39話 タイムリミット
合流した山本と獄寺は、体育館の正面入り口に辿り着いた。重々しく閉まっている扉を、獄寺がぜぇぜぇと喘鳴を繰り返しながら開け始める。
「急がねーと、毒の致死時間の三十分が経っちまう……! ――っ開いた! 行くぞ、山本!」
「ああ!」
残り時間は、もう十分も残されていない。クロームと、そして音羽を救うべく、二人は急いで体育館に乗り込んだ――が。
「!! ポールが……!!」
「どうなってやがる!!」
まず目に飛び込んできたのは、既に薙ぎ倒されて体育館の床に転がった巨大なポール。
霧の守護者であるクロームもいなければ、マーモンの姿も見えない。ここにあるはずの霧と天のリングも、二人の目では見つけることが出来なかった。
「リングとドクロはどこ行きやがった!?」
「――こっちこっちー」
「「……!!」」
獄寺が声を上げたあと、どこか間延びした声が体育館に響く。山本たちは声のした方を振り返り、そして息を呑んだ。
そこにいたのは両腕を真上に縛られ、身体を吊るされたクロームだった。彼女の腕をぐるぐると縛り上げた麻縄は、体育館二階の鉄柵に括りつけられており、地に足の付かないキツい体勢に彼女は顔を顰めている。
頬を上気させ息を上げているところを見るに、まだ解毒はされていないようだ。
「お前たちの持つリングを渡してもらおうか」
「さもなくば、この女は皮を剥がされ惨い死に方をするよ」
「なっ……!」
クロームの傍らで彼女にナイフを突き付けるベルと、解毒済みらしく彼女の足元に真っ直ぐ立ったマーモンが脅してくる。獄寺は眉を寄せた。
「ふざけんじゃねぇ!! そんな安っぽい手に引っ掛かると思ってんのか!?」
「オレらを誰だと思ってんの? 暗殺部隊のヴァリアーだぜ。殺しにおいては――嘘はナッシング」
「あ……」
ベルは言いながら、クロームの頬に向けていたナイフをその肌にそっと宛てがう。と、プツリと切れたクロームの頬から、赤い血液が一筋流れ落ちた。
「っ、やめろ!! きったねえぞ……! リングを渡したところで、ドクロを解放するつもりもねーんじゃねぇのか!?」
「信じる信じないは自由だけどさ……。グズグズしてっと、ひんむく前に毒で死ぬぜ」
「っ、くっそ……っ」
口元に弧を描いて答えるベルに、獄寺が歯噛みする。
――どうする……。
山本もこめかみに汗が伝うのを感じながら、頭の中で打開策を練ろうとした、とき。
――コツ、と後方から不意に聞こえてきた靴音。二人が振り返る前に、真向かいにいたベルはいち早くその存在に気付いたようで、どこか楽しげに笑いだす。
「しししっ、来ると思ってたぜ、エース君。ご丁寧に音羽まで連れて来てくれて、ご苦労さん」
「「! 雲雀!!」」
振り返った山本と獄寺は、同時に声を上げた。そこには雲雀が、やはりぐったりした音羽を抱えたまま、険しい顔をして立っている。
しかし、明るい所で見ると雲雀本人の顔色の悪さも顕著だった。肌は青白く、止血のために巻いている腕の布は、傷口を中心に赤黒く染まっている。
ただ、雲雀のその瞳だけは、まるで今にも獲物に飛びかかりそうな肉食動物のように爛々と鋭い光を帯びていた。
「おい、雲雀……」
すぐにトンファーを取り出しかねない雰囲気の彼に、山本は思わず制止するように声を掛ける。が、雲雀はこちらには目もくれず歩みを進め、やがて敵の手前で足を止めると真っ直ぐベルを睨み付けた。
「その天のリング、さっさと渡しなよ」
「しししっ……エース君、状況分かってる? 今音羽を救えんのはオレだけなんだぜ? お前が音羽をこっちに寄越しな」
「断る」
「!」
斬り捨てるように即答した雲雀に、ベルが唇を引き結んだ。すると、横にいたマーモンがふわりと宙に浮きあがる。
