30話 慈雨とも言える
嵐戦の翌日。ここ数日の旅と戦闘の疲れを癒すべく今日の修行は休みなのだが、ディーノは雲雀にリング争奪戦の話をするため、昼の並盛中学校を訪れていた。
昨晩彼も並中で音羽に会って、色々と状況を把握したはず。
今なら争奪戦の話にも耳を貸すかもしれないと思い今朝連絡したら、案の定雲雀も気になっていたのかようやく承諾の返事がきたのである。
――ったく、争奪戦の話が今頃になるなんてな。手の焼ける生徒だぜ……。
思いつつ、ディーノは来賓用の玄関から校舎に入った。
ちょうど休み時間なのか、校舎全体がどことなく騒がしい。廊下を行き交う生徒が、好奇に満ちた視線をディーノに投げてくる。
あまり人目に触れたくないが……、どこからどう見ても外国人の青年であるディーノが日本の中学校内で目立たないはずがなかった。
「ねぇねぇ、あの人! 超カッコよくない!?」
「ほんとだぁ……! すっごいイケメン!!」
「…………」
通りすがりの女子生徒が黄色い声を上げながら、熱い視線をこちらに送ってくる。目が合ってつい苦笑すると、彼女たちは「キャー!!」と歓声を上げて走り去ってしまった。ディーノはふぅ、と息を吐きスリッパを履く。
階段を目指して廊下を歩きながら、ディーノは自然と彼女――音羽のことを思い出していた。
改めて他の女子中学生らを見てみれば、彼女が自分のなかでいかに特別かがよく分かる。子供のはずなのに、そう見えない。
こうして彼女が普段通っている校舎に来るだけでその顔を浮かべてしまうなんて、まるで初恋か何かのようだ。……あり得ない、ディーノは溜息をついた。
けれど音羽のことを一人の女性として見てしまうのは、きっと彼女が傾国だからというだけではないだろう。音羽は可愛らしい外見のみならず、人として素晴らしい内面も沢山持っている。
他人に優しくできる所も、誰かのために一生懸命になれる所も、自分の気持ちに素直で一途な所も、ディーノは好きだった。
もし音羽とあと少し歳が近くて――いや……それより、彼女が誰のものでもなかったのなら。
ディーノはきっと今のように、彼女の笑顔を見るだけで満足することは出来なかったはずだ。自分のなかにある理性的な部分が、ディーノをそうしている。
あまり精神衛生上よくないと思ったが――きっと、学生時代を思い出させるこの場所がそうさせるのだ、ディーノは“もしも”を想像してしまった。自分を映す、自分だけを映す、音羽の瞳を。
「――ディーノさん?」
「のわっ!!? 音羽……!?」
綺麗な飴色を思い浮かべようとしたら、突然後ろから澄んだ声がしてディーノは飛び上がった。
まさかの本人だ、ディーノは慌てて振り返る。
「? ディーノさん、何かありましたか? 今日は修行、お休みなんじゃ……?」
「あ、ああ……」
不思議そうにこちらを覗き込む音羽に不意打ちを食らい、つい息を呑んだ。
そこにある本当の瞳、に、自分の姿が映っている。否応なしに心音が少し速まる、あの感じがした。息を一つ、冷静さを取り戻す。
「……今日は、修行は休みなんだが……恭弥に話があってな。……音羽はこれから授業か?」
「はい。次、移動教室で……」
音羽は腕に抱えていた教科書と筆箱を小さく上げた。表紙には「理科」と書かれている。懐かしい。
「そうか……。毎晩守護者戦もあるのに授業も出てえらいな、音羽は」
「いえ、学校に行かないと母に怪しまれるので」
困ったように笑う音羽に、ディーノも釣られて微笑んだ。……が、彼女の心中を思えば笑ってばかりもいられない。
音羽はこうして健気に笑って振舞っているものの、ディーノや雲雀が留守にしていた間に状況は目まぐるしく変わり、かなり混乱したはずだ。
