19話 全ての始まり

 大きな満月が空にかかった、ある晩のこと。

 夜の街中には月光を遠ざける電灯が灯り、闇のなかにビルやマンションの形をぼんやりと浮き立たせていた。


 ――そこに、騒々しく響く剣戟音。日常離れした戦いの音。

 建物と建物の間を反響しながら、武器の競り合う激しい音はどんどん暗い方へと移動していく。
 

 やがて、屋上に飛び上がったのは二つの人影だった。一人は地面に着地するなり、勢いよく剣を払う。

「ゔぉおい!てめぇ、何で日本に来たぁ。ゲロっちまわねえと三枚におろすぞぉ」

 月を背後に立った男は、長い銀髪を風に靡かせ大声でそう迫った。対峙しているのは、男より幾分も小柄な少年。

「答える必要はない……!」

 額に青い炎を灯したその少年は、男から溢れ出る殺気に臆することなくはっきり答える。――武器を構えたら、合図だった。


 男は飛び上がった一瞬で、少年に斬りかかる。それを、少年は刃の付いたブーメランで受け止めた。高速で繰り返す攻防に、ちりちりと火花が散る。

 ――けれど、最後に押し切ったのは男だった。

「くっ……!」

「ゔおぉい、よえぇぞ」

 足場を失くし、何とかビルの端に掴まっている少年を、男は冷酷な目で見下ろした。ギラギラ光るそれが、月の逆光で浮いて見える。

 ――こんな所で、殺られる訳には……。

「……!」

 少年が歯を食いしばったとき、少し強い風が屋上に吹いた。それは少年のポケットから一枚の写真を拐い、気付いた彼は風に流される前に慌てて掴む。

 握られた写真、会わなければいけない人の手がかり。
 写っていたのは、栗色の髪をしたつんつん頭の小さな男の子だった――。







 麗らかな秋の日が差す、午後の屋上。

 日曜日の学校は、平日に比べてとても静かだった。部活と補講で来ている生徒以外、校内には誰もいない。

 ではなぜ、帰宅部且つ成績も普通で補講もない音羽が、日曜日の学校にいるかというと。
 その理由は言うまでもなく、たった一つ。


「……、」

 音羽は、自分の膝に感じる重みにまた胸を跳ねさせた。ああ……、何回見たって信じられない。だからもう一度、見てもいいよね……?

 心のなかで誰かに聞いて、音羽はとても恐る恐る、俯いてみる。

「…………」

 真下にあるのはやっぱり、雲雀の穏やかな寝顔。音羽の膝を枕にして、小さな寝息を立てている。

「っ……」

 彼の顔を見つめたら、数秒ですぐに耐え切れなくなった。音羽は、頭上の青く澄み切った空に視線を向ける。

 ――やっぱり、まだ少し信じられない。雲雀さんと、恋人同士になれたなんて……。


 彼こそが、音羽が日曜日に学校にいる理由だ。並中をこよなく愛している雲雀は、休みの日もこうして学校に来る。

 だから音羽も、彼と少しでも一緒にいたくて学校に来ているのだけれど。

 屋上で彼に膝枕をして、午後のひとときを過ごす。……恋人、として。こんなに近くにいられるなんて、本当に夢みたいだった。

 ――はぁ……、雲雀さんの寝顔が綺麗すぎて、ほんとに緊張する……。とても、じっと見てられない……。

 ちら、と眼下を見下ろしては空を見上げて、音羽は自分を宥めた。
 ゆっくり呼吸しながら眠る雲雀とは対照的に、音羽の心臓はずっとバクバクしっぱなし。眠気なんて当然ない。