「ふん、そいつはボスへの手土産だ。こっちだって死なれたら困るからね。その女を先に渡すかリングを渡すか……出来ないと言うのなら、こっちの女には死んでもらうよ!」
マーモンはそう言うと小さなその手を向かい合わせ、ギュッと中心に寄せていく。その動きに併せて――クロームを縛っている縄がギリギリと軋み、彼女は苦しげに呻いた。
「ドクロ!」
獄寺が声を上げるが、雲雀はクロームを一瞥しただけ。表情一つ変えずに、彼はまたベルに視線を戻す。
「その女をどうしようが僕には関係ない。君たちの好きにすればいい」
「おい、雲雀――!」
「――でも」
雲雀は冷え切った声で獄寺を遮ると、抱えていた音羽を自分の後ろの床にそっと下ろした。再び立ち上がった彼は何処からともなくトンファーを出して構え、目の前の獲物を静かに見据える。
「リングを渡さないと言うなら、君たちは咬み殺す」
眉間に深い皺を刻んだ雲雀から、ぶわりと殺気が溢れ出た。こちらまで鳥肌が立ってしまうような――強く、冷たい殺意だ。今の雲雀なら加減などしないかもしれない、そう思ってしまうほど。
だが、常人なら冷や汗が止まらないこの状況でも、相手は笑みを崩さなかった。
「ししっ、じゃあこいつは殺すしかないな」
「っう……!」
ベルはクロームの頬にナイフを滑らせ、もう一筋傷を作る。クロームの頬からたらりと垂れる血に、獄寺が慌てて身を乗り出した。
「おい待て、雲雀!! 勝手に暴走すんじゃねぇ!!」
「邪魔しないでくれる、獄寺隼人。君から先に咬み殺すよ」
雲雀は自分の方に駆け寄って来た獄寺を睨み付け、牽制するようにトンファーを見せつける。
平生と変わらない涼しい顔をしている雲雀だが、その横顔には僅かな焦燥が浮かんでいた。
「…………」
山本は雲雀を見て――それから、自分の手の中にある雨と雲のリングを見る。
雲雀は、たぶん本気だ。加減するしないというレベルの話ではなく、音羽を救うためなら敵も味方も関係なく打ちのめす――。例えどんな犠牲が出たとしても、そこに躊躇いなどないだろう。
だが、クロームを死なせる訳にもいかないのだ。このまま敵に殺されるようなこともあってはいけないし、見捨てて犠牲にするようなことも出来るはずがない。
山本は、背後の床に倒れ伏している音羽を見た。
――もう時間がねぇ。……これしか……。
一か八か、山本は覚悟を決めて顔を上げ、クロームを捕らえているベルを見据えた。
◇
「――待ってくれ! リングを渡す!」
「「「!!」」」
体育館に響いた山本武の声に、獄寺隼人のみならず敵の二人もぴくりと僅かに肩を揺らした。雲雀も動きを止め、彼の方に視線を向ける。
「オレと獄寺で、お前たちの持つ霧、天のリング以外の全部を持ってんだ」
「おい!! お前、バカか!」
「ただし、」
獄寺隼人が声を上げるが、山本武は片手でそれを制して雨と雲のリングを敵に見せた。
「いっぺんにはやらねえぜ。まずその娘と片桐の解毒と、この雨、雲との交換だ。それが出来たら信用して、残りのリングとその娘の交換に応じる」
「! ……」
『音羽の解毒』。その言葉に、雲雀も思わず目を瞠る。
だが、こちらにとって余りにも好都合な条件だ。音羽が交換対象に入っていない時点で、向こうが納得することはないだろう。
「おいおい、どっちが主導権握ってんのか分かってんの? それに、やっぱり音羽を引き渡す気はないってことじゃん」
「……それは……」
予想通りのベルフェゴールの言葉に、山本武が口籠る。だが、もう一人の――フードの赤ん坊は、意外にも納得したようにふんと鼻を鳴らした。
「ま、でもいいよ、ベル。これでリングは全部揃うんだ。それに、こいつらは全員ボロボロの死に損ないだし……天の守護者を力づくで奪うのも簡単なんじゃない?」
「……しし、それもそうだな」
