25話 プリンチペッサ

「――、音羽、起きなさい! 学校遅れるわよ!」

「……ん、ん……?」

 大きく響いた母の声に、音羽はのろのろと瞼を持ち上げた。

 寝ぼけ声を出しながら母を見ると、窓の側でシャッ、とカーテンを開ける音。部屋が少し眩しくなって、思わず目を細める。

 窓の向こうに見える空は、灰色に重く曇っていた。今日は天気が悪そうだ、耳を澄ませたら雨の音も聞こえてくる。

「――どうしたの、ぼんやりして。頭痛いの?」

「え……ううん……」

 なぜか心配そうに眉を寄せた母に、音羽は寝転んだまま首を振った。ぼうっと天井を見上げていると、それはいつもと同じ光景のはずなのに。


 ――あれ……? 私、昨日家に帰って来たっけ……?

 何となく違和感を覚えて、変なことを考えてしまう。

 帰って来ていなければ、こうして自分のベッドに入っていない、はずだけれど。
 昨日玄関から家に入った記憶も、こうしてベッドに横になった記憶も……思い出せない。

 段々怖くなってきて、不明瞭だった意識がはっきりした。慌てて身体を起こして、母を見る。

「っ、お母さん! 私、昨日ちゃんと帰って来た……!?」

「えー? 何言ってんのー、帰って来なきゃここで寝てないでしょう?」

「…………」

 母はカーテンタッセルを留めながら、可笑しそうに笑った。……やっぱりそうだよね、母の言葉に拍子抜けしながら思う。でも、何度思い出そうとしても本当に記憶がない。

「――ああ、でも、」

 思い付いたような声を出すと、母がこちらを振り返った。


「確かに、自分では帰って来なかったか。あなた、学校で階段を踏み外して気を失ったとかで、家まで送り届けてもらったのよ。打ち所が悪かったんじゃないかしらって心配したけど、どこも怪我してないし……。ただ寝てるだけみたいだったから、安心したわ」

「!?」

 音羽は目を見開いた。

 少なくとも、昨日階段を転げ落ちた記憶はない。屋上までを駆け上がったのは覚えている、けど――。


 ――そうだ、昨日……。屋上に行ったら雲雀さんとディーノさんが戦ってて……。雲雀さんが傷だらけだったから、私……。

「……!」

 そこまで思い出したら、あとのことは勢いよく蘇った。


 昨日、音羽はずっと待ち望んでいた治癒の力を使うことが出来たのだ。

 血塗れになった雲雀の姿を見て、それがすごくショックで。温かい感覚が手のひらに広がって光が溢れたら、雲雀とディーノの傷は治っていた。

 彼の怪我が痕一つなく消えているのも、しっかりとこの目で確かめた。

 それに安心して――きっと、気を失ってしまったんだ。黒曜ランドでも力を使った直後は気を失ってしまったから、今回も疲労みたいなもので倒れてしまったのかもしれない。


 そこまで思って、音羽はふと考える。

 ――ん……? それじゃあ、私って誰かに家まで送り届けられた、ってことだよね……? ……それ、もしかして……。


「――学ラン着たかっこいい男の子だったわよ。わざわざ気を失ったあなたを、家まで連れて来てくれて。優しいわよねぇ……確か雲雀君、だったかしら」

「!!」

 ――やっぱり!!

 彼以外にいないだろうと思ってはいたけれど、実際そうだと言われると布団を被り直したい気持ちに襲われた。

 並盛を牛耳る雲雀にとって音羽の家がどこかなんて、きっと大した問題じゃないんだろう、とか。

 彼がどんな風にここまで運んでくれて、母に引き渡したんだろう、とか。いっぺんに色々浮かんでしまう。

 それに何より 普段無口な彼が自分の母親と話している様子が全く想像出来なかった。物凄く変な感じだ。


「雲雀君が、そんなに高い所から転んだ訳じゃないから、って言ってくれたから私もほっとしたわ……。それに雲雀君、並中の風紀委員長なんですってね! 礼儀正しくてきちんとしてるし、お母さん好印象よ! いいじゃない、雲雀君」

「え……えぇ……?」


 ――雲雀さん、一体どんな風にお母さんと話したの……?