特に、もしツナたちが負ければ音羽はヴァリアー側につくことになるという、あの話は。ショックを受けていたであろうときに、側にいてやれなかったことが悔やまれる。
「……音羽。この数日で色々あっただろ、大丈夫か?」
「……はい、何とか……」
表情を窺うと、彼女は微笑したまま眉尻を下げた。いつもより悲しそうに瞳が揺れる。
「最初は、すごくショックでした。まさか私だけヴァリアーに行くかもしれないなんて、思ってもなくて……。そうなったら、雲雀さんにも会えなくなっちゃいますし……。……でも、」
言葉を切って、音羽は顔を上げた。
「雲雀さんにまた会えたら、きっと大丈夫だって思えたから……。今はもう、元気です」
「……!」
音羽は、どこか幸せそうに微笑んだ。
強がっている訳でも、無理をしている訳でもない。すっきりとした顔で、彼女はもう前を向いている。
――彼女の言った通り、きっと雲雀のお陰なのだろう。相変わらず綺麗な笑顔が、胸を仄かに苦しく満たしていく。ディーノは音羽を見つめ、頬を緩めた。
「そうか……良かったな、音羽」
「はいっ。気にかけてくれてありがとうございます、ディーノさん。……それじゃあ、そろそろ授業が始まるので、私行きますね」
「ああ、頑張れよ」
「はいっ!」
音羽は笑って頷くと、軽く手を振って廊下の向こうへと駆けて行った。――彼女の頭を撫でなかった自分を、今は少しばかり褒めてやりたい。
◇
「遅えなあ、恭弥の奴……」
授業の開始を告げるチャイムが鳴って、途端しんとした校内。人のいない屋上で、ディーノは雲雀が来るのを待っていた。
けれど、予定の時刻になっても彼は現れない。腕時計を確認すると、二十分は過ぎていた。本当にマイペースな教え子だ、日本人は時間に正確と言うけれど彼に関しては当て嵌まらないことだろう。
ディーノは溜息をついて空を見上げた。日は一番高い所まで上り、雲がゆっくりと風に乗って運ばれていく。
何者にもとらわれず、我が道を行く孤高の浮雲。
雲雀は、ボンゴレ雲の守護者の使命を体現したかのような男だ。付き合いにくさだけに注視すれば、恐らくツナのファミリーの中で一、二を争うと言っても過言ではない。
――何で音羽は、恭弥を選んだんだろうな。
それは、純粋な疑問だった。僻んでいる訳でもなく、雲雀の長所を疑っている訳でもない。なぜ空は青いのか、そういう類の疑問だ。
確かに雲雀は、抜群の体力と戦闘センス、技量を持っている。力も精神もあの年にして既に他の人間とは一線を画しているだろう。
だが、その分雲雀は扱いにくい。基本的に何を考えているか分からないし、気に入らなければ躊躇いなく武力行使する戦闘狂だ。彼と付き合うのが容易でないことを、ディーノは身を以って知っている。
それでも、彼女が雲雀を選ぶ理由は何なのか……。
――ガチャ。
考えていると、静寂を破って屋上のドアがやっと開いた。振り返れば何食わぬ顔をした雲雀が立っている。
「遅いぞ、恭弥」
「呼びつけたのはそっちだろ」
「……ったく、」
悪びれもせず搭屋に凭れかかり、目を伏せる雲雀。そんな態度に呆れたが、彼の気が向いているうちに話をしておきたい。ディーノは気を取り直して口を開いた。
「……でも、まあ、お前が争奪戦の話を聞く気になって良かったぜ。驚いたけどな」
「その話なら、昨日大体音羽から聞いたよ」
「! ……じゃあ、“あの事”も?」
尋ねると、雲雀は表情一つ変えず目線を上げた。涼やかな眼光がこちらを捉える。
「今回の戦いで沢田綱吉たちが負ければ、音羽が相手側に連れて行かれるって話ならね」
「……そうか」
「あなたは知っていたの?」