ベルフェゴールはにんまり笑って、やけにあっさりと頷いた。山本武は必死な表情で雲雀を見ている。
「……雲雀、頼む。ここはもうちょっと堪えてくれ」
「……」
当然釈然としない……が、向こうの思惑に当たりを付けられるほど、考える時間はなかった。
向こうにとって音羽とリングの価値は同等、彼女が死んだら困るのは相手も同じだ。その事実がある以上、一旦はこの状況を受け入れてもいいのかもしれない。少なくとも、その間に相手の手の内を考える時間はできる。
雲雀は眉を寄せて少し考えたあと、渋々トンファーを下ろした。
「サンキューな、雲雀……」
「コラ山本!! お前、何言ってんのか分かってんのか!?」
安堵したように息を付く山本武と、けたたましい獄寺隼人をちらと見てから、雲雀は音羽の側まで下がる。向こうは力づくで音羽を奪うと公言しているのだ、彼女の側を離れない方がいい。
ベルフェゴールが山本武にリングを転がすよう指示を出している間、雲雀は目を細めて敵の二人を観察した。
今の所、おかしな動きはしてない。だが、あれほど音羽に執着していた男が、“音羽を渡さない”という条件をそう簡単に呑むとは、やはり思えなかった。
いくら雲雀や山本武たちが負傷しており、いつも通りの戦闘力ではないとしても、向こうも同じ手負いの身。
加えて二人と、数ではこちらに劣っている。だとしたら、音羽を力づくで奪うようなリスクを取りたくないのが普通だろう。
「――じゃあまず、こっちの女から。音羽はリングが二つ手に入ったら、すぐ解毒してやるよ」
「……妙な真似したら咬み殺すよ」
考えているとベルフェゴールが言って、雲雀は彼を油断なく睨み付けた。彼は「はいはい」と信用ならない返事をして、山本武を振り返る。
「じゃー、せーのっ――ほい」
「そら」
ベルフェゴールの声を合図に、霧の少女――クローム髑髏のリストバンドにリングが差し込まれ、山本武が雨と雲のリングを投げた。が――。
「――!」
“それ”を見つけた雲雀は、息を呑んだ。
リングを転がしたときの、山本武の瞳。
そこには、隠し切れない確かな殺気が浮いていたのだ。雲雀がその意図を察すると同時に、彼は床に落ちていた瓦礫に足を滑らせ前につんのめった――故意に。
険しく目を細めた彼は、もはや隠す気のない敵意を放つ。その肩から刀袋が滑り落ち、山本武は床に手をつく直前にその刀袋を蹴り上げた。――そのときだ。
「!!」
刀袋を突き破って真剣の刃がベルフェゴールに向かって飛び出した刹那、雲雀の背中にビリリと電気のようなものが勢いよく走った。ひやりと冷たい、肉を裂くような鋭利な殺気だ。すぐに頭に、あの男の顔が浮かぶ。
「いだぁ!!」
前方にいるベルフェゴールが悲鳴を上げた瞬間、雲雀は本能に導かれるまま踵を返し、敵がいるのとは反対側に走り出した。
「おい、雲雀!!?」と後ろから獄寺隼人の困惑した声が聞こえたが、足を止めることはない。今一番信頼できるのは、他でもない自分の感覚だけなのだ。
「――っ、そこだね……!!」
雲雀はトンファーを振り上げ、渾身の力を込めてそれを眼前に投げ
◇
「――そんな……! 信じられない、生きていたなんて……!」
突如観覧席に現れたディーノたちを見ると、バジルは驚きを隠せない様子で声を上げた。……無理もないだろう、あの雨戦で、スクアーロは死んだことになっていたのだから。
ディーノは彼らを向き直り、事の経緯を説明する。
「……雨戦の日、部下をB棟に忍び込ませていたんだ。山本を救うためにな……。……だが、水槽に落ちたのはスクアーロだった。かろうじて助け出したが瀕死の重体……何とか腕の立つ医者と、デカい設備のある病院を探して大手術だ」
「! それで、ディーノ殿は雨戦に来れずに……!」