 きちんとしてる、はともかくとして……“礼儀正しい”? 雲雀が……? 他人と接するときはいつも、“まさに並中の支配者”というような彼の雰囲気しか覚えがないので、音羽は思わず首を傾げる。

 しかも母があまりに絶賛するので、こちらはもう呆然とするばかりだ。普段彼が生徒も先生も恐怖で支配しているなんて、きっと母は微塵も思っていないだろう。


「…………」

 でも……。

 母に彼のことを褒められると、音羽も何となく嬉しい、というか。安心した気持ちになる。

 家族にはやっぱり、彼のことを誤解して欲しくないと思うから。


「良かったわね、音羽。良い人が近くにいて。また連れて来なさいよ、雲雀君ならいつでも歓迎するから!」

「あ、あはは……」

 ほっと表情を緩めていると、母にぱちんとウインクされた。きっと、自分と雲雀の関係を察しているんだろう。音羽は苦笑して誤魔化した。







「いってきまーす!」

 玄関を飛び出すと、ぱらぱら雨が降っていた。慌てて傘を差して、音羽は通りへ駆け出す。

 母の話に動揺してつい色々考えていると、いつもより準備に時間がかかってしまった。

 走って行けば遅刻はしないだろうけれど、のんびり歩いている時間はない。通学路を真っ直ぐ走って行くと、水飛沫が跳ねて音を立てた。


 まず雲雀に会ったら、昨日家まで送り届けてもらったお礼を言わなければ。

 それにヴァリアーが来たという話や、もしツナたちが負けてしまえば、音羽はヴァリアーの一員になってしまうこと。……彼に話せていないことが沢山ある。

 しかも、昨夜はヴァリアーとの第一戦があったはずだ。眠ってしまっていたなんて、ツナたちに申し訳ない。どちらが勝ったのか、勝敗も気になる。

 誰か学校に来ていればいいけれど……。ひょっとしたら、皆修行に行っているかもしれない。そうしたら、ディーノに聞けば知っているだろうか?


 ――考えながら走っているうち、遠目に校門が見えてきた。

 腕時計を確かめれば、始業のチャイムまであと十分少々余裕がある。もうゆっくり行っても充分間に合うはずだ。音羽は速度を緩めて歩き出す。

 
「――あっ! 片桐!」

「! 沢田君……!」

 校門の手前の道路を横断したところで横から声を掛けられ、音羽は振り返った。

 ツナは私服姿で傘を差していて、音羽の姿を見るとすぐ駆け寄って来てくれる。制服を着てない所を見ると、今日学校に来るつもりはないようだ。

 もしかしたら、音羽に何か用があってここに来てくれたのかもしれない。


「片桐、突然ごめん! オレ、今日修行で学校休んでるんだけど……どうしても片桐に伝えたいことがあって。修行に行く前に、ここで待ってたんだ」

「! わざわざ待っててくれたんだ……、ありがとう。私も、沢田君には色々聞きたくて……。昨日はごめんなさい、ヴァリアーとの戦いがあったのに、私……」

「いや、いいんだ! ディーノさんから聞いたよ、力使えるようになったって」

 謝ると、ツナは首を振って表情を緩めてくれた。

「片桐、悩んでるみたいだったからさ……その、良かったね! 身体、無理しないように気を付けてって……ほんとは言いたいんだけど……」

 ツナは苦笑して視線を落とすと、まず昨日の守護者戦について話してくれたのだった。


 ――昨日の守護者戦は、晴。

 こちらからは了平と、ヴァリアーからは“ルッスーリア”という人が晴の守護者として戦ったそうで、結果は了平の勝ち。けれどツナは、「幸先は良いんだけど……」と言葉を濁した。


「でも……今日は雷の守護者戦で、ランボが戦うんだ……」

「!ランボ君が……!? でも、ランボ君はまだあんなに小さいのに……」

 ランボが雷の守護者に選ばれたのは知っていたけれど、まさかあんなに小さな子まで戦いに駆り出されるとは思っていなくて、音羽は目を見開く。

 自分だって震え上がるほど恐ろしくて、戦闘がないことが唯一の救いだと思っているくらいなのに……。
 自分よりずっと幼いランボがヴァリアーと戦うのは……、あまりに無謀だ。


