35話 守るものはこの腕の中に

 最後の修行を終えて並中に戻ったツナは、クロームたちを危機一髪のところで救った。

 モスカは標的をツナに変えて集中攻撃してきたものの、リボーンの厳しい特訓を乗り越えた甲斐あってか、ツナにとっては全てがただの鉛玉のようだった。

 怒涛の攻撃を素早く躱し、ツナはモスカの胸部に決定的な一撃を打ち込んだのだが――それだけでは、モスカの動きは止まらない。

 だから死ぬ気の炎を纏った手刀で、モスカの頭部から胴までを、真っ二つに。

 そうすれば流石のモスカも動かなくなった。けれど、ツナが真っ二つに焼き切ったモスカの中から、出てきたもの――。

 
 一同は、目を見開いてそれを見ていた。


「な、なんと……!」

「中から、人が!!」

 モスカの中からズルリと崩れ出てきたのは――人間、だった。

 白髪の老人。布のような物で身体を(くる)まれ、その上から大きなベルトを巻き付けられて固定されている。

 一切身動きの取れないその老人の胸は、血塗れだった。
 深い傷を負っているのは誰が見ても明らかで、皺の深い額とこめかみに大粒の汗が浮かんでいる。

 
 ツナは、自分の身体中から血の気が引くのが分かった。シュウッと音を立てて額の死ぬ気の炎が消える。――その老人に、見覚えもあったのだ。

「こ、この人……九代目……!?」

「!! そんな……なぜここに!?」

 ツナと一緒に修行から戻ったバジルが叫んだ。

 ボンゴレ九代目――つまり現在のボンゴレのボスだ。ツナは少し前に、写真で見せてもらっていた。穏やかな笑顔で映っていたその人と、目の前で倒れている人物の顔が寸分違わず一致する。

「ど、どうなってんだ……? 何で……モスカの中から……?」

「おい、しっかりしろ!」

 ツナが震えて膝をつくと、その横から救急箱を抱えたリボーンが走った。リボーンは九代目に声を掛けながら、その容態をみている。……そして、静かに俯いた。

「……ちっ、モスカの構造、前に一度だけ見たことがある……。九代目は……ゴーラ・モスカの動力源にされてたみてーだな」

「!! 動力源!? ど、どうして……!?」

「――どうしてじゃねーだろ!」
「!?」

 狼狽えたツナの声に、ザンザスのドスの効いた声が重なる。ツナは、息を呑んだ。

「てめぇが九代目を、手にかけたんだぞ」

「!! オ……オレ、が……? あ……」

 憎悪と蔑みに満ちたザンザスの瞳。ツナは震えながら、手袋をはめた自分の手を見下ろす。

 ――さっき、モスカの胴体を力いっぱい殴ったこと。鉄を焼き切ったときの、あの感触。全部、鮮明に思い出せる。

 怖々と視線を上げたら、九代目の口の端からドロリと赤い血液が流れ出ていた。ツナの呼吸が早くなる。――オレが、九代目を、?

「やべーな……、応急処置で何とかなる傷じゃねえ……」

「そ、そんな……!」

 九代目の拘束を解いたリボーンは、傷口を見て顔を顰めた。初めて聞くようなリボーンの深刻な声に、ツナの背中に冷や汗が伝う。早く、九代目を助けないと――。

「っ、そうだ……! 片桐、片桐……!!」

 ツナは顔を上げて辺りを見回し、引き攣った声で彼女の名前を何度も呼んだ。






「!!」

 ボンゴレ現ボス――九代目の身が重体になっている今、空気ははち切れそうなほど緊迫していた。

 そんな中、必死な声のツナに呼ばれ、音羽は慌てて雲雀の側を離れてツナの元に駆け寄る。

「お願いだよ、片桐……! 九代目が……!」

「頼めるか、音羽」

 顔面蒼白のツナ、そして冷静さを保っているものの、いつもより表情が険しく見えるリボーンに頼まれて、音羽はごくりと唾を呑んだ。
 けれど、迷うはずもない、すぐに頷いて九代目の側に膝をつく。