「ああ……。こいつには、何としても聞き出すべきことがあるからな」
バジルに頷き返し、ディーノは車椅子に座ったまま大人しくしているスクアーロを見下ろした。
彼は部下たちに銃口を突き付けられていることも特に気にしていない様子で、ただ視線を上げ――険しい眼差しでモニターを見つめている。
その目に映っているのは、言う間でもなくザンザスだ。ザンザスは痣の浮かんだ顔に、これまで見たことがないような凄まじい殺意を滲ませている。
「――あなたは、スクアーロ!!」
モニターを見ていたら、校舎の上からチェルベッロの一人が飛んで降りて来た。珍しく動揺した声を響かせ、彼女は軽やかに地に着地する。
するとすかさず、Dr.シャマルが口を開いた。
「おい、ねーちゃん。今頃そいつをフィールドに入れるのは、無理があるんじゃねーか?」
「……分かって、おりました……」
「?」
「……ただし、全員観覧席に入ってもらいます」
チェルベッロはどこか歯切れ悪く答えると、それ以上は何も言わなかった。彼女はリモコンを操作して、観覧席を囲っていた赤外線の電源を一時的に切る。
スクアーロのこの状態ではフィールドに入った所で何もできはしないだろうが、それでも彼が途中参加にならないことにどこか安堵した。ディーノは部下と、それからスクアーロとともに、観覧席の囲いに入る。
スクアーロはその間もずっと静かに、モニターの中のザンザスを見上げていた。彼が言葉を発したのは、そんなときだ。
「いいぞお……その怒りが、お前を強くする……」
「!?」
ずっと黙り込んでいたスクアーロが、呟くように声を出してディーノは彼を振り返った。包帯を免れている唇に、薄い笑みが浮かんでいる。
「その怒りこそが、お前の野望を現実にする力だ。その怒りにオレは憧れ、ついてきた」
「…………」
ディーノは彼の視線を追った。
画面の向こうでは、ザンザスとツナの激しい攻防が続いている。血走った眼でツナの命を燃やし尽くそうとしているザンザスの形相は、恐らく悪魔のそれより恐ろしい。獣か鬼か、紅い瞳は憎悪と怒りに燃えている。
――やがて、ザンザスは銃を振り捨ててツナに殴りかかった。肉弾戦に持ち込んで、直接憤怒の炎でツナを潰すつもりだ。ツナは息を呑み、振りかかってくるザンザスの手を握り合わせて受け止めている。
「っ、あの炎を受けて立つ気か!?」
「だがあの体勢では、零地点突破すら……!」
「終わりだぁ……」
焦燥を浮かべるコロネロやバジルとは反対に、スクアーロがニヤリと笑む。
直後、モニターと校舎の遠方――グラウンドの方から物凄い爆発音が響いてきた。画面は煙のせいか真っ白だ、何も見えない。
ディーノは固唾を呑んで、モニターを見上げた。数秒すると徐々に煙が晴れてきて、一人の人影がぼんやりとそこに映り込む。
「誰かいるぜ、コラ!!」
コロネロの声と一緒に画面に映ったのは。
ザンザスの方だった。
「!! そんな……!!」
「当然の結果だぁ……」
「っ……ツナ……!」
「そう慌てんな。奴の手を見ろ」
ツナの敗北を――想像して、唇を噛んでいると、横にいたリボーンが落ち着き払った声で言った。
手……? ディーノはリボーンの言葉通り画面に目を凝らす。
「……!! あれは……!!」
見開いたディーノの目に映ったのは、ザンザスの両手だ。土と煙の巻き上がるそこに、彼はどこか呆然とした様子で立っている。
――彼の両手は、なんと氷に覆われ凍っていた。
◇
雲雀が投げたトンファーは、何もない空間をまるで矢のように速く飛んでいった。その先には誰もいない。だが、それはただ“見えない”だけだと雲雀は確信していた。
「てめえら、何してんだ!?」
自分と、山本武に対してだろう。背後で混乱したように獄寺隼人が叫んだ、その瞬間。
――ドガッ!!