「あいつまだ子供なのに、守護者に選ばれたからしょうがないって、リボーンが……。それに、ヴァリアーの雷の守護者は子供にも容赦ない奴らしくて……」

 ツナは心配そうに揺れる瞳を上げて、音羽を見る。

「だから、ランボにもしもの事があったとき、片桐の力を貸して欲しいんだ……! 片桐にも無理して欲しくないとは思ってるんだけど……今日の守護者戦、来てもらってもいいかな……?」

「沢田君……」

 「もちろんランボに何かあれば、オレが助けるつもりだけど……」と付け加えるツナの顔は、険しく曇っていた。ランボのことを本気で心配しているのが、すごく伝わってくる。


 ――本当に役に立てるのか、まだ自信がある訳じゃない。

 でも、断る理由なんてあるはずもなかった。今の話を聞いたらランボのことを不安に思うのは音羽も同じだ。だから、彼に大きく頷き返した。

「……分かった。私、今日は必ず行くね。ちゃんとみんなの役に立てるか分からないけど……頑張る」

「っほ、ほんと!? そう言ってもらえて良かった! ありがとう、片桐……!」

 ツナは少しは安心できたようで、ほうっと顔を綻ばせる。

 彼の不安が、少しは和らいだのなら良かった……。けれど、彼等の期待を裏切らないようにしたい。音羽はぎゅっと拳を握り締めた。

 
 それから、ツナが「じゃあ夜遅くになるから、片桐の家まで迎えに行くよ!」と言ってくれたので、音羽は一番分かりやすい道順を彼に伝えた。

 幾ら音羽の母が大雑把な性格だといっても、さすがに女の子一人で深夜に家を出るのは難しい。

 だから、友達に何かしら理由を付けて迎えに来てもらった方が怪しまれないはずだ。ツナの提案はありがたかった。


「沢田君、ありがとう。じゃあ、今晩待ってるね。修行、頑張って」

「うん、ありがとう! それじゃあ、また!」

 ツナは手を振ると、雨の中を並盛山の方に向かって走って行った。
 

「――!」

 私も学校に行こう、と踵を返した途端チャイムが鳴り始め、音羽は慌てて校門を潜る。

「「片桐さん、おはようございます!!」」

「お、おはようございます……!」

 雨の中、黒い傘を差した風紀委員たちにいつものように出迎えられて、音羽は挨拶を返しながらその間を駆け抜けた。

 でも、列を過ぎ切ったとき首を傾げる。


 ――あれ……? 草壁さんがいない?

 いつも昇降口に一番近い所に立っている、彼の姿が見当たらなかった。

 それがどうしてだか考える余裕は今はなくて、音羽は急いで教室へと走ったのだった。







 ――午前の授業が終わりチャイムが鳴って、昼休みになった。

 音羽は真っ先に教室を出て、ざわざわしている廊下を歩いて行く。もちろん、雲雀の所に行くためだ。


 ――でも、雲雀さんどこだろう……? いつもみたいに屋上かな?
 
 雨だけど……、と音羽は廊下の窓から外を見る。朝より激しさを増した雨は、景色を白く霞ませていた。

 でも雨が降っているからといって、あの二人が戦いをやめるとも思えない。

 ……ひとまず、屋上に行ってみよう。
 音羽は階段を上ることにした。


 雨が降っているせいか、屋上に続く階段もいつもより薄暗かった。
 一番上まで上り切って屋上のドアを開ければ、風に乗った雨粒が吹き荒ぶ。ドアの隙間から入り込んだ雨に、足元がひんやりした。
 
「……いない……」

 灰色の空の下に目を凝らしたけれど、探していた二人の姿はない。

 雨だし、さすがに修行はお休みにしたのかな? それとも、雨に濡れないような場所で戦ってる?

 考えながらバタン、とドアを閉めて、音羽は階段を下り始めた。


 屋上のように広さがある屋内……は、体育館しか思い付かない……。でもそこに行く前に、もっと雲雀がいる可能性の高い場所に行った方がいいのかも。

 音羽は応接室に向かうことにして、しんとした廊下を歩いて行った。


 応接室の前まで着いて、扉をそっとノックする。

「……雲雀さん? いますか? ……」

 声を掛けてみるけれど、返事はない。
 部屋の電気も付いてなかった。

「……失礼しまーす……、」
 
 音羽はそっと扉を開けて、室内を見回す。
 ソファ、執務机……雲雀の姿はどこにもない。ドアから死角になりやすい部屋の隅までちゃんと見ても、彼はいなかった。


「……」

 ――雲雀さん……、どこ行っちゃったの……?

