20話 七人目の守護者

 並中の屋上には、いつもより強い風が吹いていた。時折唸るような音を立てて過ぎて行き、それがチャイムの音よりも大きいと感じたのはひょっとしたら初めてかもしれない。

 HRの開始を知らせる鐘は、もうとっくに鳴っていた。普段なら走って教室に向かうところだけれど、今日ばかりは“こっち”をほったらかしにして教室に戻ることなんて出来なかった。


「……っ、雲雀さん……、」

「音羽、君はそこにいて」

 手に汗握りながら思わず雲雀を呼ぶと、彼はディーノと対峙したままきっぱり言った。雲雀の全身から、強い殺気が溢れている。咬み殺す気満々だ。

 音羽は彼に言われた通り、ディーノの部下――ロマーリオの隣に立って、やはりハラハラと二人を見つめた。


 気が付けば、あれよあれよという間に武器を取り出し、風の吹き付ける屋上にまで来てしまった二人。

 雲雀に怪我をして欲しくないし、大切な人と知り合いが戦う状況もとても落ち着かなくて、本当はすぐにでも止めに入りたかった。

 けれど、音羽にはそれが出来ない。

 雲雀がディーノに対して混じりけのない殺気を持ちつつも、この闘いを愉しんでいるのが何となく伝わってくるからだ。

 それに、ディーノもきっと、ちゃんとした目的があって雲雀の好戦的な態度を受け入れている。恐らく、さっきまでしていた指輪の話ために。
 
 ……だとしたら今の自分に出来ることは、この場で大人しく彼らの姿を見守ることだけ。

「……」

 でも……分かっていても、雲雀が怪我をしないかがやっぱり不安で、音羽は下ろしていた拳をぎゅっと握った。

「――学校の屋上とは懐かしいな。好きな場所だぜ」

「だったらずっとここにいさせてあげるよ。這いつくばらせてね」

 雲雀は、普段音羽が聞くことのないような鋭い声で言うと、地を蹴って駆け出した。

 勢いよくトンファーを振るい、風を切る。彼の両腕から繰り出される無駄のない攻撃が、ディーノを襲う。

 けれど、ディーノはそれを隙なく軽やかに躱し続け、やがて雲雀のトンファーを鞭で捕らえた。

「その歳にしちゃ上出来だぜ」

「何言ってんの?手加減してんだよ」

 雲雀は反対の自由な腕をぶん、と振り、容赦なくディーノに殴りかかった。それを避けて、また振るって。雲雀は猛攻を繰り返す。それだけで、居ても立ってもいられないような気持ちになった。


「――心配か?あいつのことが」

「!」

 唐突に聞こえたのは、隣にいるロマーリオの声だった。

 そわそわしていたのが、傍目にも分かったのかもしれない。彼は人の良さそうな顔をこちらに向けて、音羽のことを気に掛けてくれている。

「雲雀さんは強いから……。私の心配なんて、無意味かもしれないんですけど……、でも……」
 
 音羽は俯いて、答えた。

 頭のなかに過るのは、やはり黒曜ランドで見た雲雀の姿。
 
 自分だったらとても痛みに耐えられないんじゃないかと思うくらい、ボロボロに傷付いたあの姿だ。
 もう二度と、彼の痛ましい姿は見たくない。

「なるほど……。そりゃ、ボスが知ったらショックを受けるな……」

「はい……?」

 ぽりぽりと頬を掻いて、ぼそりと呟いたロマーリオ。声が聞き取れず、音羽は首を傾げた。けれど彼は、「何でもない」と言うように軽く手を振る。

「……実は、うちのボスな。日本に来るときは、いっつもあんたに会えねえかな〜って言ってるんだぜ。だから今回、雲雀のカテキョーだけじゃなく、あんたのカテキョーも任されて張り切ってんだよ」

「……えっ?! ディーノさんが、わ、私の……?!」

 信じられない言葉に、愕然としてしまう。

 “カテキョー”って……よく分からないけれど、ディーノが今雲雀にしているように、戦いを目的とした指導……のようなことをする人なのではないだろうか……?

