43話 近くて、甘く

 ――大空戦の翌日、午前九時。

 音羽はいつものように洗面所の鏡を見ながら、制服の首元にリボンを付けて、ほんの少し乱れていた前髪をきちんと直した。

 そうしていると、後ろの廊下から母の声。

「音羽ー、どこか出掛けるの? 休みの日なのに、朝からお弁当作って、なんて。制服も着てるし……」

 振り返ると、母は不思議そうな顔で手にお弁当袋を持って立っていた。いつも音羽が使っているものより一回り大きくて、ずっしりと重みがありそうな見た目をしている。

 それもそのはず、音羽が頼んで、母には二人分のお弁当を作ってもらったのだから。

「うん、ちょっと学校に用があるの……。それより、お弁当ありがとう」

 音羽は母に笑いかけながら、お弁当袋を受け取った。やっぱりいつもよりちょっと重い。

「昨日も相撲大会の最終戦とかで、帰るのが遅かったじゃない。休みの日くらいゆっくり寝てればいいのに」

「大丈夫、久々に八時まで寝られたし。今日は、晩御飯までには帰るね」

 やれやれと首を振る母に苦笑しながら、音羽は答えた。

 未だに“相撲大会”というとんでもない理由を信じてくれている母を見ると、流石に良心が痛んだけれど……。これでもう心配をかけることもないのだと思うと、少しほっとする。


 でも、そう思ったのも束の間。
 母の呆れ顔がふとどこか興味深げなものに変わって、まじまじとこちらを見てくるのだ。あまりに凝視されるので、音羽は思わず身を引いてしまう。

「な、なに……?」

「ん〜、そういえば聞いてなかったけど、音羽。二人分って、一体誰と食べるの?」

「えっ!?」

 ずいっと真顔で母に迫られて、音羽の喉からは裏返った声が出た。

 普段から細かいことは気にしない母だから、きっと今回も何も言われないだろうと高を括っていたのに……。咄嗟に言葉が出ず狼狽えていると、母は目を瞬かせたあとニヤリと笑う。

「……あぁ、雲雀君ねえ〜、言ってくれればいいのに〜。雲雀君のお口に合うと良いんだけど! 音羽、ちゃんと感想聞いてきてね!」

「え、ちょ……! まだ何も言ってない!」

「はいはい、いいのいいの! 早く行きなさい、雲雀君を待たせるんじゃないわよ! 気を付けてね!」

「えぇ……」

 そうとも違うとも言わないうちに母にバシン! と背中を叩かれ、音羽はそのまま玄関まで押し出されてしまった。

 母の勘というものは本当にすごい……。鞄とお弁当袋を持って靴を履きながら、音羽はしみじみと感じ入る。というのも母の推察した通り、もう一つのお弁当は雲雀のために持って行くものだったからだ。


 音羽が休日、しかも争奪戦の終わった翌日に並中に行く理由は一つしかない。もちろん、雲雀がそこにいるからだ。
 彼は昨夜の戦いで更に損傷してしまった校舎を隈なく点検するらしく、今日は朝から夕方まで学校で作業に当たるらしい。

 だから音羽もその手伝いをしたくて、こうしてお弁当持参で並中に行こうとしているのだ。本当は自分で作ったお弁当を持って行きたかったけれど、さすがに疲れすぎていて無理だった。

