32話 水の中で想う

 クロームが包まれたはずの霧の中から、突如現れた一人の少年。バジルや了平、ヴァリアーたち――彼を知らない人は皆、唖然として体育館の中央を見つめていた。


「六道骸……! 間違いない、」

「骸……無事だったんだ……」

「……骸さん……」

 黒曜ランドで彼――六道骸と会ったことのある獄寺とツナ、そして音羽は、紛れもないその姿に息を呑む。

「お久しぶりです、舞い戻って来ましたよ。――輪廻の果てより」

「……!」

 なめらかな声で言って、骸は顔だけをこちらに向けた。

 赤と青のオッドアイ。視線が合わさると、彼のそれがどこか優しげに細められる。

「会いたかったですよ、傾国」

「……、」

 骸はあのときと同じ、恍惚とした眼差しをこちらに注いできた。

 けれどあのとき起こった出来事は、今も音羽の身に染み付いている。獄寺たちや草壁、そして雲雀が彼に痛め付けられたこと。雲雀の、血だらけになった姿――。
 
 音羽は唇を引き結び、身を硬くした。あのとき感じた恐怖が足の裏からじわじわと上ってきて、思わず一歩後退ってしまう。

「……おやおや、随分怖がられてしまっているようですね。――僕は、貴女のためにここにいるのに」

「……え……?」

 骸の呟きに、音羽は目を丸くした。思わず声を出してしまったけれど、骸はただ微笑して前を向き直ってしまう。

 ――どういうこと……? 私のため……?

 よく分からない。考えてみても答えは出なくて、意味ありげなことを言った張本人は、もう勝負の相手を見据えている。


「六道骸……どこかで聞いた名だと思ったが、思い出したよ。確か一月ほど前だ、ヴィンディチェの牢獄で脱走を試みた者がいた。そいつの名が、六道骸」

「あの鉄壁と言われるヴィンディチェの牢獄を……」

 身体を起こしふわりと宙に浮き上がったマーモンの言葉に、レヴィが顔を引き攣らせる。ツナも「また脱走したのーー!?」と、声を上げた。

 並盛を襲撃してきたあのときも、たしか骸は脱獄してきた……という話だったけれど。

 どうやら“ヴィンディチェの牢獄”は、それ以上に脱獄が難しい場所らしい。ヴァリアー側の反応を見たら、そこがマフィアにとっても特別な所だということはよく伝わってきた。

「……だが、脱走は失敗に終わったはず。さらに脱走の困難な、光も音も届かない最下層の牢獄にぶち込まれたと聞いたよ」

「クフフフ。ボンゴレが誇る特殊暗殺部隊ヴァリアーの情報網も、たかが知れてますね。現に僕はここに在る」

 マーモンの言うことが本当なのか、音羽には分からなかった。骸も笑って明言はしない。マーモンは、うんざりしたように小さく息を吐いて言う。

「面倒くさい奴だなあ。いいよ、はっきりさせよう。君は女についた幻覚だろ」

「おや」

 言うなりマーモンのフードがはためいて、その中にある暗い闇からビュウッ!! と激しい風が吹き出した。しかもただの風じゃない、とても冷たい吹雪だ。それが骸を足元から凍らせていく。

「うわあ!!」

「寒い、凍えて死んでしまうぞ!!」

「っ……ぅ、」

 冷気は勢いよく吹き荒び、観覧席にいる音羽たちまで襲ってきた。了平の言う通りとても寒い……こんな状態が続いたら、本当に身体が凍ってしまいそう――。

「幻覚で出来た術士に負けてあげるほど、僕はお人好しじゃないんだ」

「――!」

 聞こえてきたマーモンの声。痛いほど冷たい風に耐えて顔を上げれば、骸はもう、頭のてっぺんから足の先まで氷漬けにされていた。立ったままの骸の姿が、水晶のような氷の中に閉じ込められている。