 確かリボーンも、ツナを立派なマフィアの十代目に鍛え上げるためやって来た、“家庭教師”だと言っていたはずだ。
 
「でも、あの……カテキョーって、私、雲雀さんみたいに戦える人間では……」

 ないんですけど……、と音羽はつい尻すぼみに答えてしまった。そもそも、どうしてこんな状況になっているのかも、まだきちんと分かっていないし……。

 困っていると、ロマーリオは「ハッハッハッ!」と豪快に笑う。

「そうだな、あんたは若いし余りに優しすぎる。そんな人間を“こっち”の世界に連れ込むのは、確かに酷な話だが……。きっと、あんたにしか出来ないことがあるんだろうよ」

「…………」

 ――私にしか、出来ないこと……。

 そう言われて、少し前の自分だったら間違いなく、「そんなこと、あるはずがないと思います」と答えていた。自分は特別なことなんて何一つない、平凡な女子中学生だと思っていたあの頃なら。

 でも――。

 音羽は心のなかでロマーリオの言葉を反芻し、それからポケットに入れていたあの指輪を取り出した。


 ロマーリオが言っている、“こっち”の世界――。
 それははやはり、“マフィア”という裏社会のことを指しているのだろう。

 だとしたら、この前みたいな恐ろしい出来事が、今後も付き纏ってくるのかもしれない。少なくとも音羽が持つこの指輪も、雲雀が持つ指輪も、それに深く関わっている。

「…………」

 手のひらにある小さな指輪は、日の光を浴びてキラキラと白く輝いていた。

 まるで、まっすぐ通った一筋の道を照ら出し、音羽をその先へと導くように。







「っ、と……!」

 ディーノは身を翻し、襲いくる雲雀のトンファーを躱していた。

 接近していれば、再現なく打撃技が飛んでくる。なので、ディーノは一度後方に飛び退いて距離を取った。鞭をピンと張り、雲雀の出方を伺う数秒。

 気の抜けない空気が漂う中、ふと、動くものが視界に映った。――彼女だ。ディーノの視線がつい一瞬、そちらに向かう。


 ――音羽は小さな手のひらにあの指輪を載せて、どこか神妙な面持ちをしていた。

 ロマーリオから、何か聞いたのかもしれない。指輪のことも彼女は気になっていたようだったし、早く話をしてやりたかった。

 ……が、目の前の少年はディーノにそんな暇など与えない。今回はこの少年をとにかく鍛え上げることが、ディーノにとって一番の大仕事なので仕方がないが。

 同時に、音羽のサポートも出来る限り行うよう任されている。だから、彼女に伝えるべきことを伝えるのも、ディーノの大切な役目だった。


 ――正直、雲雀と共に音羽のカテキョーに選ばれたときは、内心喜んだ。彼女に会える口実ができたと思って。

 だがまさか、音羽と雲雀が一緒にいるとは……。リボーンの話だと、音羽はよく学校にいるから、学校好きの雲雀と併せて面倒見れば丁度良いだろう、ということだったが……。

 今朝二人っきりで応接室にいたところを思うと、どうもそれだけではない気がする。それは聞いていた雲雀の性格を思い出しても、どこが違和感があった。

 考える余裕ができたついでに、ディーノは守りの姿勢を崩さぬまま雲雀を見据える。

「……なあお前、音羽のこと随分気に入ってるみたいだな? リボーンから、お前は他人と群れるのが何より嫌いだと聞いてたんだが……」

「嫌いだよ。でも、彼女は別だ。……あなたこそ、あの子を見る目、気持ち悪いよ」

「なっ……!? 気持ち悪い……!?」

 容赦ない言葉の刃に、ディーノは軽く胸を抉られた。雲雀は気を良くしたのか、満足げな笑みを薄い唇に描く。

「言っとくけど、音羽は僕のものだから。手を出そうなんて思わないことだね」

「っ、お前……」

 ディーノは困惑して、声を呑んだ。

 まるで、ディーノの気持ちを見透かしているかのような言葉。まあそれは、ディーノが分かりやすいか、雲雀の勘が鋭いかのどちらかだとして。

 気になるのは内容だ。雲雀の口ぶりでは、彼女は雲雀の所有物のようになっている。

 二人っきりでいた応接室。心配そうに雲雀を見つめている音羽。

 ――まさか、音羽は雲雀と……?