 ――お母さん、感想聞いてきてって言ってたけど……。雲雀さん、なんて言うかなぁ……。

 音羽はぼんやりとその場面を想像してみたものの、結局上手く出来なかった。音羽にとって雲雀と母親の組み合わせは、まだまだ大変未知なものなのだ。

「……!」

 そんなことを考えながら、靴に踵を入れるため身体を傾けたとき。――不意に首から、鈍色のチェーンがぷらりと飛び出て、音羽はつい目を見開いた。


 ボンゴレリング。今朝、チェーンに通された状態で封筒に入れられ、ポストの中に置かれていたのだ。失くしたら困るので、早速首につけている。

 白い石の嵌め込まれたこの指輪を見ると、昨日までの恐ろしい激戦の日々が全て現実で、けれどもう全て終わったことなのだと改めて実感した。

 音羽はほっとして、それを再び制服の中に戻す。後ろを振り返ると母はもうリビングの方に行ってしまっていて、玄関には誰もいない。

「……行ってきます」

 音羽は微笑みながら小さく呟き、ドアを開けた。

 外に出ると清々しい朝の光が、眩しいくらいに瞳の中に入ってくる。空気は秋らしい静かな冷たさで、でもそれがとても心地いい。

 音羽は久々に足取り軽く歩きながら、雲雀のいる並中に急いだ。






 午前十時。
 休日の校内には、忙しなく動き回る風紀委員たちの姿があった。彼等がここにいるのは他でもない、雲雀が草壁を通じて招集したからである。

 そして雲雀の命のもと、彼等は校舎の破損状態のチェック、清掃で済む程度の損害ならばその清掃など、各々作業に取り掛かっていた。だがそれはあくまで、幻術で補われていない程度の汚破損が対象だ。

 最も損壊のひどい体育館や守護者戦のフィールドになった場所は、今もチェルベッロ機関の術士の幻術がかかっており普段通りの景色だけが見えている。そのため風紀委員たちは特に混乱することもなく、軽度の汚破損の対処に当たっていた。


 そして一方の音羽といえば、応接室の窓拭きをしている真っ最中だ。

 ここはどの守護者戦のフィールドからも離れているので、そこまでの被害は受けていない。が、グラウンドから飛んできたらしい土埃が窓にびっしり付いていて、窓の向こう側はぼんやりと曇っていた。

「わ、こっちもすごく汚れてる……。土と砂だらけ……」

 ガラ、と窓を開けた音羽は思わず独り言ちた。ガラスもさることながら、サッシ部分もひどいものだ。雑巾でごしごし擦ると、すぐ砂でザラザラになってしまって拭けなくなる。

 音羽はもう何度目か、近くに置いてあるバケツの側に屈んで雑巾を洗った。水が揺れると、バケツの底に沈んでいた砂がサラサラと中で踊りだす。

「――音羽さん」

「!」

 夢中で手を動かしていたら不意に上から声が降ってきて、音羽は顔を上げた。見れば、眉尻を下げた草壁がバケツの向こう側に立っている。

「疲れていませんか? よければ自分一人でも出来るので、休んでいてもらっても大丈夫ですが……」

「草壁さん。いえ、大丈夫です、そんなに大変な作業でもないですから……」

 音羽と同じく、応接室の窓ガラス清掃担当である草壁に微笑んで答えると、彼は「そうですか? 無理はしないでくださいね」と苦笑しながら言ってくれた。

 いつも細やかな気配りをしてくれる草壁にお礼を伝えたあと、音羽はまた窓ガラスの方へ戻る。その途中ちらと、机に向かっている雲雀を盗み見た。


 雲雀は音羽がここに来たときと同じように、机に向かって何やら書類を書いている。草壁と話しているのを聞くに、校舎のどこが壊れているのか情報をまとめているようだ。

 校内はチェルベッロ機関が修繕するとは言っていたが、それが本当に全て直っているか、彼は最終的に自分の目で確認するつもりなのだろう。雲雀が何時からここに来ているのかは分からないけれど、普段と変わらない顔色を見ると体調は良さそうだ。

 よかった、と安堵していると、ふと。執務机の隅に銀色に光る指輪――雲のリングが無造作に置かれているのを見つけた。

 どうやら雲雀の元にも届いたらしい。雲戦のときはリングを捨てていたけれど、今度はちゃんと持っているようだ。

 音羽は自然と微笑んで雲雀の様子を見守り、今度こそ作業に戻る。再び窓を拭いて砂を落とし、サッシに溜まった塵を集める――そうしているとガラスの向こう、広がる青空のなかに、小さな黄色い影が見えた。

