28話 衝動
雲雀はトンファーを構え、鋭い目付きでベルを睨んでいた。
彼と離れていたのは、たった数日。それなのに雲雀の姿を見た途端、じわ、と目の縁が熱くなって、音羽は堪らず身を乗り出した。
「雲雀さん……っ!」
ベルに腕を掴まれているせいで、彼の側に駆け寄ることが出来ない。それがすごくもどかしい、けれど。
雲雀は無事だった。
大きな怪我もしてなくて、そのことに何よりほっとする。ずっとこわばっていた身体から、少しずつ力が抜けていった。
「雲雀さん、来てくれたんだ……! 本当にリング争奪戦に加わってくれるんだ……あの、最強の雲雀さんが……!」
「校内への不法侵入、及び校舎の破損……連帯責任でここにいる全員咬み殺すから。……特に、君の愚行は見過ごせないな」
ツナが興奮気味に声を上げると、雲雀は音羽の真後ろに向けていた目をつ、と細めた。
「雲雀さん、校舎壊されたことと片桐がちょっかい出されてることに怒ってるだけだ……!」
「あいつ、本当に学校と片桐が好きな」
落胆するツナと、苦笑する山本。
すると、音羽の背後でマーモンが唸る。
「ムム……あいつ、向こうの守護者ではないのか?」
「ししっ、怖ぇー。あいつ、超睨んでくるんだけど。ま、この際守護者であろうとなかろうと、どっちでもいいけどね」
ベルは雲雀の鋭い視線に怯えた様子もなく、寧ろ楽しそうな声でそう言った。
――かと思えば。
「――あ……!」
ベルの手に力が籠り、音羽は彼の方に更に強く引き寄せられてしまう。
直後、腹部に回される男の腕。
背中を体温で覆われて、肩にすとんと載せられたこの感触……は、間違いなく。
ベルの顎だ。
音羽は彼に、後ろから抱き付かれていた。
「!? ちょっと、放し――」
「お前が何者か知らないけどさ。こいつは勝った方のもの、ってことで良いんじゃね?」
「?!」
ベルは音羽を遮って雲雀に言う。
信じられない発言に目を見開いた。横目でベルを睨み付けるが、見えるのはあのにんまり口角を上げた口元だけ。
何てことを言うんだろう、そんなの「良くない!!」と、思わず口を衝いて出そうになったとき。
「……ふぅん、いいね」
「っ!? 雲雀さん……!?」
聞こえたのは、まさかと思うような雲雀の承諾の言葉だった。
慌てて雲雀を振り返れば、彼は不敵な笑みを浮かべているものの――目が、完全に据わっている……。
どうしよう……自分に向けられているものではないはずなのに、その目がとても怖い。たぶん、今のベルの行動が最後の引き金を引いてしまったんだ、完全にキレている。
この前とはまた違う、ともすればそれ以上の不機嫌さが彼からビシビシ伝わってきて、音羽は内臓まで震え出しそうな心地だった。
それでも背に暗雲を負ったような雲雀から目を逸らせないでいると、肩に載っていたベルの顔が離れていく。
「決まり。それなら――」
「待て、ベル。お前は守護者戦を終えたあとだ。ここは、オレがやる」
音羽を放さないままベルが立ち上がろうとしたとき――。なんと、レヴィが前に進み出て来た。
「……は? お前、話聞いてた? 今はオレとそいつの」
「貴様……よくもオレの部下を潰してくれたな……」
レヴィはベルの苛立った声も聞こえていない様子で、のしのしと雲雀の方に歩いて行く。……史上最悪に機嫌の悪い、彼の方に。
「お待ちください、リング保持者の可能性があります。リング保持者との規定外の戦闘は禁止です」
「あなたは沢田氏側のリング保持者ですか? でしたら、このような行為をされては……」
「どけ、チェルベッロ! 奴はただの……不法侵入者だ!!」
レヴィは止めに入ろうとしたチェルベッロを突き飛ばすと、自慢のパラボラを構えて雲雀に向かって突進した。
雲雀は無言のままレヴィを見据え、素早く身を引く。――片足だけを、レヴィの方に突き出して。
「――ぬおっ!!?」
咄嗟の雲雀の動きを回避出来なかったレヴィは、そのまま彼の足先に躓いて顔から床に突っ込んだ。
ドタッ!! と鈍い音を立てて床に転がるレヴィを見下ろし、雲雀はトンファーを握り直す。