そう問いかけてきた雲雀の目に、『なぜ言わなかったんだ』という非難の色が僅かに浮かぶ。
ディーノが件の内容を聞いたのは、三日前。チェルベッロからツナたちに通告された直後、リボーンからの連絡で知ったのだ。ディーノは苦笑した。
「悪かったな。恭弥にも話しておこうか迷ったんだが……お前、それ聞いたら怒って乗り込んで、他の守護者戦まで割って入るだろ? しかも、争奪戦の舞台も並中だったからな……」
「…………」
ディーノの答えに、雲雀は黙して目を伏せる。
図星だったのだろう。そんな事をしていれば音羽にとって不利な状況になっていたのは間違いないので、彼も何も言えないらしかった。
……が、思いのほか冷静な様子の雲雀に、ディーノは首を傾ける。
雲雀のことだから、『音羽がヴァリアーに連れて行かれるかもしれない』なんて話を聞けば、もっと殺気立つと思っていたのだが。
今の雲雀は、何も知らず修行の旅に出ていたあのときよりも、落ち着き払っている。
「……何、気持ち悪い」
ついじっと見ていると、視線に気付いたらしい雲雀が不快そうに眉を寄せて睨み付けてきた。ディーノは肩を竦める。
「ああ……いや。全然動揺してねーと思って」
「動揺なんてしないさ。音羽を誰かに渡すつもりなんてないからね」
「……はぁ、お前なあ……、」
いつもと同じ口調で事もなげに言ってのける雲雀に、ディーノは溜息を吐き出して頭を掻いた。
「そう簡単にはいかねーと思うぞ。……前にも話したが、ヴァリアーはボンゴレの暗殺部隊というだけあって恐ろしく強い。昨日獄寺と戦ったベルフェゴールはヴァリアーで一番の天才って言われてるし、今日山本が戦うスクアーロも、元々はヴァリアーのボスになるはずだった男だ。……あとお前の相手、ゴーラ・モスカ。あいつは、現ボス補佐官を務めている。一筋縄じゃ行かねーだろう。それに――」
ある男の顔が浮かんで、ディーノは一度言葉を切った。自然と顔が険しくなるのが自分でも分かる。
「――ザンザス……あいつは、何をしでかすか分からねぇ。ヴァリアーのボスだけあってとんでもなく強いが、曰く付きの男だ。油断は出来ねーぞ」
「ふぅん、面白そうだね」
「……恭弥……」
言い募っても、雲雀の瞳はキラリと輝くだけだった。余裕にも楽しそうに笑んでいる。
そんな彼から、音羽を失うかもしれないという不安や恐怖を感じ取ることは出来ない。塵ほども。
確かに雲雀は強いし、ヴァリアーとも対等に戦えるとディーノも思う。ゴーラ・モスカと比べても、遜色ないほどだろう。だが、それはあくまでツナたちが雲戦まで勝ち残ったときの話だ、これは雲雀だけの戦いではない。
ヴァリアー側が優勢になっている今、他の守護者が一度でも負ければそこで勝負は終わってしまう。もちろん、音羽がヴァリアーに連れて行かれて最悪の幕引きだ。この事態の深刻さを、この少年は本当に分かっているのだろうか。
そう思えば、発する声に力が籠った。
「……恭弥、正直もう後がねぇ。今日山本が勝たねーと、次期ボンゴレボスはザンザスになっちまう。そうなれば、音羽もヴァリアーに連れて行かれるんだぞ」
いつになく厳しい目で見下ろすと、雲雀は凪いだ眼差しを持ち上げた。不愉快そうに眉を顰め、
「……本当に気に入らない。僕以外の人間が、音羽の運命の一端を握ってるなんてね」
「!」
雲雀は静かに、けれど強い口調で吐き捨てるように言った。
途端、場慣れしているはずのディーノの肌がヒリつくほど、強い殺気。
これまで抑えていたのであろう苛立ちが雲雀から一気に立ち昇り、ディーノは目を見開いた。少年は制服のポケットに手を突っ込んで歪な形のリングを取り出し、指先で転がす。