雲雀が見据えていた先で、大きな鈍い音がした。かと思えば、体育館にベルフェゴールのくぐもった声が響く。
「痛ってぇ……っ!!」
「!」
苦悶に満ちた声と共に前方の景色がぐにゃりと歪み、思った通り彼等三人の姿が現れる。視線だけを後ろに向けると、山本武が刀を向けていたフードの赤ん坊たちの姿は影も形もなく消えていた。
「なっ!? 幻覚!?」
山本武が目を丸くして立ち上がった所で、雲雀は前を向き直る。
トンファーはベルフェゴールのこめかみに直撃したのか、彼は後ろに腰をついて頭を押さえていた。血こそ出ていないものの、状況は金属で頭を殴られたのとほぼ同じ。しばらくはふらつくはずだ、得意のナイフ投げは出来ないだろう。
雲雀は彼等の方へ歩き出しながら、静かに口角を上げた。
「これで納得したよ、君たちがやけに素直に引き下がった理由がね。元から幻覚を用意しておけば隙をついて音羽を手に入れられると思ったようだけど、甘いよ」
「っ……! お前、僕の幻覚を見破ったのか……!? 一体いつから……!」
「殺気を感じたからね。覚えのある気配だからすぐに分かった」
「っ……あいつが刀を蹴ったときか……! でもベルの僅かな殺気を感じ取るなんて……、やはり君は只者じゃないね」
表情の見えないフードの赤ん坊の声は、焦っていた。雲雀はその声を聞きながら、未だ立ち上がれていないベルフェゴールの手元を見る。
彼が頭を押さえている手とは反対側の手に、キラリとリングが光っていた。電球の灯りを照り返して光る白は、間違いない。向こうの連携が取れていない今しか、きっとチャンスはないだろう。
「――それ、もらうよ」
雲雀はもう片方のトンファーを素早く構え、ガシャン! と仕込み玉鎖を出した。駆け出して、一気に彼等と距離を詰める。
「ベル!」
「っ……!」
赤ん坊が叫んでベルフェゴールは顔を上げたが、雲雀の方が速かった。恐らくまだ視点も定まっていない彼の手に目掛けて、雲雀は伸ばした玉座を思い切り振るう。
鎖はリングを持った彼の指に巻きつき、雲雀が手繰り寄せれば勢いでリングが飛んだ。キン、と小さく金属の擦れ合う音がして、小さな輝きが宙を舞う。雲雀はこちらに飛んで来たそれを、しっかりと手に掴んだ。
「ッ、リングが……! それを返せ!」
フードの赤ん坊が舌打ちして、空中に自分の分身を数え切れないほど作り出す。恐らくそれも幻覚だろう。が、それぞれの赤ん坊のフードの中から青い触手が飛び出して、雲雀に向かって伸びてきた。
あれに捕まったら動きを封じられることは、想像に難くない。
「っ……!」
雲雀は触手を既の所で躱し、後方に飛び退いた。地を蹴った勢いで、音羽の側まで後退する。
すると雲雀と入れ替わるように、後ろから獄寺隼人と山本武が走って来た。
「雲雀! 天のリングを、片桐に!」
「早く解毒しろ!」
まるで「自分たちが時間を稼ぐ」、とでも言うように、二人は前に飛び出した。その姿に、雲雀は思わず眉を寄せる。
求めてもいない手助けのようなそれが、ひどく煩わしかった。必要ない、と声を上げたい所だが――、今はそんなことに気を取られている場合ではない。
雲雀は音羽の元へ走った。足を踏み出す、とふらりと視界が揺れて、身体の軸が一瞬ブレる。
「っ……」
少し無理に動き過ぎたか。目の前の景色が霞み、床に横たわっている音羽の姿がぼやけて見えた。しかし、あと少しなのだ。彼女までの距離も、残されている時間も。
雲雀は唇を強く噛みしめ、意識を彼女に集中した。思わず止めていた足を再び動かし音羽の側まで向かって、その傍らに片膝をつく。
「っぅ……」