「完全に凍ってしまったぞ!」

「じゃああの骸は……幻覚!?」

「そんな……」

「さて、化けの皮を剥がそうか。もっとも、砕け散るのはさっきの女の身体だろうけどね」

 マーモンは吹雪を止めて、今度はフードの中に大きなハンマーを取り出した。骸目掛けて、一直線に飛んでいく。

「やべえ!」

「骸さん……!」

 音羽も、思わず声を上げてしまう。マーモンがどんどん距離を詰める。ハンマーが、今にも骸を叩き壊そうとしたその瞬間。


「――クフフフ、誰が幻覚ですか?」


 彼の声が聞こえると同時に、床から(つる)のようなものが束になって飛び出してきた。まるで火山が噴火するような勢いで出たそれは、近距離にいたマーモンに絡み付き、締め上げる。 

 蔓の先についていた蕾が開き、桃色の蓮の花がふわりと咲くと――骸を封じていた氷が溶け出した。マーモンは呻く。

「ムグ……! 何て、力だ……! く、苦しい……」

「やっぱり、本物なんだ……」

「しかし……だとしたら、さっきまでの女はどうなるんですか……?」

 ツナの呟きに獄寺が尋ねると、リボーンが。

「クロームと骸を分けて考えちゃダメだぞ。クロームがいるから骸は存在し、骸がいるからクロームは生きていられるんだ」

「……?」

「い、意味分かんないよ……」

 まるで謎かけのような彼の言葉に、音羽もツナも首を傾げた。


「――さあ……どうします? アルコバレーノ。のろのろしていると、グサリ……ですよ」

「ムゥ……!! 図に乗るな!!」

 骸が三叉槍を携えると、マーモンの藍色のおしゃぶりが光って蔓を焼き切った。幻覚で何十人にも増えたマーモンは、同時に骸に襲いかかる。

「……惰弱な」

「! あの目の炎は!! 格闘スキルの修羅道だ!!」

 能力を使った骸は槍を振るい、マーモンの幻覚を次々と切り捨てた。

「ムムゥ! 格闘の出来る術士なんて邪道だぞ! 輪廻だって、僕は認めるものか! 人間は何度も同じ人生を無限に繰り返すのさ! だから僕は集めるんだ! 金をね!!」

 マーモンが宙に高く飛ぶと、それまでその頭上に浮かんでいた蛇が、円盤のようなものに姿を変えた。――刹那、世界が歪む。壁は揺らぎ、天も地もなく床はうねって崩れ落ち、足場が、どんどんなくなっていく。