 九代目の胸元は、血の赤に染まっていた。
 
 これは……たしかに救急箱の道具では間に合わない。音羽の治癒の力を全力で使っても、完璧に治せるかどうか……。そう思うほど、九代目の傷は素人目でもひどかった。

 自分に、どこまで出来るか分からない。それでも音羽は九代目の手を取って、ありったけの気力を集中させる。

 手のひらに白い光が灯り、九代目の胸の傷が少しずつ塞がっていった。……けれど。

「っ……、」

 ――苦しい……、。

 しばらくすると、治り切らない感覚があるうちに限界が近付いた。酸素が薄くなる気配、握った手が少しずつ震え出す。
 九代目の傷痍は、あまりにも深部まで至っていた。

 ――でも、この人を死なせたらいけない……。

 音羽は唇を噛みしめて、青白い顔で横たわる老人を見た。


 もし、ここでこの人が死んでしまったら……ツナは、人を殺してしまったことになる。

 例えそれがツナの本意ではなかったとしても、周りの誰も責めなかったとしても、優しい性格のツナはきっと自分を許せない。彼は一生その十字架を背負って、苦しみながら生きるはずだ。

 少なくとも、音羽の知るツナはそういう人だった。だからそんなこと、絶対にあってはいけない――。

 九代目の手を握り直して、音羽は治癒の力を使い続けた。次第に、自分の身体から力という力が抜けていく。


「……ぅ、っ……」

「! 片桐……!」

 全力を尽くさなければ――そう思っているうちに、とうとう視界がグラリと揺れて、音羽は九代目の手を放してしまった。

 とても上体を起こしていられず、地面にがくりと両手をつく。身体に圧し掛かる疲労感と倦怠感。頭がクラクラして気持ち悪くて、今すぐ横になりたかった。

 でも、そうしたらきっとすぐ、気を失ってしまう。こんなときに眠っている場合じゃない。

 音羽は意識を引き留めるため地面の土を鷲掴み、肩で息を繰り返した。すると、


「――音羽」

「……!」

 不意に、間近で聞こえた雲雀の声。

 はっとすると、温かい手が肩に触れて、音羽の身体を起こしてくれる。

 ゆっくりと顔を上げれば、そこには。

「雲雀……さん……」

 彼の顔を見た途端、ほっとして身体の辛さが和らいだ気がした。
 まだ視界は少しぼんやりしているけれど、隣に屈んでくれた雲雀が眉を顰めているのが見える。

 心配をかけてごめんなさい、そう思いながら音羽は彼を見つめ、それから九代目に視線を戻した。

 
 血が付いているせいで傷の治りは確かめられなかったけれど、九代目の表情はさっきより落ち着いているように見える。

 完全とまではいかないものの、ある程度の深さまでは治せたような手応えもあった。


 ――でも、九代目が目を開けることは、ない。


 自分がどこまで治せたのか、もう感覚を辿る余裕もなくて。
 音羽がぐったりと雲雀に凭れかかると、彼は、音羽の身体をしっかり受け止め支えてくれた。



「――ふん、天の守護者の力でも治しきれねぇほどの大怪我みてぇだな。誰だ? じじぃを容赦なくぶん殴ったのは」
 
「!」

 それまで黙って音羽を眺めていたザンザスは、ツナを見て滔々と言った。目が合って、ツナはびくりと肩を震わせる。

「誰だぁ? モスカごとじじぃを真っ二つに焼き切ってたのはよぉ」

「……オ、オレが……、九代目を……」
 
 ザンザスの責め苦に身体を覆われ、ツナは浅い息を繰り返した。
 取返しのつかないことをしてしまった、自分は、なんてことを。
 
 震えが内臓まで届きそうだ、そう感じたとき。

「――ちがう……、悪いのは……私だ……」

「!!」

 弱々しく掠れた声が、目の前に倒れている九代目の唇から零れ出た。







 一時的に意識を取り戻した九代目は、彼の実子であるザンザスについて息も絶え絶えに語ってくれた。

 八年前に起きたという、ボンゴレ史上最大のクーデター“揺りかご”。
 なんとその首謀者だったザンザスは、その事件が鎮静化されたあとボンゴレの厳重な監視下に置かれていた――そうなのだが。
 
 どうやらそれは、表向きの話。

 リボーンでさえ知らない内情を知る九代目は、『ザンザスは怒りと執念を増幅させて、八年間眠り続けていた』と言った。
 そして『私の弱さが、ザンザスを永い眠りから目覚めさせてしまった』、とも。

 九代目の語る言葉は断片的で、誰にも真相は分からなかった。詳細を聞こうにも、当の九代目は自身の指先に灯した死ぬ気の炎をツナの額にそっと当てると、再び意識を失ってしまったのだ。