「草食動物たちが勝とうが負けようが、どうでもいい。強い者が生き残り、弱い者が滅びるのは自然のシステムだ。でも、もし彼等が勝てたのならそれでいいし、負けることがあれば僕が音羽を守ればいい。ただそれだけの事だよ」
「! 恭弥……」
――そうか。
雲雀のなかに、“音羽が自分の側を離れる”という選択肢は存在しない。
彼が考えているのは、音羽がどうやって自分の側にいることになるか――、ただそれだけだ。ツナたちが無事勝利して、つつがなく音羽が雲雀の元に居られるようならばそれでいい。
けれど、もしツナたちが負けてしまえば……雲雀は力で他を蹂躙して、必ず音羽を側に置く。
雲雀にとっては争奪戦のルールさえ、いざとなれば本当にどうでもいいことなのだろう。例えそれでどれだけ自分が傷付いて、他人を傷付けたとしても。雲雀は、既に覚悟している。
それは、音羽を守るという絶対的な覚悟だ。
これだけは揺らがない、と思っているのが彼の眼差し、佇まいに現れている。――音羽が安心するはずだ。
ディーノはついに苦笑して、毅然とした態度の雲雀を見た。
「敵わねーな」
彼に聞こえない小声で、つい呟いてしまった。そんなディーノに気付いているのか、いないのか。雲雀は感情の読めない目でこちらを一瞥する。
「今晩の守護者戦、音羽と見に行くよ。じゃあね」
「え、あ、恭弥! まだ話……!」
終わってねーだろ、と声を投げても、雲雀が振り返ることはなかった。早々に屋上を立ち去る彼の背を見て、ディーノはまた笑ってしまった。
◇
その日――雨戦が行われる夜、音羽は並中に来ていた。言葉通り家まで迎えに来てくれた雲雀も一緒である。
校門の前に立って電気の付いていない暗い校舎を見上げたら、そこは何だかいつもと違う場所に見えた。
これまでの守護者戦も同じように深夜の学校に来ていたけれど、いつもはツナたちが何だかんだ賑やかで気にならなかったのだ。
でも雲雀と二人、静かに真夜中の校舎を見ていたら……暗闇に飲み込まれてしまいそうで、つい足が竦んでしまう。
音羽が突っ立って校舎と対峙しているあいだに、雲雀は辺りを見回していた。そんな彼の視線が、ある一点を捉える。
「――こっちだよ、おいで」
「あっ! 雲雀さん、待ってください……!」
何かに気付いたようにスタスタと歩き出す雲雀。学ランを靡かせて昇降口を真っ直ぐ目指す彼のあとを、音羽は慌てて追いかけた。
誰もいない夜の校舎に、電気は一つも付いていなかった。
中は真っ暗で足元も何も見えないくらいだったけれど、雲雀に「しばらく目を閉じて」と言われてそうしたら、再び開けたとき少しだけ周りが見えるようになっていた。
彼は音羽の目が慣れるまで待ってくれて、やがて、ゆっくりと校舎の中を歩き出す。
「…………」
自分と雲雀の足音が、やけに廊下に響く気がした。ぴちょん、ぴちょん……と、どこからともなく聞こえてくる微かな水音。
……きっと、“どこかの蛇口が緩んでいるのだ”。跳ねそうになる肩を宥めて、自分にひたすら言い聞かせる。
昨日も一昨日も、こうして校舎を歩いたのに。あのときは皆と話していて、周りの音なんて意識すらしなかった。でもこうして黙って歩いていたら、一つ一つの些細な音が耳に纏わりついてくる。
一度“怖い”と思ってしまうと、駄目だった。
恐怖はゆっくりと胸の中を侵食して、覆い尽くしていく。そして消えてくれるどころか、こんなときに限って思い出してしまうのだ。昔うっかり読んでしまった怖い本とか、苦手なのに気になって最後まで見てしまった心霊番組とか。……ああ、思い出したくないのに……。
音羽はぎゅうっと自分の制服の裾を握って、意識を外に向けた。