「――きゃっ……!」

「片桐!」

 後退った拍子にずるん、と足が滑り、音羽は間一髪の所で獄寺に腕を掴まれた。

 まだ平行に残っている足場に引き上げてもらって下を見ると、そこには底知れぬ闇が広がっている。音羽はぞわりとして唾を飲んだ。

「大丈夫か?」

「う、うん……ありがとう、獄寺君」

 ほっと胸を撫で下ろして辺りを見たら、ツナも落ちそうになっていた所を山本に助けてもらっていた。了平やバジル、リボーンもいる。ひとまず全員無事なようだ。

 音羽はもう滑らないよう足元に注意しながら、前を見た。

「クハハハ! 強欲のアルコバレーノとは面白い……。だが、欲なら僕も負けません」
 
 骸はこの歪んだ景色のなか、床もない立てるはずのない所に真っ直ぐ立って、楽しそうに笑う。彼は三叉槍を一文字に握った。


 直後、火を噴くような轟音。でたらめの景色に蓮の花を纏った火柱が何本も、縦横無尽に立ち昇る。――ああ、何だろう……すごく……気持ち悪い。

「ぅ……っ……」

 視界が、急にぐちゃぐちゃになって。音羽は口を押さえながら蹲った。

 頭が痛くてグラグラする。自分が回っているのか、それとも周囲が回っているのかも分からない。平衡感覚も空間認知も、何もかもがおかしかった。

「――おい片桐、片桐!! っ!? 十代目……!」

 最後に聞こえたのは、獄寺の心配そうな声だった。早く返事をしなくちゃ――そう思ったけれど、意識はふっと“そこ”から離れた。







 ――ゴポッ……。

 
 静寂の中にあったのは、空気が水に溶ける音だけだった。閉じた瞼の向こう側は真っ暗で、まるで世界に一人取り残されたような静けさが響いている。

 音羽は、恐る恐る目を開けた。

 さっきまで体育館にいたはずなのに――今は見知らぬ景色が目の前に広がっている。暗くて深い、水の中だ。でも不思議と呼吸はできて、口を開けると息が泡になって零れ出る。

「――!」

 しばらくすると目が慣れてきて、闇の中に薄っすらと浮かぶ“何か”が見えた。

 ――大きな、ガラスの筒。

 ちょうど人が一人入りそうなほどの大きさで、外側のガラスにはパイプのような器具が沢山張り巡らされている。

 筒は黒い天井から伸びた鎖に繋がれ、水の中に浸かっていた。ガラスの中も、何かの液体で満たされている。辺りには他にも同じものが幾つか見えた。

 ――何だろう……ここ……?

「!」

 周囲を見回し、「もっとよく見たい」と思ったら景色の方から音羽に近付いてきた。音羽は動いていないのに、ガラスの筒の一つが目の前に。


 ……中に、誰か入っている。あれ、は、。

「!! ―――、」

 ――骸、さん……?

