37話 毒のなか信じる人

「はぁ、はぁ、……っぅ……」

 音羽は荒い呼吸を繰り返し、身を襲うあまりの痛苦に眉を顰めた。
 さっきから熱と痛みで何度も意識が遠退きかけているが、逆にそれが枷になって気を失うことはない。

 いっそ意識がない方が楽かもしれないと思うものの、自分ではどうすることも出来なかった。時間が経つごとに息苦しさもどんどん酷くなっているし、逃れる術は何もない。

 ぼやける視界のなかで自分の乱れた呼吸音だけを聞いていると――不意に、頭上で爆発音がした。

 ドーン、ドーン! と、まるで花火が打ち上がるような――銃声、のような烈しい音が、校舎に反響して届いてくる。

 誰か……近くで戦っている……? 気になるけれど首を動かすこともできなくて、音羽は瞼を持ち上げ手首のリストバンドを見た。


 小さなモニター画面には、ちょうどツナとザンザスの姿が映っている。
 音羽のいる中庭にも面した、校舎の屋上だ。ツナは額と拳にオレンジの炎を灯し、ザンザスは両手に銃を携えて戦っていた。

 上空から聞こえてきたあの爆発音は、きっと彼等の戦う音なのだ。

「ぃ――ッ……!」

 二人の状況を理解したとき、再び激痛に襲われて音羽はぎゅっと目を閉じた。

 心臓が脈打つだけで、身体全体がひどく痛む。これまで経験したことがない痛みと辛さだ、それこそこれが三十分も続いたら、気が触れてしまうかもしれない――つい、そう思ってしまうほど。


 『全身を貫く燃えるような痛みは徐々に増してゆき、三十分で――絶命します』。

 この毒を投与された直後、チェルベッロは言っていた。彼女たちはリング戦のルールに関して、嘘を付いたことはない。きっと三十分という制限は本当だ。……だとしたら。

 ――私……死ぬのかな……。

 朦朧としながら、漠然と考えた。

 こんなところで? 絶対いやだ。
 そう思っても、熱のせいか痛みのせいか、頭がきちんと回らない。ふわふわした夢みたいな、実感のない恐怖だけが朧な胸にひんやり広がる。


 でも――。

 『守護者全員に毒が注入された』と、彼女たちは言っていた。――雲雀もだ。

 彼の顔を思い出すと、痛みに蝕まれることのない音羽の意識がゆっくりと首をもたげる。彼もこの毒に侵されて動けない状態で、自分と同じように苦しんでいる。

 そう思うと、感じている痛みとは違う痛みに襲われた。

 普段の雲雀なら戦闘においてそう簡単に死ぬようなことにはならないと思うけれど、この熱と苦痛は尋常じゃない。さすがの雲雀でも、抗いようがないだろう。すごく心配だ……。


 ただ、音羽も人の心配をしていられる状態ではない。

 誰にも頼ることは出来ないし、自分の身体も動かない。そんななか、どこにあるかも分からないリングを、三十分以内に見つけ出さなければいけないのだ。現在唯一動けているツナも、ザンザスとの戦いで手が回らない様子である。

 ――このままじゃ……、ほんとにみんな死んじゃう……。早く、リングを探しに行かなきゃ……。

「っ……、うっ……」

 身体を起こそうと腕を突っ張る。が、腕が少し動いただけで、上体を持ち上げることさえ出来なかった。

 何とか上げられたのは首だけ。
 何か、身体を支えられるような物が近くにないだろうか……? 音羽は辺りを見回してみる。


 ――視界に入る範囲に、音羽が求めているようなものはなかった。
 景色は変わらず中庭だ。けれど、さっき立っていたはずの所と位置が変わっていて、音羽はいつの間にか中庭の端の方に移動している。

 自分で動いた記憶はないから、誰か――ああ、ツナの声が聞こえた気がするから、彼が安全そうな方へ移動させてくれたのかもしれない。そう思っていたら。


「……!」

 あるものが視線の先に留まって、音羽は目を見開いた。

 音羽の倒れているここから数メートル先に、あの大きなポールが聳え立っている。中庭――だから、たぶん嵐のポールだ。

 ――もしかしたら、あの上に天のリングがあるかもしれない……!