 
 ザンザスは『九代目の仇を討つ』と銘打って、ツナとの戦いを要求した。

 ――そうして明らかになった、ザンザスの野望。


 揺りかごで反乱を起こした過去があるザンザスは、彼のボス就任に反対している勢力を黙らせるため、ツナを九代目殺しの悪役に陥れる必要があった。弔い合戦としてツナを倒し九代目の仇を討てば、反対勢力のファミリーの信頼を簡単に得ることが出来るからだ。

 だから、この雲の守護者戦で勝ち越すことはせずにモスカを暴走させ、ツナを誘き出し、動力源になっている九代目ごとモスカをツナに破壊させた。

 そしてザンザスが要求した九代目の弔い合戦――それは、リング争奪戦最後の戦い、“大空のリング戦”と位置付けられて、明日の深夜、再び並盛中学校にて行われることになったのだった――。



 ザンザスは大空のリングの片割れをツナに投げると、その拳の光とともに消えてしまった。ヴァリアーとチェルベッロの姿も、もうどこにも見当たらない。

 残された音羽たちが呆然としていると、消えたザンザスたちと入れ替わるように、聞き覚えのある声が辺りに響いた。

「――遅かったか……!!」

「! 跳ね馬!!」

「お前ら!! 九代目と怪我人を!!」

 現れたのはディーノだった。
 彼は引き連れて来た部下に素早く指示を出すと、ツナたちの方に駆け寄る。


「っ……」

 音羽は雲雀の手を借りながらふらつく脚に力を込め、何とかその場に立ち上がった。

 自分の体調も最悪だったけれど、それよりも九代目の容態の方が気になる。
 九代目が倒れていた場所に目を向けると、彼は酸素マスクを付けられて担架で運ばれていくところだった。

 彼の怪我を、音羽の力でどれだけ治せたかは分からない。

 意識を取り戻して、すぐに動けるだけ治してあげられたらよかったけれど……。音羽には、あれが限界だった。

 音羽にはもう、九代目の無事を祈ることしか出来ない。それがすごく、悔しかった。

 もっと自分に力があれば、九代目を救えたかもしれない。そうすれば、ザンザスに明日の大空戦まで持ち込まれることもなかったかもしれないのに。

 つい唇を噛んで、無言で立ち尽くす。
 

 すると、雲雀が静かに、音羽の肩を抱き寄せた。

「君はよくやったよ」

「……!」

 雲雀にしては珍しく、慰めるような――そんな、優しい声だった。
 
 きっと彼は、音羽の心中をここにいる誰よりも理解してくれている。ついそう思ってしまうようなその声音に、音羽の目頭が熱くなった。涙ぐみながら、小さく頷く。

 雲雀が分かってくれている、そう思えるだけで心は途方もなく救われた。まるで荒野のなかで、青白い月の光に見守られているような、静かな温かさ。

「雲雀さん……ありがとうございます……」

 音羽は支えてくれる彼の手を握りながら、目尻に溜まった涙を指先で拭った。雲雀が柔らかく握り返してくれるのを、手のひら全部で感じていると――。


「――おい、大丈夫かよ!! 片桐、雲雀!!」

 後ろから山本の声と幾つかの足音が聞こえてきて、音羽と雲雀は振り返った。山本の他に、獄寺と了平もいる。

「ザンザスに捕まってたけど、怪我させられてねーか?」

「うん、大丈夫。ありがとう」

 心配そうに聞いてくれる山本に、音羽は眉尻を下げて頷いた。すると、山本の隣にいた獄寺が訝しげに雲雀を見る。

「にしても雲雀、珍しく大人しくしてたじゃねーか」

「……この状況があの草食動物の強さを引き出しているのなら、まだ手は出せないよ」

「……!」

 雲雀はツナの背に視線を投げて言った。音羽も彼の目の先を追って、ツナを見る。

 
 ここからでは、ツナの背中しか見えなくて彼の表情は分からなかった。

 けれど遠くから、背中しか見えなくても分かる。彼が、いつもと違う空気を纏っていること。
 普段の彼からは想像もできないけれど、声を掛けるのを少し躊躇ってしまうような、そんな、真剣な空気だ。