 ……でも、雲雀の寝顔なんて、全然見慣れてないから。もっと、よく見てみたくなる。

 音羽はふう、と小さく息を付いて気持ちを落ち着け、もう一度下に視線を落とした。


 ――雲雀の目鼻立ちは、さっきも見て思った通り完璧だった。伏せられた睫毛はとても長くて、鼻筋がすっと通り、薄い唇も綺麗な形をしている。

 色だって男の人にしては白く、肌もきめ細やかだった。綺麗を通り越して、美しいとさえ思ってしまうくらい。

 指先に当たる彼の柔らかい黒髪をほんの少し触りながら、音羽はうっとり雲雀を見つめた。

 寝顔だけでこんなに吸い込まれてしまいそうなのだから、彼の瞳を見てしまったら動けなくなるのも当然だと、音羽はもう何度目かそう思う。


「……何、そんなに見て」

「!ひ、雲雀さん……!起きてたんですか、?」

 つい惚れ惚れとしていたら、不意に閉じられていた雲雀の唇が動き、音羽は驚いて目を見開いた。

 瞼はちゃんと下りていたはずだけど……、どうして分かってしまったんだろう……? 
 ふわぁ、と欠伸をする雲雀を見ながら、心臓が跳ねるのを感じる。

「視線を感じたからね。目が覚めた」

「!ご、ごめんなさい……。つい、見惚れちゃって……」

「別にいいよ」

 現れた青灰色に見つめられたら、正直に言うほかなかった。

 彼は音羽の言葉を聞くと、ふ、と微笑んで寝転んだままこちらに手を伸ばす。かぁっと熱くなった音羽の頬を、その指先で撫でてくれた。じわ、と幸せが胸に広がる。

「それより足、疲れたんじゃない?」

「いいえ、大丈夫ですよ。雲雀さんは、そのまま寝ててください」

 雲雀の優しい気遣いが嬉しくて、音羽は微笑んで首を振った。そう? と雲雀は首を傾け、しばらく指を頬の上で遊ばせる。――そうしていると、風に紛れて声が聞こえてきた。


「――ヒバリ、ヒバリ!オトハ、オトハ!」
 
「――!あっ、ヒバード!」

 上空から聞こえた高い声に顔を上げると、青空の向こうから降りてくる黄色い小鳥。
 音羽と雲雀の頭上をくるくると旋回し、二人の名前を呼んでくれる。

 まるまるしたシルエットのこの大変愛らしい小鳥は、雲雀が黒曜ランドに行った際出会ったらしい。雲雀にすっかり懐いて付いて来るそうなので、今やヒバードと命名し学校にいる間は音羽と、副委員長の草壁がお世話している。

 お世話、と言っても、ヒバードは基本的に雲雀と一緒にいるかお出掛けしているので、ご飯をあげるくらいしかやることはないのだけど。


 すっかり雲雀と一緒に見かけることが普通になったヒバードは、雲雀が手を伸ばすとその上にちょんと留まった。真っ黒のつぶらな瞳が、雲雀と音羽を交互に見てくれる。

「……か、可愛いっ……!」

 うえに、教えた言葉も名前も繰り返し、並中の校歌まで歌えてしまうヒバードに音羽は最近骨抜きなのだ。元々動物は大好きだし、この黄色いふくふくした丸さが本当に可愛い。

 雲雀も微笑んで、今度はヒバードの小さな頭を指先で撫でてあげていた。ヒバードは気持ちよさそうに目を閉じて、とてもリラックスしている。

 そんな一人と一羽を、音羽は温かい気持ちになりながら見ていた。

「雲雀さんは、動物が好きなんですね」

「別に。嫌いじゃないだけ」

 と、さらりと言っているものの、きっと好きなのだと思う。でなければ、そんな優しい目はしないはずだから。彼らしい答えに、音羽またにっこりと微笑んだ。


 雲雀を見ていれば、彼の近くにいれば、その優しさがこんなにも伝わってくる。それを側で幾つも見つけられることが、幸せで仕方ない。

 ――ずっと、こんな平和な日が続けばいいのに……。

 音羽は雲雀の頭を膝に乗せたまま、雲雀とヒバードの姿を見て思う。
 
 頭の片隅に過っていたのは、黒曜ランドでの出来事だった。
 あんな怖いことも、雲雀が怪我をしてしまうようなことも、これからずっとないといい。ずっと、こんな取り留めのない大切な日が続けば。