 静まり返った応接室に、つい不安になってしまう。もしかして彼の身に何かあったのでは、と悪い想像が頭を掠めた。

 ……いや、雲雀に限ってそんなことあるはずがない。もしかしたら体育館にいるかもしれないし……。

 気を取り直して応接室を出る。
 
 扉を閉めて一つ息を付きながら、踵を返したとき。


「――うっ、っ……! ご、ごめんなさい……!」

 ドンッ、と振り返りざま誰かに顔から激突してしまい、音羽は慌てて謝った。鼻がジンジンする……。思わず手で押さえていると、

「――音羽さん!」

「! 草壁、さん……?」

 聞き馴染みのある声に目線を上げたら、やっぱり草壁が立っていた。振り返ったとき視界に映った黒は、彼の学ランだったのだ。


「すみません、たった今声を掛けようとしていたのですが……。音羽さん、お加減はいかがですか?」

「あ……大丈夫です! ありがとうございます。……それより草壁さん、雲雀さんは……?」

 申し訳なさそうな顔の草壁に尋ねたら、彼はああ、と眉を寄せる。

「実は委員長から音羽さんに言伝を預かっておりまして。丁度、あなたを探していた所です」

「! 雲雀さんから……? 何でしょう、?」

 雲雀が草壁に伝言を頼むなんて……。
 何か、いつもと違う事態が起きているに違いない。さっきから感じていた胸のざわつきが確信に変わり、音羽の心臓がどくりと脈打つ。草壁は静かに言った。

「委員長は、昨晩から跳ね馬と修行の旅に出て並盛を留守にしています。ですので、自分が戻るまで待っていて欲しい、とのことです」

「……しゅ、修行の旅、ですか……?」

「ええ。何でもあらゆるシチュエーションで戦うことによって、委員長の戦闘能力を飛躍的に向上させようという、跳ね馬の考えがあるようです」

 本当は昨日のうちに、委員長から直接あなたに話すつもりだったようですが……と草壁は言い添える。音羽は目をしばたかせた。


 ……そうか、昨日は自分が気を失ってしまったから、雲雀は何も伝えることが出来ないまま発つしかなかったんだ……。ひょっとしたら彼のことだから、落ち着いた時間ができれば連絡をくれるかもしれない。

 音羽は納得して、草壁を見上げる。

「あの……、雲雀さんはどれくらいで戻るんでしょうか……? 何か言ってましたか?」

「それは、特には……。何とも言えない状況ですね」

「そう、ですか……」

 眉尻を下げて答える草壁。音羽は、視線を床に向けた。
 

 ――雲雀が、側にいない。

 それだけで、胸に広がるこの感情は何だろう。

 仕方がないと思っている。今のこの状況でまず第一にすべきことは各々の修行で、少しでも強くなること。頭では分かっている。


 でも……、やっぱり寂しい。
 毎日のように彼と会っていたから、余計に。

 それに、いつ彼が帰って来るのかも分からないのだ。この状況だからこそ、心細くなってしまう。

 ――いっそのこと、自分も連れて行ってくれたら良かったのに……。
 
 そう、少しでも思ってしまう自分はひどく傲慢で。自分に嫌気が差した。


 ……雲雀はきっと、音羽の体調を心配してくれたのだと思う。

 雲雀と一緒にいたら、音羽は多少無茶をしても治癒の力を使うだろうから。
 そうすれば音羽はどんどん体力を消耗するし、それはある意味、余計に雲雀に迷惑をかけてしまうことになる。

 ……だから、これでよかったんだ、きっと。

 無理やり思考を終わらせて、音羽は顔を上げた。

「――分かりました……。草壁さん、ありがとうございます」

「……大丈夫ですか? 音羽さん、」

「大丈夫です。私も、雲雀さんがいない間に少しでも成長できるよう頑張ります」

 自分を案じた様子で眉を顰めた草壁に、音羽は苦笑して頷く。


 正直に言えば不安だし、怖い。
 ヴァリアーに行くかもしれない、なんて一人で抱え続けるのも。

 ――でも、音羽は守護者になると自分で決めたのだ。
 決めたからには、その役目をしっかりと果たさなければいけない。だから弱音ばかり吐いて、雲雀に頼りっきりでは駄目なのだ。