「まずは君から咬み殺そうか」
「っ、なに……!?」
レヴィは顔を上げて、唖然とした表情で雲雀を見上げていた。軽やかな雲雀の身のこなしに、辺りが騒然とする。
「あのバカ、出て来るなりメチャクチャしやがって」
「でも、やっぱりすごいよ! ヴァリアーの攻撃をいとも簡単に……」
「ああ、流石だな」
「できる……! 何者なんですか?」
「奴はうちの雲のリングの守護者にして、並中風紀委員長、雲雀恭弥だ」
リボーンの放った言葉に、ヴァリアー側の空気も微かに揺れた。
「雲……ということは、ゴーラ・モスカの相手だね」
「マーモン、奴をどう思う?」
「確かにレヴィはヴァリアーでも鈍重なうえに故障しているが、それを差し引いても中々の身のこなしだね」
スクアーロの問いに、マーモンは静かな声で答えた。
けれど、雲雀はそんな周囲の声など全く気に留めていないようで、冷えた目でベルを見下ろしながらこちらに歩んで来る。
「……さあ、遊びは終わりだよ。次は君の番だ、その子は返してもらう」
「ししっ、オレに喧嘩売ったこと、後悔させてやるよ」
「っ……雲雀さん……」
雲雀がこちらに近付いてくると、ベルの腕の力が比例するように強くなって音羽は眉を寄せた。
苦しい、と思っていると、身体が少し持ち上げられる。ベルは音羽を抱えたまま、立ち上がろうとしていた。けれど――。
「――っ、」
「……?」
ベルはどこか苦しそうな呻き声を出しながら、よたよたと立ち上がる。身体に回されている腕の力は変わらないものの、ベルの脚の軸は僅かに左右にブレていた。
先程、嵐戦で生き生きと戦っていた彼とは違う。こめかみから流れた汗が頬まで伝い、ベルの呼吸はさっきより荒くなっていた。
まるで立つのが精一杯、みたいな。
「……!」
考えて、音羽はハッとする。
さっきベルに治癒の力を使って、完治させたような手応えがなかったこと。外傷が一つもないのは確かだが、やはりどこか治りきっていない所があるのだ。
ただ、音羽にはそれが“どこ”なのか分からない。
「……ベル、貴様ぁ……」
音羽が思考していると、横にいたスクアーロが険しい顔でベルを睨んだ。
彼はそのままつかつかとこちらに歩いて来ると、音羽の腕をがしっと掴んで簡単にベルから引き剥がす。
そして彼はなんと、ベルの膝裏を遠慮なしに蹴ったのだ。
「っ――!!!」
「!!」
スクアーロに突然掴まれたことにも驚いたけれど、それ以上に彼が味方であるはずのベルを蹴り付けたことの方が衝撃だった。ベルは歯を食いしばって声を呑むと、足を庇うようにしてその場に崩れ落ちてしまう。
その反応が普通ではないことは明らかだ。
スクアーロはベルを軽く蹴った訳ではないものの、決して強く乱暴に蹴った訳でもない。
どういうことか動揺を隠せずいると、スクアーロがこちらを振り返る。
「お前、骨までは治せねぇのかぁ」
「!!」
彼は音羽を見下ろして、呟くように言った。スクアーロの言葉に、音羽も全てを理解する。
ベルは、骨折していたのだ。
治癒の力を使ったときに感じた、あの完治していないような違和感は脚の骨折。そして音羽の力では、それを治すことは出来なかった。ベルが蹴られて崩れ落ちるのも当然だ。
「……っ!」
理解したそのとき、音羽は辺りの空気が確かに冷たくなるのを肌で感じて、息を呑んだ。
すぐに察しがついてしまう。
ゴゴゴゴゴ……と、地割れのような音まで聞こえてきそうな、張り詰めた空気。
恐る恐る振り返れば――そこには、最早殺意を剥き出しにした雲雀がスクアーロを睨んで立っている。
「次から次へと……」と彼の心の声が聞こえてきそうだけれど、雲雀はもう言葉すら発さない。音羽は血の気が引いてしまうのを感じた。
でも、一方のスクアーロはそんな雲雀に臆した様子もなく、ベルに「しばらくすっこんでろぉ!」と荒々しく言うと、音羽の腕を右手で掴んだまま、どこからともなく左手に剣を構える。
「ゔおぉい! 貴様、何枚におろして欲しい!!」
「……次は君?」