「――音羽」

「!はい、どうかしましたか?」

 考えていたら雲雀に声を掛けられて、音羽は視線を彼に向けた。雲雀は変わらず、ヒバードを撫でている。

「明日からのお昼、今日みたいに僕の所で食べたら?」

「えっ……!!い、いいんですか?!」

 音羽はつい、勢いよく身を乗り出した。

 実を言うとこれまで、『学校の日もお昼一緒に食べたいなぁ……』と思っていたのだが、雲雀の迷惑になるかも、と思って言い出せないでいたのだ。それが、彼の方から言ってくれるなんて。
 たぶん今、満面の笑顔になってしまっている。

「駄目な訳ないでしょ。じゃあ、ちゃんと来てね」

「は、はいっ!…………あっ!あの、」

 間を置かず返事をしたら、音羽はあることを思い付いてしまった。「なに?」と首を傾げる雲雀を見る。

「雲雀さん、明日……私がお弁当作って来たら、食べてくれますか……?」

「食べるけど……。別に、気を遣わなくてもいいよ」

「あっ、違うんです……!」

 そういう意味で言った訳じゃないけど、と言いたそうな雲雀の目に、音羽は慌てて首を振った。

「その……雲雀さんのお昼はいつも草壁さんが用意してるって聞いたので……。私も、雲雀さんにお弁当作りたいな、って……」
  
 だって、彼女になれたわけですし……と心のなかで思いながら、少し気恥ずかしくて視線を逸らす。すると、雲雀は小さく笑って、音羽の頭を撫でてくれた。

「そう。それならいいよ、楽しみにしてる」

「は、はいっ!頑張ります!!」

 音羽はぐっと拳を握り、微笑んだ。
 料理の経験は実はあまりないけれど、雲雀に「楽しみにしてる」と言ってもらえた以上全力で頑張りたい。

 音羽は前に聞いた雲雀の好物を思い出したり、新しく聞いたりしながら、その穏やかな一日を彼と過ごした。


 ――だが――、音羽の願いとは裏腹に、迫りつつあった一つの事件。
 それは音羽も雲雀もあずかり知らぬ所で、既に始まっていたのだった――。







 朝、家を出たツナは“中山外科医院”という個人病院を目指して、通りを走っていた。

「あーーもうーー!!ダメオヤジは帰ってくるわ、変な指輪が届くわで、ダブルでめちゃくちゃだよーー!!」

 ツナは昨日のことをあれこれと思い出し、思わず叫んだ。

 昨日――日曜日。
 補講をサボって息抜きで皆と遊んでいると、突然謎の銀髪ロン毛男が現れてツナたちを襲ってきた。しかも、何年も家に帰っていなかったはずの父親が突然帰って来て。

 極めつけは、勝手に押し付けられたボンゴレリングとかいう指輪だ。ツナの頭はもう一杯だった。

 ボンゴレリング――よく分からないけれど、取り敢えずボンゴレファミリーが所有しているこのリングを狙って、“ヴァリアー”というとてもおっかない集団が来るらしい。

 当然、持っていたらその集団に狙われるということだ。そんな物いる訳ないし、マフィアにもなりたくない、とにかくこれを持っていてはいけない! そういう訳で、ツナはこのリングに関わりのあるらしい、彼の元を訪ねるのである。

 ――あぁ!早く、ディーノさんにこの変な指輪返さなきゃ……!!

 
 ツナは全速で走って病院まで辿り着くと、入り口の自動ドアから中を覗き込んだ。

「ディーノさん、いますか?」

「よお、ツナ!」

「十代目!!おはよーございます!!」

「二人とも!!」

 病院の受付前にいたのはディーノ、ではなく。昨日の事件のときにも一緒にいた、獄寺と山本だった。予想外の彼等の存在に、ツナは目を丸くする。

 二人とも、あのロン毛との戦いで怪我をしていたけど……、酷い怪我じゃなかったようだ。普段通りの姿に少し安心したものの、昨日のリボーンの言い草を思い出して少し気まずくなる。ツナは目を伏せて謝った。