雲雀は音羽の少し前を平然と歩いている。当然、彼は音羽が感じているような恐怖など少しも感じてはいないだろう。
彼の背中が頼もしかった。……でも、やっぱり怖いものは怖い。
――うぅ……雲雀さんの手、掴みたい……。でもこれから山本君の雨戦を見に行くんだし、何だか不謹慎だよね……。
決して、浮ついた気持ちではないのだけれど。
音羽は恐怖心の産物なのか思案なのか落胆なのか、よく分からない溜息を心の中で付いた。本当は雲雀の空いている両手、どちらでもいいから貸して欲しい。けど、大人しく諦める。
取り敢えずこのままで何とか気を紛らわせるべく、音羽は雲雀に話し掛けることにした。俯いていた顔を上げた、その瞬間――。
「――何、音羽」
「っ!!」
急にぴたり、と雲雀が立ち止まりこちらを振り返ったので、音羽は数センチ飛び上がった。
いつもなら本当にどうということはないのに、こういうときの神経は何にでも過敏に反応してしまう。心臓が驚くほどバクバクと跳ねていた。
「何でそんなに驚いてるの?」
「す、すみませ……」
雲雀が不愉快そうに顔を顰めたので、音羽は慌てて謝罪した。
が、急激に加速した心拍数に圧されて、息のような掠れた声が出る。
「……君、挙動不審だよ。何があったの」
「あ……えっと……」
雲雀に顔を覗き込まれて、思わず俯いてしまった。
正直に言ったら、笑われてしまう……だろうか。夜の、暗くて静かな学校が怖いだなんて。
「……まさか、怖いの?」
「!!」
ぎくりとしてついぱっと顔を上げたら、雲雀は笑うどころか呆れた顔で溜息をつく。
「全く……君って本当に単純だね。僕の学校で僕の側にいて、君の考えているような怖いことが起こる訳ないでしょ」
「……そ、そうですよね……。すみません……」
一蹴されて、音羽はしょんぼり項垂れた。
雲雀に、呆れられてしまった……。子供っぽいと思われたかもしれない……はぁ……。
一転して怖さなんてすっかり吹き飛んでしまった音羽は、今度はずーんと沈んだ。雲雀は踵を返して前を向き直る。
「――B棟に見慣れないタンクがあった。屋上ならよく見えるだろうからね。……行くよ、音羽」
「は……、――!!」
い、と頷こうとしたとき。
右手が、雲雀の左手に絡め取られた。温かく包み込んでくれる、音羽よりも大きな手。
――どうしてだろう。手を繋いでいる、ただそれだけのことなのに。かあっと頬が熱くなって、嬉しくて、安心する。
「雲雀さん……」
見上げると、彼の凛とした横顔が目に映った。雲雀はちらと音羽を見てくれると、口元を微かに緩める。
「こうして欲しいなら、初めから言えばいいのに」
「…………」
雲雀は全部お見通しだ。
音羽が何に怯えていて、何をして欲しくて。どれだけ、彼を好きなのかも。
顔がぽうっと熱を持っていて、音羽は何も言えないまま俯いた。怯えて跳ねていた心臓はいつの間にか雲雀に染められて、今は違う鼓動を刻んでいる。
とても温かい、いつもの音だ。
◇
屋上に到着して、音羽はフェンスに近付いた。金網の向こうにはB棟の校舎が見える。が、雲雀の言った通り、そこはいつもと少し様子が違っていた。
本来は普通の校舎であるはずのB棟。でも今は、その屋上の一面に四角いタンクが設置されていて、窓ガラスも入り口も完全に封鎖されている。――あれが、今日のフィールドなのだ。
「――あ……沢田君たち……」
B棟のすぐ下に彼等を見つけて、音羽はその姿を目で追った。
皆には、今日は雲雀と争奪戦を見守ると伝えてある。もしツナやヴァリアーから治癒の力を求められたらすぐに行くと言っているので、急いで行けば特に問題はないはずだ。
「……!」
――スクリーン……?