「お止めください。守護者同士の場外での乱闘は、失格となります」
「や、やばいよ……!」
威嚇するように答えて戦闘態勢を取る雲雀に、チェルベッロの声が掛かった。ツナは顔に、焦りの色を浮かべている。
こちらが取られたリングは、既に三つ。
もう本当に後がない今、雲雀のリングまで奪われてしまったら――それこそ雲雀にとっても音羽にとっても、ツナたちにとっても、不本意な結果になってしまうのは明白だ。
ただ、今の雲雀を止めるのは容易ではない。
どうしよう、と音羽も慌てながら頭を働かせていると、
「まーまー、落ち着けって雲雀。怒んのも分かっけどさ」
山本が眉尻を下げて宥めながら、雲雀の眼前に進み出た。雲雀は山本をきつく見据える。
「……邪魔だよ。僕の前には――立たないでくれる」
雲雀は低い声ではっきり言って、躊躇いなくトンファーを振り上げた。しかし――。
「――そのロン毛はオレの相手なんだ。我慢してくれって」
「!」
「「「!!」」」
山本は流れるような動きで雲雀のトンファーを避けるとその背後に回り、あろうことかトンファーを手で捕まえたのだ。
山本のその隙のない動きに、ツナたちはおろか雲雀やスクアーロまでも息を呑んでいる。音羽も当然、目を見開いた。
あの雲雀の動きを捉えるなんて――と、驚いていたのも束の間。
雲雀の纏う空気が瞬時に、より凶暴なものに変わってしまう。
「――邪魔する者は、何人たりとも咬み殺す……!」
「やっべ……! 怒らせちまった……!」
雲雀がトンファーを再び構えると、音羽も見たことのない鋭い棘のようなものが、トンファーの表一面に現れた。雲雀の怒りが頂点に達してしまったことは、誰が見ても一目瞭然。
「ひいっ! 雲雀さん、ちょっと待ってください! ダメなんです、ヴァリアーと今戦ったら、片桐が……!!」
「――!」
悲鳴混じりにツナが叫ぶと、一瞬だけ雲雀が目を瞠ったのが見えた。
きっと、音羽の名前が出たからだ。
雲雀がヴァリアーと戦い始めてしまう前に、何とか彼を止めなければ……! 音羽もスクアーロの手から逃れようと、必死にもがいて抵抗する。
「っ、!」
――取れた!!
スクアーロには片手で掴まれていたせいか、何とか引き剥がして振り払うことが出来た。
ようやく自由の身になった音羽はそのまま、雲雀の方に走り寄る。
彼の前には変わらず仕込み棘の出たトンファーが構えられていたけれど、音羽は彼を信じていた。
「待ってください、雲雀さん……!!」
「! 音羽、」
雲雀は目を瞠って、けれどすぐにトンファーを左右に取り払ってくれた。それと同時に、音羽は雲雀の身体に抱き付いて彼を止める。
他に人がいる場所でこんなことをするのはもちろん恥ずかしいけれど、今ばかりは本当に仕方がない。二人で一緒にいるためには、今雲雀を止めなければいけないのだ。
音羽は顔に熱が集まるのを感じながら、自分に言い聞かせた。ぎゅっ、と雲雀の制服を掴んで顔を上げる。
「っ雲雀さん、どうしても今は戦っちゃダメなんです……!! だから今回だけは……お願いします……!」
「音羽……」
雲雀の目を真っ直ぐ見て訴えたら、彼の瞳が小さく揺れた。
もし、彼のこの瞳を見ることが出来なくなってしまったら――。
そんな可能性が少しでも存在していることが、とても怖い。
「今戦ったら、私……雲雀さんと一緒に居られなくなります……。私は、ずっと雲雀さんと一緒にいたいです……。だから、今は戦わないで……」
音羽は握った拳に力を込めて、俯いた。
雲雀が隣にいない未来を想像したら、それだけで身も心も芯から冷え切ってしまいそうだった。
今感じられるこのぬくもりがなくなるなんて……、とてもじゃないけど耐えられない。
「…………」
「……!」
雲雀はじっ、と音羽の言葉を聞いてくれると、やがて仕込み棘を仕舞ってトンファーを下ろしてくれた。
彼の身体から、ゆっくりと力が抜けていく。
どうやら戦闘を諦めてくれたらしい気配を感じて、音羽はおずおずと顔を上げた。
