を向ける。
と、そこにいたのは思った通り、制服姿の犬と千種だ。犬は音羽と目が合うと、ぎょっとした顔をする。
「なっ、お前……!! なんれお前がこんなとこにいるびょん!?」
「あ、えっと……! クロームちゃんと偶然会ったので、お話を……」
別に悪いことはしていないはずなのに、犬の大きな声や凝視する瞳に圧倒されて、音羽はあわあわしながら口を動かす。
もう何もされない……はずだけど、ちょっと不安だ。怖々犬を見ていたら、彼はクロームと音羽を見比べ、何か思いついたようにニヤリと笑った。
「へっ、丁度いいびょん! 今はアヒルもいねーし、骸様の意識も少しずつ戻ってるし! 今お前を捕まえれば、骸様が出てきたとき大喜びするびょん!」
「えっ!? ちょっ……!」
薄っすらと感じていた嫌な予感は、的中してしまった。良い獲物を見つけたと言わんばかりの犬は、獣のように目を爛々とさせながらこちらに歩いて来る。
音羽は咄嗟にベンチから立ち上がり、辺りを見回した。公園の出口を見る。
走って逃げようか――でも、上手くここを出られたとしてもここは黒曜だ。土地勘のない音羽はきっとすぐに捕まってしまううえ、人並程度の自分の脚力では絶対に彼を撒けないだろう。
――どうしよう……! まさかこんなことになるなんて……!
焦りながら頭を回転させ、ぎゅっと手を握りしめたとき、音羽の目の前に小柄な影が飛び出した。
◇
「ダメ、犬! 音羽の嫌がることしないで……!」
「! クロームちゃん……!?」
庇うように音羽の前に飛び出てきたのは、なんとクロームだった。彼女は珍しく強い口調で言いながら両手を伸ばし、音羽と犬の間に立ちはだかる。
彼女のその行動に、音羽だけでなく犬の方も狼狽えていた。
「なっ……、バカ女! お前、どっちの味方なんら!? さっさと退くびょん!!」
「退かない……!」
「あ、あの……っ」
今度は別の意味でどうしようという展開になってしまって、二人を見ながら更にあたふたしてしまう。
まさか、クロームが自分を庇ってくれるなんて……。
でもどちらも譲る気配がないし、このままでは仲間割れのようになってしまう。自分のせいでクロームに迷惑を掛けてしまうなんて、絶対に嫌だ。……けれど、ここで音羽が仲裁に入ろうとすれば、犬には火に油を注ぐだけだろう。
「……」
数秒のあいだに考えを巡らせた音羽は、この場で唯一中立の立場を保っている人物に救いを求めて視線を投げた。
――千種は、音羽と目が合うと僅かに身体を揺らし、ふいと視線を逸らす。
そして、心の底から吐き出すように、深い深い溜息を一つ。
「はあ……、めんどい……」
彼は嘘偽りない表情で言うと、犬の肩を後ろから強く掴んだ。
「犬、その辺にしときなよ。骸様にバレたら怒られる……。自分のいない所では、片桐音羽に手を出すなって言われてるし……。この前も、クロームをいじめるなって言われてた」
「!」
落ち着き払った彼の言葉に、犬は苛ついたように眉根を寄せる。が、その言葉の効果は絶大だ。
「……チッ、バカ女! 後で覚えてろ!!」
犬は吐き捨てるようにそう言うと、大股で公園を出て行った。千種はその後を追いかけようとして――足を止め、クロームを振り返る。
「クローム、遅くならないうちに帰って来なよ」
「……うん、ありがと、千種……」
クロームがほっと肩の力を抜いて答えると、千種も踵を返して犬の去った方に歩いて行った。
二人の背中が遠くなって、音羽は慌ててクロームを向き直る。
「っご、ごめんなさい、クロームちゃん……! 私がいたせいで……」
申し訳なくて頭を下げると、真っ白な手がこちらに伸びてきた。クロームの柔らかい手に右手を握られ、おずおず顔を上げる。
……クロームは、にっこりと微笑んでいた。
「大丈夫。犬や千種も大切だけど……私、音羽のことも……好き。だから、音羽を困らせたくない……」
「クロームちゃん……」
クロームは澄み切った瞳で音羽を見つめ、少し恥ずかしそうにはにかんでいる。
霧戦――体育館で初めて会ったときクロームは、『音羽のことを聞いていたから、ずっと会ってみたかった』と言っていた。あのときは何のことだか分からなかったけれど、今なら分かる。