 可能性は、六分の一。今の状況では期待し過ぎない方がいい確率かもしれないが、それでも諦めることはできなかった。

 音羽は身体を起こそうと、もう一度腕に力を込める。手のひらを地面につけて、肘を持ち上げる、震えて少し持ち上がった、けど。すぐにバタン! と地面に落ちてしまった。

「……っ……」

 音羽は唇を噛んだ。ちょっと動いただけで、こんなに疲れてしまうなんて。


 目を閉じると、真っ暗な闇の中に雲雀の姿が仄明るく浮かんだ。彼はいつもそうであるように、音羽の記憶のなかで不敵に、優しく微笑んでくれる。――だから、まだ諦めない。

「……雲雀……さん……」

 勇気をくれる彼の名前が、息と一緒になって掠れ出たとき。

 ――ドオオォン!!!

 どこか……少し遠くの方で、これまでにない大きな爆発の音が聞こえてきた。







 空中で逆さに浮かんだ不安定な体勢で、ツナは苦々しく眉を寄せた。

「――っ……!」

 今しがた、ザンザスの凄まじい銃撃を受けた体育館を振り返る。ツナが咄嗟に彼の攻撃を引きつけたものの、体育館の屋根の一部はごっそりと抉り取られて屋内が見えていた。

『ボ、ボス……! あと少しで当たってたよ……』

『はあ、はあ……』

 屋上に設置されているモニターから、マーモンの声とクロームの息遣いが聞こえてくる。
 クロームは、何とか無事だったようだ。ポールは倒れていないので解毒は出来ていないだろうが、彼女に怪我がないことに安堵した。

 ツナは宙を飛んで、タン! と校舎の壁に垂直に着地する。それと同時に、ザンザスもツナの向かい側へ足を付けた。

「そうか……」

 彼はツナを見て呟くと、すく、とその場に立ち上がる。

「ほざいていたな、守護者は誰も死なせんと。……それで貴様は何を得た」

「?」

「オレは部下が死のうがどうでもいいが――見ろ」

「!」

 ザンザスが顎をしゃくった先には、モニターが。ツナが目を向けると、デスヒーターの毒で苦しんでいるヴァリアーの守護者たちが次々と映し出される。

『お願いボス! 助けて! な……何だってしちゃう!!』

『もう……負けないよ! 一生ついてくよ……財産も、半分あげるから……!』

『リング……集めんの……、手伝うからさ……』

『お助けを……そして、何なりとご命令を!!』

 皆、そう言って息も絶え絶えに(こいねが)う。
 ザンザスは彼等の様子にニヤリと口の端を吊り上げた。

「ふははは!! これこそが大空だ!!」

「――!!」

 ザンザスは高笑うと銃を下に向かって撃ち、炎の勢いに乗って上空に飛翔した。空で一瞬動きを止めると、彼は両手の銃を前に構える。

「施しだ!!!」

 ザンザスが声高に叫んだ瞬間、両手の銃が眩く光り、銃口から勢いよく炎が放たれた。ツナがそれを視界に捉えた直後、ザンザスの撃った炎は屋上の雷のポールと中庭の嵐のポールに命中し、大きな爆発音を立てる。

「! 片桐……!」

 ツナは中庭で倒れている音羽を思い出し、バッと体を翻した。そのまま飛び立とうとしたとき、それを遮るように――ザンザスがツナに銃口を向けてくる。

「!」

 噴射され襲いくる炎を、ツナは素早く身を引いて躱した。ザンザスの降り立った屋上を見上げたら、彼は愉しげな笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。

「逃げる気か、カス。心配しなくても天の守護者は殺さねぇ、あれはオレのだ」

「っ……」

 ツナは牽制してくるザンザスを睨み付け、彼のいる屋上に飛んで着地した。屋上の巨大モニターには、煙の晴れてきた中庭が映っている。


 嵐のポールはさきほどの爆撃で獄寺とベルのいる校舎三階に向かって倒れ、動きを止めていた。続いて、ポールから少し離れた所に倒れている、音羽が映る。

 ……かなり苦しそうではあるが、息をしている。あの爆発には巻き込まれていない。

 ツナはひとまず胸を撫で下ろしたが――新たな懸念が生まれてしまう。
 雷と嵐のポールが倒れ、その上に安置されていたリングが、ヴァリアー側の守護者の元へ転がり落ちてしまったからだ。


『ししし、助かった〜』

『ありがたき幸せ!』

 モニターに映ったベルとレヴィは目の前に転がったリングを手に取ると、すぐさま自身のリストバンドに差し込んだ。ザンザスはその様子を見て声を張る。

「ベル、レヴィ、天の守護者を死なせるな」

『オッケー』

『お任せください!』

「!」

 ――まずい、。

 モニターの向こうで返事を寄越す二人に、ツナは歯噛みした。

 このままあの二人を放置しておいたら、音羽がヴァリアーに囚われてしまう。そのうえ、彼等は一番近くにいるこちらの守護者――獄寺とランボに危害を加えかねない。

 二人を止めに行けるのは、唯一動くことのできる自分だけ。だが、ザンザスを目の前にしている今、彼の目をどうやって潜り抜ければ……?

