16話 傾国
三階の映画館。
骸は三叉槍を片手に、ボンゴレ十代目を見下ろしていた。
沢田綱吉――。
骸の力に気圧され、悲鳴を上げながら腰を抜かしている彼は、やはりとてもマフィアの次期ボスとは思えない。余りに弱い男だ。
マインドコントロール状態にあったフゥ太の『一番望むこと』を言い当てたのには驚いたが、……それだけである。
骸の六道輪廻の
虚弱な人間ではあるが……骸の目的に、“ボンゴレ十代目”という駒は必要不可欠。彼を“手に入れたら”、骸が策謀を巡らせばいい。
骸はまだへたり込んだままの沢田綱吉を見て、笑みを浮かべた。
「クフフフ……君たちの事をしばらく観察させてもらい、二人の関係性が見えてきましたよ。アルコバレーノは、ボンゴレのお目付け役って訳ですね」
「ちげーぞ。オレは、ツナの家庭教師だ」
「クフフフ、なるほど。それはユニークですね。しかし、先生は攻撃してこないのですか?僕は二人を相手にしても構いませんよ」
「掟だからだ」
「……掟、ときましたか……。また実に、正統なマフィアらしい答えですね」
アルコバレーノ・リボーンの言葉に、骸は微笑した。しかし、心中には既に嫌悪が渦巻いている。
――マフィア。
それは骸にとって因縁深く、標的以外の何者でもないのだから。
「それに、オレがやるまでもなく、お前はオレの生徒が倒すからな」
「なっ、おい、リボーン……!」
「……ほう、それは美しい信頼関係だ。面白い、良いでしょう」
骸は、第三の道・畜生道の能力を使った。
ボトボト――と不吉な音を立てて、それがボンゴレの周囲を取り囲む。
「……へ!?」
沢田綱吉はハッと身構え、辺りを見回した。その顔が更に青くなる。
「――っ、蛇だ!!」
叫んだ通り、彼を取り囲んでいるのは大量の蛇。
彼等は身体をしならせて獲物に近付きながら、赤い舌をチロチロ出して揺らめかせる。
「ひぃぃ、来たあぁ!!――あ……こ、これも幻覚なんじゃ……!!」
「正真正銘の毒蛇ですよ。何なら、咬まれてみますか」
「そ、そんな!!」
親切に答えてやると、彼は腰を突いたまま後退った。
……しかし、絶望している生徒を見ても、アルコバレーノは顔色一つ変えない。
「第三の道、畜生道の能力は人を死に至らしめる生物の召喚。……さあ、生徒の命の危機ですよ。いいんですか?」
「ひぃぃ、やめて!助けて!!」
毒牙を剥き出し、今にも咬みつきそうな蛇たちに沢田綱吉が絶叫した。
「……あんまり図にのんなよ、骸。オレは、超一流の家庭教師だぞ」
リボーンが小さな眉を寄せ、言い切ったその瞬間。
「!」
――殺気、を感じたと思ったら。
風を切って、何かが骸に向かって勢いよく飛んでくる。
骸は顔だけを後方に向けて槍を振るい、飛来物を叩き落とした。
地面に落ちたそれが、勢いを保ったままカラカラと回転する。
「……!」
「!トンファー!?」
ボンゴレが声を上げるのと同時に、骸もそれを認識した。
これは――並中の現支配者、雲雀恭弥が持っていたものに他ならない。
骸が背後を向き直ると、
「――十代目!伏せてください!!」
「え!?うわあぁ!!」
ボンゴレ側の人間の声と共に、激しい爆発が起こった。頭を抱える沢田綱吉を、音と煙が包み込む。
……全く、煩わしい。
何人来ても同じだというのに。
骸が眉を寄せている間に、白い煙が散って視界が晴れた。ボンゴレを狙っていた骸の蛇は、一匹残らず消えている。
「!!雲雀さん、獄寺君、片桐……!!!」
「――!」
――片桐、
聞こえた名前に、骸は息を呑んだ。
沢田綱吉から視線を外し、トンファーが飛んできた入り口の方に目を向ける。
――そこには、捕らえていたはずの雲雀恭弥と、彼に支えられた銀髪の少年。そして、
「――傾、国……」
片桐音羽が、立っていた。
「…………?」
彼女は骸を、怪訝な目で見つめている。
柔らかそうな深茶色の髪に、飴のように透き通った澄んだ瞳。
姿かたちに違いはあれど、その面立ちは“彼女”のまま。
けれどまだあどけなさの残る表情は、骸が見たことのない“少女”のそれだった。
目が合えば途端、身体が痺れたような感覚。動くことも、声を出すこともすぐには出来ない。
――確かに、“彼女”に違いなかった。
ずっと焦がれ続けていた“彼女”に、ようやく。
逢うことができた。
◇
「借りは返したよ」
「いでっ」
「……!」
雲雀が肩を貸していた獄寺をその辺に突き飛ばしたので、音羽はハッと我に返った。
眼前に立っている見知らぬ少年――聞いた話によると、この事件の首謀者――六道骸と視線がぶつかり、つい目を逸らせずにいたのだ。
彼の……何か形容し難いその瞳に、理由を探していた。
けれど、答えなんて分かるはずもない。
獄寺が事をのあらましをツナに説明しているあいだ、音羽は別れていたツナたちの姿を確認して周囲を見回す。
ツナは擦り傷が目立つものの、どうやら無事なようだ。リボーンは何一つ普段と変わらない。しかし――。
「っ……!」
少し離れている所に、ビアンキとフゥ太が倒れていた。
二人とも身体は微かに上下して息はしているけれど、怪我をしている。気を失っているのか起き上がる気配もなかった。
――まさか、これもあの人が……?