音羽は速すぎる呼吸の合間に、苦しげに呻いていた。雲雀が側に来たことにも気付いていないのか、瞼を持ち上げる力さえないのか、ぎゅっと目を閉じて眉を顰めている。
雲雀はすぐに、音羽の熱い手を取った。氷さえ瞬く間に溶けてしまいそうな熱だ。
彼女の手首に着けられたリストバンドの凹みに、白く輝くリングを素早く嵌め込む。刹那、プシュッと針の刺さる音がして、音羽の肌に解毒剤が打たれた。
雲雀は、音羽の様子を静かに見つめる。苦しそうな呼吸をする彼女から目を離せず、その姿を見守る時間だけは周囲の音も聞こえなかった。
けれど、やがて――。
「はぁ、はぁ……、っ……」
音羽は荒い息を数回繰り返し、徐々にゆっくりと呼吸し始めた。その顔に長いあいだ浮いていた苦悶の色も、次第に穏やかなものに変わっていく。
大きく肩で息をすると、音羽は睫毛を震わせてようやく目を開けてくれた。
「……雲雀……さん……?」
「音羽……」
まだ明瞭ではない焦げ茶色の瞳が、こちらをぼんやりと見上げてくる。
緩やかに瞬きしながら、変わらず自分を認識できた彼女に。雲雀は心底安堵して、やっと深く息を吐き出した。
◇
「無理しない方がいい。まだしばらくふらつくよ」
「はい……」
音羽が上体を起こそうとすると、雲雀は片手で音羽の手を握り、もう片方の手で背中をしっかりと支えてくれた。彼に握られた左の手のひらに、ひんやりと心地よい鉄の冷たさがある。
天のリングだ。音羽はそれをしっかりと握り締め、彼の手を借りて何とかその場に身体を起こした。
音羽は床に座ったまま呼吸を整え、そっと雲雀を見上げる。
――校舎の中、彼が自分を抱えたままずっと歩いてくれていたことは覚えていた。でも、B棟を出た辺りから記憶が曖昧だ。息がずっと苦しくて身体が痛くて、彼の声もほとんど聞こえなかったと思う。
でも、今自分が
彼は腕も頬も傷だらけで、顔色がとても悪かった。腕に巻かれた止血の布も、もう血の色に染まっている。
こんな状態でここまで音羽を見捨てず運んで、そして命まで助けてくれた雲雀に、音羽はもう何と言っていいか分からなかった。
「ありがとう」じゃ全然足りない。「何も出来なくてごめんなさい」も、胸に湧き上がるこの感情を伝えるにはきっと不十分だ。
もっと、彼の力になりたかった。
けれど、こうしてまた雲雀の顔を見られたこと。無事に、彼とまた話せたこと。
それが何より嬉しかったから、泣いている場合じゃないと分かっていても目には自然と涙が浮かんでしまう。
「……っ、雲雀さん……ありがとうございます……っ」
音羽は手の甲で目元を拭い、ありったけの気持ちを込めて雲雀に伝えた。視線が絡むと、彼は安心したようにふと表情を緩めてくれる。
きっとずっと、すごく心配してくれていたんだ。それが分かると、また胸が締めつけられて心が震えた。
「っ……雲雀さん、腕を見せてください。早く、傷を治さないと……」
音羽は雲雀の方に手を伸ばす。まだ身体は本調子ではないけれど、彼をこのままになんてしておけない。少しでもいいから、自分に出来ることをしたかった。
音羽が、雲雀の手をそっと取ったときだ。
「!」
ドサッ、と背後から物々しい音が聞こえて、音羽はハッと息を呑む。
そうだ――雲雀しか目に入らなくて、周りの状況を確認できていなかったけれど、ここは霧のフィールド。クロームとマーモンがどうなっているのか、音羽は知らない。
「――っ!!」
慌てて後ろを振り返って、音羽は目を見開いた。
眼前には、焦燥している様子の獄寺と山本が。そしてバスケットコートの真下には、縄で腕を縛られたクロームが、ベルとマーモンに囚われてしまっていたのだ。