 発したはずの声は、泡になって水に消えた。
 
 ガラスの向こうにいる少年――顔立ちが間違いなく彼だ。

 骸は至るところを鎖で拘束され、あのパイプ器具を身体のあちこちに繋がれていた。不思議な彼の右目も、似たような器具で塞がれている。

 ……このガラスの筒はたぶん、水牢だ。囚人を閉じ込めておくための。


 眠るように瞼を閉じている骸は、どうやら意識がないようだった。身体に繋がれた器具、服の隙間に見える腕、に書かれた人工的な記号や文字の痕が、ひどく痛々しい。

 こんな場所に捕らえられているのだ、ここで生きられるような薬や道具を、沢山使われているのかもしれない……。

 ショックか恐怖か、あるいはその両方で音羽は息を呑んだ。胸がズキ、と痛くなる。

 目を閉じている彼の顔を見ていたら、そのときふと、静寂を破る声がした。


『――骸様……もう追手が……』

『――ダメれす! 逃げられないびょん!!』

 千種と犬だ。一体どこに――、声のした方を振り返ったら。


 音羽もう、違う場所に立っていた。


「!」

 ――また、見たこともない景色。夜だ。空が暗くて、辺り一面の草原。見通しがいい。

 犬と千種、それから骸は、所々怪我をして地面にしゃがみこんでいた。三人とも息が荒い。誰も、音羽のことは見えていないみたいだ。


『クフフ……、さすが鉄壁と言われるヴィンディチェの牢獄……。伊達じゃありませんね……』

 骸が言うと「オオオォォ」と、遠くで“人ではない何か”の吠える声がする。きっとそれが、脱獄囚である彼等を追いかけて来ているのだ。直感的に音羽は思う。

『ここからは別れて各々で逃走しましょう。僕一人なら何とかなりますが、お前たちがいては足手纏いだ』

 犬と千種は渋っていたが、やがて骸の言葉通り先に逃げた。

 残った骸は、いつの間に追いついて来たのか――恐らくヴィンディチェの集団に鎖を付けられる。首に。見たこともないような、太い鉄の輪が嵌められていた。

『ナカマヲタスケルタメ オトリニナルトハ……マアイイ……シュハンハ コノオトコダ』

 顔や身体を、包帯のような布で覆った黒マントの集団。性別も判然としない声で彼等は言って、骸を連れて行ってしまう。

 黒曜ランドで見たときよりも痩せたように見える彼の背を、音羽は呆然と見送った。――彼は、犬と千種を逃がすために……。

「…………、!」

 言い様のない感情に襲われて、音羽はぎゅっと拳を握る。するとまた、別の声が聞こえてきた。


『――いいだろう。逃走中の柿本千種と城島犬の保護は、私が責任を持つ』

 どこかで聞いたことのある声だった。大人の、男の人の声。

 また後ろを振り向けば、夜空はぐんと遠くなる。薄く差す光、草地ではない床。音羽は黒曜ランド……のような、廃墟の一室に立っていた。
 
 汚れの目立つ床に、窓の格子の影が淡く落ちている。ヒビの入った窓の側には椅子が一脚置かれていて、そこに音羽と同じ年くらいの女の子が座っていた。

 ――クロームちゃんだ。

 肩に付くくらい髪が長くて、右目はガーゼの眼帯で覆っているけれど。大きくて綺麗な紫の瞳は、間違いなく彼女のものだ。

『クフフ……、物好きですねぇ。僕は、全ての能力を取り上げられてしまいましてね。特異なこの娘の身体を借りても、僅かな時間しかこちらに留まることは出来ませんよ』

『……それでも構わない。君に、ツナの霧の守護者になってもらいたい。……六道骸』

 クロームの澄んだ声で骸が言うと、彼と相対していたスーツの男性が答える。

 男性は――雷戦のときに音羽も少しだけ見た、ツナの父親だった。たしかリボーンが“家光”と呼んでいた気がする。彼等の会話からして、きっとリング争奪戦が始まる前のこと、なのだろう。