 パタパタとこちらに飛んでくる姿は――。

「オトハ、オトハ!」

「! ヒバード!」

 音羽が気付くのと同時に、黄色い小鳥――ヒバードは音羽の名前を呼んで窓の外でくるくる回る。

 どこかお出掛けしていたみたいだけれど、音羽たちがせっせと窓拭きしている様子を見て、何か面白いことでもしていると思って戻って来たのかもしれない。普段ならすんなり室内に入ってくるのに、ヒバードは窓の上の方で飛び回っている。

「あ、ヒバード! そこはまだ拭いてないからダメだよ、汚れちゃう……!」

 音羽は窓際を飛んでいるヒバードに、思わず声を掛けた。音羽の身長では窓の上と真ん中らへんは拭きにくくて、まだかなり汚れが残っているのだ。

 でもヒバードはそんなこと分からないし、余程窓拭きが気になるのか今日は手を伸ばしても下りて来てくれない。捕まえようにも手が届かなかった。

 ――どうしよう……。このまま放っておいたら、ヒバードのふわふわの毛が埃まみれになっちゃう……。

 黄色くて柔らかいあの羽が、砂色になってしまう所を想像して音羽は頭を悩ませた。
 ……けれど、数秒後。

「……、そうだ……!」

 音羽は“ある物”の存在を思い出して、ぽんと小さく手を叩く。そして応接室の隅にひっそりと置かれていた、折り畳みのパイプ椅子を取ってきた。これに登れば、きっとヒバードにも手が届く、はず。

「よいしょっと……。ヒバード、おいで!」

 音羽は上履きを脱いで椅子に上がり、ヒバードに向けて手を伸ばした。すると、音羽の反対側から窓を拭き進めていた草壁が、ぎょっとしたような声を出す。

「音羽さん……!! 何をしているんですか……!? 危ないので降りてください!」

「あ、草壁さん……。でも、ヒバードがまだ汚れてる窓の側を飛ぶんです……。このままじゃヒバードが埃まみれになっちゃいますし……」

 言うと、どこか必死な顔をした草壁は首を横に振りながらこちらに歩いて来た。

「いえ、いけません! ヒバードは自分が捕まえます、あなたに何かあれば――」

「――草壁哲矢。それ以上前に進んだら咬み殺すよ」

「――っ!」


 唐突に草壁の言葉を遮ったのは、それまで黙々と作業していた雲雀だった。やけに殺気立ったその声音に、草壁は瞬時にピタリと足を止める。

「?」

 ――どうしたんだろう、雲雀さん?

 苛立っている……のだろうか。刺のある声の理由が分からなくて首を傾けていると、雲雀が椅子から立ち上がった。

 彼はつかつかと足早にこちらに歩いて来て、音羽の足の先から頭のてっぺんまでじっと視線を滑らせる。

「……? あの、雲雀さん……?」

「音羽、早くそこから降りなよ」

「? でも、ヒバードが……」

 困惑して答えると、雲雀は呆れたようにはぁ……と溜息をついた。

「スカート。見えそうになってる」

「!」

「……えっ!!」

 その言葉を聞いた途端草壁の顔が赤くなり、音羽も雲雀の言葉の意味がようやく分かって思わず声を上げた。ボッと頬が、尋常ではない熱さになる。


 雲雀がまじまじこっちを見ていたのは、スカートの中が見えそうになっていた……から。だから、草壁がこちらに来るのを止めたのだ、たぶん。いや、間違いなく……。

 真っ赤になってフリーズしていると、雲雀は音羽を一瞥して窓際の方に歩いて行った。彼は外に手を差し伸べて、ヒバードを呼ぶ。

「おいで」

「ヒバリ、ヒバリ!」

 ヒバードは雲雀の姿を見つけると、今度はパタパタと素直に下りて来た。彼の指先に、可愛らしい仕草でちょこんと留まっている。

「……う……」

 我に返った音羽はすぐさま椅子から飛び降りて、まだ熱い顔を隠すべく俯いた。

 雲雀に一番懐いているヒバードが、彼の言うことを素直に聞くのは理解できる。でも今は、そんなことよりも――。

「…………」

 ――は、恥ずかしい……。でも、『見えそう』ってことは、見えてはない……はずだよね……?