 過った瞬間、今度は胸がざわついた。けれど、ディーノがより深いところまで思考を巡らせる前に、前方の空気が大きく震える。

「っ……!」

 雲雀が躊躇なくトンファーで殴り掛かってきて、ディーノは(すんで)の所でそれを避けた。すぐに、意識を雲雀に集中させる。

「ぼさっとするなよ」

 血気盛んな雲雀の眼が、ディーノの喉元を食い千切ろうと見据えていた。こんな相手との戦闘中に、私情で心を乱すとは。ボスとして、自分もまだまだということか。
 
 ディーノは自身に苦笑して、今度こそ雲雀に向き合った。彼は一方的に攻撃を繰り出し続けても、未だ呼吸一つ乱していない。

 ――こいつ……本当に末恐ろしいガキだぜ。でもだからこそ、ツナのファミリーには絶対必要。手を出すまいと思っていたが……。

「しょーがねぇ!」

 ディーノは初めて腕を振りかざし、雲雀に鞭を繰り出した。

「甘いね、死になよ」

 目にも止まらぬ速さで伸び、しなる鞭を、雲雀は事もなげに軽々と躱す。そのままディーノとの距離を詰めると、彼はトドメの一撃と言わんばかりに力強くトンファーを振り上げた。

「――!!」

 瞬間、目の前の雲雀が、大きく目を見開いた。
 ――振り上げたはずの自分の腕が、一ミリも動かないからだ。

 ディーノの鞭は雲雀の腕にきつく絡んで、彼の動きを封じていた。ディーノの、意図した通りに。

「……お前はまだ井の中の蛙だ。こんなレベルで満足してもらっちゃ困る」

「…………」

「もっと強くなってもらうぜ、恭弥」

「やだ」

「なっ……」

 雲雀は不機嫌に眉を寄せると、封じ込まれた左腕をそのままに、空いた右腕のトンファーをくるりと半回転させる。

「!!」

 ヒュ、と風が鳴り、鉄の銀が視界に走ったのは一瞬で、ディーノは咄嗟に身を捻った。直後、ガツン!!とこめかみに衝撃と痛みが走る。

「てっ……!てめーなあ!!」

 何とか直撃は避けたものの、汗より重い液体がこめかみから顎まで伝って落ちた。屋上の地面に、ぽたりと赤い染みが出来る。

 手の甲で顎を拭い、ディーノは苦く笑った。

 話を聞いて思っていたより、この男、雲雀恭弥は扱いにくい。だが、とても中学生とは思えないこの戦闘技術と身体能力。

 ツナのファミリーにおいて最強の守護者になることは、恐らくこの修行期間を経たあとでも間違いないだろう。

 ――さてこのじゃじゃ馬……、どうやって手懐けようか……。

 ディーノは鞭を握りながら、雲雀を前に考えた。
 

 
 ――そんな二人の一幕を、その男は塔屋の影からひっそりと覗いていた。薄く生えた髭の下にある唇が、緩い弧を描く。

「――それでいい、お前たちはどんどん戦え。それが……、七人目の守護者を“守護者”として目覚めさせる、一番の近道だ」
 
 静かな声で呟いて、男は視線を僅かに横へと滑らせた。
 
 男の、栗色をした両目。そこに映ったのは、さっきよりもオロオロしながら二人を見守る、一人の少女の姿だった。







 響いたチャイムは、授業の終わりと昼休みの開始を告げた。

 音羽は机に広げていた教科書やノートを仕舞いながら、もう一度教室内を見回してみる。

 ――沢田君たち来てないな……。皆、どうしたんだろう?

 ツナも獄寺も山本も、今日話をしたいと思っていた人は誰一人として来ていない。彼等と話したくて、不安なままあの二人を屋上に残し、教室に戻ってみたのだけれど……。

 ――仕方ない……指輪のことはやっぱり、あとでディーノさんに聞いてみよう。お昼休みだし、さすがに戦うのも中断してるよね……。

 音羽は席を立つと、賑やかな教室を後にしてさっそく屋上へと向かった。もちろん、早起きして一生懸命作ったお弁当を持って。

 何だか朝から大変なことになってしまったから、ついつい忘れそうになっていたけれど、今日は雲雀とお弁当を食べる約束をしていたのだ。唯一ほっと出来そうな時間を予感して、胸が躍る。


 屋上への階段を軽やかに駆け上がり、ドアを開け、音羽は辺りを見回した。
 ディーノとロマーリオの姿はなく、雲雀が一人、塔屋の壁に凭れて座っている。

 良かった、一先ず戦闘は終わっていたみたいだ。

「雲雀さん、お待たせしました!お弁当、持って来ましたよ」

「ああ、ありがとう」

 欠伸をしていた雲雀は音羽を見ると、瞳の色を和らげた。さっきディーノと戦っていたときとは、全然違う目をしている。

 特に怪我らしい怪我もしていない雲雀に胸を撫で下ろしながら、音羽は彼の隣に座った。お弁当を袋から取り出して、包みを解いていく。

「雲雀さん、ディーノさんたちは?」

「さあ? 日本の学校の売店に行くとか何とか、大人げなく騒いでたよ」

「ディーノさんたちもお昼なんですね! 良かった」

 それなら、しばらく戦いを再開することもないはずだ。ゆっくり雲雀とのお昼休みを過ごせそうだと思って、顔が綻ぶ。
 ほくほくしながら解いた包みを袋に入れて、あとは蓋を取るだけ――。