「昨日はごめん!!助けてもらったのに……」

「あ……いや……」

「…………」

 二人はやっぱり罰が悪そうに苦笑したが、くすぶった瞳はツナというより、自分自身を見つめているようだった。
 でも、それも一瞬。

「んなことより、妙なことがあってさ、」

「そ、そーなんスよ!!」

「?」

 山本が間髪入れずいつもの調子で口を開くと、獄寺も頷いた。
 やけに興奮ぎみな二人の方に近付くと、二人はポケットからそれぞれ小さな物を取り出す。

「今朝、ポストにこんなもんが入っててさ」

「もしかして、昨日の奴がらみかと思いまして。跳ね馬に、ここの場所は聞いてたんで」

「……、」

 二人が指先に摘んでいる、小さな物。キラリと光るそれ、は――。

「ああーーーー!!そのリングって、まさか!!」

 ――ボンゴレリング!!

 それはツナにも配られてしまった、なんならたった今返そうとしている問題のそれだった。

「なんだツナ、知ってたのかコレ」

「やっぱ十代目も持ってるんですね!」

「や、やばいって!!それ持ってると狙われるんだよ!!つーか、なんで!?なんで獄寺君と山本にも……!?」

「――選ばれたからだぞ」

 この危機の意味を知らないらしい二人を前にツナが叫ぶと、聞き慣れた声。ツナはハッとして、声のした方を見た。

「ディ、ディーノさん!!リボーンも!!」

 病院の奥からやって来たのは目的の人物と、いつの間にか先回りしていた家庭教師。リボーンは受付台の上にちょこんと座って、さっさと話を進めてしまう。

「ボンゴレリングは、全部で八つあるんだ。そして、それぞれをファミリーが持って、初めて意味を持つ。……まあ、歴代でも八人全員がリングを持てたのは、たった一代しかなかったけどな……」

「!?」

「ツナ。お前以外の七つのリングは、次期ボンゴレボス沢田綱吉を守護するにふさわしい、七名に届けられたぞ」







「よしっ!準備完了、っと……」

 音羽は出来上がった二つのお弁当箱を袋に詰めて、ふうっと息を付いた。

 手伝ってくれる母親に「彼氏でもできたの〜?」とニヤニヤ聞かれたのは焦ったけれど、何とかお弁当が出来て本当に良かった……。雲雀の大好物は味付けから調理まで全部自分でやったから、彼の反応が楽しみだ。


「……にしても……」

 学校に行く支度をしていた音羽は、リビングの机の上に置いていた“それ”をじっと見つめた。

 ――なんだろう、この指輪……。

 綺麗な白い石に、貝の模様と、『VONGOLA』という文字が刻まれた指輪。今朝ポストに入っていたのだが、全く何も心当たりがない。ただ――。

 『VONGOLA』。
 その言葉だけには覚えがあって、つい誰の物とも知れないこれを持ってきてしまった。

 ――沢田君に聞いたら、何か知ってるかな? ボンゴレ……って、沢田君のマフィア、の名前だよね……?

 ……マフィア……と思うと、何となく物騒な香りがするので、あまり深く考えたくないけれど……。でも、やっぱり気になる。
 音羽は少し迷った末に、指輪を制服のポケットに入れた。

「――あっ!もうこんな時間……!!早く行かなきゃ!!」

 我に返って時計を見たら、予定していた時間になっていた。音羽は鞄とお弁当箱が入った袋を掴み、慌てて玄関に向かう。

 家を飛び出し、音羽は急いで学校に行った。





 並中の校門前に到着したら、風紀委員たちがいつもの如く並んでいた。昇降口までの通路を囲んで、今日も生徒たちを見張っている。

「……」

 ああ……今日もここを通るのか……。
 もう段々慣れてきたとは言え、まだ反射的にう、と息が詰まってしまう。

 ゆっくり一歩を踏み出すと、一番手前にいた風紀委員が音羽を見つけて息を呑んだ。
 
「お、おはようございます!!片桐さん!!」

「「おはようございます!!!」」

「……お、おはようございます……」

 手前の一人の声が響くと、他の風紀委員たちも音羽に気付いて、一斉に深々と頭を下げて挨拶してくれる。音羽も深々と頭を下げ返すが、もう顔は引き攣っていた。

 ――うぅっ、そんな目立つ挨拶しないで……!皆見てるし、あからさま過ぎですから……!