 ――ただ……。
 いつもツナの一番側にいるリボーンだけは、躊躇いなんて一つもなかった。

「帰るぞ!」

「ぎゃ!!」

 リボーンはいつものように容赦なくツナに強い蹴りを入れ、地面に軽やかに着地する。

「明日の勝負までに、しっかり充電しねーとな」

「何でいちいち蹴るんだよ!!」

「なんかムシャクシャしたんだ」

「どんな理由だ!!」

 そんな二人の変わらないやりとりに、音羽は微笑んだ。

 
 どれだけ大変で過酷な状況でも、普段通りの二人を見ると、きっと何とかなるような気がしてくるから不思議だ。

 でもそれは皆も同じようで、獄寺たちも温かい微笑みを彼等に向けて浮かべている。それもきっと、ツナの人柄とあの二人の信頼関係のなせる技なんだろうなと音羽は思った。


 ――彼等を見回してそんなことを考えていると、雲雀がくるりと踵を返した。

「帰るよ、音羽」

「あ……はい、」

 雲雀に手を引かれて、校門の方へ歩き出す。まだ少しフラつく感じはあったけれど、少しだけ休んだお陰か身体の辛さはマシになっていた。

 歩きながら辺りを見ると、クロームの姿もいつの間になくなっている。もう帰っても問題なさそうなことを確かめて、音羽は隣を歩く雲雀を見上げた。


 雲雀は、いつもより少し疲れた顔をしている。――無理もない、守護者戦のあとにあんな惨事があったのだ、疲れない訳がない。

 それに彼は、モスカに怪我を――。


「――!! そうだ……! 雲雀さん、脚の怪我は……!?」

 記憶を追ううち、彼の怪我の治療が途中になっていたことを思い出して、音羽は慌てて声を上げた。でも、心配で焦っている音羽とは対照的に、雲雀は涼しい顔で答える。

「君が治してくれたじゃない。もう大丈夫だよ」

「……でも……」

 本当に些細な程度、だとは思うけれど……雲雀が脚を引き摺っているような気がしないでもない……。ただ、雲雀の顔には一切の苦悶も浮かんではいなかった。

 そんな雲雀の様子をじっと観察していると、雲雀は音羽を一瞥する。そのあと続けて、彼は呆れたような息を一つ。

「君、人の心配ばっかしすぎ。少なくとも、僕の方が君よりまともに歩けてる。違う?」

「……うっ、……確かに……」

 雲雀は、まだゆっくりとしたスピードでしか歩けない音羽に合わせて、歩調を緩めてくれていた。踵が浮くような感じがしている音羽より、迷いない彼の足取りの方がしっかりしているのは明らかだ。

 何も言えなくなって項垂れていると、雲雀は前を向いたまま、繋いでいた音羽の手をぎゅっと握ってくれる。

「今日はちゃんとゆっくり休んで。明日の学校、少しくらい遅れても構わないから」

「! 雲雀さん……ありがとうございます」

 雲雀の温かさに、音羽はほっと微笑んだ。彼がいてくれて良かったと、心底思いながらその大きな手を握り返す。

 彼の言う通り、今日はしっかり休もう。明日はきっと、本当の最後の戦いだから。
 
 
 音羽はいつも通り雲雀に家まで送ってもらって、その夜、呑み込まれるように深い眠りに落ちていった――。







 翌日。音羽は結局、昨日より早起きして学校に向かっていた。

 雲雀がせっかく「少しくらい遅れてもいい」と言ってくれたのだし、音羽も気持ちの部分ではもっとずっと寝ていたかったのだが、最近遅刻ギリギリに起き出していることを母に注意されて起こされてしまったのだ。

 これまでに蓄積された疲れと睡眠不足で、歩いていても少しぼーっとしてしまう。今日はついに、授業中寝てしまいそうだ。


 ――でも、それも今日で終わりだから……。

 音羽は堪えきれず欠伸をしながら、今夜行われる戦い――大空戦のことを考える。


 『深夜、守護者は並盛中学校に集合』。

 簡潔に時間と場所だけが書かれたその紙は、今朝音羽が玄関を出たときに何処からともなく落ちてきた。恐らく、チェルベッロが用意したものだろう。

 元々、今日の大空戦には向かうつもりだったけれど、彼女たちがわざわざこんな連絡をしてくるのは、何か理由があるから……なのだろうか?