「……!」
 
 蓋の縁に指を掛けたところで、音羽はハッとした。これを開けてしまえば、とてもひどい……という訳ではないけれど、それなりにちょっと不恰好なおかずたちが顔を出す。

「あ、あの……」

「いいよ。君が作ったもの、食べたいから」

 ちら、と雲雀を見たら、彼は音羽の言いたいことを理解してくれたらしく頷いた。音羽の膝に載せていた少し大きい方のお弁当箱をさっさと取ると、彼は何の躊躇いもなく蓋を開ける。

 注がれる視線。
 ドキドキして、音羽は雲雀とお弁当を見比べた。変じゃない……? 大丈夫かな……?

 緊張していたら、雲雀は緩く目を細める。

「ワオ、ちゃんと出来てる。いいね」

「っほ、ほんとですか!?」

「余りに上手くないって言うから、どれだけ酷いのかと思ってたけど。予想以上に良かったよ」

「!もう……、」

 揶揄うように笑った雲雀に、音羽はほんの少しむくれた。でも、どうやら雲雀は気に入ってくれたみたいだから、ほっとする。

 取り敢えず第一関門は突破だ、あとは味を気に入ってもらえたらいいけれど……。

 再び雲雀を見つめたら、彼は真っ先におかずのハンバーグに箸をつけた。

 お弁当サイズで少し小さくなってしまったが、雲雀が好きだと言っていたから絶対に入れようと思って作ったものだ。音羽が全工程携わった、唯一のおかずでもある。

 雲雀はハンバーグを二つに分けると、その片方を静かに口に運んだ。
 お箸の使い方といい、口に運ぶ仕草といい、食べ方といい……。雲雀の一連の動作がとても美しくて、見惚れてしまう。

 彼がゆっくりと嚥下したのを見届けて、音羽は雲雀の顔を覗き込んだ。

「ど、どうですか……?」

「うん、美味しい」

「!よ、よかったぁ……!!」

 雲雀は音羽の顔を見ると、極シンプルに。目を見つめて言ってくれて、胸がぱあぁっと喜びで溢れてしまう。

 普段から毒舌……というか、正直な雲雀のことだから、きっとマズかったらマズいとハッキリ言うはずだ。

 それに、雲雀のくれた言葉の端には、彼の確かな感情が感じられたから。だから、嬉しい。

 ああよかったと安心して、自然とニコニコしていると。

「今度は大きいのが食べたい」

「!!も、もちろんです……!作ります!!」

 ハンバーグの最後の一口を食べて言う雲雀に、音羽は笑顔ですぐ頷いた。自分の作ったものを「また食べたい」と雲雀に言ってもらえたのが、何よりも嬉しい言葉だった。




 
 お弁当はハンバーグ以外も雲雀の口に合ったようで、「また作って」と食べ終わったときに言ってもらうことが出来た。

 お母さんありがとう……、と思いつつ、音羽は「これから料理の腕を磨こう……」と心の中で静かに決意する。


 そうしてお弁当を包んで袋に戻していると、隣から大きな欠伸。日曜日のことを思い出して、音羽は微笑んだ。

「雲雀さん、お昼寝しますか? 私、また膝枕しますよ」

「……いや、いいよ。それより、」

「……!」

 言葉を切ると、雲雀は音羽の肩に手を回した。そのまま、彼の方にそっと柔らかく抱き寄せられる。

「こうしていたい」

「……雲雀、さん……」

 耳元で囁かれ、低い声が耳から頭、胸の底まで響いて落ちた。
 突然包まれた雲雀のぬくもり。触れ合った肩も、抱き寄せる手も温かい。

「っ、……」

 息を呑んで反射的に身を固くしていたけれど、雲雀が宥めるようにこつんと頭を寄せてきたので、音羽も少しずつ身体の力を抜いた。大人しく、彼に身を委ねてみる。

 ドキドキしすぎて、顔も身体もすぐに熱くなった。言葉なんてなくても、彼の気持ちが触れ合ったところから伝わってくるみたい。
 雲雀がくれる確かな愛情が、深い幸せになって全身を巡っていった。

 ――雲雀さん……、やっぱり大好き。

 胸がきゅっとして、音羽は雲雀の制服の裾を小さく握った。彼の方に引っ付いて身を寄せると、雲雀の手が柔らかく頭を撫でてくれる。

 ああ、ずっとこうしていたいなあ……。
 お日様の光より温かい気持ちになりながら、雲雀の温度を深く感じていたときだった。
 
 けたたましい音を立てて、屋上のドアが開いたのは。


 ――ガターン!!