雲雀はまだ少し怒っているような、呆れているような、安堵しているような。
愛おしんでもいるような、そんな複雑な色をした瞳で音羽を見つめ返してくれる。
何か逡巡しているようにも見えるその虹彩が、音羽の胸をぎゅうっと締め付けた。
柔らかい苦しさに言葉を発せないでいると不意に、足元にちょこんと黒い影。
「――ちゃおっス、雲雀!」
「……赤ん坊」
いつもと変わらない声音で話し掛けてくれたのは、リボーンだった。雲雀は、彼が一目置いている存在にゆるりと視線を向ける。
「雲雀。ここは音羽の言う通り我慢しとけ。でっけえお楽しみがなくなるぞ」
「楽しみ……?」
「今すぐって訳じゃねーが、ここで我慢して争奪戦で戦えば、遠くない未来、六道骸とまた戦えるかもしんねーぞ」
「!」
“六道骸”という名を聞いて、寄せられていた雲雀の眉がぴくりと動いた。
雲雀が骸からどれほどの屈辱を受けたのか――、あの場にいた音羽も知っている。もし骸とすぐに戦闘できるような状況だったら、雲雀は間違いなく彼を咬み殺しに行っているだろう。
さすがリボーンだ。
骸はヴィンディチェにいるから出てくることは出来ないはずだけれど、そう言えば雲雀の戦意は喪失するし、リング争奪戦にも参加してもらえる。
実現するかかなり怪しい内容なのが雲雀に対して心苦しいが、今日だけはどうか許して欲しい。
何より、今雲雀に納得してもらえないと、大変なことになってしまうのだから……。
音羽がごくりと唾を呑んで雲雀を見上げると、彼は静かに目を伏せた。
「確かに、六道骸はいつか咬み殺すつもりだ。だけど赤ん坊、今はそんな事どうでもいいよ。……それより、さっき君が言ってたことは何?」
「え……?」
雲雀はリボーンから音羽に視線を移すと、首を少し傾けた。
まさか雲雀の口から、“骸のことはどうでもいい”なんて言葉が出るなんて。驚きのあまり、つい間の抜けた声が出てしまう。
「数分前に君が言った言葉だよ。僕の側に居られないかもしれないって」
「あ……!」
眉を寄せ、覗き込むように見つめられながら雲雀に言われて、音羽は彼の言葉の意味をようやく受け取る。
雲雀は、骸と戦うために今この瞬間戦いをやめる訳じゃない。
音羽のために、やめてくれるのだ。
音羽が『一緒に居られなくなる』と言ったから。そう、ならないようにしてくれた――。
「っ……」
理解すればじんわりと喜びが胸に広がって、頬が熱くなってしまう。
雲雀も音羽と同じように、一緒にいたいと思ってくれている。だからこそ、今こうして戦いをやめて音羽に向き合ってくれているのだ。
それが彼にとってどれだけ特別な行動なのか――伝わるからこそ、胸が温かいもので一杯になってしまう。
けれど――。
雲雀に事の次第を一から説明するには、余りにも時間が必要だった。
雲雀も音羽と一緒にディーノの話を聞いていたから、リングの話はある程度知っていると思う。
でも、元々大してリングに興味を示していなかった雲雀だから、あのときしっかり聞いていたかは分からない。
それに、すぐにヴァリアーたちと戦おうとしていたことを考えると、このリング争奪戦の詳細な内容やルールはまだ知らないのだろう。
……ただ、『長くなるから、それは後で話しますね』と言った所で今の雲雀が納得などするはずもなく、彼が更に気を損ねてしまうのは目に見えていた。
――どうしよう、手短になんて説明すれば……。
音羽が焦って考えながら口をもごもごさせていると、雲雀はそれを“言いたくない”と解釈してしまったのか、
「……へぇ……」
と、いつもより数段低い声を漏らした。
「!」
慌てて顔を上げてみれば、雲雀の眉間の皺は増々深くなっている。
どう見ても、さっきより表情が険しかった。別に話したくない訳ではない、と弁明するために、音羽は急いで口を開く。
「ひ、雲雀さん……! あの、話したくないとかじゃなくて、その……とても長ーーい説明になりそうで、ちょっと時間が……」
ないかなって……、と尻すぼみに消え入る声で言いながら、音羽はオロオロした。