 ――っ……、どうする……!


「ふっはっはっ! どうした、もどき。このやり方は想定外だったか? お前もやりたきゃ、グローブでも投げつけろ! ぶっははははは!!」

「くっ……」

 焦燥を隠せないツナを、ザンザスは嘲笑っていた。

 

 眉を顰めてこめかみに汗を伝わせているツナを、リボーンは観覧席のモニター越しに見つめていた。

「ツナの奴、何焦ってんだ?」

「リボーンさん?」

 不意に呟いたリボーンに、バジルが首を傾ける。

「確かにザンザスも型破りな男だが、お前の守護者もただもんじゃねーはずだぞ」

「「?」」

 バジルとシャマルは疑念を抱いたまま、その小さなヒットマンの背中を見つめた。

 その言葉の意味はまだ、彼しか知らない。







 視界は細かな塵と煙で、灰色に曇っていた。ポールが壁ごと窓ガラスを破壊して倒れてきたからだ。だが、そのお陰でベルはこうしてデスヒーターの毒を解毒することが出来ている。

 弱っていた身体が徐々に快復するのを感じ、ベルは上体をゆっくり起こした。

 さっきまであれほど苦しんでいたのが嘘のように、普段通りの呼吸ができる。熱も痛みも治まって、身体を動かすのにも問題はなかった。そのまま、煙る屋内で立ち上がる。

 もともと、ベルはそう柔な身体じゃない。怪我にも病気にも強いのだ、大抵人より早く治るし、毒の影響も引き摺っていない。

「ししっ、さっすが王子♪」

 ベルはにやりと笑って、まだ床に突っ伏している獄寺を見下ろす。

「爆弾少年には毒でもがき苦しみ死んでもらって……。レヴィに先越されたくねーし、王子はやっぱり姫の側に行かなきゃ、ね」

 ベルはもうほとんど使っていない松葉杖を一応持ち、窓枠に手を掛けてひょいとその場から飛び降りた。

 ボスに言われる間でもない、音羽が欲しいと思うのはベルも同じだ。


 タン、と地面に着地すると、すぐ――。
 
 ベルの目に、お目当ての人物の姿が留まる。

「……しし、ラッキー。こんな近くにいたんだ」

 ベルは気分が高揚するのを感じながら、数メートル先に横向きで倒れている音羽の方に歩んで行った。そういえば、天の守護者は中庭で待機してたんだっけ? 何にせよツイている。


「っ、はぁ、はぁ……」

 側まで行くと、音羽は毒のせいで苦しそうに息を繰り返し、熱で頬を上気させていた。
 眉を寄せて額に玉のような汗を浮かべた姿にゾクゾクする。

 ベルは口を歪めて笑い、彼女の隣に腰を屈めた。





「――ししっ、音羽。助けに来てやったぜ」

「……っ、ベ……ル……」

 音羽は間近でした声に薄っすらと目を開けて、さっきまでいなかったはずのその人を見た。

 どうしてベルがここにいるのか――答えは恐らくヴァリアーで唯一動けるザンザスが、彼に解毒剤の投与に必要なリングを渡したからだろう。
 だが一部始終を見る余裕もなかった音羽に、真相を知る余地はない。

 そして、目の前にいるベルが危険だと分かっていても、逃げられるはずもなかった。今だって瞼を持ち上げて、掠れた声を出すだけで限界なのだから。


「っ……、」

 ベルは抵抗できない音羽の上体を起こして座らせると、近くの校舎の壁に背を押し付けた。起きているのも辛い、けれど、両手を纏めて緩く掴まれたら、そこから動くことはできなかった。

 ベルはもう片方の手で音羽の頬に触れ、顎を持ち上げる。必然的に、彼の方に顔を向けられてしまった。

「……い、や……」

 雲雀以外の男の人に触られたくなんてないのに。今の自分では、こんな緩い手を振り払うことさえ出来ない。
 
 悔しさに息を呑み、音羽は僅かに開けた瞳でベルを睨み付けた。でも、ベルはそれを楽しんでいるかのように、にんまり笑う。

「しししっ、だいぶ弱ってんじゃん、可愛いー。今なら何されても抵抗できないな?」

「……はな……して、」

 言いながら掴まれた腕を引こうとしたけれど、肘が少し動いただけだった。彼はそれをいいことに、音羽の顎を押さえていた手を放し音羽の喉元に指先を滑らせる。

 つ、と汗の浮いた喉を上から下になぞられると、たったそれだけで息が苦しくなった。反射的に身じろいで拒絶すると、ベルは背けたこちらの顔を覗き込んでくる。

「なぁ音羽。放してやってもいいけどさ、お前はそれでいいの?」

「……?」

 ――どういう意味……?