「?!」

 突如響き渡ったその音に、音羽は雲雀の腕の中でびくりと跳ねた。慌てて音のした方を見てみれば、半開きの入り口からはみ出して、うつ伏せに倒れたディーノの姿がある。

「っ、いてててて……」

「!ディ、ディーノさん……!?」

 雲雀がはあ……、と呆れたようなうんざりしたような溜息をつくのは露知らず、音羽はディーノに駆け寄った。

「ディーノさん、大丈夫ですか!?一体何が……」

「あ、ああ……大丈夫だ。ジャッポーネの学校の階段はよく滑るな。ここに着くまでに、何度も転んじまったぜ……」

 ディーノは所々ボロボロで、どうやら本当に何度も転んでしまったらしい。
 さっきまで雲雀と互角に戦っていた人は、本当にこの人なのだろうか……。音羽はつい言葉を失って呆然としてしまう。


 そうしているうち、ディーノはたった今ぶつけたらしい額を押さえて身体を起こした。
 よく見ると、雲雀が殴打していたこめかみに大きめの絆創膏が貼ってある。部下の人にきちんと治療してもらったみたいだ。良かった……。

「!ディーノさん、これ……。何か買ったんですか?」

「ああ、」

 ふと、ディーノの目の前にビニール袋が落ちているのに気が付いて、音羽はそれを拾って差し出した。購買に行くと言っていたから、何か食べる物でも買って来たのかもしれない。

「日本の学校に来たらこれを食えって、ロマーリオに言われたんだ」

 ディーノはガサゴソ袋を漁ると、中からそれを取り出した。

「!焼きそばパン!確かに、日本でしか食べられませんね」

「ああ!あと、なぜか店の人がオマケで五個くらいパンくれたんだ。ジャッポーネの人は皆親切だな!」

 と、嬉しそうに袋を広げて見せてくれるディーノ。確かに、色々入っている……メロンパンにあんぱん、チョココロネ……ちゃんと、しょっぱいおかずのパンもある。

 きっと若くてカッコいい外国人のお兄さんだから、売店のおばさんも沢山サービスしてくれたんだろうな……。さすがディーノさん……。

 音羽は目をしばたかせ、微苦笑した。ディーノも無事なようだし、これからお昼にするはずだ。自分も雲雀の所に戻ろう。
 そう思って、踵を返した瞬間。

「――何してるの、音羽」

「ひっ、雲雀さん?!」

 振り返ったらいつの間にか、真後ろに雲雀が立っていて。
 気配も何もなかったものだから、音羽はひっくり返った声を上げてその場で飛び跳ねてしまう。
 
 対する雲雀は少しだけ、不機嫌そうな顔をしていた。





「群れるのは許さないよ」

「ご、ごめんなさい、雲雀さん……」

 音羽は背後にいた雲雀に盛大に驚いたあと、しょんぼり項垂れて謝った。素直な心根の音羽らしい。が、彼女が謝る必要は特にないようにディーノは思う。

「ははっ、大袈裟だな、恭弥は!ただ話してただけじゃねーか」

「……あなたは特に許せないな」

 音羽を励ますためにその肩を叩こうとしたら、雲雀がサッ、と音羽の腕を引いてディーノから遠ざけた。これは、特に意図のない単なるスキンシップのつもり、だったのだが……。

 雲雀は、自分に向けてあからさまに容赦ない殺気を放ってくる。ディーノは肩を竦めて笑った。


 ――二人が話している所を見れば、関係は明らかだった。
 
 雲雀がディーノを近付けたくない気持ちもよく分かる。自分が雲雀の立場でも……まあここまで露骨にはしないだろうが、嫌だとは思うだろう。何より、音羽は可愛い。

 雲雀とディーノの間で困り切ったように眉尻を下げ、瞳を揺らしている音羽。その姿がディーノの庇護欲を掻き立てて、同時に胸をさざめかせる。

 音羽は、心配しているのだ。二人が今にも戦いだしはしないかと。
 雲雀が、傷付きはしないかと。


 ……どこか、不思議な気持ちだった。

 普段の自分なら、相手のいる女をいつまでも引き摺ったりしない。

 だが音羽は――何か、これまでとは違う。彼女を見ていると、経験のない自分の感情、思考に出くわしてしまうのだ。

 例え、嘘偽りなく音羽の幸せを願っていたとしても、どうしても頭から振り払えない。振り払える気がしない――ともすれば、振り払いたくないとさえ。

 けれど、そうまで想いながらも、やはり彼女を無理やりどうこうしようという気にはならなかった。不可解なことではあるが、彼女の笑顔を見るとそれだけで満足してしまう自分がいる。