静かに怒りを露わにしている雲雀の顔を、そっと覗き込んでみる。
「あ、あの……雲雀さん……?」
「さっきは僕に指図までしておいて、その上僕の言うことは聞かないつもりかい、音羽」
「!」
“指図”、と言われ、音羽は先ほどの会話を顧みた。
『今は戦わないで』と、音羽は彼にお願いしたけれど……。言われてみれば、確かに少し図々しかったかもしれない。
雲雀はそれを聞き入れてくれたのに、そのくせ彼の要求には応えないで、……すごく自分勝手だ。
「……ご、ごめんなさい……、!」
申し訳なくなって項垂れると、雲雀の綺麗な指先が伸びてきた。頬につっと触れられて、上を向くよう促される。
「っ……」
瞼を持ち上げたら、彼と視線が重なって。
獰猛なその瞳に射抜かれれば、それだけでもう動けなくなってしまう。
それは恐怖や罪悪感のせいではなくて、怒っているはずなのに、彼の手が音羽を、まるで壊れ物でも扱うかのように大切に触れてくれるからだ。
伝わるその温度が愛しくて、音羽はまた、彼に溺れてしまう。
「許さないよ」
雲雀はそんな音羽の気持ちを見透かしたように目を細めると、鼻先の触れ合う距離で囁いた。
それは吐息のように柔らかで、けれど強い力を以て音羽を縛る。
動けなくなっていると、彼の顔が更に近付いてきて――。
唇に、触れるだけのキスをされた。
◇
「!!!」
「「なーーー!!!?」」
雲雀が口付けると、音羽は目をまん丸にして、周りにいた草食動物たちは揃ってうるさい悲鳴を上げた。……なぜ外野がそんなに赤くなっているのか分からない。
音羽を抱きしめていたあの腹立つ金髪男も、今は口をへの字に曲げて唇を噛んでいる。
その姿を横目で見てから、雲雀は確かな満足感を覚え音羽からゆっくり離れた。
彼女は顔を真っ赤にさせて口を覆い、呆然とこちらを見上げたまま立ち尽くしている。
「ふっ……やるな、雲雀」
「ムカついたからね」
雲雀は固まってショートしている音羽の腕を掴み、ニヤリと悪く微笑む赤ん坊を見下ろした。
「校舎の破損は完全に直るの」
「はい、我々チェルベッロが責任を持って」
「……そう」
チェルベッロ、と名乗るどうやらこの試合を管理しているらしい女が返事して、雲雀も一先ず納得する。
音羽が自分の腕のなかに帰ってきて、ここで戦うことにも何やら不都合が生じるという今の状況。ここに留まる理由は、もう何もない。
雲雀は音羽の腕を引いて踵を返した。まだ猿のように赤い顔をしている沢田綱吉たちの横を通って、元来た廊下の方へ歩いて行く。
「僕とやる前に、あそこの彼に負けないでね」
「え……あ、雲雀……」
去り際に山本武をちらと見ると、彼は狼狽えた顔をしていた。
雲雀は前を向き直り、電気の付いていない暗い廊下を進む。音羽はまだ事態を呑み込めていないのか、大人しく雲雀に手を引かれていた。
◇
音羽と雲雀の姿が廊下の向こうに見えなくなって、ツナたちはしばらくぼうっと突っ立っていた。
しかし、ややあって一番先に我に返えった獄寺が、ガシガシと頭を掻き始める。
「ったく、何考えてんだよ、あいつは……!! 公衆の面前で、あんな……っ!!」
「はは……流石に驚いたぜ……。でも、片桐が色んな男にちょっかい掛けられてたから、雲雀もムカついたんだろーな……」
「ふん。ツナは情けねーな、あれくらいで。鼻血が出てるぞ」
「だ、だって!! あんな光景目の前で見たら普通なるから!! ……って、あれくらいって、お前まだ赤ん坊だろーー!?」
ツナは慌ててごしごしと鼻血を拭い、涼しい顔をしたリボーンを見下ろして叫んだのだった。
◇
――それからヴァリアーも並中から姿を消して、その場に残っていたツナたちは息を付いていた。
嵐戦でリングがヴァリアーの物になったり、雲雀が乱入して色々あったが、取り敢えず仲間が全員無事で良かったと思う。
獄寺も爆発のギリギリまで戻ってくることを躊躇っていたが、最終的に無事帰って来てくれて本当にほっとした。
「――あっ! っていうか獄寺君、早く治療しなきゃ!」