 頭が働かず、彼の真意が掴めない。視線で問い返すと、彼は音羽の耳元にそっと口を寄せてきた。

 いつもより低くて甘い声音で、彼はまるで、悪魔のように。

「よく考えろよ。お前一人じゃ解毒どころ、リングだって見つけられない。雲の守護者も今頃毒でのたうち回ってる頃だろうし……今音羽を毒から解放出来るのって、オレしかいないわけ。分かる?」

「っ……」

 ベルの囁きに、音羽は唇を引き結んだ。

 ――この酷い熱から、苦しみから、痛みから、一刻も早く逃れたい。

 それはもう苦痛から逃れたい人間の本能で、きっと身体の一番奥にいつも潜んでいる、何より正直な音羽の声だ。

 ベルの言っていることは、否定しようがなかった。一分一秒で、自分の命は徐々に削り取られている。残された時間は少しずつ確かに減っていた。
 だから、ごくりと唾を飲んでしまう。


 ……でも――。


 『心配しなくていいよ。僕が守ってあげるから、君は安心して待っていればいい』。


 そう言ってくれた雲雀の言葉が、姿が。霞んだ頭と不安な心のなかに、今もずっと居てくれる。

 それは生まれもって備わった感情ではないかもしれないけれど、音羽のなかで何より強く輝く光だ。彼と同じように、誰にも、何者にも侵されることのない音羽の真実。

「お前を救えるのは王子だけ。姫は姫らしく、王子に助けられてろよ」

「……」

 ベルが音羽の耳に唇を当てて笑ったとき。

 音羽は、伏せていた瞼を持ち上げた。


「私は……雲雀さんを……、信じてる……」


 前髪に隠れた彼の瞳の辺りを見ながら、音羽は声を発した。掠れ声だったものの彼には聞こえたらしい、ベルは小さく息を呑んで何か言葉を紡ごうとした。――そのとき、。

 
 ――ヒュッ!!

 勢いよく風が鳴って、かと思ったらベルが横に飛び退き、素早く音羽から離れた。
 
 同時に、キン――と静かな金属音。ベルの手から、何か小さな光る物が引き剥がされる。


「――いい子だね、音羽。それでこそ僕の(もの)だ」


 突然辺りに響いたのは、大好きな彼の声だった。
 
 苦痛に苛まれている身体がその声に反応して、ぴくりと僅かに動く。そのときだけは、音羽も痛みを忘れていた。ゆっくり首を動かすと――。

「……!! 雲雀、さん……っ」

 そこにいたのは、いつもの不敵な笑みを浮かべた雲雀だった。

 見間違うはずもない、すっくとその場に立った凛々しい彼の姿。音羽は見開いた目に、その姿をしっかり映す。

 ――やっぱり、来てくれた……。

 約束通り、音羽の所に来てくれた雲雀。
 同じ毒で苦しんでいたはずの彼が、どうしてここまで来られたのかは分からなかったけれど、色んな疑問よりも安心感の方が勝ってしまう。

 苦しいのとは違う、温かい涙が瞳に浮かんだ。早く彼の側に行きたい、身体が動かないのが、こんなにももどかしい。


「ッ……お前……」

 思っていると、横にいたベルが小さく舌打ちして雲雀を睨んだ。それまで音羽と視線を合わせてくれていた雲雀も、ベルの方に目を移す。とても、忌々しそうに。

「よく躱したね、天才君。……でも、君の行動は随分前から目に余る」

「しし、どーいうこと……? お前がここにいるはず、ないんだけど」

「さあ? どうしてだろうね」

 隠せない困惑を声の端に滲ませるベルに、雲雀は余裕綽々といった様子で答えた。

 ――ベルが戸惑うのも無理はない。
 
 こちら側の守護者は誰一人としてリングを得られていなかったはずで、それなのに雲雀が普段通り動いてここまで来てくれたことは、本当にあり得ない事態なのだから。音羽も、まだ理解できていない。


『――雲の守護者のポールが!!?』

「……、」

 睨み合う二人を見ていたら、リストバンドから珍しく驚いているようなチェルベッロの声が聞こえてきて、音羽はのろのろ手元に視線を落とした。

 小さなモニターには、雲雀がいたはずのグラウンドが映されている。

 そして――そこに聳え立っていたはずの巨大なポールは、根元からぽっきり折られて地面に倒れていた。モニターの向こうには倒れた衝撃で巻き上がったのだろう、土煙がまだ舞っている。


『雲雀の奴、自分で解毒したな』

 続いて聞こえてきたのは、観覧席にいるリボーンの声。――まさか。この痛みのなか、本当にそんなことが出来るの……?