 心のなかで悲鳴しながら、音羽は早足でそこを歩く。

 こうなってしまったのは、雲雀と付き合っている、という事実が風紀委員の間に広まったからだ。次の日にこうだった、本当に一瞬で。

 きっと音羽に挨拶なんてしなくても、雲雀は彼等を咬み殺したりはしないだろうに……。

 しかも、風紀委員が毎朝こういう調子なので、それまで噂に留まっていた音羽と雲雀の関係は、もはや全校公認の仲にまでなっている。生徒は(おろ)か教師陣まで、どことなく音羽に気を遣っている始末だ。

 雲雀との関係を知られてしまうのは全く問題ないけれど、もっと普通に、そっとしておいて欲しい……。

 はぁ……、と思わず溜息をついて、音羽は風紀委員に見守られる道を歩き通した。すると――。

「おはようございます、音羽さん」

 学校側最前列、いつもそこにいる彼が今日も声を掛けてくれた。

 風紀副委員長の草壁。委員長の雲雀を日頃から支え、その強面に反してこまやかな気遣いも出来てしまう委員会のナンバー2だ。

 彼とはあれから何度か話す機会があって、最近は少し打ち解けられてきた所である。音羽が唯一話せる、風紀委員の人間だった。

「おはようございます……というか、草壁さんまで……。“さん”なんて付けないでください……。それに、あの……皆さんの挨拶も、本当にしなくて大丈夫です……」

「ですが……あれは、風紀委員の間で取り決められたものですから……」

「……はあ……」

 トレードマークの葉っぱを咥えたまま真剣に困った顔をする草壁に、音羽は曖昧な返事をする。これは風紀委員会で取り決められるほど、大事なことなのだろうか。とても疑問に感じてしまう。

 音羽は悶々としていたものの、草壁の顔を見て今日のお昼のことを思い出し、気を取り直して彼を見上げた。

「そういえば、草壁さん。私、今日雲雀さんにお弁当作ってきたんです……!草壁さんくらい上手には出来てないと思うんですけど……」

 苦笑して言うと、草壁は微笑んで頷く。

「ええ、委員長から聞いています。珍しく、朝から上機嫌でしたから」

「!本当ですか……!」

 彼の言葉に、音羽の胸がぱぁっと温かくなった。人から聞くと、何だか違う嬉しさも感じてしまう。

 「きっと喜ぶと思いますよ」、と草壁が言ってくれて、音羽は顔を綻ばせた。

 





 草壁のいる昇降口から校内に入ったあと、音羽はさっそく応接室に向かった。

 毎朝教室に行く前にここに寄って、雲雀に挨拶をするのが付き合い初めてからの日課なのだ。ささいなことかもしれないけれど、音羽にとってはとても大切な時間だった。

 扉の前に立ってノックをすると、すぐに雲雀の声が返ってきて、そうっと扉を開ける。

「失礼しまーす……」

「おはよう」

「おはようございます、雲雀さん」

 応接室に入ったら、机の前に座った雲雀と目が合った。彼の前には何かの書類が沢山広がっていて、手にはまだペンが握られている。

 わざわざ作業を中断してくれたんだ、と思うと嬉しくなった。けれど、彼に見つめられるのはまだまだ慣れない。

 すでにドキドキしながら扉を閉めて、音羽は雲雀の方に行った。

「今日は随分早いね」

「は、はい!これ……昨日言ってたお弁当、作ってきたんです」

 音羽は持っていたお弁当の袋を少し掲げ、雲雀に見せる。

「へえ、本当に作ってくれたんだ」

「はいっ!あ、あの……、たぶん草壁さんほど上手じゃないんですけど……あとで、一緒に食べたいです……」

 中を見られるのが恥ずかしいような、でも一緒にご飯を食べれるのも、お弁当を食べてもらえるのも嬉しいし……。

 言葉にしがたい気持ちについもじもじ答えたら、雲雀は目を細めた。心なしか、いつもより彼も嬉しそうに。真っ直ぐ、音羽を見つめてくれる。

「ありがとう」

「っ……!は、はいっ……!」

 ありがとう、と雲雀に言われたのはたぶん、初めてで。日常でとてもよく使う言葉なのに、彼に言われたらそれだけで特別だった。ものすごく幸せを感じる。

 ――早起きして、頑張って作ってよかった……!