 八つ離れた少女相手にこうなってしまうのは、相手が音羽だからなのか。
 
 それとも、彼女が…………。


 ――ったく……、大の大人が何考えてるんだか……。

 考えかけて、ディーノは強引に思考を中断させた。心のなかで自嘲して、小さく息を吐く。


 音羽は、突然黙ってしまったディーノのことを、首を傾げて見ていた。まだ不安な色を澄んだ瞳に残している。

 そんな彼女を見ていれば、何だかこのままでいい気がするのだ。いつも。とても、不毛だと分かっていても。


 降参して、ディーノはゆっくりと両手を上げた。雲雀は、未だ訝しげにこちらを見ている。

「……そう怒るなよ、恭弥。皆で指輪の話でもしようぜ」

「……は?そんなのする訳――」

「あっ、指輪……!そうです!私、ディーノさんに聞こうと思ってて……!」

「……」

 ディーノはしてやったと言わんばかりに、にやりと笑って雲雀を見た。

 雲雀はディーノに鋭いガンを飛ばしてきたが、他でもない音羽が「早く聞かせて……!」という顔をするので、仕方なさそうに溜息をつく。

 ようやくこの話がしてやれることを喜ばしく思いながら――けれど、音羽の反応が心配にもなりながら、ディーノは例の“指輪”について二人に話し始めた。







「――つまり、ボスの沢田君とその守護者七人に配られた指輪を、“ヴァリアー”っていう怖い人たちが狙ってて……。それを近々日本に奪いに来るから、皆修行してる、ってことですか……?」

「ああ、そうだ。そして、音羽も恭弥も、その守護者の一人に選ばれた」

「……!」

 ディーノから話を聞いた音羽は、身体が硬くこわばっていくのを感じていた。

 まさかそんな恐ろしい状況の只中に、自分がいるなんて……。ディーノから聞いた言葉たちの意味は何とか理解できるものの、全てをすぐには呑み込み切れなかった。
 
 それでも話を咀嚼するごとに、恐怖はひたひたと胸に侵食してくる。

 ――どうしよう……、マフィア絡みとは思っていたけど、まさかこんなに怖いことが迫っていたなんて……。


 “暗殺部隊”ヴァリアー。
 マフィアには、本当にそういう組織があるらしい。名前の時点でただならぬ恐ろしさだ。

 そして、そんな人たちが狙っている物の一つを、音羽も持ってしまっている。
 戦う術を何一つ持たない自分なんて、きっと一瞬で殺されてしまうだろう……。 

「……大丈夫か、音羽? 突然マフィアの世界に片足踏み込んでる、なんて言われても、受け入れられねーよな……」

「…………」

 ディーノに顔を覗き込まれて、何か答えなきゃ、と思うのに声が出なかった。首の筋肉も上手く動かないので、音羽はその場に視線だけを落とす。

 視界の端に映る雲雀は、傍らの壁に凭れて黙っていた。彼がこちらを見つめてくれているのを感じる。ディーノは言葉を続けた。

「だがな、音羽……。音羽が選ばれた“天の守護者”――それは、音羽にしか出来ない役割なんだ」

「……天の、守護者……?」

 今初めて聞いた言葉に、音羽はおずおずと目線を上げた。ディーノのアンバーの瞳が音羽を見据えて、力強く頷く。

「さっき、ボスが大空、守護者は天候になぞらえられたって話、したよな? 雨、嵐、雲、晴、霧、雷、そして、天。それぞれには、守護者の特徴みたいなもんがあるんだ」 

「特徴……?」

「そう。例えば……、恭弥の雲の守護者なら、“何者にもとらわれず、我が道を行く孤高の浮雲”。そして音羽の天の守護者は、“すべての傷を癒し、守る、稀有の光”。……リボーンから聞いたぜ。黒曜ランドで、音羽が治癒の力を使ったって」