 肩で息をしながら音羽が思うと、チェルベッロも声を上げた。

『あ、あり得ない……! デスヒーターは、野生の象ですら歩行不能となる猛毒……』

『束縛を嫌い、音羽を想う奴の意地の力だ。だからこそあいつは、雲の守護者なんだぞ。……そして――』

 リボーンは一度言葉を区切ると、モニターの向こうでニッと小さく笑みを浮かべた。


『雲はときに他の天候の契機となり、嵐を巻き起こすことがある』







 リボーンの次にモニターに映し出されたのは、今にもランボを仕留めようとするレヴィの姿だった。

 どうやら彼もベルと同じタイミングで解毒に成功していたらしく、ベルがザンザスの命令通り音羽の捕獲に向かったため、自分は近くにいたランボをまず狙っていたらしい。

 事の次第を理解して、ランボが無事かどうか不安になったが――音羽のその不安はすぐに解消された。

 なぜなら、嵐のリングを使って解毒した獄寺が、真っ先にランボを助けてくれたからだ。

 ――そう、雲雀がさっきベルから引き剥がした小さな何か。
 金属音のしたあれは、嵐のリングだったのだ。雲雀はあのとき、嵐のリングを上に投げて獄寺に手渡るようにした。

 あれがリングだったなんて気が付かなかったけれど、モニターの向こうではレヴィを倒してランボを抱き起している獄寺の姿がある。


 一連の流れを手元で見ていた音羽は、胸を撫で下ろして息を吐き出した。

 大空戦が始まる前、ツナが、ランボはまだ目が覚めたばかりだと言っていた。病み上がりのあの小さな身体に、この毒はかなり辛かったはずだ。きっと、音羽以上に。

 かなり危険な状態だったかもしれないから、彼が真っ先に助け出されて本当によかったと思う。

 
「っ……」

 だが、あまり悠長に喜んではいられない。

 音羽の身体は相変わらず辛いままで、痛みも熱も一分ごとに増してきているような気がするのだ。きっとタイムリミットの三十分まで、少しずつ酷くなっていくのだろう。


 音羽はゆっくり顔を上げて、ここに来てくれた雲雀を見た。
 
 雲雀は音羽の前に立ち塞がるベルと対峙していたけれど、音羽と目が合うとその瞳を心配そうに細めてくれる。

 彼はきっと、音羽のために。

 約束を守るために、あの毒に負けることなく来てくれたのだ。雲雀を苦しめていたものと同じものに襲われている今、彼の感じた苦痛は想像する間でもない。
 
 あのポールを薙ぎ倒してここまで来ることが、どれだけ辛く大変だったか――。音羽は、立ち上がることさえ出来ないのに。

「っ……雲雀さん……」

 毒にうなされながらトンファーを振るう雲雀を想ったら、とうとう目尻に涙が溜まった。そのときの彼に比べたら、自分の身体があげている悲鳴なんて大したことのないように思えてしまう。

 だから、何とか身体を起こせていた。ここで倒れれば、きっと雲雀も心配する。

 音羽も頑張りたかった。雲雀が、そうしてくれたように。

 
 ――けれど。

「――っ……!」

 心臓が打つ一瞬一瞬、身体の内側に焼けるような痛みが走り続けた。

 苦しくて、痛くて、ついに耐えられなくなって、音羽はそれ以上上体を支えられなくなる。重力に任せて、音羽はそのままドサリと地面に倒れ込んでしまった。







「! 音羽……!」

 視界に捉えていた音羽が倒れ、雲雀は反射的に彼女の名前を呼んでいた。

 今すぐその側に駆け寄りたい。が、音羽の前にはヴァリアーで一番の天才と言われているらしいあの男が立っている。

 ――すぐ始末して、急がなければ。そう思っていたら、音羽が横たわったまま薄く目を開けて、こちらに微笑みかけてきた。


 その微笑みは雲雀を安心させるためのもので、そして、彼女自身が自分を鼓舞しているような――そんなものに見えたのだ。弱々しい音羽の笑顔は、彼女にまだその程度の余力が残っていることを教えてくれる。