 ちら、と目線だけを上げて雲雀を見ると、彼はいつもの無表情でヒバードから音羽に視線を移した所だった。それと同時に、ヒバードが雲雀の指先から彼の頭の上にふわっと着地している。


 ……雲雀の呆れた視線が、肌に痛い。

「君、いつも無防備過ぎ。もう少し考えて行動した方が良い。彼を呼ぶなら僕に言いなよ」

「……はい……、すみません……」

 普通にお説教されてしまった。
 ヒバードが埃まみれになるのを防ぎたくて、必死だったのだけど……。雲雀や草壁のいるところで、はしたない行動を取ってしまったのは確かだ。

 項垂れる音羽を見たあと、雲雀は息を付いて踵を返した。そして椅子に戻る途中で草壁を見て――すぐに、苛ついたように眉を寄せる。

「……草壁哲矢……。なぜ君が顔を赤くしているんだい」

「っ! い、いえ……! そんなことはありません!」

 雲雀に睨まれた草壁は、まるで蛇に睨まれた蛙よろしく一瞬で青褪めた。そんな彼に、雲雀はつっと目を細めている。

「ふぅん、そう……。まあいい、次はないよ」

「は、はい……」

 今度は草壁が項垂れながら返事した。彼がいつも咥えている葉っぱまで、心なしか萎れているように見えてしまう。

 ――ごめんなさい……草壁さん……。

 自分の不注意で、彼を巻き込んでしまったのが申し訳ない。音羽は心の中で謝って、そして椅子に座り直した雲雀の横顔をそっと見た。


 雲雀がこちらを見る素振りは、たぶんなかったように思う。視線も感じなかったし、彼はずっと書類の方を見ていたはずだ。

 ――雲雀さん……なんで気付いたんだろう……。

 きちんと上履きを履き直しながら、音羽はつい首を傾げる。……ひょっとしたら、自分が気付かないうちに雲雀は気に掛けて見ていてくれたのだろうか。

 そう思うと少し嬉しい。でも、これからは気を付けよう……。音羽はまた一つ心に留めて、パイプ椅子を元の場所に戻した。







 午後十二時四十五分。

「――では、一時間後に再開するよう他の者にも伝えてきます」

 校内に散らばっている風紀委員たちの作業状況を確認して戻った草壁は、雲雀に報告を済ませてそう言うと、一礼してまた応接室を出て行った。彼はこれから、部下たちに昼休憩の伝達を行うのだ。

 静かに扉が閉まり、音羽は壁に掛かっている時計をちらと見上げた。そろそろ自分たちも、昼食にしていい時間だ。……ただ、音羽はまだ机に向かったままの雲雀に視線を移す。


 彼はさっきと同じように書き物を続けていて、書類に滑らかにペンを走らせていた。
 集中しているみたいだから、声を掛けるのが躊躇われる。彼の作業の区切りがつくまで待っていようかな。

 そう思って視線を逸らそうとしていたら、雲雀がちょうどゆっくりと顔を上げた。

「何?」

「あ……、そろそろお昼にしないかなぁと思ってたんです。でも、雲雀さんのキリの良いタイミングまで待てるので、大丈夫ですよ」

 微笑んで答えると、雲雀は自分の手元を少し見つめてから、再び視線を上げる。

「……じゃあ、あと少しで終わるから、その辺で待ってて」

「はい!」

 音羽は頷いて、彼の視線に示されるまま革張りのソファに座った。すると、ヒバードが可愛い声で鳴きながらこっちに飛んでくる。手を伸ばすと、今度はちゃんと音羽の手の平に留まってくれた。

「ふふっ、可愛いねヒバード。羽が汚れなくてよかった」

 温かい気持ちになって、音羽はヒバードのふわふわした体を指で撫でる。ヒバードはつぶらな瞳を気持ちよさそうに閉じて、音羽の指にすりすりと顔を寄せてきた。その愛らしい仕草にまた胸を鷲掴まれながら、音羽がはぁ……と感嘆の溜息をついたときだ。