 俯かずしっかり草壁を見上げると、彼は音羽の心情を汲み取ってくれたように少しだけ口元を緩めた。

 「何かあればいつでも言ってください」、と彼はとても心強い気遣いをくれたのだった。







 澄んだ空気がどこまでも広がる山の中。

 無造作に落ち着いている大きな石の上に腰を下ろし息を整えていると、ロマーリオがやって来た。


「――ほれボス、水だぜ」

「サンキュー、ロマーリオ」

 ディーノは投げ渡されたペットボトルをキャッチして、蓋を開ける。

 口を付けると冷たい水が喉を伝って落ちて行き、蓄積していた身体の疲れをじんわりと癒してくれた。ふうっと息を付けば、ようやく休息の時間を感じることが出来る。


 ――ディーノは修行という名目で雲雀を並盛から連れ出し、あちらこちらで戦い続けていた。

 それは勿論、雲雀の戦闘力を向上させるという本来の目的もあるのだが、一番の理由は彼を並盛から遠ざけるためだ。

 今回リング争奪戦の舞台となるのは雲雀が音羽の次に愛して止まない並中であり、そこが戦場と化せば彼が黙っているはずもないからだった。

 
 昨晩、雲雀が音羽を彼女の自宅へと送り届けたあと、ディーノたちは戦闘しながら並盛を出発した。海、川、森、竹林……半日で、それはもうありとあらゆる場所で戦ったものだ。

 今は、並盛から随分離れた何とかという山の奥に来ている。


 静かにじっとしていれば、少し肌寒いくらいの空気が辺りを満たしていること。普段より高い青空から、聞いたこともない鳥の声が響いてくること。黄色や赤に色付き始めた葉が、風に吹かれて落ちること。

 日本の美しい自然を幾つも見つけられるのだが、いつもそれはごく僅かな時間だった。


 雲雀はその余りある体力と、根っからの戦闘狂という気質のために休憩を必要最低限にしか取ろうとしない。それ以外は全て、戦闘に時間を費やそうとするのだ。

 なので、ディーノがようやく休憩か……と思っていれば、またすぐに戦いが始まる……という、とてもハードな時間を過ごしていた。

 体力的にはかなりキツいが、お陰で雲雀を並盛から連れ出すことに成功したし、彼の戦闘力も目論見通り右肩上がりに上昇している。きっと他の守護者と比べても桁違いに仕上がることは、まず間違いないだろう。


 そんなことを考えていたら、ロマーリオが件の少年のほうに歩いて行った。雲雀は、少し離れた所の木陰に腰を下ろしている。

「おい、恭弥。お前も飲んどけよ」

「…………」

 雲雀はロマーリオに投げ渡されたペットボトルを無言で受け取り、それを傍らの地面に置いた。すぐに、自分の手元に視線を戻す。


 雲雀の右手には、黒い携帯が握られていた。
 
 彼は画面を見ながら何やら文章を打っているようだが――。
 やがて不機嫌そうな顔をすると、今度はそれを耳に当てた。誰かに電話を掛けているようだ。

 ――恭弥が連絡を取りたがる相手なんて、一人しかいないよな……。

 
 ディーノは苦笑して、この半日の雲雀の様子を思い出す。

 並盛を出てからというもの、雲雀は休憩時間になるたびに携帯を気にしていた。
 
 自分が並盛を離れることは草壁から音羽に伝わるよう手配したようだったが、やはり直接彼女に伝えておきたかったのだろう。今朝から何度も電話を掛けたり、メールを送ったり。……しているよう、なのだが。