 
 そんなことを考えているうちに並中に到着して、音羽は校門を潜った。

「――あっ、音羽ちゃ〜ん!!」

「!」

 昇降口に向かっていると、不意にグラウンド側から声がして、ぼんやりしていた音羽は我に返る。

 聞き覚えのある――でも、ここでは決して聞くはずのない声。不思議に思いながら振り返ると――。

「! ハルちゃん……!? ビアンキさんたちも……!」

 そこには、なぜか並中の制服を着たハル、ビアンキ、イーピン、フゥ太、それから京子とツナがいる。驚いてぽかんとしていると、皆がこちらに駆けて来た。

「音羽ちゃん、お久しぶりですっ! ハル、今日はお昼から学校だから、並中に潜入しちゃいました!」

「制服は、ビアンキ姉が用意してくれたんだよー!」

「そ、そうなんだ! でも、どうして……?」

 はしゃいで言うハルとフゥ太に、音羽は目を瞬かせる。突然のことにまだ理解が追い付いていない。すると、ビアンキが端的に説明してくれた。

「お守りを配るためよ。ツナたちが最近相撲大会を頑張っているから、京子たちが作ったの」

「あぁ……なるほど……」

 よく見たらツナがビアンキの後ろで苦笑していて、音羽もようやく状況を呑み込む。
 時折きょろきょろ辺りを確認している彼を見るに、並中生ではないハルたちの存在が周りにバレないかハラハラしているようだ。


「あのね、ちょうど音羽ちゃんのことも探してたんだよ! 音羽ちゃんにも、お守りあげたくて」

「えっ、私にも……?」

 ツナの隣にいた京子が言って、音羽は目を丸くした。

 京子たちはたぶん、音羽が“相撲大会”に関わっているとは知らないはずなのに……どうしてお守りを?

 驚いて考えていると、音羽の表情で読み取ってくれたのか、ハルがにっこり笑って答えてくれた。

「京子ちゃんから聞きました。最近、音羽ちゃんいつも眠そうで体調が悪そうだって……。だから、音羽ちゃんも元気になるように二人でお守りを作ったんです!」

「……!」

 鞄に突っ込んでいた手を出して、ハルがそれを差し出してくれる。

 両手で受け取って見ると、生成り色の生地にクローバーの刺繍がされた健康祈願のお守りだった。すごく上手だし、小さくて可愛い。本当の手作りだ……。

 まさか京子とハルが、自分のことをそんな風に心配してくれていたなんて夢にも思わなくて。胸に感動と嬉しさがこみ上げて、じんわりと温かくなる。

「っ……ハルちゃん、京子ちゃん……、本当にありがとう……! すごく嬉しい、大事にするね……!!」

 音羽が言うと、二人は「良かった! 喜んでもらえて!」と満面の笑顔で答えてくれた。

 音羽はお守りを両手のひらで包み、大事に見つめる。こんなに温かい贈り物を友達からもらったのは、初めてだ。ずっと鞄に入れて持ち歩こう。そう思っていると――。


「――あ……」
「っ、おい、ぼーっとするな! 早く行くぞ……!」

「!」

 昇降口から突如聞こえてきた、生徒たちのざわめき。
 心なしか辺りの空気がピリリと張り詰めたものに変わって、音羽はハッと顔を上げる。

 この――怯えたようなざわめきには覚えがあった。校内を一緒に歩いているとき、その姿を、廊下の向こうに見つけたとき。

 今、“彼”がハルたちを見てしまったら、きっと大変なことになる。

「――あれって……!」

 咄嗟にそこまで思い至った音羽が振り返るのと同時に、ツナも声を上げた。


「ひっ、雲雀さんだ!! 並中生じゃない奴を学校に入れたなんてバレたら、絶対に咬み殺されるーーー!!」

「沢田君……! 私が引き留めておくから、早くハルちゃんたちを……!」

「片桐……! あ、ありがとう、頼んだよ!! ――ほら、お前ら!! 早く走って!!」

「えぇっ? ツナさん、どうしたんですか〜!?」

「いいから!!」

 ツナはまだ状況を把握しきれていないハルたちを押して、校舎裏の方へと走って行った。

 ……早めに気が付いてよかった……。もし部外者が並中に紛れているなんて知ったら、雲雀はきっと大激怒だ。

 さすがの彼も女の子に暴力的制裁をすることはないと思うけれど、ビアンキはフリーのヒットマン。戦闘力のある彼女となら、雲雀も戦闘したくなってしまうかもしれない……。ツナは間違いなく、彼のイライラの捌け口で咬み殺されてしまうだろう。