 ――♪〜

「……?」

 側に置いてあった音羽の鞄の中で、携帯が鳴った。電話の着信音だ。手元に鞄を手繰り寄せると、ヒバードはパタパタ宙を飛んで音羽の頭の上にちょこんと載る。

 ヒバードをそのままに、音羽は鞄の中から携帯を取り出してディスプレイを確認した。

「誰だろう?」

 そこに表示されていたのは、知らない番号だった。でも、何か急用だったら困るし……首を傾げながらも、取り敢えず出てみようと思って通話ボタンを押す。

「……もしもし……」

 小声でそっと応えると、

『……あ! もしもし、片桐?』

「! 沢田君!?」

 電話の向こうから聞こえた声は、なんとツナだった。まさか彼から電話がくるなんて思ってなくて、つい大きな声を出してしまう。

『ごめん、急に電話して……! 連絡網見て家かけたら、出掛けてるって言われて……。家の人に片桐の携帯の番号教えてもらったんだ』

「そ、そうだったんだ……! ごめんね、何度も電話させちゃって……」

『ううん、気にしないで! それより片桐、今日の十四時頃から空いてないかな……?』

「十四時……? 何かあるの?」

『うん! 実は今日、昨日の祝勝会をやることになったんだ。よかったら片桐も来ないかなあと思ってさ……。ほら、片桐が来れば皆喜ぶから』

「……祝勝会?」

 いつもより弾んだツナの声に、音羽は首を傾けた。

『そう、一応ヴァリアーに勝てたし、そのお祝いってことで。表向きは相撲大会の優勝とランボの退院祝いなんだけど……。山本の寿司屋でやる予定だから、もし時間があったら来てくれないかな……?』

「そうなんだ……! すごく楽しそう……!」

 これまで参加したことはないけれど、きっと賑やかに盛り上がるんだろうなあ。想像して、音羽は思わず頬を緩める。


 七日七晩の戦いを終えてヴァリアーに勝利できたのは、間違いなく皆の力があったからこそ。音羽がヴァリアーに行く件も白紙になったし、これからも雲雀と一緒にいられる。
 それらの喜びを分かち合える人たちがいるのは、本当に素敵なことだ。

 今まで大人数でお祝いするようなイベントにも参加したことがないし、たまにはそういう集まりにも行ってみたいなあ……と、思う。けど……。

「……」

 音羽は俯いて、少しのあいだ考えた。どう答えようか言葉を探し、やがて、携帯に向かって声を発そうとしたそのときだ。


「あっ……!」

 パッ! と突然手から携帯をもぎ取られ、音羽はびっくりして声を上げた。ヒバードも驚いてしまったのか、音羽の頭の上から離れパタパタとどこかに飛んで行ってしまう。

 慌てて横を振り向けば、そこには雲雀が。

 彼はソファの側に立って、音羽から取り上げた携帯を耳元に当てている。

『あれ……? あの、片桐? 何かあった?』

「……沢田綱吉、」

『えぇっ!? ひ、雲雀さん!? どうして雲雀さんが……!?』

 明らかに不機嫌そうな雲雀。怯えて戸惑ったツナの声が、電話の向こう側からここまでハッキリ聞こえてくる。
 
 雲雀は眉間に皺を寄せ、いつもより数段低い声で言った。

「祝勝会なんて群れの中に音羽は行かせないよ。くだらない誘い、しないでくれる」

『え、あの……!』

「じゃあね」

 ――ブチッ!