クロームは、彼女にとってとても大切な人から、音羽のことを聞いていたから。だから、そう思ってくれたのだ。
『初めて会ったとき、初めて会ったように思えなかった』のもきっとそのためで、だからこそ彼女はまだ出会って日が浅いのに、音羽にここまで心を開いてくれている。
“きっかけ”がなんだって、構わない。
音羽にとって大切な友達が増えたことには変わりなかった。
音羽は、クロームの手をぎゅっと握り返す。
「……クロームちゃん、本当にありがとう。私……今日クロームちゃんとお話しできて、本当に良かった。……あの……クロームちゃんがよかったら、これからも仲良くしてくれる……?」
クロームの表情を窺いながら尋ねると、彼女は驚いたように目を丸くした。途端、紫の瞳が薄く潤んで、日の光を反射する。
菫色を輝かせて唇を引き結んだあと、クロームは本当に嬉しそうに。
顔を綻ばせて、何度もコクコクと首を縦に振って頷いてくれた。
◇
公園を出て、音羽は送ってくれるというクロームの言葉に甘え、彼女と一緒に駅までの道を歩いていた。ゆっくりとした足取りで、二人はさっきの商店街を歩いて行く。
「――そういえばクロームちゃん。さっき、何か言いかけてなかった?」
犬たちが来る前の彼女の様子を思い出し、音羽は隣に並んでいるクロームを振り返った。彼女も「あ、」という顔をして、こちらを見る。
「聞こうと思ってたの……」
「私に? 何だろう……?」
全く見当がつかないでいると、クロームは音羽を見つめたまま。
「音羽は……雲の人と付き合ってるの?」
「…………えぇっ!?」
雲の人――それが雲雀を指していることを数秒後に理解して、つい変な声が出てしまった。まさかクロームの口からその話題が出てくるなんて。
「骸様が気にしてたの……。雲の人が、音羽に手を出そうとしてるって……」
「あ……あはは……」
なるほど、そういうことか……。納得した音羽は苦笑する。
手を出そうとしているも何も、もう付き合っているんだけどなあ……。どう伝えたらいいんだろう。音羽は視線を彷徨わせて考えた。
クロームは骸を大切に想っているから、正直に話したら彼女がどんな反応をするのか、ちょっと想像が付かない。骸ならいざ知らずクロームが怒ることはないだろうが、「骸様……ショックだと思う……」としょんぼりしてしまったら胸が痛い。
でも、嘘を付く訳にもいかないし……。
どう伝えるか迷ったあと、音羽は気恥ずかしさもあってクロームから視線を逸らし、前方の地面を見つめながら答えた。
「……えっと……雲雀さんとは、付き合ってるの……」
「!」
結局一番シンプルな答えを正直に伝えると、彼女の身体がぴくりと動くのが視界の端に見えた気がした。クロームの表情を確かめるために顔を上げると、やっぱり少しだけ目を見開いている。
ただ、音羽が想像したような反応は、彼女から返ってはこなかった。
「やっぱり、そうだと思ってた……。雲の人、すごく優しい目で音羽を見てたから……」
「!」
クロームは柔らかく瞳を細めて言った。今度は音羽が息を呑む番。
音羽自身、雲雀が自分に向けてくれる瞳は常々優しいものだと感じていた。でも、どうやら他の人から見てもそういう風に見えるらしい。普段ポーカーフェイスな雲雀だから意外だけど、やっぱりそう言ってもらえるのはとても、嬉しかった。
「ありがとう……クロームちゃん」
頬を赤らめて笑いかけると、クロームも穏やかに微笑み返してくれる。
「骸様には内緒にする……、怒ると思うから……」
「ふふ、うん!」
顔を見合わせ、音羽とクロームは小さく笑い合ったのだった。
◇
そのあと――。
クロームと別れた音羽は再び電車に揺られて、並盛町に戻ってきた。思いがけずクロームとたくさん話すことが出来て嬉しかったし、大切な友達がまた一人増えた。胸がとても温かい。
――今度から黒曜に行ったら、クロームちゃんにも会いに行こう。そのときは、何かお菓子でも持って行こうかな……。
高揚した気分でそんなことを考えて、音羽はのんびりと駅から町中へと歩いて行く。
商店街を抜け、公園を通り過ぎて真っ直ぐに歩いていると、やがて住宅街に入った。
日曜日の午後は、どこも静かなものだ。穏やかな昼下がり。広い空を見上げると、気分がすうっと澄み渡る。
青空に浮かび、風に流れる雲を見ていると、
「――どうしよう……! 眼鏡……眼鏡ない……!」
「……眼鏡……?」
唐突に前方から声がして、音羽は視線を前に戻した。
見れば地面に膝をつき、闇雲に手をあちこちへ伸ばしている少年がいる。
音羽と同い年くらいの男の子だ。眼鏡を探しているようだし、仕草から見てかなり目が悪いのかもしれない。
もう少し彼の方に近寄ってみると、少年から三、四メートルほど離れた所に、薄茶色のフレームをした眼鏡が落ちているのを見つけた。
あんな所まで飛んでしまうなんて……。転んでしまったのだろうか。
音羽は小走りに眼鏡の側まで行って、それを拾い上げる。それから少年の元に戻って、彼の側に屈んで声を掛けた。
◇
入江正一は姉に頼まれた“おつかい”という名のパシリを終えて、自宅に戻っている途中だった。
平和なはずの住宅街。そんな中で、正一は謎の爆風に飛ばされて派手に前のめりに転び、大切な眼鏡をどこかに落としてしまったのだ。眼鏡がないと、ほとんど何も見えない。
ぼやける視界、手探りで落とし物を探しながら正一は思っていた。
最近の並盛町は、やっぱり普通じゃない――と。
正一の平平凡凡な日常が急に違う色を見せ始めたのは、つい先週のことだった。
突如自宅に現れた謎の五歳児“ランボさん”。そして、彼が突然家に侵入したお詫びとして送られてきた“現金入りの謎の木箱”。
“ランボさん”は並盛町に親戚の家があるらしいということで、彼と木箱を返却しに“沢田家”へ向かった正一は、そこで大変酷い目に遭ったのだ。
平凡な自分の人生では関わるはずのなかった不良少年に絡まれ、なぜか民家の庭で水着を着て日光浴していた美女に睨まれて、本物の手榴弾が爆発する所も実際にこの目で見てしまった。
おまけにイケメン外国人と並中の制服を着た少年の戦いにまで巻き込まれ、生まれて初めてよく分からない爆発の餌食にもなったのだ。あのときの恐ろしさは、きっと死ぬまで忘れられないだろう……。
――さっきの爆発が、先週のあの人たちと関係ないものだったらいいけど……。
正一は頭の隅で考える。だが、彼等の他にもおっかない人間が並盛町にいるのなら、それはそれで大問題だ。
平和な並盛町が変わってしまったのか。それとも自分の運命の歯車が、違う方向に噛み合ってしまったか。真実は誰にも分からない、一先ず眼鏡のない正一は景色さえも見えないのだから。
誰か通りかかってくれないかな――。
一向に地面の感触しか掴まない手に気落ちしていると、不意に視界が暗くなった。
「――あの……眼鏡、これですか?」
「!」
上から降ってきたのは、女の子の控えめな声だった。ハッと顔を上げると、ぼやぁと差し出される薄茶色――ああ、これだ!
「そ、そうです……! ありがとう……!」
正一は胸を撫で下ろし、眼鏡を受け取ってすぐに掛けた。ようやく視界がクリアになる。優しい人が通りかかってくれて良かった、もう一度お礼を言おうと視線を上げる、と。
「―――」
彼女――正一とそう歳の変わらないその少女は、こちらと視線を合わせるように目の前に屈んでくれていた。
ふわふわとした長い焦げ茶色の髪に、深い飴色の瞳。可愛らしい顔立ちをしているのに、雰囲気は少し大人っぽくて――目を逸らせない。
「あ……」
ありがとう。そう口にしたいのに声が出なかった。どうしてなのか、自分でも分からない。
理由を考える余裕もなくて、正一はただ、柔らかくて優しい彼女の瞳に魅入ってしまった。身体が、動かない。
「あの……大丈夫ですか? もしかして眼鏡、壊れちゃってました……?」
「……あ、いえ……! 大丈夫です! 全然!」
心配そうな顔をした彼女に覗き込まれて、顔も身体も発熱したように熱くなった。首を横に振りながら慌てて立ち上がると、彼女もゆっくり腰を上げる。
「それなら良かったです。それじゃあ……」
少女はにっこりと微笑むと、踵を返して歩き出した。――正一は、思わず彼女を引き留めていた。
「あ、あの……!」
「……?」
彼女は足を止めて、不思議そうにこちらを向く。見つめてくるその瞳にまた見惚れそうになりながら、正一は何とか口を開くことが出来た。
「ほんとに、ありがとうございました……!」
礼を言うと彼女はきょとんとして、やがて柔らかく微笑する。
正一にはその姿が、まるで絵画に描かれた女神のように見えた。名前も分からないその少女は、「いいえ」と首を振って会釈したあと、通りを向こうへ歩いて行ってしまった。
◇
その日の夜。
夕食も食べてお風呂にも入り、すっかり寝る準備を整えた音羽は自分の部屋のベッドの上で携帯とにらめっこをしていた。うーんと唸ってディスプレイを眺める。
映っているのは、雲雀の携帯電話の番号だ。発信ボタンを押すかどうか……音羽は迷っていた。用件はもちろん、雲雀をデートに誘うか誘わないか。
別にわざわざ電話でなくても学校に行けば会えるのだから、そのときまで悩んでいてもいいとは思う。でも来週末は親が不在なこともあり、雲雀さえよければ彼とゆっくり晩御飯の時間まで過ごせそうなのだ。
それなら、雲雀に予定が入ってしまう前に約束した方がいい。
「……」
音羽はもう何度目か、壁に掛かっている時計に目をやった。時間は、まだ八時四十分。
こうして迷い始めてもう四十分も経ってしまったけれど、電話をするのにはまだ問題ない時間だろう。問題なのは、音羽の勇気が中々出ないということ……。音羽は小さく溜息をついた。
自分の勇気が出るまで待つのもいいと思うし、いつになるか分からないものの、雲雀がいつかデートに誘ってくれる日を待つのもいいかもしれない。
――でも、雲雀のことをもっと知りたい。二人で色んな時間を過ごして、同じ思い出を重ねたい。
好きだからこそ生まれる自然な気持ちが、自分の中にたくさん溢れていた。――必要なのは、やっぱり勇気だ。
自分からデートに誘うなんて、恋愛経験値のない音羽にとってはかなりハードルの高いことだ。でも、片想いであるのならまだしも付き合っているのだから、デートに誘うこと自体は別に、おかしなことでない……と思う。
音羽は、半ば自分に言い聞かせるようにそう心の中で繰り返した。深い呼吸を何度かして、ディスプレイに向き合う。
……電話なら顔が見えない分、恥ずかしさも少しは紛れるかもしれない……。
そんな淡い期待も込めて――音羽はとうとう、発信ボタンを押してしまった。
耳に携帯を当てると、コール音が鳴り始める。途端、バクバク跳ねだす心臓。緊張してつい唇を食みながら、室内に視線を彷徨わせる。
時計の長針が一つ音を立てて動いたとき、コール音が途切れた。続いて聞こえたのは、大好きな彼の声だ。
『もしもし』
「! もしもし……音羽です……。あの、今ちょっとだけ大丈夫ですか……?」
普段し慣れない電話ということもあって、音羽はいつもより緊張しながら電話の向こうにそっと尋ねた。彼の声を聞いただけで、勝手にドキドキしてしまう。
『別にいいよ。でも、珍しいね。君から電話してくるなんて』
「は、はい……」
すぐ答えてくれた彼に、小さな返事をした。たぶん真っ赤になっているであろう顔を見られなくてよかったけど……、やっぱりすごく勇気がいる。
でも、言うんだ。――デートがしたいですって、ちゃんと素直に。
「あのっ……お願いがあって……。今度、雲雀さん、と……、っ――」
そこまで言って、音羽はあと一息の所で口を閉じてしまった。緊張のあまり心臓がずっと跳ねっぱなしで、喉元までドキドキが迫っている。
自分の表情が見られないのはいい、けれど、同時に雲雀の表情も見ることができない。彼の気持ちを見ることができないのだ。雲雀は、いまどんな顔をしているだろう――。
『僕と、何? 音羽』
「…………」
雲雀の声が、静かに音羽を呼んで続きを促す。早く言わなきゃ――そう思うのに口は重くて動いてくれない。
自分でももどかしくて焦っていると、ふと。
昼間クロームに言われたことが、頭の中を過った。
『雲の人、すごく優しい目で音羽を見てたから……』。
――彼女のその一言が、臆病な音羽の背中をそっと温かく押してくれた。
顔の見えない電話の向こう。雲雀はきっと今も、そういう顔をしてくれているはずだと思えたから。
自分の心臓が、飛び出しそうなくらい強く脈打っているのを感じながら、音羽は閉じていた唇を離した。
「――雲雀さん……来週の土曜日、一緒にお出掛けしませんか……?」