音羽は身体の芯が冷えていくのを感じながら、さっきの少年、六道骸を見た。
すらりとした長身。一見すると物腰柔らかな顔つきをしているが、彼は音羽の友人や知り合いを次々傷付けた人だ。
そして何より、雲雀にあんなに酷い怪我をさせた。……そんな骸を、許せない。
恐怖心を抱えたまま、けれど湧き上がる怒りを抑えることも出来ず、音羽は骸を睨んだ。
彼は未だに音羽を見据え続けていて、青と赤のオッドアイと、また目が合う。
「……っ……」
今度はすぐ逸らしたくなって、音羽はきつく唇を噛んだ。
睨んでいるはずなのに……。
――どうして、そんな目で見るの……?
骸の瞳は最初に目が合ったあのときから、どこか恍惚としていた。
大切そうに――愛おしそうに、も見えるその瞳の意味が、音羽には分からない。
彼がどうして音羽のことを知っているのか。
どうして、音羽を狙っているのか。
あの瞳に、その答えがあるのだろうか……?
「!」
「片桐……!」
戸惑っていると、骸がゆっくりと音羽の方に歩んできた。
ツナが慌てて声を上げ、音羽もまた身構える。
静かな足取り。彼は、音羽から目を離さない。
「ずっと逢いたかった、……傾国」
「――!」
「……傾、国……?」
聞き慣れないその言葉を、音羽は思わず繰り返した。
それは、間違いなく音羽に向けられたもので――。
けれど、そう呼ばれる理由もその意味も、やはり分からない。
「……骸、お前、」
響いたのは、さっき僅かに身体を強張らせたリボーンの声だった。
振り返って見ると、彼はなぜかいつもより真剣な表情をしている。
「“傾国”……。確かに、そう言ったのか?」
「!」
「ええ、言いましたよ。……その様子だと、君は“傾国”について知っているようですね」
「…………」
骸に問われ、リボーンは口を閉ざして俯いてしまった。
「え……?おい、どういう事だよ、リボーン。“傾国”ってなに……?それって、片桐のことなの?」
「……リボーン君……」
答えを求めて、音羽はツナと一緒に小さなヒットマンを見る。
リボーンは唸った。
「……“傾国”は、魔性の力を持って生まれた女のことだ。古くから城を傾け、国を傾けるほど美しい女をさす言葉として使われてきたが……今言ってるのは、そんな例え話のことじゃねぇ」
「ええ、その通りです」
骸が微笑して頷き、言葉を続ける。
「百年に一度生まれると言われている、“傾国”。彼女の瞳を見つめれば、どんな男でもその虜になってしまう。逃れられるのは、本当の意味で他の誰かに心を渡した人間だけ。そして彼女――片桐音羽は、その力を持って生まれた百年ぶりの“傾国”です」
「?!」
「な……!片桐が……?!」
二人が放った言葉に、音羽もツナも目を見開いた。
「……まさか、音羽が傾国だったとはな……。だが、これで納得がいったぞ。――ツナも、よく分かるはずだ」
「そ、それは……、確かに……」
――ツナの頭には、獄寺や山本たちの顔が浮かんでいた。
音羽を見ては、ドギマギする友人たち。その姿に何度驚かされてきたことか。
「お前が音羽に惚れなかった理由も、分かったな」
「!そ、それって……」
こんなときにも関わらず、ツナはかあぁっと頬が熱くなるのを感じた。
“逃れられるのは、本当の意味で他の誰かに心を渡した人間だけ”。
――それは恐らく、ツナが京子に惚れているから、ということだ。
「……そんな……」
音羽は目の前で繰り広げられている彼等の話に、呆然として立ち尽くした。
まさか、自分がそんな人間だったなんて……。
とても、信じられない。そんな摩訶不思議な話、あり得ないとさえ思ってしまう。
「信じられなくても、無理はありません」
「……!」
まるで、音羽の心を読んだかのように。
聞こえてきた骸の声に、音羽は弾かれたように顔を上げた。
「確かにそれは、貴女の意思とは関係なくある力。……ですが、心当りはありませんか?意図せず、人の心を奪ってしまったことに」
「っ……!」
――その言葉は、音羽の中の嫌な記憶を強引に引き摺り出した。
転校する前にいた、学校での出来事。
ひとこと言葉を交わしただけで、なぜか音羽に好意を向けた友人の彼氏。
……けれど、彼は友人のことを想っていたはず。それなら、その心だって彼女のものだったはずだ。……そうで、なければ……。
「――人の心の在処など、誰にも分からないのかもしれませんがね。……それが例え、自分のものでも」
「!…………」
骸は柔らかな微笑を浮かべ、音羽を見ていた。
何か言いたげな彼から、視線を外す。
あのとき……彼の心は、本当は友人に向いていなかったのだろうか?