 雲雀は困惑し通しのツナに構わず、そのまま強引に電話を切ってしまった。


「ひ、雲雀さん……」

 音羽は余りのことに呆然としながら、彼を見上げて目を瞬かせた。すると雲雀はムスッとした顔で音羽を見下ろし、携帯をこちらに返してくれる。

「音羽……。僕の目の前で他の男と堂々と電話するなんて、いい度胸だね」

「! で、でも……それは、電話が掛かってきたから……」

 携帯を受け取りながら、音羽は思わず俯いた。

 雲雀の刺すような鋭い視線が痛いというのもあるけれど……、何よりツナに申し訳なかったのだ。何度も掛けてくれたのに、そのお礼も誘ってくれたお礼も言えてない。

 
 ――祝勝会の件は、雲雀に言われなくても断るつもりだった。

 もちろん行ってみたい気持ちはあるし、皆とお祝いできたら嬉しい。
 でも、雲雀がその集まりに行かないことは誰がどう考えても明らかで、そのうえ音羽一人で行くと言っても、雲雀は嫌がるに決まっている。

 そんな雲雀を置いて自分だけ参加しても、きっと心から楽しめない。

 だって、音羽が一番に一緒にお祝いしたいと思うのは、雲雀なのだから。


 だから、雲雀が勝手に祝勝会を断ったのは大きな問題ではなかった。ただ、わざわざ二度も電話して誘ってくれたツナを思うと居た堪れない。

 ――でも雲雀さんの前じゃ電話できないし……、今日はもう沢田君も祝勝会に行くだろうから、明日学校で会ったら謝ろう……。


 俯いて、そう思っていると。

 ――ギシ。

「!」

 雲雀の片膝がソファに載って、音羽は軋んだその音にハッと顔を上げた。


 見上げれば、雲雀はさっきより更に険しく眉を寄せてこちらを見下ろしている。――『面白くない』。細められた彼の青灰色は、不機嫌そうに言っていた。


「あの、雲雀さん……? っ!」

 おずおず彼の顔を覗き込んだら、雲雀はソファの背凭れに手をついて距離を詰めてくる。まるで、逃がすつもりはないとでも言うように。
 ソファの片側に閉じ込められて、雲雀が近くて。音羽の頬が反射的に熱を持つ。

「……音羽」

「……は、はい、」

 狼狽えて視線を落としていると、雲雀に顎を押さえられて上を向かされた。目が合えば、瞬きもしない切れ長の瞳に見つめられる。

「君、もしかして草食動物に誘われた祝勝会に、行くって答えるつもりだったの?」

「! ち、違います……!」

「……ふぅん、本当かな?」

 即答して首をぶんぶん横に振ったが、雲雀はなおも疑わしげな眼差しを遠慮なくこちらに投げてくる。唇を硬く引き結んだ彼は、どうやら信じてくれてないらしい。

 この手のことになると、雲雀は自分が納得いくまで追及をやめてくれないのだ。これまでの経験からそれを理解している音羽は、雲雀を見てから視線を落とし、正直にゆっくり口を開いた。