胸を撫で下ろしていたら、まだ獄寺の治療が済んでいなかったことを思い出してツナは声を上げる。
音羽は雲雀に連れて行かれた(元々彼女に獄寺の傷を治せるほどの力は余っていなかった)ので、ツナたちに出来ることは限られているが、それでも消毒や包帯で手当てくらいしておくべきだ。
「いえ、これくらいかすり傷っス」
「で、でも、」
「! Dr.シャマルに診て貰ったらどうでしょう」
「オレ、男は診ねーから。バイビ〜」
バジルの提案を聞くが早いか、当のシャマルは出口に向かって歩き出してしまう。
「えっ!?」
「ああいう人なんだよ……」
医者なのに男は診ないという理不尽に驚いているバジルに、ツナは共感の思いを抱きつつ苦笑した。すると、
「――しょーがねーなー。ロマーリオ、代わりに診てやれ」
「! この声……」
どこか聞き覚えのある声が背後から響いてきて、ツナは振り返った。
「よっ」
「ディーノさん!!」
彼は怪我をしたのか頬に湿布を貼って、いつの間にかそこに立っていた。いつものように、側には部下のロマーリオがいる。
「ヴァリアーと入れ違いになったみてーだな。恭弥は、まだ見てねーだろ?」
「えっ……! さ、さっき来ましたが……」
「なっ! あいつ、もう来てたのか……!」
「心配すんな、あまり暴れずに帰ったぞ。……まあ、別の意味で暴れたかもしれねーけどな」
「…………」
「? 何だよ、別の意味って」
リボーンの言葉でついさっきの光景を思い出してしまったツナは、途端に顔が熱くなるのを感じた。気まずさに目を逸らせば、ディーノは不思議そうに聞き返す。
リボーンがさっきのことを全部ディーノに話すと、彼は僅かに頬を赤らめて溜息を付いた。
「はあ……、そうか。あいつ、突然すごい勢いで帰りだすから、きっと音羽絡みだろうとは思っていたが……まさかそんなことしてたなんてな」
「まあかなり機嫌が悪かったから、仕方ねーかも」と呟くディーノに、ツナは新たな疑問を抱いて首を傾げる。
「? 帰るって……ディーノさんたち、一体今までどこにいたんですか?」
「え……まあなんつーか、修行の旅だな。あいつは人の話なんて聞きゃしねーからな。かといって、力で捻じ伏せた所で負けを認めるようなタマじゃねぇ」
「やっぱり、ディーノさんが相手でも雲雀さんは手強いんだ……」
ツナは妙に納得して頷いた。
「だから、並中がリング争奪戦の舞台だと知ったときは焦ったぜ。恭弥の奴、校舎が壊されたりしたらぜってーキレるだろうと思ったからな。そこで、あらゆるシチュエーションでの勝負ってことで、修行の地を並中から遠ざけたんだ……。お陰で海、山、川、あらゆる環境で奴を鍛えることが出来た」
「そ、壮絶そう……!」
「で、雲雀はどのくらい強くなったんだ?」
「ん……、どうかな……」
「な!? どうかなって、何ですかソレーー!?」
ディーノの微妙な返答に、ツナは思わずツッコミを入れてしまう。すると、彼は少し考える素振りを見せて言った。
「強くなったのは確かだが、どれくらいかはオレでも分かんねーな。――あいつの成長は底なしだ」
「!」
その言葉に、ツナは唾を飲む。
ただでさえ並中一強い雲雀が、更にパワーアップしているのだ。彼がこれまで以上に恐ろしくなっているのは確かだろうが、今ばかりはその事実が頼もしいとさえ思ってしまう。
「……でもあいつ、音羽には会えねーし携帯も圏外で繋がんねーしで、修行中は機嫌最悪だったぜ。やっと音羽から電話がきたかと思ったら、結局草壁だったみてーだし」
「ああ……」
何となくそのときの様子を想像出来て、ツナは苦笑した。
草壁からの連絡は、恐らくここに音羽が来ている、というような内容だったのだろう。
それで雲雀は急いで並中に戻って来たのだろうが、それ以前に、彼のなかには“音羽に会えていない”という不機嫌の土台が既に出来上がっていた。その状態で、あの現場に遭遇してしまったという訳だ。
「ほんと、音羽のことになると見境なくなっちまうんだよな……」
と、眉を寄せて呟くディーノに、ツナも一つ頷きを返したのだった。