『“彼女”も、そこにいるのですね?』

 骸は家光を静かに見ると、少しして目を伏せた。

『……片桐音羽は、既に完成したリングを持っている。リング争奪戦には加わらない。……つまり、』

『彼女はもう、ボンゴレの人間。沢田綱吉が勝とうと、ザンザスが勝とうと』

『ああ、そうだ』

『……それは厄介ですね。彼女に暗殺部隊など似合わない』

 骸は可笑しそうに笑って言うと、瞼を持ち上げて家光を見る。

『いいでしょう。マフィアに手を貸す気はないが、僕とそちらの利害は一致していますからね――』

 彼のその言葉を聞いた途端、周囲の景色がぐらついた。二人の姿が、声が、遠くなっていく――。







「――い、おい、片桐!!」

「!!」

 ガクガクと肩を揺すられ、音羽の意識は唐突に浮上した。すぐ側で獄寺の声がする、音羽はぱっと目を開けた。

「、痛っ……」

 全然記憶になかったけれど、音羽は体育館の床に倒れてしまっていた。

 身体を起こそうとすれば側頭部に引き攣るような痛みがして、指で押さえる。上体を起こしたら、獄寺が心配そうな顔をしてこちらを覗き込んだ。

「片桐、大丈夫か? お前も十代目も、急に様子がおかしくなって……」

「うん、大丈夫……ありがとう……」

 頷いて答え、音羽は立ち上がりながらツナを見た。少し顔色は悪かったけれど、ツナの瞳はしっかりしている。

 それに、彼の表情が――骸を見る面持ちが、さっきと違っていた。
 それが何となく分かる気がして、音羽も体育館の中央を向く。


「!」

 体育館に、既にマーモンの姿はなかった。

 見えるのは骸の背中だけで、彼の眼前には正体不明の大きな黒い塊が浮いている。
 ……あれは、何だろう? 気を失っているあいだに、何が起こったのか……。

 思った瞬間――、黒い塊は方々に弾け飛んだ。骸の周りにあの綺麗な蓮の花が咲き乱れる。

「堕ちろ、そして巡れ」







 あの大きな黒い塊の正体は、なんとマーモンだったらしい。それを骸が倒したことで、歪んでいた景色は元の姿を取り戻した。

 煙の中から現れた骸は、片膝をついて左手を前に差し出す。

「これで……いいですか?」

 彼の手のひらに輝くのは、完成した霧のリングだった。その鈍色の光に、チェルベッロの二人は顔を見合わせ頷き合う。

「霧のリングはクローム髑髏のものとなりましたので、この勝負の勝者はクローム髑髏とします」

「え……ちょ、そんな……、そこまでしなくても……!」

 思わず、といった様子でツナが声を上げた。彼は、バラバラに消え去ってしまったマーモンのことを言っているのだ。

 骸はそんなツナに冷たい視線を投げ返すと、ゆったり立ち上がる。

「この期に及んで敵に情けをかけるとは……どこまでも甘い男ですね、沢田綱吉。……心配無用、と言っておきましょう。あの赤ん坊は逃げましたよ、彼は最初から逃走用のエネルギーは使わないつもりだった……。抜け目のないアルコバレーノだ」

「……ゴーラ・モスカ。争奪戦後、マーモンを消せ」

 ザンザスは顔色一つ変えないで、補佐官に無情に命じた。ゴーラ・モスカは、まるで「イエス」と言うように煙を吐き出す。

「全く、君はマフィアの闇そのものですね、ザンザス。……君の考えている恐ろしい企てには、僕すら畏怖の念を感じますよ」

「…………」

 骸の声には軽蔑したような響きがあった。ぴくり、とザンザスの眉が顰められる。

 少しのあいだ流れた沈黙。緊迫した空気の中、先に口を開いたのは骸だ。

「なに、その話に首を突っ込むつもりはありませんよ、僕は善い人間ではありませんからね。…………ただ、彼女を傷付けるようなら、君とは戦うことになる」

「!」

 こちらを振り返った骸と、目が合って。音羽は思わず息を呑んでしまう。

「クフフ……、それからもう一つ。君より小さく弱いもう一人の後継者候補を、余り弄ばない方がいい」

 ザンザスにそれだけ言うと、骸は踵を返してこちらに歩んで来た。犬と千種が、嬉しそうに彼に駆け寄る。

「骸様……!!」

「すんげー!! やっぱ強ぇーー!!」

「てんめーーー!! どの面下げて来やがった!!」

「おい、獄寺!」
「獄寺君……!」

 一方、威嚇してダイナマイトを取り出す獄寺を、ツナと山本が宥める。骸は鼻で笑った。

「それくらい警戒した方が良いでしょうねぇ。僕も、マフィアなどと馴れ合うつもりはない。僕が霧の守護者になった理由の一つは、君の身体を乗っ取るのに都合が良いからですよ、沢田綱吉」

「なっ……! やはり、てめえ!!」

「……」

「!」

 今にも飛びかかりそうな獄寺を一瞥すると、骸がこっちを見た。音羽の方に、彼は真っ直ぐ歩いて来る。

 「てめえ、片桐に何する気だ!?」獄寺が叫んだけれど、音羽は動かなかった。身体はさっきのように硬くなる。でも……もう、後ろには下がらない。

「おや……。もう僕を怖がらないでいてくれるんですね」

「……骸さん……」

 骸は音羽の目の前で足を止めると、眼差しを和らげて微笑んだ。彼を見上げて――戸惑ってしまう。

 もちろん骸は怖かったし、許せなかった。彼は、雲雀にたくさん怪我をさせた人だ。友達にも酷いことをした。

 でも、さっき見た光景――。

 水牢に捕らえられた、痛々しい本当の骸。犬と千種、仲間を逃がすために自分が犠牲になったこと。彼は第一に二人の安全を確保しようとしていた。


 信用……していいのかは分からない。ただ、今まで抱いていた彼への印象が、音羽のなかで少なからず変わったのは確かだった。

 彼は残虐で、雲雀に酷い怪我をさせた人で。彼のしたことは忘れられないし、忘れてはいけない。

 ――けれど、彼のなかにも仲間を想う気持ちがあるから。
 犬や千種、それからクロームも、彼を慕って協力しているのではないだろうか。……つい、そんなことを思ってしまう。