 が、やはり多くの時間は残っていない。

 雲雀はトンファーを構え、眼前のベルを睨み付けた。

「へぇ……自分で解毒とかちょっとビックリ。でも、お前に音羽を渡す気ないんだよね」

「……その台詞、そっくりそのまま返すよ」

 リストバンドのモニターを見ていたベルが顔を上げ、雲雀は眉間をきつく寄せる。男は口を吊り上げた。

「エース君、だっけ? 悪いけど、姫を助けるのは王子って筋書で決まってんだよね。だからお前の出番はナッシング」

「へぇ、だとしたら滑稽な王子もいたものだね。あの子が選んでるのは君じゃないってことぐらい、誰がどう見たって分かると思うけど?」

「しし……言ってくれんじゃん。――何だか一気に、楽しくなってきちゃった」

 ベルは殺気を滾らせると、両手を横に大きく広げた。

 ――ナイフ。

 彼の手と手の間には何十本ものナイフが浮かび、銀色に鋭く光っている。やがてそれは彼を取り巻くように、宙を勝手に動き始めた。


「…………」

 相手の動きに注意しながら、雲雀は倒れたままの音羽を一瞥する。

 この戦いに、あまり時間はかけられない。音羽に残っている時間は精々二十分か、多く見積もっても二十三分。校内に散らばるポールを巡らなければならないことを考えると、体力の温存も不可欠だ。

 ――もう少し待ってなよ。

 雲雀は胸のうちで彼女に伝えて、ナイフを蔓延らせている敵に集中した。


 側に転がっている松葉杖。そして、さっき雲雀の攻撃を躱したときの動き方。
 この男の怪我が完治しきっていないことは明らかだ。――すぐに、咬み殺してやろう。

「……曲芸でもするのかい? 足怪我してる分、ハンデをあげようか」

 雲雀がトンファーを構えて目を細めると、ベルもにんまり愉しげに笑った。

「ごケッコー。だってお前も、足引きずってん―――じゃん!」

 彼の声を合図に、雲雀は地面を蹴った。ベルも同時に走り出す。


 ヒュッ、と風を切って、勢いよく飛んでくるナイフ。その軌道を見切って、雲雀はトンファーを振るい続けた。

 けたたましい金属音を立ててナイフは四方に飛び散り、雲雀に掠り傷すらつけられない。

「数を撃っても意味ないよ」

 言いながら、雲雀は再び放たれたナイフを後方に弾き返した。銀のそれは後ろの校舎の壁に次々と刺さり、小気味の良い音を立てていく。

 ――何かおかしい。

 雲雀は眉根を寄せて、ベルが投げるナイフを弾いて躱す。


 抱いた違和感――跳ね馬はこの男が天才だと言っていたが、あれは嘘だったのか。雲雀は頭の隅で考える。

 実際にこの男と戦うのは初めてだが、彼の軌道は丸分かりだった。とてもこの単純なナイフ投げだけで、殺しが出来るとは思えない。……だとしたら、何かある。勝機などまるでないはずの相手は、まだ余裕にも笑っていた。

 雲雀が警戒していると、またナイフが飛んでくる。同じように弾いて、また壁に刺さって、やがてベルは手を止めた。
 このまま、注意して攻撃に転じよう。

 雲雀がそう思って駆け出した瞬間。
  

 ――ブシャッ!!


「!?」

 頬に焼けるような痛みが走ったと思ったら、そこから血が噴き出した。驚いて目を見開く。

 ナイフは投げていなかった。そう、そこには何もなかったはずだ。自分が見落とすなどあり得ない。が、なぜ傷を負ったのか――。

「!」

 考えようとすると、まるでその暇を与えまいとするようにまたナイフが飛んでくる。雲雀は咄嗟に避けて動いた。

 ――ブシャッ!!!

「!?」

 今度は、右腕に三か所。右脚に一か所。
 何もないはずの場所を走り抜けたはずが、雲雀は“何か”に攻撃されていた。
 ……“何か”が、雲雀を取り巻いている。


 ――動けば、殺られる。


 雲雀はほとんど直感的にそれを悟った。腕から流れてきた血液が、指先を伝って地面に赤く落ちていく。

「―――」

 雲雀は、トンファーを手放した。







 ――カラン、カラン……。
 

「……!!」

 目の前の光景に、音羽はびくりと身体を跳ねさせた。

 倒れたまま、苦しいまま、それでも雲雀たちの戦いから目を逸らせずにいたのだ。そうしたら、雲雀は――トンファーを落としてしまった。まだ鉄の響きが、微かに残っている。

 
 雲雀を襲っている物の正体を、音羽はよく知っていた。嵐戦で見ていたからすぐに分かったのだ、ベルのナイフにはワイヤーが付けられていて、壁に刺さるとピンと張ってそれだけで武器になる。