彼等が唯一塞がれていない入り口から中に入ると、B棟の壁面に大きな映像が出た。どうやら、中の様子を映し出しているようだ。
『何これ!?』
『校舎の原型留めてねーじゃねえか』
ツナと獄寺の声も、スクリーンの方から聞こえてくる。確かに獄寺の言うようにB棟は大変なことになっていた。
本当なら三階建てであるはずのB棟は、今やほとんどの床と天井が取り崩されて、一部の足場しか残されていない。
そして天井からは屋上のタンクから来るものだろうか、小さな滝のような流れが出来ていて、水がとめどなく落ちていた。
『これが雨の勝負のための戦闘フィールド、アクアリオン。特徴は、立体的な構造』
『そして、密閉された空間にとめどなく流れ落ちる大量の水です。最上階のタンクより散布される水は一階より溜まり、勝負が続く限り水位は上がり続けます』
モニターからチェルベッロが言った。一階から徐々に水が溜まっていく――ということは、足場がどんどんなくなってしまうということだ。
『なお、溜まった水は特殊装置により海水と同じ成分にされ、規定の水位に達した時点で獰猛な海洋生物が放たれます』
『ええっ!? 獰猛な海洋生物!?』
『――面白そーじゃん♪』
「!!」
ツナの悲鳴じみた声のあとに聞こえてきたのは、楽しそうに弾んだ声。併せてスクリーンに映ったのはヴァリアーと、そして昨日嵐戦を終えたベルだった。
ベルは両手に松葉杖を抱えているものの、包帯などはしていない。やはり骨折――体内に受けた損傷は完全に治り切ってはいないようだ。
『……てか、音羽いないじゃん。どこ行ったんだよ?』
『残念だったな、今日はここには来てねーよ』
辺りを見回してどこか不機嫌そうに口を曲げるベルに、山本が答える。するとベルはにんまりした。
『ししし、いいの? 音羽の助けがないと、お前死んじゃうかもよ? だって相手はスクアーロだし』
『ははっ、面白れーな! ……でも、そんな事にはならねえさ』
ベルの挑発を受け流し、山本は強気で言い返す。すると――画面外で、ツナが息を呑む音がはっきり聞こえた。
『――ザンザス!!』
「!!」
ツナの声と共にでかでかと映り込んだのは、雷戦のとき見たきりだったヴァリアーのボスだった。昨日は来ていなかったけれど……どういう訳か、今日は来ている。
彼は冷やかな眼差しを周囲に送り、威圧的な低い声で言った。
『負け犬はかっ消す。てめーらか、このカスをだ』
『なっ! ゔおぉい!!』
「…………」
スクアーロの怒声に近い大声が、スクリーン越しのこの距離でもキーンと響いてくる。……音羽は我に返った。フェンスから少し離れて後ろを向けば――雲雀がいない。
――あれ……? さっきまでそこにいたのに……。
きょろきょろ辺りを見回して彼を探していると、随分上から声が降ってきた。
「――音羽」
「……!」
見上げたら、雲雀はいつの間にか貯水タンクの上に上っていて、悠々と片膝を立てて座っている。
あんな所、もちろん行ったことはない。でも雲雀がいるので音羽は躊躇いながらも塔屋の梯子を上り、タンクの横に付いている更なる梯子に手を掛けて、上に上がった。
「――ふぅ……」
ようやく天辺に着いて雲雀の隣まで行くと、思っていた以上に高くて広々した景観に迎えられる。少し怖さはあるものの、スクリーンもよく見えた。
雲雀に促されるまま彼の隣に腰を落ち着け、音羽が一息付いたときだ。
夜空に、聞き馴染みのある可愛らしい囀りが響いたのは。
「ヒバリ、ヒバリ! オトハ、オトハ!」
「! ヒバード!」
音羽の大好きな丸くて黄色い小鳥、ヒバードは、くるくると二人の頭上を旋回してやがて雲雀の肩に留まった。きっと雲雀の姿を見つけて飛んで来たのだ。
「ふふっ、来てくれたんだね。おいで」
両手を差し出すと、ヒバードは愛らしく首を傾げながらちょこんと音羽の手に載ってくれる。
「可愛い、ヒバード」
ついつい顔がにやけてしまいながら、音羽がヒバードに夢中になっていると――。
「……?」
何だか、景色が白く霞んだような……。
「霧……?」
「でしょうか……? 不思議ですね、」
雲雀が呟いたので音羽も首を傾げて頷く。
小雨が降っている訳でもないのに、珍しい。山奥なら話は別だけれど、こんな町中に霧がかかるなんて。
……でも、そういうことも普通にあるのかもしれない。音羽は特別気象に詳しくないので、深く考えずスクリーンに目を移した。
――この霧に隠れされた本当の“意味”を、まだ誰も知らない。
◇
雨戦は、山本の勝利で幕を閉じた。
山本が父から受け継いだという“時雨蒼燕流”。スクアーロにはかつてその流派を操る人間を倒したという過去があり、山本の繰り出す技のほとんどは既に攻略されてしまっていた。そのために、山本の勝利は一時危ぶまれたのだが――。
父が作った未攻略の型、そして山本自身が咄嗟に新しく生み出した型で、山本はスクアーロの想像を凌駕する強さを以って彼に勝った。
――けれど。
雨戦のフィールド、アクアリオンの水位は時間と共に規定値に達してしまい、事前に聞いていた通り“獰猛な海洋生物”――鮫が放たれてしまったのだ。負傷していたスクアーロは水の底に落ちてしまい、その生死は……不明になっている。
――山本君が勝って、よかったけど……。何だか後味が悪い……。
音羽は雲雀に家まで送ってもらいながら、その帰路をとぼとぼと歩いていた。
こちらの劣勢はまだ変わっていないけれど、ひとまず音羽のヴァリアー行きは免れたし、もっと喜んでもいいのかもしれない。
でも例えそれが敵だとしても、誰かが傷付いて死んでしまうような場面……見て、気分がいい訳なかった。
そう思ったのは、音羽だけではなかったようで。スクリーンに映ったツナたちも、皆沈んだ顔をしていたのを覚えている。
けれど、あのとき――。
スクアーロの仲間であるはずの、ザンザスは……。
『ぶはーーっははっ!! 最後がエサとは、あのドカスが!!』
そう言って、高笑いしていた。
ザンザスのあの言葉や態度が本心なのか、音羽には分からない。彼のことはよく知らないから。でも、少なくともこれまで一緒にいた仲間、のはずなのに……。
澱んだ水に浮いた
今自分がいるのは、こんな世界なのだ。
危険で、非日常的で、いつ誰が同じことになってもおかしくない。分かっていたはずだったけど、たぶん音羽は分かり切っていなかった。
今までの守護者戦では、皆どれだけ傷ついてボロボロになってもちゃんと生きていた。
でも、あんな風に死んでしまう戦いだってある。今日犠牲になったのは、相手側の守護者だった。
けれど、明日は? 明後日は……?