「クフフ……僕の“記憶”を見てくれたのですね。そして迷っている。……ですが、それが真実とは限りませんよ。貴女のその顔を見るために、僕が見せた幻かもしれない」

 戸惑いが顔に出ていたのか、骸は微笑したままそう言った。相変わらず彼の真意は掴めない。どうして、そんなことを言うのかも。


 けれど、音羽にはあれが“幻”だとは思えなかった。彼が、仲間を逃がすために『足手纏いだ』と言う人なら。

「……私は……あれは、本当だったと思ってます」

 骸から目を逸らさずにそれだけ言うと、彼は静かに目を瞠った。

 微かに揺れる、色違いの瞳。小さな光が宿ったそれを、骸はゆるりと細める。

「……貴女という人は、本当に――」

「!」

 骸は切なげな、愛おしそうな声で囁いてこちらに一歩踏み出した。急に縮まった距離の近さに驚いて、さすがに半歩下がってしまう。
 が、それと同時に頭上の彼はふと笑んで、音羽の頭をふわりと撫でた。音羽が反射で身を引くより早く、流れるような手つきで髪を一束掬われる――と、骸の顔がそこに近付いて。


 ちゅ、と髪に口付けられた。


「っ……!!」

「「なっ……!!」」

 思いもしなかった骸の行動に、音羽は固まって息を呑んだ。横にいたツナたちからも驚いたような声が上がる。離れなきゃ、と思うのに、びっくりしすぎて身体が動かなかった。

「僕がここにいるのは、貴女を汚れたマフィアなどにさせたくないからです。……それだけは、信じていただいて構いませんよ」

 骸は音羽の髪に顔を寄せたまま、視線だけを持ち上げて言う。はっきり言葉を紡ぐ声は、いつもより真剣だ。きっと嘘偽りはないのだと――思ってしまう。

「骸さん……」

 音羽の髪をするりと手放した骸は、屈めていた身体を起こした。熱くて、穏やかな虹彩が音羽を見下ろす。

 そこに見える感情(もの)、向けられる気持ちが、あまりにも率直で狼狽えた。

 自分には応えられない、音羽がそう思っていることさえ、彼は気が付いているように微笑んでいる。


 けれど、骸は不意にゆっくりと瞬いた。長い睫毛が伏せられた、と思うと。
 
「少々、疲れました……。音羽……また、いずれ……。この娘を」

 ――頼みますよ。
 
「! 骸さ――」

 ふらりと傾く骸の身体。その直前、彼の唇がそう動いた気がした。骸は前のめりになって、音羽の方に倒れ込んでくる。

 かなり身長差があるし、受け止めきれる訳がない、そう思って焦ったけれど――。
 
 音羽の方にしなだれかかってきたのは、骸ではなかった。ぽす、と胸に抱きとめたのは、華奢なクローム。驚きながら、音羽はほうっと息を吐き出した。


 骸はあの記憶のなかで、“クロームの力を借りて、少しのあいだならこちらに留まることが出来る”と言っていた。

 だからクロームが骸になって、骸からクロームに戻ることは、きっとあり得ることなのだろう。そう思えば、リボーンが言っていたあの不思議な言葉の意味も分かる気がする。


「片桐、大丈夫!? この子の内臓は!?」

 真っ先に駆け寄ってくれたのはツナだった。彼はクロームの左肩を担いで、支えるのを手伝ってくれる。リボーンも、いつの間にか足元に来ていた。

「心配ねーぞ。クロームの内臓は、骸の強力な幻覚によって機能している」

「よ、よかった…」

 ツナは息を付き、音羽も胸を撫で下ろした。耳元では、クロームの穏やかで規則的な寝息が聞こえる。

「……犬、行こう」

「うぃ」

「えっ……」

「ちょ、この娘放置ですか!?」

 犬と千種は真っ先に体育館の入り口へと踵を返した。クロームを置いて行くつもりらしい彼等に、音羽もツナも愕然としてしまう。