「!……でも、あれは……あのとき偶然そういうことが出来ただけで、今はもう……」

 音羽は自分の手を握りしめた。
 ディーノに指輪の話を聞いたときから、薄々は感じていたのだ。

 戦闘力なんて一切ない自分が、マフィアで使える人間として――守護者として選ばれたのは、あのとき偶々使えてしまったあの力のためなのだと。

 けれどその治癒の力が使えたのは、黒曜ランドで偶発したあの一回きり。今振り返れば、あれは夢だったのではないか、と思うくらいなのだ。

 とても、自分が役に立てるとは思えない。

「音羽は、自分には出来ないと思っているかもしれないが……。音羽が天の守護者に相応しいと、お前にしかその役は務まらないという証拠が、そこにある」

 ディーノが音羽の心を読んだように目配せで示したのは、制服のポケット。音羽は中からリングを取り出して、手のひらに載せた。

「……これが証拠、ですか……?」

「ああ。このリング、恭弥のとは違っただろ? デザインもそうだが、この天のリングは完成した状態なんだ。だがツナも含め、他の守護者たちのリングはまだ未完成――半分欠けた状態になっている。そして、そのもう半分を持っているのが、ヴァリアー」

「……それって、もしかして……」

「そう、天のリングは正真正銘音羽の物だ。つまりそれは、音羽は既に天の守護者であることを指す。他に変わりは誰もいねえ」

「!」

「だから、オレが任された音羽のカテキョー……それは、音羽をサポートして、その能力を完全に開花させることなんだ。音羽の力でツナを……ファミリーを、助けてやってほしい」

「……」

 まだ信じられないけれど、ディーノの言っていることは分かる。事実、音羽は完全なリングを持っているから、他に候補が誰もいないというのも理解できた。
 
 でも……。
 自分にそんな、マフィアの一角を担うようなことが、本当に……出来るだろうか。

 ――出来るか、出来ないか。

 そう考えれば、答えなんて決まりきっている。既に心は不安でいっぱい。怖くて、今にも身体が震えだしそうだった。


「――やらなくていいよ、そんなの」

「「!」」

 短い沈黙を破ってはっきりと言ったのは、雲雀だった。ハッとして彼を振り返ると、普段と一つも顔色の変わらない雲雀と目が合う。

「君がわざわざ危険な目に遭う必要はない。大体、君みたいな小動物が戦える訳ないだろ」

「雲雀さん……」

 言い方は少しきつく聞こえるけれど、雲雀は音羽のことを心配してくれていた。瞳がいつもより真剣で、揺れている。声だって、そんな風な感じだった。

 胸がぎゅっと、締め付けられる。

 たしかに雲雀の言う通り、音羽は戦うことなんて出来ない。人を傷付けることもしたくないし、マフィアなんて絶対に向いてないのは誰がどう考えても明らかだ。

 でも、これは本当に、やらなくてもいいこと……なのだろうか?