雲雀が戦う番だって、いつか来てしまうのに。
「…………」
雲雀のことを、彼の強さを信じていない訳じゃない。ただ大切な人が傷付くところを想像すると、それだけで胸が張り裂けそうだった。
明日は、霧の守護者の戦いだ。もし明日もこちらが勝てたら――そうしたら明後日は、雲雀の番になる。
「――音羽」
「!」
俯いて歩いていたら不意に雲雀に声を掛けられて、音羽は顔を上げた。
どんよりしていたのは、きっともう見られているだろうけど……。彼にこれ以上心配をかけたくない。
「すみません、暗い顔しちゃって……。でも、もう大丈夫です」
「……大丈夫って顔、してないよ」
「…………」
口角を上げて笑ったつもりが、雲雀に静かな声で指摘されてしまった。……何も言えず口籠る。
彼は歩調を緩めて、音羽が話し出すのを待ってくれているようだった。
どうしようか、少し迷って――音羽はゆっくりと口を開ける。
「……さっきの雨戦のこと、思い出してたんです……。まだ、怖くて……。今日みたいなことがこれからどんどん普通になって、……もし万が一、雲雀さんや皆に何かあったらと思うと……」
「……」
「雲雀さんは強いから、大丈夫だって思ってます。でも、怖いんです……」
絞り出した声が微かに震えた。それが身体にも伝染してしまいそうで、音羽はぎゅっと手に力を入れて握り締める。
雲雀は、黙って聞いてくれていた。
今までは、自分がヴァリアーに連れて行かれるかもしれないこと。雲雀と離れてしまうかもしれないことが、何よりも怖かった。
でも――もし今日みたいに、皆や雲雀の命に関わるような事態になってしまったら……。それは、もっともっと怖い。
「……! 雲雀さん……」
ついまた俯いていたら、ふと雲雀の手がこちらに伸びてきた。
彼のすべらかな手が音羽の硬く握った拳を、まるで守るように包み込んでくれる。
「君が恐れているような事にはならないよ。僕は、強いからね」
顔を上げると、雲雀は前だけを真っ直ぐ見据えてそう言った。
夜の暗闇と対峙した横顔は、どこまでも凛としている。音羽は思わず息を呑んだ。
それは雲雀が黒曜ランドに向かう前、音羽に言ってくれた言葉だった。雲雀の身を案じて不安がっている音羽を、安心させようとしてくれて。
……でも、彼は音羽の気を落ち着かせるためだけにそう言ったんじゃない。
今ならそれが、もっとはっきり分かる。
「それとも、僕が信じられない?」
「そんなこと……!」
ふ、と口元を緩めて雲雀に問われ、音羽はすぐ否定した。
彼は音羽を見下ろす。今度はとても、真剣な面持ちで。
「僕を信じて」
「……!」
雲雀は、躊躇いなくそう言った。
目を見開いて固まってしまう。雲雀の静かな瞳に、見つめ返される。
彼の少ない言葉のうちに、夜明け前の空の色を映した瞳の中に、彼の想いが込められていた。
自身の強さへの、確かな信頼。
それはいつも彼が持っているものだけれど、今はいつも以上に力強く、そして揺るぎなく宿っている。
雲雀は自分を、自分の強さを信じているのだ。だからこそ彼は、それを音羽にも望んでいる。
――彼が、心から信じているものなら。
音羽も彼と同じものを見て、同じものを信じていきたい。
雲雀は前を向き直り、音羽の手を引いて迷いなく前へ進み始めた。
音羽も、道の先を見据えてみる。
「……私、信じます。雲雀さんを」
声の震えはもう止まっていた。
頭上から、少し驚いた気配が伝わってくる。
雲雀を見上げるとやっぱり目を瞠っていたけれど、目が合えば、彼はそれを優しく細めてくれた。音羽も、やはりあたたかい気持ちになって微笑み返す。
誰かが傷付くところを見て、ずっと怯えてしまっていた。でも、改めて振り返ってみたら、やっぱり音羽に出来ることは限られているのだ。
皆を、雲雀を信じること。
そして、彼を守り助けられるように、自分自身も強くなること。初めに決意したその気持ちを思い出せば、音羽はまた前に踏み出せる。
音羽も雲雀も、しばらく言葉を発さなかった。ただただお互いに、相手のぬくもりだけを手のひらに感じて、歩いていた。