 犬は、こちらを振り返って眉を寄せた。

「起きりゃ自分で歩けんだろ? その女ちやほやする気はねーし。……そいつは、骸さんじゃねーからな」

「…………」

「同情すんなよ、ツナ。お前は骸のやったことを忘れちゃならねーんだ」

「!」

 どこか重苦しい空気で沈黙したツナに、リボーンがいつもより低い声で言った。それはまるで釘を刺すような言い方で、ツナは図星をさされたような顔をしている。

 ……ひょっとしたら、ツナも彼の“記憶”を見たのかもしれない。ツナは、音羽と同じタイミングで様子が変わったらしかったから……。


「…………」

 『お前は骸のやったことを忘れちゃならねーんだ』。

 リボーンの言った言葉―――音羽は胸の中で反芻して、静かに目を伏せた。







 結局、犬と千種は本当にクロームを置いて帰ってしまった。ツナと「どうしようね……」と話しているうちに音羽は片腕が疲れてしまって、秘かに苦悶していると、一番近くにいた山本が気付いて変わってくれる。

 固まっていた腕を動かしていたら、ちょうどチェルベッロの二人が声を発した。


「――では、勝負は互いに三勝ずつとなりましたので、引き続き争奪戦を行います」

「明日はいよいよ、争奪戦守護者対決最後のカード……雲の守護者の対決です」

「!」

「雲雀の出番だな」

「ああ!」

 ――いよいよだ……。

 音羽は、自分の心臓が今までになく大きく跳ねるのを感じた。

 今までどの守護者戦も、緊張しながら見守ってきた。でも、大切な――雲雀の戦いを見るというのは、これまでの感じと少し違う。心臓がいつも以上にドキドキとうるさくて、音羽は気を落ち着けるように唾を飲み下した。

「――おい、ザンザス」

 一歩前に進み出たのはリボーンだ。彼は敵の大将を見据えている。

「どうするんだ? 次に雲雀が勝てばリングの数の上では四対三となり、既にお前が大空のリングを手に入れているとはいえ、ツナたちの勝利は決定するぞ」

「!」

「そん時は、約束通り負けを認め、後継者としての全ての権利を放棄するんだろうな」

「あたりめーだ。ボンゴレの精神を尊重し、決闘の約束は守る。雲の対決でモスカが負けるようなことがあれば、全てをてめーらにくれてやる」
 
「!!」

「認めたくねーが、あいつなら……」

 不敵な笑みではっきり言ったザンザスを見ながら、獄寺が呟く。けれど、リボーンは神妙な面持ちだった。

「だが、あのザンザスがここまで言い切るということは……あのモスカって奴が、絶対に勝つという確信があるからだ」

「! それって、雲雀さんが……」

 ツナは言葉を呑んで、それ以上何も言わなかった。彼が何を考えているかは、想像に難くない。最悪の結果、だろう。

 ……でも。

 
「……」

 音羽はぎゅっと下ろした拳を握り、ヴァリアーを見据えた。

 明日で全てが決まる。
 音羽がヴァリアーになるか、雲雀の側にいられるか。全ては雲雀の戦い次第だ。もちろん気は張るし、雲雀が怪我をしないか心配はある。

 でも、不思議と音羽に不安はなかった。――不安になるたび、蘇ってくるのだ。

 雲雀の、自信に満ちた強い言葉が。


 『僕を信じて』。


 そう言った彼の、迷いのない瞳。思い出すと、きっと大丈夫だと思えてくる。雲雀ならきっと、勝ってくれる。


 ――信じてます……、雲雀さん……。

 
 宙を仰いだ音羽は、そこに大好きな彼の姿を想い描いた。誰よりも大切な彼の言葉が、音羽の心をしっかりと支えてくれる。

 彼が隣にいる未来を、音羽は信じた。


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