 「出来ない」と言えば、逃れられることなのだろうか。


「恭弥……。そうは言ってもな、音羽は選ばれちまった。恭弥、お前もだ」

「興味ないよ」

「ったく、お前は……。ヴァリアーが来るまでに、そう時間はねーんだぞ」

「指輪のことなんて知らない。ただ、強い奴が来るなら戦うだけさ」

「…………」

 雲雀の瞳は音羽とは対照的に、きらりと輝いていた。好戦的な彼の目に、音羽は俯く。

 ――守護者なんて……マフィアなんて、私なんかに務まる訳がないって、分かってる。でも……。


 もう二度と、雲雀さんにあんな怪我をして欲しくない。
 傷付いた雲雀さんを前にして何も出来ないなんて、もう、絶対に――。


 ――考えれば考えるだけ、答えは一つに絞られた。
 出来るか、出来ないか、ではなくて。


「…………私、やります」

 音羽は長い息を吐いたあとにそう言って、目の前にいる二人を見た。







「え…………」

 判然とした音羽の言葉に、跳ね馬はぽかんと間抜けに口を開けていた。

 彼女の口からそんな言葉が出てくるとは、きっと思ってもなかったのだろう。……雲雀も、当然驚いた。

 
 ――嫌な予感はしていたのだ。

 突然雲雀たちの前に現れたこの男、謎の指輪。そして、音羽があの指輪に、やけに関心を持っていたときから。

「やるって……本当か、音羽!?」
「駄目だよ」

 音羽が何か答える前に、雲雀は有無を言わせぬ口調で言い切った。

 音羽は戸惑うように瞳を揺らしたが、雲雀から目を逸らさない。雲雀も、逸らすことはなかった。


「…………」

 ――音羽と過ごす時間のなかで、雲雀は、彼女のことをよく見ているつもりだった。彼女の人となりも、この跳ね馬や草食動物たちよりずっと理解していると思っている。

 だからきっと音羽は、「知人を助けてやって欲しい」だの「他に変わりはいない」だのと、これもまた知人の跳ね馬に言われたものだから、責任でも感じているのだ。

 音羽はその優しさゆえに、身近な人間を振り切れない。


 そんな彼女がマフィアなど……到底、無理な話だった。
 音羽はきっと、彼女にとっては無用な争いで身体も心も傷付ける。……それだけだ。それが、何より心配だった。

 音羽はただ自分の隣で笑っていれば、それだけでいい。
 雲雀は、本心でそう思う。


「……たしかに、」

 音羽は初めて雲雀から視線を逸らすと、小さな声で話し出した。

「私には、すごく向いてないって自分でも思います。でも……ヴァリアーはいつか必ず、ここに来るんですよね? だったら、私や雲雀さんが守護者になろうとなるまいと、このリングを持っている限り――ううん、例え手放そうとしたって、戦いに巻き込まれると思うんです……」

 音羽は一度言葉を切って息を吸い、再び顔を上げる。

「私には難しいかもしれないけど、でも……。私に、少しでも力があるのなら……私も、雲雀さんを守りたい……!だから、やりたいんです……!」

「……!」

 音羽の真剣な眼差しに射抜かれて、雲雀は思わず目を瞠った。


 迷いなど微塵もない音羽の声。
 普段大人しい彼女がここまではっきりと雲雀に物を言うのは、恐らく初めてだった。

 だがそれ以上に驚いたのは、音羽の言葉だ。

 まさか、“雲雀を守りたい”、なんて。

 雲雀が音羽の身を案じるように、音羽もまた、雲雀のことを心配している。こんなに無力で、非力な彼女が。
 
 ――愛しさは、どうしても湧いてしまった。


「…………」

 音羽の澄んだ瞳を見たら、彼女は既に覚悟を決めていた。
 
 逃げるつもりも――いや、逃れられるとも思っていない。それならいっそ自分から飛び込んで、自分の意思で、雲雀を守るつもりなのだ。

 思えば彼女は、黒曜ランドの一件でも自らの危険を顧みず、己の意思一つで雲雀を助けるために敵地に乗り込んで来た。

 音羽は、そういう女なのだ。揺るぎない目は、一度決めたら譲らないと言っている。「例え雲雀が、何と言っても」。

 いつも穏やかに笑って、さながら春風のようにのどかな温かさがある音羽。

 だが実は、彼女はとても芯の強い人間であることを、雲雀は思い出した。


 ――そういう所も、好きなんだけどね。


 雲雀は息を一つ付き、屈んで音羽と目線を合わせる。

「……音羽。僕は、自分の身は自分で守れる。だから、何があっても無茶はしないで。いいね?」

「……!はいっ……!」

 音羽の頭に手を置いて言い聞かせると、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせて頷いた。

 強い意思を宿したその瞳を見つめ、雲雀は目を細める。


 ――敵が来ようと来るまいと、彼女はこの手で守り抜く、と。
 雲雀は、自身の胸に強く誓った。


 ゆるりと屈んでいた上体を起こしたら、跳ね馬が苦笑していた。
 どうせ、音羽の決意に下らない感傷でも感じているんだろうけれど、興味はない。
 
「……ありがとな、音羽。俺からも礼を言うぜ。きっとツナや他の連中も心強――」

「面倒な話は終わりだよ。それより続き、しようよ」

「え……、おい待て、恭弥……!」

 今すぐ咬み殺したい気分になってトンファーを取り出したら、跳ね馬は焦ったように口を引き攣らせた。

 音羽も「雲雀さん……!」と慌てたように声を上げたが、こちらは既に充分過ぎるほど譲歩している。雲雀は気にせず、ディーノの方に歩を進めた。

「っなあ恭弥、少しだけ待ってくれねーか? ちょっとでいい、これを一つ食ったらお前の言う通り続きをする!だから、」

「知らないよ。僕はもう食べたからね」

「なっ!?お、おい!!」

「っ、雲雀さん、あのっ……!」

 音羽に名前を呼ばれた頃には、雲雀はもう駆け出していた。


 ――しかしその数秒後、後退ったディーノがどうやったのか見事に半回転しながら滑り転んだので、雲雀はトンファーを仕舞うことになる。
 
 どうやら、ディーノは部下の目がないとほとんど戦闘不可能な状態になるらしいことに、雲雀が気付いたのはこのときだった。


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