 いっそ感動まで覚えながら、音羽は思わず笑みを零した。「お昼休みに持って行きますね」と言って袋を下ろすと、雲雀は頷く。

 そして、一度休憩することにしたのか、彼はゆるりと席を立ってソファに座った。

「君もゆっくりしていけば?まだ時間あるし」

「!は、はいっ、ありがとうございます」

 未だ立ち尽くしている自分に向けられた穏やかなその声に、彼が自分と過ごす時間をとってくれたのだと気が付いた。委員会の仕事もあるはずなのに……。

 彼の言う通り、HRまでまだあと三十分もあるから、雲雀とはまだ随分一緒にいられる。胸がとても温かかった。


 音羽は、雲雀に促されるまま革張りのソファに腰を下ろした。彼の隣に並ぶと、ギシ、とソファが軋む音。部屋が静かだから、その音が耳につく。

「……、」

 なんてことはない、ただ二人っきりの空間で、並んで座っているだけ。

 でも、だからこそと言うべきなのか……ドキドキ、してしまって。二人の間に流れる沈黙が、ひどく気になる。

 音羽は言葉を探して、目をきょろきょろさせた。何か話題を……と考えていると、雲雀の指が弄んでいる何かに気が付く。

「……あっ!雲雀さん、それ……!」

「ああ、これ」

 よくよく目を凝らしたら、それは今朝音羽が家で見つけた物とよく似ていて、自然と声を上げていた。

「朝来たら机に置いてあってね。僕の許可なしにこの部屋に入るなんて……、見つけたら咬み殺すつもりだよ」

 さらりと物騒なことを言いながら、雲雀はそれ――銀色に光る指輪を指先で転がした。音羽も、制服のポケットに忍ばせていた物を取り出す。

「実は、私も今朝これを見つけたんです。……同じ関係の物なのかな……?でも、私のと雲雀さんの、何だか形が違いますね」

 身を乗り出して雲雀の指輪と自分の指輪を見比べたら、デザインが全然違っていた。

 音羽の物は丸い乳白色の石が嵌め込まれているのに対し、雲雀のそれはやけに凹凸があって、肝心の飾り部分は未完成のように半分欠けている。

 雲雀が差し出してくれたので、音羽は彼の指輪を手に取ってよく見てみた。欠けた飾りの所に何か、模様……みたいなものもあるけれど、それもよく分からない……。

「……これ、何なんでしょう? 誰かのイタズラ……? 雲雀さんは、気になりませんか?」

「全然」

「……私は気になります……。でも、私の指輪に“ボンゴレ”って書いてるから、きっと沢田君に聞いたら何か分かると思――」
「音羽」

「?はい――っ、」

 遮って雲雀に呼ばれ視線を上げたら、彼の顔がとても間近にあった。
 ほんの数センチしか、距離がない。思わず息を呑んで、口を閉じる。

 雲雀の瞳はいつもみたいに凪いだ湖面のようで、けれど、たしかな熱を帯びていた。綺麗な虹彩にじっと見つめられる。

 顔が、すぐに火照って。指輪のことなんてあっという間に頭のなかから消えてしまった。早鐘を打つ心臓の音が、雲雀にも聞こえてしまうかもしれない。恥ずかしい。

 これ以上見つめ合うと目眩がしそうで、音羽は視線を逸らした。きちんと、いつもの呼吸ができる距離も、欲しい。

「……、……あ!」

 さりげなく少し後ろに下がろうと身をよじったら、雲雀の手が、阻むように音羽の腕を掴んだ。

「だめ、逃がさないよ」

「っ……!」

 至近距離で囁かれた、甘い声。微かに口の端を持ち上げた雲雀の悪戯めいた表情に、胸が、苦しいくらい跳ね上がる。

「ぁ……、」

 雲雀のもう片方の手に、顎をおさえられてしまったら。幾ら恋愛経験がない音羽でも、これから何をされるかなんてさすがに分かる。