「本当です、……元々、沢田君の話は断るつもりでした。雲雀さんは祝勝会なんて絶対行かないですし……。私一人だけで行っても、きっと楽しめないと思って……」

「……どうして?」

「どうしてって……」

 尋ねられて目線を持ち上げると、彼は怪訝な顔で音羽を見ている。

「草食動物の話を聞いたときは、あんなに嬉しそうな顔してたじゃない。なのに、どうして?」

「……それは……」

 雲雀は、音羽の口から『楽しめない』という言葉が出てきたのが意外だったみたいだ。純粋な疑問が彼の目に浮かんでいる。

 確かに、音羽は雲雀のように“群れる”ことに自体に抵抗はない。だから、祝勝会をすると聞いたときは楽しそうだと思ったし、皆の集まりに誘ってもらえたことも嬉しかった。

 でも――それでも断ろうと思った理由。
 それを口にするのは、音羽にとって少しだけ勇気がいった。

 言っても何も問題はないことだし、雲雀のこの不機嫌さに拍車をかけることもないと思う。

 ただ……雲雀がムスッとしているときに、素直に自分の気持ちを伝えるのが恥ずかしいのだ。何だか、場違いみたいだから。

「ねぇ、答えなよ」

 口籠って視線を彷徨わせていると、頭上から低い声がした。促す、よりも強い、命令にも似たその響きについ顔を上げてしまう。

 そして、残夜の色をした吸い込まれそうな彼の瞳に見つめられると、もう音羽は彼に従うほかなくなるのだ。

 頬の赤みが増すのを感じながら、音羽は膝に載せた両手を握りしめる。

「……雲雀さんと、これからも一緒にいられることをお祝いしたいんです……。だから、雲雀さんがいないと意味がないから……断る、つもりでした……」

「…………」

 小さな声で、嘘偽りない自分の気持ちを伝えた……ものの、雲雀からは何の答えも反応も返ってこない。静かな沈黙が部屋に流れる。

 それがまた恥ずかしくて、けれど雲雀がどんな顔をしているのかも気になって。音羽はそろそろと上を見上げた。

 
 雲雀は、ほんの少し目を瞠っている。もしかして、呆れられた……? 根拠もなく漠然とした不安を感じていると、不意に雲雀の手が伸びて音羽の頬を包み込んだ。

「!」

「……君って、ほんと馬鹿正直」

「っ……」

 雲雀はふ、と微笑んで言いながら、音羽のほっぺたを緩く摘まんだ。

 その顔がすごく優しくて、胸が跳ねてしまう。さっきまでの刺々しさはどこにもない。
 ドキドキして、心臓がうるさくて、それなのに雲雀の優しい表情を見られるのが嬉しくて。目が離せず、惚けていると。

「行くよ、音羽。何ぼーっとしてんの」

「……え、えっ?」

 雲雀は頬に触れていた手を放し、今度は膝に載せていた音羽の手を掴んだ。立ち上がった彼に、そのままソファから引き起こされる。

「お昼。君と、早くゆっくりしたくなった」

「……! は、はいっ……!」

 雲雀がソファに置いてあったお弁当袋を掴んだので、少し混乱していた音羽も理解した。

 音羽も同じだ。雲雀と一緒にいられたら何だって嬉しいけれど、それでも彼が自分を見てくれる時間はもっともっと嬉しくて、いつもとても幸せだから。

 綻んだ顔で大きく頷くと、雲雀はまた小さく笑った。手を繋いだまま応接室を出て、二人は誰もいない廊下をいつもより少しだけ早足になって歩いたのだった。







 午後十三時三十分。

 水筒のお茶を飲みながら、音羽は屋上の澄み切った青空を見上げてほぅっと息を付いていた。綺麗な空も、心地いい風も、隣にいてくれる雲雀も。何だか贅沢だと思ってしまうほど、幸せに溢れている。

 水筒の蓋を締めながら、音羽は隣に座っている雲雀を振り返った。彼もお弁当を食べ終えて、いつものように欠伸している。

「そういえば雲雀さん、お弁当どうでした? 母から感想を聞いてきてって、言われてるんです」

 音羽が顔を覗き込むと、雲雀は眠そうな目を上げて音羽を見た。

「うん、美味しかったよ。見た目もきれいだったし」

「ふふっ、良かったです。母が喜びます」

 音羽は微笑んでお弁当箱を片付けた。

 雲雀の感想はいつものようにシンプルだけれど、それはお世辞ではない証拠だろう。よかったよかった、と思いながらお弁当箱を袋に仕舞う。

「でも、やっぱり君の手作りの方がいい」

「!」

 何気ない様子で呟いた雲雀に、音羽は目を見開いた。驚いて彼を見ると、不思議そうな顔で見返される。

「何?」

「あ……いえ、何でも……」

 雲雀の反応から、それが彼の“ごく自然に出た本心”なのだと伝わって、慌てて首を振った。

 ちょっとだけ気恥ずかしいけど、彼の気持ちが素直に嬉しい。音羽はにっこり微笑んだ。

「また今度、作ってきますね」

「うん」

 雲雀は頷くと、ややあってまた一つ欠伸をする。その横顔はいつもより眠そうだ。

 昨日の大空戦が終わったのも深夜だったのに、いつも通りの登校時間には来ていたのかもしれない。音羽はお弁当袋を脇に寄せ、雲雀の表情を窺い見た。

「雲雀さん、お昼寝しますか? よかったら、膝どうぞ」

「……うん、そうさせてもらうよ」

 雲雀は言うと、音羽の膝の上に頭を載せて目を閉じる。サラサラした彼の黒髪が、少しだけくすぐったい。

「……」

 ――やっぱり、雲雀さんの寝顔は綺麗だなぁ……。

 何度見ても慣れない彼の寝顔は、見るたびにドキドキしてしまう。

 穏やかに瞼を下ろした雲雀を見つめながら、音羽は自然とリング争奪戦が始まる前の――あの平和な一日のことを思い出していた。


 あのときも屋上で、雲雀にこうして膝枕をして、ものすごくドキドキしていた。雲雀と付き合えたことがまだ信じられなくて、彼と過ごす何気ない時間でさえ、どこか夢みたいだと思っていたのだ。

 初めて彼を見た瞬間から恋に落ちて、憧れて。優しいところも強いところも、知れば知るほど彼の全部が好きになった。

 雲雀を思う気持ちは全く変わらない――というより寧ろ、以前より強さも大きさも増している。樹が土深くに根を張るように、心の深いところにまで彼がいるような気がするのだ。リング争奪戦という恐ろしい戦いを乗り越えて、流れた時間以上の時を雲雀と過ごしたようにも思う。


 あの時より今の方が、ずっとずっと雲雀に近い。
 きっと、彼にとってもそうだと思う。それはすごく、幸せなことだ。


「…………」

 音羽は微笑んで、雲雀の端正な寝顔を見下ろした。
 
 ……もし、これからも雲雀と一緒に時を重ねていったなら。
 そのときは今よりもっと、彼の近くにいられるだろうか。


 ――今はまだ、この先のことなんて何一つ分からない。ただ、いま感じているこの幸せだけで、音羽の胸は一杯だった。


「……何……?」

 眠気でくぐもった声が下からする。雲雀は薄っすら瞳を開けて、ぼんやりとこちらを見ていた。やっぱりどんなに眠くても、雲雀は気配に敏いらしい。

 音羽は彼の眠気をどこかに飛ばしてしまわないように、静かな声でそっと答えた。

「ごめんなさい……、幸せだなぁと思ってたんです」

「……幸せ……?」

「はい。雲雀さんとの距離が前より近くなったなぁと思ったら、嬉しくて」

「……ふぅん」

 雲雀は目を細めると、ゆっくりと手を伸ばした。

 彼の指が音羽の頬に柔らかく触れて、顔に掛かっていた髪を耳に掛けてくれる。

 優しく、愛おしんでくれるような手つき。思わずとろんとしていると、雲雀の手が後頭部に回された。そのまま後ろから緩く押されて、音羽の身体は前屈みに。


「! んっ……」

 肘をついて上体を起こした雲雀に、下から唇を奪われた。

 突然のキスに驚いたけれど、彼のあたたかな唇が気持ち良い。身体から力が抜けて、でも心臓だけはバクバクと高鳴って、すぐに息が苦しくなる。


 食むようなキスを繰り返し、雲雀はやがてゆっくりと離れた。鼻先が触れる距離で、彼の青灰色の瞳と視線が絡む。

「君は、これくらいで満足? ……僕は、まだ足りない」

「雲雀、さん……」

 雲雀は少し掠れた声で言うと、またこちらに顔を寄せた。緊張で上擦った声が出て、雲雀に小さく笑われてしまう。微笑した彼の吐息が唇をくすぐった。


「もっと、僕の側に来ればいいよ」


 静かで優しいその声は、キスと一緒に与えられた。


 だから、やっぱり強く想ってしまう。

 もっともっと、彼に近付きたい。頬の熱が高く、心臓の音が早くなるのに合わせて、心を占める気持ちも大きくなった。

 
 これから過ごす時間のなかに、いつまでも彼がいますように。ずっとずっと、同じ時間を重ねていけますように。

 心の奥から望む願いは、あたたかく胸の中に広がる。――それは、この澄み切った空みたいに、透き通った色をしていた。


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