「…………」

 ややって雲雀は諦めたように腕を下ろし、携帯を制服のポケットに仕舞った。その横顔はいつにも増してぶすっとしている。……嫌な予感がした。

 雲雀はペットボトルを掴んで煽るように水を飲むと、ゆらりと立ち上がってディーノを睨み見る。ディーノはぎくりとした。

「ど、どうした恭弥? まだ休憩中だぞ」

「…………」

「……音羽に連絡出来なかったのか?」

 率直に尋ねれば、雲雀が目に見えそうな殺気を身に纏う。

「……ずっと圏外だよ。あなたがこんな山奥でのんびりしているせいでね」

「いや……、そんなにのんびりはしてねーだろ? ほとんど戦って、偶に休んでるだけじゃねーか」

「うるさい」

 雲雀は顔を顰めると、また素早くトンファーを構えた。


 ……呆気ない休憩時間だった。
 やれやれとディーノは溜息をつき、ペットボトルを置いて立ち上がる。

「全く……お前はすぐ戦いに持ち出すから、こっちの身が持たねーぜ」

「あなたを咬み殺して、山を下りるよ」

「それは……見過ごせねーな。恭弥、お前にはまだここで鍛えてもらう必要がある」

 ディーノは鞭を取り出して、引き絞った。


 ――並盛に戻らせるのはまだ早い。恭弥の番が来るまで、ここに留めておかねーと。

 瞬時に戦闘態勢に切り替えて、ディーノと雲雀は武器を構えて駆け出した――。







 放課後――。

 並中の昇降口から校門までの間には、色とりどりの傘が沢山並んで咲いていた。

 明るくて鮮やかな彩りと同じ。生徒たちの楽しげな声に紛れて、音羽も傘を差しながら校門を出る。


「…………」

 とぼとぼと学校の前の道を歩きながら、鞄から取り出した携帯を確認した。

 着信はゼロ、メールもゼロ。雲雀からの連絡は何一つない。


 彼がいなくても頑張ろう、と思った気持ちに嘘はないけれど……。
 やっぱり無事なのかとか、どの辺りにいるのかとか、気になってしまうのはどうしようもなかった。
 
 かといって、自分から連絡するのも修行の邪魔をしてしまいそうで気が引ける。

 ――雲雀さん、忙しいのかな……? 連絡出来ないようなことになってないといいけど……。……それとも、私のことなんて忘れてる、とか……?


「はあ〜……」

 音羽は例に見ない盛大な溜息をついて、携帯を鞄に仕舞った。
 
 何を想像しても答えは出ない。だから、今は信じて待つことしか出来ないのだ。

 雲雀から言われた通り、彼の帰りを。彼の無事を。


 雲雀の顔を思い出したら、胸がきゅっと締めつけられた。

 早く帰って来たらいいのに……と、つい俯いて考えていると。


「――わっ……!」

 歩いていたら、傘がぼん!と何かにぶつかって音羽は我に返った。

 目深に傾けていた傘の隙間から、男の人の足が見える。

 どうやら前に佇んでいた人に、傘ごと突っ込んでしまったらしい。今日はよく人にぶつかってしまう日だ。


「っす、すみません……!」

 すぐに傘を持ち上げて、目の前の人を見て謝罪した。

 ――けれどその人の“不思議な”出で立ちに、音羽は目を丸くして固まってしまう。


 男性――いや、年は音羽より少し上かもしれないものの、そう変わらないように見える。男性というより、少年だった。

 彼は黒い傘を差していて、ぴたっとした黒のスキニ―に、黒と紫のボーダー柄長袖シャツを着ている。サラサラの、綺麗なブロンドの髪。

 ここまでなら、たしかに外国人ではあるけれど“不思議”ではないだろう。気になったのはもっと細部だ。


 少年は不思議なことに前髪が異様に長くて、瞳が見えないくらいだった。

 そして取り分け目を引くのは、ブロンドの上に載った銀のティアラ。雨で日の光も差していないのに、精巧に作られたそれは彼の頭上でキラキラと輝いている。

 彼は何となく、“普通”の人ではない気がした。


「……」

 少年は口をへの字に曲げたまま、音羽をじっと見下ろした。

 目が見えないから彼の感情が読み取れないけれど、威圧的なものを感じる……。睨まれている、のだろうか……?


 ――どうしよう、怒ってる……? もしかして、日本語だから伝わってない……!?