 身体が、自分のものじゃないみたいに動かなかった。心臓がバクバク鳴って、今にも飛び出してしまいそう。でも、心の準備ができてない、まさかこんな、学校で。

「あ、の……ひっ、雲雀さん……!すこし、待っ」
「待たない」

 咄嗟に雲雀の腕を押さえたけれど、彼は最後まで言わせてくれなかった。雲雀の身体が、整った綺麗な顔が、こちらに迫ってくる。

「っ……」

 音羽はぎゅっ、と目を瞑った。全身が心臓みたい、速すぎて苦しい。唇に触れる、感触を待った、その瞬間――。


 ――ガラッ。


「――!!!」

 突如、応接室の扉が開いて、音羽は今までの人生で一番素早い動きをして立ち上がった。それはもう、音さえしなかったほど速く。

「っ……」

 ――あ、あ、あ、危なかった……!

 音羽は声さえ出せず、浅い息を繰り返した。目下の雲雀を見て見れば、彼は涼しい顔……というより、ムスッと不機嫌そうな顔をして、来訪者のいる扉を見ている。

 ノックもなしにこの応接室に入るなんて……。並中生が百人いたら百人が、きっと正気の沙汰じゃない、と口を揃えて言うだろう。恐ろしい現場が出来てしまわないか、震える心地になっていると。

「――お前が雲雀恭弥だな」

「……!」

「……誰?」

 扉の方から聞こえたのは、聞き覚えのある声だった。でも、それは普段ここにいるはずのない人のもの。

「……!ディ、ディーノさん……!!」

「!音羽……!?」

 まさか、と振り返れば思った通り、来訪者は部下の男性を一人連れたディーノだった。

 彼もまた、応接室で雲雀と一緒にいた女子生徒が音羽だとは思わなかったらしい。驚いた表情でこちらを見つめ、けれどすぐに柔らかく微笑んでくれる。

「音羽、何でお前がこんな所にいるかは知らねえが……。元気そうだな、久しぶりに会えて嬉しいぜ」

「は、はい、ディーノさんもお元気そうで――」
「あなた誰?音羽って、気安く呼ばないでくれる?」

 よかったです、と言おうとしたら、雲雀にまた遮られてしまった。慌てて口を噤んで雲雀を見れば、彼は鋭い視線をディーノに送ったまま。

 けれど、当のディーノはそんな雲雀を然して気にしてないようだった。落ち着き払った目で雲雀を見据えている。

「オレは、ツナの兄貴分でリボーンの知人だ。ツナのファミリー候補って聞いてたから、前に一度、音羽には会ったことがある」

「え……?」

 ファミリー候補?

 初めて聞く単語に、音羽は首を傾げた。話の流れからして、候補になっているのは自分らしいけれど……何のことか分からない。初耳である。

 一応記憶を辿っていると、ディーノは雲雀と音羽を順番に見て言葉を続けた。

「今日は、雲雀に届けられた雲の刻印のついた指輪について話しに来たんだ。音羽にも、あとで話しに行くつもりだったんだけどな」

「!指輪って……!」

「……ふーん、赤ん坊の……。じゃあ強いんだ」

 今朝見つけた指輪が過る音羽に対し、雲雀はやはりその件には興味がないらしい。ただ好戦的な眼差しをディーノに向けて立ち上がり、愉しそうな笑みを浮かべていた。

「僕は指輪の話なんてどうでもいいよ。あなたを咬み殺せれば」

「なるほど、問題児だな……。いいだろう、その方が話が早い」

 ディーノはふ、と息を吐くように微笑して、どこからともなく鞭を取り出す。気付けばいつの間にか、雲雀までトンファーを構えていた。

「えっ、ちょっ……ディーノさん?雲雀さん……?」

 あまりに自然に取り出された物騒なそれらに、音羽は困惑する。どう見ても臨戦態勢に入っている二人を、ハラハラしながら見守ることしか出来なかった。


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