「ふぅ……よかった……」

 皆の姿が見えなくなって、ほっと息を付いた瞬間。

「――何がよかったの?」

「っ……!!」

 背後から聞こえた彼の不機嫌そうな声に、音羽はびくりと身を竦めた。
 
 後ろを振り返って、そろそろ彼を見上げる。と、やっぱりぶすっとした雲雀の顔。

「ひ、雲雀さん、おはようございます」

「音羽……今、誰と一緒にいたの?」

「え……と、沢田君と、京子ちゃんです」

「ふぅん……」

 取り敢えず、正規の並中生である二人の名前を伝えてみた。

 いつも鋭い雲雀を誤魔化せるかどうか……。ドキドキしながら雲雀を窺い見る。

「二人だけには見えなかったけど? 見慣れない生徒たちだったね」

「あはは……沢田君、顔が広いから……。私も知らない生徒でした……」

 ツナたちの走り去った方へ訝しげな視線を投げる雲雀に、音羽は眉尻を下げて微笑んだ。

 彼がこれ以上何も言いませんように……。
 音羽の心の中の祈りが通じたのか、雲雀は意外にもすんなりと視線をこちらに戻してくれる。

「ふぅん、そう。……それで、何を話してたんだい?」

「あ……、それは……」

 彼が深く問い詰めず話題を変えてくれたので、音羽は内心ほっとしながら、今しがた鞄の内ポケットに入れたお守りを取り出した。
 両手に載せて、雲雀に見せる。

「京子ちゃんと、緑中のハルちゃんが、私の健康を気遣ってお守りを作ってくれて。それをもらっていたんです」

「健康……? 音羽、君何かの病気なの」

 雲雀の眉間が厳しく寄せられて、音羽は慌てて首を振った。

「あっ、ち、違いますよ! 病気っていうか……最近リング争奪戦で寝不足で、あんまり元気がなさそうに見えたからって……。まさか私のこと、そういう風に心配して見てくれているとは思わなくて……嬉しかったです」

 彼女たちの優しい笑顔を思い出して、頬が緩んでしまう。大事にお守りを仕舞い直して顔を上げたら――なぜか、雲雀が沈黙していた。

「……雲雀さん?」

 覗き込むと、いつもの無表情。だけど、どこか瞳が不満げな気がする……。

 ――あれ……もしかして、何かまずかったかな……? 女の子の友達からもらったものだし、特に問題ないかなぁと思ったんだけど……。

 思っていると、雲雀はようやく溜息を吐き出した。

「はあ……君、他人に心配されるほど不調をきたしてるなら、無理せず休みなよ。大体昨日遅くなってもいいって言ったのに、今日も時間通り学校に来てるし。今日は寝てた方がいいんじゃない?」

 雲雀は言うと、少し心配そうな目で音羽を見下ろしてくれる。

 ……どこか気に喰わなそうな顔をしていた気がするけれど、気のせいだった……のかもしれない。今の雲雀からは、音羽が思っていたような雰囲気は感じられなかった。

 そのことに胸を撫で下ろし、音羽は肩を竦めて彼に微笑む。

「ありがとうございます、雲雀さん。今日は、早く行けって母に起こされちゃって。でもリング戦も今日で終わりですし、あと一日くらい大丈夫です」

 言うと、雲雀は少し考えるような素振りを見せて――少ししてから顔を上げた。


「…………音羽、今日は授業に出なくていい。教師には、僕から話を通しておくから」

「……えっ?」

「応接室で寝てなよ。そうすればゆっくり休める」

「! で、でも……」

 雲雀の提案は正直眠くて仕方ない音羽にとっては、とても嬉しいものだった。
 でも、皆が授業を受けているのに自分だけ応接室で昼寝だなんて……、何だか申し訳ない。


「――行くよ」

「!」

 返事を渋っていると、雲雀は痺れを切らしたように音羽の腕を掴んで、スタスタと歩き始めた。慌てて脚に力を入れて、踏み留まろうとする。……が、雲雀の歩みは止まらない。

「ま、待ってください、雲雀さん……! 私、まだ休むなんて――」

「いいよ、元々君に決定権はないからね。君は真面目で変に頑固だから、こうでもしないと休まない」

「う……、」

 雲雀に強い口調で言われて、音羽は何も言えなくなった。

 どうやらこの件は雲雀の中で、既に確定事項になっているらしい。そうなれば音羽がどれだけ訴えても覆ることがないのは、よく分かっていた。

 これ以上彼に抵抗する気にはならなくて、音羽は「分かりました……」と彼の後ろを歩き始めたのだった。







 応接室に着いて少しすると、朝のHRを知らせるチャイムが学校に響いた。

 音羽は雲雀に言われて、柔らかい革張りのソファに座らされている。
 彼は応接室の棚の中から何かを取って来ると、それを音羽に差し出してくれた。

「これ、使っていいよ」

「あ、ありがとうございます」

 受け取ると、それはふかふかで大きめのブランケットだった。触り心地がよくて温かい。雲雀も、こういうものを使うときがあるのだろうか。

 考えていたら、彼は身を翻して扉の方に身体を向ける。
 
「じゃあ僕は少し行ってくるけど、すぐ戻るから。大人しくしててよ」

「は、はい」

 雲雀は言うなり、応接室を出て行ってしまった。

 『教師には話を通しておく』と言っていたから、音羽の担任の先生の所に行ってくれたのかもしれない。

 申し訳ないな……と思うけれど、雲雀にそう言ったら前みたいに「授業に出られる方が迷惑」、なんて言われそうだ。
 
 チャイムが鳴って校内がすっかり静かになってしまったのを感じながら、音羽はそんな取り留めもないことを考えた。


 一般教室とは離れているため、応接室は特別静かだ。時計の規則的な音だけが、室内に響いている。

 音羽は雲雀がくれた紺色のブランケットを足元に掛けて、雲雀の帰りを待った。

 眠たいし、すぐ横になりたい気持ちもあるけれど。せっかく雲雀と一緒にいられる時間が出来たのだから、彼が戻って来てから眠りたい。

 ――と、思っていたものの。

「……、……」

 ブランケットのお陰で身体も程よく温まってきて、つい座ったままうつらうつらしてしまう。駄目だ、雲雀が戻るまで起きていないと……。

 落ちかける瞼を半分無理やり持ち上げて、でもまたゆっくり落ちてきて。
 繰り返すその動作と時計のコチコチ静かなリズムが重なって、段々抗いがたくなってくる。

 やがて自分でも気が付かないうちに、音羽の意識はすぅっと吸い込まれるように眠りの世界に沈んでいった。







 雲雀は静かな廊下を歩き、音羽の待つ応接室へと急いでいた。
 
 既にHRは始まっていたので、音羽のクラス――2年A組に赴いて、担任に直接話してきたところである。

 音羽の担任は『雲雀君がそう言うなら……』と言っていたので、問題は一つもない。音羽が無断欠席になることもないはずだ。

 
 ――音羽は、まだ起きているだろうか。彼女のことだから雲雀が戻ってくるまで、眠らずに待っているかもしれない。
 そう思うと、いつになく歩くスピードが速くなる。


 やがて、ようやく応接室の前に着いた雲雀は扉を開けた。

「! …………」

 ソファに腰かけたままの音羽の後ろ姿は、ここを出て行ったときと変わらない。
 やはり起きていたのか、と一瞬思う、が。

 ……耳を澄ませてみると、時計の音に紛れて微かな寝息が聞こえてくる。雲雀は足音を忍ばせて、彼女の前までそっと歩いた。

「……、……」

 音羽はすぅすぅと小さな息を繰り返し、こくこく頭を揺らして座ったままうたた寝している。
 
 雲雀を待とうと頑張ってはみたものの、睡魔には勝てなかった……といった所だろうか。……だとしたら彼女らしい。

 普段なら何が何でも雲雀の帰りを待っていただろうが、それが出来ないほど疲れているのだ。あどけない彼女の寝顔は、どこか幸せそうですらある。

「……君は、無茶ばかりするのにね」

 雲雀は小さく呟いて音羽の寝顔を見つめ、その頭をそっと撫でた。柔らかい髪が指の隙間を通って、心地よく雲雀の手のひらを擽る。

 音を立てずに、雲雀は音羽の隣に座った。彼女の肩を抱き寄せると、安定しなかった頭が重力に従って、こてんと雲雀の肩に凭れかかってくる。

「……ん……」

 音羽は籠った声を漏らしたが、目を覚ますことはない。
 顔にかかった髪を耳に掛けてやりながら、雲雀は音羽の安らかな寝顔を見つめた。


 ……しばらく自分の修行ばかりで、音羽のことを気遣うことが出来なかった。

 彼女は自分のことなど顧みず、いつも他人のことばかり。
 日中は両親に心配をかけまいといつも通り学校に来て、深夜はリング争奪戦のために治癒の力を使い、一般的な体力しか持たない彼女にとっては心身ともにかなりキツい日々だっただろう。

 そのうえ雲雀のことまで心配して、自分の身体が辛いくせに雲雀の怪我まで治そうとする。
 
 そんな彼女だからこそ、無茶をさせないように気に掛けてやらなければならなかった。
 雲雀が半ば強引に音羽を休ませることにしたのは、自身にそんな落ち度を感じたからだ。

 ――そして今日も、音羽は深夜の並中で行われる戦いに必ず行くだろう。雲雀の元にも届いた“守護者招集の紙”は、恐らく音羽の元にも渡っているはず。

 だとしたら、彼女が無理にでも行くのはあきらかだった。例えどれだけ自分の調子が悪かろうとも。……そうなれば、彼女の状態が今より悪化するのは目に見えている。

 雲雀が離れている十五分少々の間に眠ってしまった音羽を見れば、この判断は正しかったと言えるはずだ。


 横から聞こえてくる気持ちよさそうな寝息に、雲雀はふ、と微笑んだ。
 
 膝の上に載せていた音羽の小さな手を取れば、ふっくらと温かい。指を絡めて、けれど起こさないように、雲雀はその手をそっと握った。

 すると自然と思い出す。
 今朝――音羽がこの手に載せていたもの、あのときの、柔らかく綻んだ顔を。


 女友達からもらったという、お守り。

 他人の贈り物が音羽をあんな――嬉しそうな顔にさせたのは、正直面白くない。

 だが、これまで友人に恵まれなかったらしい音羽にとって、笹川京子たちはようやく出来た友人と言える存在なのだろう。
 彼女らから何かを貰ったのも、音羽は初めてなのかもしれない。だとしたら音羽があれだけ喜ぶのも無理はなかった。


 そう思い至ったからこそ、雲雀も何も言わなかったのだが――。

 もし、自分が同じことをしたら。
 彼女は同じように、いや、それ以上に喜ぶだろうか。
 
 雲雀は考えながら、音羽の白くて小さな指に触れて遊ぶ。触り心地がよくてつい指先を軽く撫でていると、音羽が隣で身じろぎした。

「ん……、雲雀、さん……?」

「何?」

「……」

 顔を上げた音羽はぼうっとした顔でこちらを見上げ、眠たげにゆっくりと瞬きしている。

 雲雀は努めて優しい声で聞き返したが、音羽は寝ぼけているのか何も答えない。

 初めて見る恋人の姿に、雲雀は少し面白くなって表情を緩めた。

「横になったら? その方が眠れるでしょ」

 言いながら立ち上がってソファを空けてやると、音羽は小さく頷いて大人しく横になる。――と、まるで引き留めるように、雲雀のベストの裾を少し掴んだ。

「……どうしたの?」

 身体を屈めて覗き込むと、音羽は眠そうな、けれど縋るような潤んだ瞳をこちらに向けて見上げてくる。

「……行かないで、雲雀さん……。側にいて……?」

「……! ……」

 ややあって掠れ声を出した音羽に、雲雀は目を見開いた。

 『側にいて』なんて。

 普段なら恥ずかしがって言わないくせに、今の音羽は驚くほど素直に自分を求めてくる。こんな彼女を見るのも、初めてかもしれない。


 溢れてくる愛しさを、そのまま音羽にぶつけて与えたい衝動に駆られた。今すぐ覆い被さって、ぽってりと赤いその唇を塞ぎたい。

 ……が、雲雀はふぅ、と息を吐いて落ち着けた。せっかく眠くなっているのだ、今は音羽の目が覚め切るようなことをしない方がいい。

 まだ不安そうにこちらを見る飴色の瞳を見下ろしながら、雲雀はベストを握る音羽の手を捕まえた。

「……いいよ。ずっと側にいてあげる」

 囁いて、雲雀もソファに身体を横たえる。

 少し狭いが、音羽の身体を抱きしめれば余裕で二人収まった。右腕を枕にしてやり、左腕を背中に回して彼女を引き寄せる。

 いつもの音羽なら雲雀がこうするだけで身を縮めてしまうだろうが、今日の彼女は柔らかい。うとうととまどろんでいる体温は温かく、鼻先に当たる髪からは甘い香りがした。雲雀も心地がいい。

「あったかい……」

 音羽はおっとりとした声で呟くと、雲雀の胸に顔を埋めた。

 視線をずらして見たら、彼女は幸せそうに微笑んで、またすぅ……と寝入ってしまう。雲雀はまた小さく息を吐いて、音羽の頭をゆっくり撫でた。

 ――何があっても、君は必ず守るよ。

 雲雀は身に触れるぬくもりに強く決意をして、自分もそっと瞼を閉じた。


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