 それを、雲雀に伝えたかった。でも戦いに集中している彼の耳に届くほど、今の音羽は大きな声を出すことができない。
 ただ雲雀を信じて見守ることしかできない自分が、歯痒くて仕方なかった。

 ぎゅ……、と拳を握って彼を見ていると――、

「!! 雲雀さ、ん……!」

 雲雀がついに、どさ、と地面に腰をついてしまった――。

「っ……!」

 思わず身体を起こそうとしたけれど、まるで縫い付けられたようにすぐまた地面に倒れてしまう。
 音羽は苛立った。彼の力になれないまま、こんな所で横になっている自分が腹立たしい。


 ――雲雀さん……!!

 音羽は唇を噛み、もう一度身体を起こそうと手をつきながら、彼を見る。

 俯いた雲雀の表情は、ここからではよく見えない。でも、彼の牙ともいえるトンファーを手放して、戦意まで失ってしまったような――。あんな雲雀を見たのは初めてだ。

 だが……だからこそ、音羽はそんな彼に違和感を覚えてしまう。

 
 ――雲雀さんが、こんなに簡単に諦めるわけ、ない……。

 音羽はついた手を見ろして、強く握った。

 こんな苦しい毒に打ち勝ってまで音羽を助けに来てくれた彼が、音羽を諦めて敗北を喫するなんて。そんなのあり得ない。

 音羽の知る雲雀はいつだって強くて、そして一度決めたら何が何でもそれを成し遂げてしまう人だ。戦うこともそうだけど、彼の心が誰よりも強いことを音羽は知っている。

 ――信じて、音羽は雲雀を見つめた。


 ベルがずらりとナイフを構え、雲雀の方に歩いて行く。

「ししし、思ったより諦め早いじゃん。あんなに我が物顔だったくせにさ、所詮お前にとって音羽はその程度ってことだろ?」

 挑発されても、雲雀は顔を上げない。
 ベルは雲雀の前で足を止めると、ナイフを握った手を掲げた。

「じゃあ音羽は貰うぜ。ま、王子はオレだしな―――バイバイ」

「……!」

 声と共にビュッ、と放たれた六本のナイフ。
 それは雲雀を仕留めるべく、銀の筋を真っ直ぐ宙に描いて走った。

 音羽は声を呑み、緊張と恐怖で瞬きも――感じている痛みさえ忘れて凝視する。胸のなかでは、彼の名前を何度も叫んでいた。

 ナイフが、雲雀に刺さる――そう思った瞬間。
 

 それまで俯いていた雲雀が、バッと勢いよく顔を上げた。 

 
「「――!!」」

 それは、本当に一瞬だった。

 雲雀は顔を上げた直後に両手を眼前に構えると、ベルの投げたナイフを全て指の間に挟んで、刺さる前に受け止めたのだ。

 音羽も――恐らくベルも、息を呑んだはず。ベルの背中は固まっていて、その戸惑いは空気を伝ってここまで届いてくるようだった。


「っ……」

 音羽は全身から力が抜けて、また地面に完全に倒れてしまう。けれどそれと同時に、こんなときにも関わらず、彼のその鋭い瞳に胸を射抜かれてしまった。

 ――やっぱり、雲雀は只者じゃない。彼の強さはいつだって揺るぎないのだと、彼はその姿で何度でも音羽に教えてくれる。


 雲雀はナイフを手に取ると、口の端を吊り上げた。

「へえ……なるほど、ナイフに糸がついてたんだ。まるで弱い動物が生き延びるための知恵だね。――興醒めだよ」

 彼は冷えた声で言い放ち、ナイフを捨ててトンファーを握り直す。

 ゆらりと立ち上がった雲雀は、底冷えしてしまうほどの殺気を放って微笑していた。ナイフよりも鋭利な瞳で、ベルを見据えている。

「この程度で諦めるくらいの所有物なら、最初から側に置いてない。君にもそれを分からせてあげる」

 言って雲雀がトンファーを垂直に構えると、トンファーの先端から鎖と玉鎖が飛び出した。

 彼が腕を動かして回転させると、それらはぐんぐんスピードを上げて加速し、雲雀を捕まえていたワイヤーを次から次へと裁ち切っていく。

 やがて闇の中に溶け入っていたワイヤーは、跡形もなく地面に墜ちてしまった。

「覚悟はいいかい」

「! や、やっべ……」

 冷笑して殺気を漲らせた雲雀に、ベルは焦燥して呟いた。

 雲雀が瞳をきつく細めて、勢いよく走り出す。回転を続ける暴力的な玉鎖が迫った刹那。