 そうかもしれない、音羽はあたふたしながら英語での謝罪を試みた。


「あ、あの……ソーリー……」

 少年を見上げながら、恐る恐る。ネイティブとは程遠い発音で謝ると、少年が初めて口を動かす。

「……オレにぶつかるとか、お前良い度胸じゃん」

「!!」

 なんと、日本語が返ってきた。
 しかも、日本人と同じくらい綺麗な発音で。とても聞き取りやすい。

 呆気に取られてついぽかん……としていると、少年は不愉快そうな低い声を出す。

「なあ、どうしてくれんの? お前のせいで服、びちゃびちゃなんだけど?」

「あっ! す、すみません……!」

 言われて彼の胸元辺りを見てみたら、シャツが雨水に濡れてじわりと色を変えていた。彼の言う通り、音羽が傘からぶつかったせいだ。申し訳ない……。

 罪悪感と少年の威圧感に圧されながら、音羽は慌てて鞄に手を突っ込む。

「あの……よかったら使ってください……!」
 
 少し怖くてそろそろとハンカチを差し出すと、少年は視線を下にずらした。
 
 さらりと揺れるブロンドの前髪。
 ハンカチを握る音羽の手元を見て、それから音羽の目まで辿り着く手前で。

「……! お前、それ、」

 彼は、僅かに肩を跳ねさせた。

「……?」

 音羽の首の辺りを凝視して、少年は驚いたような声を上げる。途端に、彼から凄む気配が消えた。訳が分からず首を傾げてしまう。

「……まさか、お前が?」

「……はい……?」

「……」

 何のことかさっぱり分からず聞き返すと、少年はまじまじ音羽を見た。……何だろう、強いて言うなら好奇の視線、だろうか。瞳が見えないから、分からないけど。

 
「……うししっ、いいもん見っけ♪」

「……?」

 困惑していたら、少年は納得でもしたみたいににんまり笑った。彼は音羽の手からぱっとハンカチを取ると、濡れた服を軽く拭く。

 少年が何に納得したのかよく分からなかったが、ひとまず許してくれたみたいだ。音羽はほっと胸を撫で下ろした。


「ん」

「……! あ、あの……?」

 使ったハンカチを差し出されたので受け取れば、ずいっと身を寄せてくる少年。じっと顔を覗き込まれて、思わず一歩後退る。

「ししっ、よく見ると結構可愛い顔してんじゃん。お前、名前教えろよ」

「……え……片桐音羽……ですけど……」

 不躾に何を聞いてくるんだろう、と思いながらも、断ると何だか怖いことに巻き込まれそうで答えてしまった。

 少年は三日月の形をした唇で笑う。目元が見えない分、彼の感情は口元でしか判断できない……でも、とても満足気に見える。


「しししっ、音羽な。オレの名前はベルフェゴール。ベルで良いぜ」

「……ベル……?」

「そ。トクベツに王子の名前呼ばせてやるよ」

「……王子? 王子って……あなたのこと?」

「当たり前じゃん? でも、まあ……お前とはまた会うことになるだろうし、今喋ると色々面倒だな」

「……?」

 声を落としたベルの言葉の意味は何一つ分からず、音羽は眉を寄せた。王子とか、また会うとか……一体どういう意味なんだろう……?


「んな顔すんなって」

「! 痛っ……」

 皺を寄せたのが良くなかったのか、ベルに指で眉間を弾かれた。ビシッと爪先をぶつけられる地味な痛みに襲われて、額を手で押さえる。

 ……たしかに。傘から当たって行ってしまったのは悪かったけれど……、だからと言って初対面でおでこを弾くなんて。
 これは抗議しても……きっと許されると思う。

 彼を見上げて口を開こうとした瞬間。


「――!」

 ベルが、音羽との距離を詰めてきた。

 はっと息を呑むあいだに、彼は耳元で小さく囁く。


「じゃあまたな、Principessa(プリンチペッサ)

「……え?」

 聞こえた言葉に問い返したけれど、彼は答えることも振り返ることもなく、踵を返して行ってしまった。


 ――最後に聞こえた外国語。
 発音の感じからして馴染みがないので、英語ではない気がする。

「……ほんとに、どういう意味……?」

 結局、ベルの言っていたことは何一つ訳の分からないまま。

 ――はぁ……、変な人に会ったなあ……。

 何だかどっと疲れて、音羽はまたとぼとぼと歩き出す。

 
 ――彼と再会するのがまさかこの数時間後だなんて、音羽には予想出来るはずもなかった。


prevlistnext
clap
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -