34話 紅の思惑
並中のグラウンドに移動した一同は、唖然としてその場に立ち尽くしていた。音羽も目の前の光景が俄かには信じられず、つい声を漏らしてしまう。
「……うそ……」
「こ、ここが……」
「そう。これが雲の守護者の戦闘フィールド、グラウドグラウンドです」
チェルベッロはいつもと変わらない声で淡々と言った。
半日ですっかり様変わりしてしまった、並中のグラウンド。そこには鋭利な有刺鉄線が円形に張り巡らされ、今夜のフィールドを作っている。
「何ということだ、運動場が……!」
「あ、あれは……ガトリング砲!!」
了平と獄寺が口々に叫んで、音羽も目を凝らしてみた。
たしかに獄寺の言う通り、鉄線に沿って等間隔に、大きな機関銃が設置されている。銃口は全てフィールドの内側を向いていて、どう見てもこれまでの守護者戦のフィールドとは規模が違っていた。
「雲の守護者の使命とは、何者にもとらわれることなく、独自の立場からファミリーを守護する孤高の浮雲」
「故に、最も過酷なフィールドを用意しました。四方は有刺鉄線で囲まれ、八門の自動砲台が三十メートル以内の動く物体に反応し、攻撃します」
言うと、チェルベッロの一人がジャケットに手を入れて、ハンカチのような布きれを取り出した。彼女はそれを丸めると、フィールドの内側に向かって投げる。
――ズガガガガガッ!!!
ガトリング砲は動く布切れにすぐさま反応し、烈しい銃声を響かせてそれを一瞬で何十回も撃ち抜いた。布切れはものの数秒で木っ端みじんになり、ボロボロと地面に落ちる。
「また、地中には重量感知式のトラップが無数に設置され、警報音の直後爆発します」
「!!」
チェルベッロの言葉は、既に顔を引き攣らせていた音羽にさらなる追い打ちをかけた。
――トラップ……それはつまり、地雷だ。
砲台がついている時点でやり過ぎだと思うのに、それに加えて地雷だなんて……。
いくらリング争奪戦が重要な戦いだからといっても、そんなものを持ち出していいのだろうか……。
雲雀は、この恐ろしいガトリングと地雷を躱しながら、さらにヴァリアーのボス補佐官、ゴーラ・モスカと戦わなければいけない。
さすがの雲雀でも、厳しい戦い――で済んだらまだマシな方かもしれない、彼が大きな怪我をする可能性は余りにも高かった。
「まるで戦場ではないか……!」
心臓が重くなるのを感じて眉を寄せていると、了平も堪りかねたように声を張った。すると。
「怖けりゃ逃げろ。てめーらのボスのようにな」
「ししし」
音羽たちとは少し離れた所にいたレヴィが言って、ベルも笑う。ツナを侮辱されれば、当然獄寺が黙っている訳もない。
「ふざけんな!! 十代目は逃げたんじゃねぇ!!」
「ツナは来る必要ねーのさ。雲雀はうちのエースだからな。あいつは負けねーって」
獄寺の隣で、山本も確信めいた口調で言った。
「――エース……」
その言葉に反応したのは――、それまで黙して椅子に座していたザンザスだ。彼は山本の言葉を繰り返し、途端、嘲るように笑いだす。
「ぶはーはっはっ!! そいつぁ楽しみだ!!」
「…………」
「……!」
「あの野郎!」
雲雀を侮ったような彼の態度に、音羽は眉を顰めた。隣にいる雲雀を盗み見たら、彼は無表情ではあるものの、いつもより険しい眼差しでザンザスを見据えている。
「――では、準備が整い次第始めます」
「雲の守護者はご準備ください」
チェルベッロは言うと、フィールドの方へ歩いて行った。気を取り直して、音羽は雲雀を見上げる。
「……雲雀さん、」
気を付けてくださいね、と彼に声を掛けようとしていると。
「――チャオ、音羽♪」
「! ……ベル……」
聞こえたのはベルの声。
振り返れば、彼はレヴィの影からにんまり
器用に松葉杖を使っている――というか、ほとんど使ってない気もする。いつの間にか杖は二本から一本になっていて、どうやら骨折は順調に治ってきているらしかった。
「うしし、いよいよじゃん。音羽のヴァリアー入隊」
「か、勝手に決めないで。――っ、!?」
そんなことあったら堪らない、そう思いながら即答すると、後ろから身体をぐいと引かれた。
「そうだよ、音羽は渡さない。それに、気安く名前呼ばないでくれる?」
真上から低い声が降ってきて、雲雀の腕が鎖骨辺りに回される。後ろを見上げれば、彼は不機嫌そうにベルを睨んでいた。
ベルも不満げに口を曲げ、ほとんど見えないはずの表情に確かな殺気を混じらせる。
「ん……またお前? 渡さないって言ってるけど、大体そいつはオレの姫だっての」
「何寝言言ってんの? これは僕のだ。おかしなこと言ってると咬み殺すよ」
「ししっ、面白いじゃん。オレはいつでも良いぜ、なんなら今でも」
「! ちょ、ちょっと、止めてください!」
今にも二人が武器を取り出し、一戦交えそうで。音羽は慌てて雲雀の腕を解き、口を挟んだ。
あの嵐の守護者戦以来、雲雀もベルもお互いを敵対視している。
でも、雲雀はこれから守護者戦なのだ。ベルと喧嘩している場合じゃない。
雲雀もそれは理解しているのか、音羽を一瞥したあとそれ以上ベルに言い募ることはなかった。
――ただ、ベルはニヤリと笑って肩を竦める。
「……ま、いいや。お前がそんなこと言ってられるのも今のうちだぜ。こっちの雲の守護者はボス補佐だし」
「関係ないね。この子は渡さない、邪魔をする奴は咬み殺すだけだ」
「――ふん……カスザメが言ってたな」
「!!」
二人の言葉の押収に唐突に割り入ったのは、なんとザンザスだった。音羽は驚いて彼を見る。と、その紅い瞳と目が合った。
「てめぇ、そっちの雲の守護者の手つきらしいな」
「……!」
「だが、よく考えろ。一守護者にしか過ぎないその男に従うか、ボンゴレのボスとなるこのオレに仕えるか、どちらが賢い選択かを」
ザンザスは僅かに口の端を持ち上げて音羽に言った。そして、今度は獄寺たちの方に視線を向ける。
「てめーらカスにくれてやるには勿体ねぇ。天の守護者はオレが貰う」
「あいつ……! 勝手なこと抜かしやがって……!」
「…………」
獄寺は舌打ちした。雲雀は黙って、鋭い目でザンザスを睨み付けている。
「……」
音羽は彼の横顔を見上げて固唾を呑んだ。ベルとのやりとりで雲雀は既に苛立っていたけれど、今、彼が纏っている空気はさっきと少し違っている。
明らかな、強い殺気。
雲雀の目が静かにザンザスを捉えているのを、音羽は見つけた。
――ややあって、雲雀はフィールドの方に踵を返す。
「行ってくるよ」
「あ……! 雲雀さん、気を付けて……!」
歩き出す雲雀の背中に声を掛け、音羽は彼を見送った。
雲雀は軽々と鉄線を飛び越えて、フィールドの中に入って行く。
敵のモスカも、準備万端と言わんばかりにフィールド内に飛び入って着地した。
観戦するため、音羽たちもフィールドを挟んでヴァリアーとは反対側に移動する。
学ランをはためかせる雲雀の背を、音羽は祈るような気持ちで見つめた。
◇
「――それでは始めます」
チェルベッロの声が静かに響く。
「雲のリング、ゴーラ・モスカ vs. 雲雀恭弥――バトル開始!!」
もう一人が声を張り上げた瞬間、
――ゴオオッ!!
突然、モスカの両足からエンジンの火が噴き出した。
かと思えばその巨体が宙に浮き上がり、真っ直ぐ雲雀に向かって飛んでいく。
「な!?」
「飛んだ!!」
「そんなんアリかよ!?」
「雲雀さん!!」
音羽は思わず声を上げ、身を乗り出した。
モスカが手を前に突き出し、指先の銃口を雲雀に向けている。
けれど、雲雀は微動だにしない。
それを静かに見つめて――刹那、彼はトンファーを構えて走り出した。同時にモスカの指先に火薬の弾ける光が連続して明滅し、銃声が響く。
雲雀はその銃撃を素早く躱しながら、モスカまでの軌道を駆け抜けた。一つの無駄もない雲雀の動き。彼と、敵の間合いがどんどん縮まる。
雲雀はすれ違うその瞬間に、トンファーを振り上げて――。
ガキン!! ゴキャッ!!!
モスカの左目を叩き潰し、機械の片腕をもぎ取った。
その場に、勢いよく仰向けに倒れるモスカ。
雲雀の背後でビリビリと放電するそれは、やがて大きな音を立てて爆発した。黒煙が巻き上がる中、雲雀は自分の手元を見ている。
「な……」
「え……」
いつの間に取ったのかそれすらも見えなかったけれど、雲雀はモスカが持っていたはずの雲のリングの片割れを自分の物と合わせていた。
音羽たちは全員、呆然として雲雀を見る。
きっと激戦になると思って、緊張して見守っていたのに。あまりに決着がつくのが早すぎて、誰も動揺を隠せなかった。
それはどうやらヴァリアーたちも同じだったようで、ベルやレヴィはおろか、いつもほとんど表情を崩すことがないあのチェルベッロの二人さえ、ぽかんと口を開けて雲雀を見ている。
「これ、いらない」
「え、あ、あの……」
雲雀は雲のリングを完成させると、それをチェルベッロの方に投げた。手のひらでキャッチした彼女は困惑したように雲雀を見たけれど、雲雀はそんなのお構いなしにスタスタとフィールドの中央に進んで行く。
彼の足が向かう先、視線の向こうには、ザンザスが――。
「さあ、降りておいでよ。そこの座ってる君。サル山のボス猿を咬み殺さないと、帰れないな」
「なぬ!」
「なぬじゃねーよタコ。……それ以前にこの争奪戦、オレらの負け越しじゃん。どうすんだよ、ボース」
「…………」
ベルが言うと、無表情に黙っていたザンザスの口元がゆっくりと弧を描いて歪む。
彼はギラギラした目で雲雀を見据えると、立ち上がって地を蹴り、雲戦のフィールドに飛び入った。
「!」
空中に高く飛んだザンザスの脚が、雲雀を狙っている。音羽がつい身構えると、雲雀はトンファーを掲げ、その蹴りを正面から受け止めた。
拍子に、雲雀の羽織っていた学ランがバサリと地面に落ちる。
「足が滑った」
「だろうね」
「ウソじゃねぇ」
ザンザスはひらりと地面に着地して笑みを浮かべた。すると、その足元からピーッ! と地雷の警報音。
爆発の瞬間、ザンザスは流れるような動きでそれを避け、再び雲雀の前に着地する。
「オレはそのガラクタを回収しに来ただけだ。オレたちの負けだ」
「ふぅん。そういう顔には――見えないよ」
雲雀は怪訝に眉を寄せると、ザンザスに向かって走り出した。トンファーを振るい、地雷を避け、彼はザンザスとの間合いを詰めて攻撃を繰り出し続ける。
「雲雀の奴、何をしとる!! 機械仕掛けに勝ったというのに!!」
「雲雀さん……!」
音羽はハラハラと両手を握りながら、雲雀の姿を見守った。なぜ雲雀がザンザスに喧嘩を売ったのか、理由は明らかだ。
勝負が始まる前、ザンザスは雲雀を挑発し、さらには『天の守護者はオレが貰う』とまで言っていた。雲雀がそのときこれまで以上の殺気を放ったことを、音羽は知っている。
きっと、あれらが雲雀の闘争心に火を付けてしまったに違いない。ガトリング砲の銃弾を避けながら、フィールドを戦いながら移動している雲雀の横顔は、いつにも増して鋭かった。
◇
「いつまでそうしているつもり?」
「安心しろ、手は出さねえ」
「好きにしなよ。どのみち君は咬み殺される」
「おのれ〜!! ボスを愚弄しおって!!」
ザンザスを睨んで攻撃を続ける雲雀に、レヴィが憤っていた。ベルは、背中のパラボラを出しかねない勢いの男を静かに制止する。
「待てよ、ムッツリ。勝負に負けたオレらが手ぇ出してみ。次期十代目への反逆と見なされ、ボス共々即打ち首だぜ」
「では、あの生意気なガキを放っておけと言うのか!?」
レヴィはこれでもかと眉を寄せ、悔し気に唇を噛んだ。フィールドを見つめたまま、答える。
「……なんか企んでるぜ、うちのボス」
「!? 何を……だ?」
「知らねえよ。マーモンかスクアーロなら、知ってたかもね……」
ベルは、身を翻しているザンザスを見た。彼はさっきから不敵な表情を一つも崩さずに、向かってくる雲雀を見下ろしている。
――ひょっとしたら彼の目論見通り、事は進んでいるのかもしれない。ベルは、腹の中で秘かに思った。
◇
もう何度目か、雲雀がザンザス目掛けてトンファーを振るったとき、ついにザンザスの光を帯びた拳が前に出てそれを受け止めた。
「手……出てるよ?」
「くっ……」
雲雀の指摘に、ザンザスは小さく舌打ちして手を下ろす。彼は再び雲雀の攻撃を躱すことに徹しながら、言った。
「チェルベッロ」
「はい、ザンザス様」
「この一部始終を忘れんな。オレは、攻撃をしてねぇとな」
含みのある台詞――ザンザスの口が遠目からでも分かるほど、ニヤリと歪んだら。
――ギュイィィン!!!
仰向けに倒れていたモスカから突然、緑色のレーザーが発射された。
「―――」
それは、一瞬の出来事だった。
緑の光線は背後から雲雀を襲い、彼の左脚
「――くっ……!」
「雲雀さん!!!」
途端にそこから噴き出る血。音羽は、青褪めて叫ぶ。
何が起こったのか、すぐには理解出来なかった。けれど何より雲雀はバランスを崩して、地面にがくりと膝をついている。
――早く、早く行かなきゃ……!!
咄嗟にそう思って走り出す。
「待て、片桐!!!」
「っ――、山本君……!」
音羽の腕を掴んだのは山本だった。振り仰げば、彼は必死な形相で音羽を見ている。
「ダメだ、あそこは危険すぎ――っ、伏せろ!!」
「!!!」
宙を見て目を見開いた彼は、音羽の手を引いて地面に滑り込むように倒れ伏した。
すると、すぐ近くで立て続けに起こる激しい爆発。
鼓膜を震わせる凄まじい音と暴風に、音羽は顔だけ上げて後ろを見る。
「っ……!」
さっきまで音羽たちが立っていた場所に、大きな灰色の煙が上がっていた。
たぶん、何かの爆発物が降ってきたんだ……咄嗟に山本が引っ張ってくれたお陰で助かった……。
「げほっげほっ、大丈夫か、片桐?」
「うん、大丈夫……、山本君ありがとう……」
「片桐、山本、芝生、無事か!?」
「何が起きているのだ!?」
山本に助け起こしてもらっていると、獄寺と了平も土煙の中から出て来た。
音羽は彼等の無事を確かめて、急いでフィールドを振り向く。
フィールド内は、爆発の煙が一面に広がって何も見えなくなっていた。その中に目を走らせて雲雀の姿を探すけれど……、見つからない。
何が爆発しているのかも、ここからでは分からなかった。でも烈しい爆発音だけは、まだ絶え間なく響いている。
「……、……!」
どうしよう、混乱した頭で思っていたら、音羽の視界に壊れた有刺鉄線の一部が飛び込んできた。
見ればさっきの爆発のせいか、破壊されたそこからフィールドの中に入れるようになっている。
「……、」
音羽は、息を呑んだ。
このフィールドの中には動くものに反応するガトリングも、上にのるだけで爆発してしまう地雷もある。それに、今は訳の分からない爆発まで起こっていた。
命がいくつあっても足りない状況。
……でも、それは雲雀だって同じはずだ。彼は、まだこの中に……。
――やっぱり……ここで待っているなんて、出来ない……!
「……っ……ごめん……っ!」
「!? 片桐、ダメだ!!」
「なっ!? おい、片桐!!!」
音羽は皆に謝って踵を返した。急き立てられるまま、雲雀のいるフィールド目指して一心に駆け出す。
山本と獄寺が後ろで叫んだのは聞こえたけれど、それでも音羽は自分を止めることが出来なかった。
「っ……」
壊れた有刺鉄線を跨いで、音羽はフィールドの中に入る。幸い一番近くにあるガトリングは壊れているようで、すぐにその銃口がこちらに向かってくることはなかった。
煙の中を見回して、音羽は声を張り上げる。
「雲雀さん!! 雲雀さん!!!」
耳を澄ましてみるけれど、聞こえてくるのは爆発と銃の音だけ。それが今や、フィールドの外からも響いてきている。
音羽の声なんて、簡単に掻き消されてしまっていた。
「…………」
――このまま、走り抜けて彼を探そうか――音羽は俯いて逡巡する。
のろのろ歩いているよりも、走り抜けた方が運よく地雷を避けられそうなものだ。それに、さっき雲雀とザンザスがかなり踏んでいたから、数は少なからず減っているだろう。
立ち尽くし、音羽が覚悟を決めていたときだ。
「――こんな所にいたか、来い」
「っ!? う、っ……!!」
背後から何の気配もなく低い声がしたと思ったら、音羽の身体は急に後ろに引っ張られた。
制服の襟を後ろから掴まれている、喉が、圧迫されてすごく苦しい。音羽は咳き込みそうになりながら何とか少し後ろを振り返った。
――! ザンザスさん……!
首を自由に動かせないので表情までは見えないけれど、視界の端に捉えた姿は間違いなく彼のものだ。
ぶわっ、と恐怖心が沸き上がる。でも、とにかく苦しくて、音羽は服と首の間に指を入れ、少しでも呼吸が出来るようにもがいた。
「ふん、雲の守護者でも探しに来たか。だが、モスカが暴走しちまった今、あいつもこの中で死んでるだろうな」
「……!!」
彼の言葉に肩が震えた。
この原因不明に続いている爆発は、なんとモスカの暴走だったのだ。そしてフィールドにいたはずのモスカの被害を一番に被るのは、同じくフィールドにいた雲雀に違いない。――やっぱり、今すぐ彼の無事を確かめないと……!
「は、なして……っ!!」
音羽は何とか声を絞り出し、ザンザスの手から逃れようとジタバタ身体を動かした。けれど――。
「?! っかは、……ッ」
「オレに口答えすんじゃねぇ。てめぇはオレの天の守護者だ。誰にも渡しはしねぇ」
ザンザスは、掴んだ音羽の襟元をさらに強く締め上げた。容赦ないそのあまりの苦しさに、視界が涙で滲む。息が、上手く出来ない……。
「……」
ザンザスは僅かに身体を起こして、どうやら辺りを見ているようだった。彼の意識が周囲に向いたそのときだけ、僅かに襟を掴む力が緩み、音羽は何とか息をする。
そうして初めて、音羽にも周りを見られるだけの余裕が生まれた。
グラウンドは、もはや煙と炎に呑まれて地獄絵図となっていた。爆発音は既に校舎の方からも聞こえてきていて、一緒に機械のモーター音もする。
視線だけをそちらに向けたら、ザンザスの言った通りモスカが縦横無尽に飛び回ってミサイルを撃ちまくっていた。
このままでは、ここにいる全員が、いつか死んでしまう……。
「……フフ、」
「!」
頭上からザンザスの小さな笑い声が聞こえてきて、音羽は我に返った。
押し殺すような、堪りかねたような声。――やがて、彼は爆音にさえ呑まれないほど大きな声で、高らかに笑い始める。
「ぶはーはっは!! こいつは大惨事だな!!!」
「「!!」」
ザンザスの声は、煙に包まれていた獄寺たちの所まで届いたらしい。灰色の景色の中で、こちらを振り返る彼等と目が合った。
「っ、片桐!? あいつ、片桐を……!」
「あの野郎……! はなっから勝負に関係なく、事故を装って皆殺しにする気だったんだ!! だから雲雀を挑発して……!」
「……!」
爆音に紛れて聞こえた獄寺の言葉。音羽も、全ての辻褄が合うと思った。
雲雀を挑発して戦闘を長引かせ、モスカを暴走させてこちら側の守護者を皆殺しにする。
そして、天の守護者である音羽だけは利用するために、こうして死なないよう自ら捕まえに来たのだ。
モスカのこの暴走が完全に仕組まれたもので、元より皆殺しにするつもりなら……その攻撃に情け容赦などありはしない。
そして、そのモスカの一番近くにいたのは、雲雀なのだ。
襟を押さえる自分の指先が冷たくなった。雲雀に、もしものことがあったらどうしよう。怖くて堪らない気持ちに抗いたくて、音羽はぎゅっと両目を閉じる。
――雲雀さん……! どうか、無事でいて……!
音羽が、そう祈った時だった。
「――貴様、生きてやがったか……」
「……、」
唸るようなザンザスの声が聞こえて、音羽はおずおずと瞼を持ち上げる。
「!!! ひばり、さ……っぅ、く……!」
「! 音羽……!」
そこには、左脚を引き摺りながら、なおもトンファーを握った雲雀の姿。
無事、とは言えないけれど、目の前に現れた雲雀に涙が出た。胸を撫で下ろして、本当は、今すぐ駆け寄りたい。でもザンザスにぐい、と襟を引かれたら、掠れた声しか出なかった。
まるで犬みたいな扱いを受けている音羽を見て、雲雀の目付きが変わる。彼は射殺しそうな視線をザンザスに向けた。
「それ、返してもらおうか」
「ああ? いつからてめぇのもんになった? これはオレの守護者だ。――こいつがいれば、オレの次期十代目の座はより確かなものになる。初代以来不在にしていた天の守護者を従えたとなれば、頭の固い上層部の連中も認めざるを得ない。……このオレが、真にボンゴレ十代目に相応しいとな!」
「っ……!」
――そんなことのために……!
怒りを感じて、でも何も出来ずに捕まっている自分が悔しくて、音羽は唇を噛みしめる。
「ボンゴレなんてどうでもいいよ。でも、その子は渡さない」
雲雀は言い切ると、全身に殺気を漲らせて駆け出した。
けれど、一瞬だけ。
雲雀が僅かに眉根を寄せた気がして、音羽は息を呑む。
「!」
――雲雀さん、脚を怪我してるから……!
モスカのあの緑の光線が、彼の太ももを射抜いていた。
貫通はしていなかったはず――でもよく見たら、雲雀の立っていた場所に血痕がある。
まだ止血できていないのかもしれない、このままザンザスと戦ったら、傷が広がってしまう。
――それに、私が捕まったままだと雲雀さんも自由に戦えない……!
「――っ!」
音羽は、雲雀がザンザスに攻撃するより早く、思いっきり身体を捻った。その勢いに任せて、ザンザスの身体を目一杯突き飛ばす。
「チッ……!」
ザンザスは雲雀に気を取られていたのか、後ろに少しよろめいた。その拍子にきつく掴まれていた襟は放され、音羽はようやく大きな息を吸い込みながら雲雀の元へ駆け出す。
――だが、
「雲雀さ――、!?」
相手は、イタリア最大マフィアのボス候補。
音羽が雲雀の名前を呼ぶ前に、ザンザスは音羽の片腕を掴んで自分の方に引き寄せた。
「オレから逃げられると思うな」
「っ……!」
降ってきた怒りを孕んだ声に、音羽は一瞬身を竦める。
でも、すぐに自分を奮い立たせた。
このままザンザスに捕まるなんて、彼の守護者になるなんて、絶対に嫌だ。
だって、雲雀はすぐそこにいるのに――。
音羽は勇気を振り絞り、勢いよく顔を上げた。苛立ったザンザスの紅い瞳と視線がぶつかり、真っ直ぐそれを睨み付ける。
僅かに見開かれるその目を見据えて、音羽は声を上げた。
「私は、あなたのものじゃない……! 沢田君たちが……雲雀さんがいるから、私は守護者になるって決めたんです! それに、今日雲雀さんは勝ってくれた……! だから私は、あなたの守護者にはなりません……!! 」
大きな声ではっきりと言い切って、強く腕を引く、と。
「!?」
ザンザスはあっさりと、音羽を掴んでいた手を放した。
こんなに簡単に逃がしてくれるなんて想像もしていなかった音羽は、目を丸くする。
一体どうして……、つい浮かんでしまったその疑問に、足がすぐ動かなかった。
眼前のザンザスはフッと笑う。そしてそのまま、音羽の顎を片手で荒々しく掴んできた。
「んっ……!」
大きな指で頬まで押さえられて、くぐもった声が出る。持ち上げるように動かされれば、顔を上に向けるしかなくて。
ザンザスは興味深げにそれを細め、音羽の瞳の中を覗き込んできた。
「ふん……まだガキかと思っていたが、どうやら傾国だとかいう噂も本当らしいな」
「!」
「このオレに歯向かうとは面白ぇ。必ず貴様を手に入れてやる、片桐音羽」
――ヒュッ!!
ザンザスが言った瞬間、目の前に銀の閃光が煌めいた。
その一瞬間にザンザスは音羽から手を放し、後ろに飛び退く。
彼の姿は、煙の中に消えてしまった。
「雲雀さん……!」
音羽の目の前には、トンファーを構えた雲雀が立っていた。銀の光はトンファーで、彼が、庇うように音羽のことを守ってくれたのだ。
「本当に、君は隙がありすぎだよ」
雲雀は不機嫌そうに眉を寄せていたけれど、瞳はどこか安心したような、柔らかい色をしていた。
「ご、ごめんなさい……、ありがとうございました……。っそれより雲雀さん、怪我は……!?」
「大丈夫だよ、これくらい」
「! ダメです! まだ血も止まってないですし……! すぐ、治しますから……!!」
音羽は押し切り、屈んで雲雀の脚に手に翳した。
やっぱり止血する暇などなかったのだろう、血は溢れ続け、彼の制服の黒いズボンに染み込んでいる。彼の顔色が悪いはずだ……。
音羽は唇を噛みながら、意識を手のひらに集中させた。すぐに、温かい光がそこに灯って、雲雀の傷を治していく。……よかった、たぶんそこまで深くない。
息を付きながら『あと少しだ』と思っていると。
「――やべぇ!!」
「挟まれた!!」
不意に、獄寺と山本の叫び声が煙の向こうから聞こえてきた。
「!?」
ただ事ではなさそうな二人のその焦った声に、音羽は思わず手を止めて顔を上げる。
見ればフィールド内の向こう側で、観戦に来ていた犬と千種、そしてクロームが地面に倒れ伏していた。
彼等はガトリングに狙われて、しかもモスカにもターゲットにされている。モスカの胴体の中心部分にある穴が、コオォッと光っていた。
きっと、あそこから出る砲撃がこの惨劇を招いたのだ。
だとしたら、クロームたちは……。
もう駄目だ――この場にいる誰もがそう思ったように、音羽の頭にもそれが過った。
ガトリングがクロームたちを捉える、モスカの砲撃が光って、勢いよく放たれた、瞬間。
――オレンジ色の大きな炎の壁が現れて、クロームたちを守った。
その炎は銃弾も砲撃も受け止めて、爆発音とともに大きな煙を立ち昇らせる。
やがて小さく静まった炎、晴れていった煙の中に、人影が浮かび上がった。
「……! 沢田君……!」
そこにいたのは、額に死ぬ気の炎を灯したツナだった。