「っ――パース!! パスいち!」

 ベルが音羽よりも後方の位置に飛び退いて、雲雀の攻撃を避けた。雲雀はベルを振り返る。

「ドクドクして本気になんのも悪くないけど、今は記憶飛ばしてる場合じゃないからさ」

 言いながら、ベルは雲雀に笑いかけた。

「だって、そいつの解毒には天のリングがいるんだぜ? 実質、リング見つけた方が勝ちみたいなもんじゃん。お前だって、音羽を死なせたくないだろ?」

「……」

「そういうこと。じゃあ音羽、王子がリング持って来てやるまで待ってろよ。バイビ♪」

「!」

 ベルはどこか弾んだ声で言うと、雲雀に向かってナイフをもう一本。玉鎖で雲雀が弾いている間に、彼は中庭の出口へと駆け出した。







 男の姿が見えなくなり、雲雀はトンファーを下ろした。

「っ……、」

 腕を下げると、先ほど切れた傷口からまた新しく血が溢れ出す。単なる切り傷かと思ったが、思いのほか深くて出血量が多い。

 雲雀は珍しくふらついたが、それでも歩みを止めることは出来なかった。


「音羽……!」

 雲雀は倒れて、毒にうなされている音羽の側に膝をついた。

 荒い呼吸を繰り返している彼女は、雲雀をみると嬉しそうな――安堵したような微笑みをゆるく浮かべる。

「雲雀、さん……、来てくれて……ありがとう、ございます……」

「いいよ、話さなくて。辛いだろ」

 雲雀は苦しそうに言う音羽を抱き起こし、自分の胸の中に抱えた。ようやく彼女を取り戻せたことに、雲雀も心を落ち着ける。


 触れると、音羽の身体は普段からは考えられないほど熱くなっていた。自分もこれほど発熱していたのだろうか。
 額に浮かんだ汗を拭ってやると、音羽は雲雀の手が冷たくて心地いいのか僅かに目を細める。

 が、彼女は雲雀の頬と腕に、ゆっくりと視線を注いだ。潤んだその瞳が悲しげに揺れる。

「雲雀さん……怪我、治さないと……」

 音羽は震える手を伸ばし、シャツの上から雲雀の傷口に手を当てようとする。

 こんな状況でも自分の身を案じてくるのは彼女らしくて、雲雀はつい口元を緩めた。だが、今の音羽にそんな力がないのは誰でも分かる。

 雲雀は音羽の熱い手を捕まえて、その膝の上にそっと戻した。

「僕の心配はしなくていい、止血するから大丈夫だよ。それより、君のリングを探して解毒するのが先だ」

「……はい……」

 雲雀の言葉に、音羽は素直に小さく頷く。

 いつもなら雲雀の言うことなど聞かずに怪我を治そうとするが、やはり彼女自身もそんな余裕はないのだろう。

 苦しむ音羽の姿は見ていられなかったが、あの男の言っていた通り音羽を救うには天のリングを探し出すほかない。


 雲雀は持っていたハンカチをポケットから取り出すと、素早く右腕に巻き付けた。結び目の片方を歯で噛んで、器用に片手で縛って止血する。

 正直予想外の怪我のせいで雲雀もいつも通りの力が出ないが、音羽をここに置いていくつもりはない。いつ敵が彼女を狙ってくるか分からないし、一緒に連れているのが一番安全だ。

 雲雀は音羽の熱い身体を抱き寄せて、その足を掬い上げる。そのまま立ち上がっても、音羽は大人しく雲雀に抱かれていた。いつもなら真っ先に抵抗の言葉を発する口も、今ははぁはぁと忙しない呼吸を繰り返すだけ。

「…………」

 雲雀は頬を赤くしてぐったりしている音羽を見つめ、眉を顰めた。


 『……私は……雲雀さんを……、信じてる……』。

 音羽はあの猛烈な痛みに苦しんでいる最中(さなか)、ベルに向かってそう答えた。

 彼女が雲雀との約束を信じて待っていたのは、言う間でもない。

 掠れた、けれど迷いのない声で言ったあのときの音羽を思い出せば、雲雀の胸は締めつけられる。自分でも、はっきりと自覚できるほどに。

  
 ――絶対に死なせないよ。君だけは……。


 雲雀は音羽を抱く手に力を込め、前を向いて歩き出した。


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