だから、ああいうことが起きてしまった……?
……もし仮に、音羽にそのおかしな力があるとしたら――。
「……、」
音羽は顔を上げて、雲雀を見つめた。彼は口を閉ざしたまま、骸を鋭く睨み付けている。
――心が、暗く曇っていくのを感じた。
さっきまでの温かさが、身体から一息に離れてしまうように。冷たくなる。
あのぬくもりが、本当は――。
…………いいや、駄目だ。
これ以上考えたら。
音羽は雲雀から目を逸らし、俯いた。
「だが骸。お前はなぜ、傾国について知っている?音羽のことを知っていたのはなぜだ?」
「…………」
リボーンが尋ねたけれど、骸が答える気配はない。
答えが気になって顔を上げたら、骸は音羽を見つめていた。
彼はうっとりと、眩しいものでも見るみたいに目を細める。
けれどその瞳はどこか寂しげで、音羽を見ていながら、見ていなかった。
もっとずっと、深いところ。
自分でさえ覗いたことがないような深淵を見据えられているようで、音羽の心臓がどくりと鳴る。
骸は音羽を見たまま、静かに笑んだ。
「会ったことがあるからです、百年前の傾国に」
「!」
「ひゃ、百年前……!?それって、どういうこと……!?」
「……話せ、骸」
ツナとリボーンが促すけれど、骸は、音羽を見つめたまま。
「……教えてください」
「ええ、もちろん。貴女がお望みならば」
骸はすぐに頷くと、赤い瞳を優しく揺らした。
こんな、恐ろしい事件を引き起こしたとは思えないくらい。
彼は落ち着いた声音で話し始めた。
◇
それは、今から百年前のことだった。
骸は、“骸”という名前でもなく、人に呼ばれる名前も持たない。
言葉を発することは出来ず、記憶にある生の中でも最もひ弱な生き物だった。
畜生道――。
その冥界へと続く生を生きる骸の姿は、どこにでもいる青鈍色の猫だった。
帰る家はどこにもない。寝床にしているのは静かな神社の境内の下で、そこに毎日丸まっている。
――あの日も、そうだった。
穏やかな日差しが降る、春の一日。
骸はいつものように、人けのない境内の下でじっとしていた。
けれど、一つだけ。
いつもと違うことがある。
ズキズキと痛む右の前脚。
負傷して立ち上がることも難しく、もう三日も動けていない。
幸いなのは、昨日まで降っていた雨のお陰で、上から滴り落ちてくる水を舐められたことだろうか。
何もしなくても、腹が減っていた。空腹でじっとしているのに眩暈がする。日陰が寒い。芯まで、凍えてしまいそうなほど。
……終わりは、いつも昏いものだ。
目の前が段々暗くなり、身体は言うことを聞かなくなる。脚に力を入れて立ち上がろうとしても、手を伸ばしても、実際は頭のなかだけで動くだけ。
けれど、昏い闇に意識が沈むあの瞬間、骸はいつも安堵していた。終わることを考えて、『ようやく終わる』と、思い続けている。
疲れていた。
何度目を閉じても、また瞼を開けたなら、そこに待っているのは地獄でしかないからだ。
だから骸は、意識が浮上するまでの束の間の休息を求めて――命に身を委ねる。
また、瞼を下ろしたときだった。
砂利を踏む足音が辺りに響いて、骸は今しがた閉じた瞳をぱちりと開ける。
首を伸ばして、反射的に身を守ろうと身体が僅かに動いた。四肢に硬く、力が入る。
耳を澄ませていると、足音は徐々にこちらに近付いてきた。
けれど、逃げようという本能に対して、やはり身体は満足に動かない。
だから、息を殺して、動かずに。
身を潜めていたら、視界に飛び込んできたのは――緋袴を履いた人間の脚、だった。
『やっぱり……何かいると思ったら、おまえだったの?』
屈んでこちらを覗き込んできたその人間は、巫女装束を纏った美しい女だった。
女は綺麗な唇に弧を描き、黒翡翠のような澄んだ瞳に骸を映して優しく微笑む。
彼女の背後では、盛りを迎えた桜の花びらがはらはら落ちて、舞っていた。
まるで天女だ。
慈愛に満ちた眼差しも、美しすぎるその笑顔も。これまで見たことがない。
骸は思わず、見惚れてしまった。
衝撃で痛みも忘れていると、白魚のような、女の華奢な手が伸びてきた。
頭を撫でられると、感じたことのない心地よさ。ついゆっくりと、目を細める。
『!』
すると、不意に、手の動きがぴたりと止まった。
女は目を丸くして骸を覗き込む。切り揃えられた長い黒髪が一束、はらりとその肩に落ちた。
『まあ……、怪我をしていたのね。……少し、待っていて』
女は、骸の傷付いた前脚を見て悲しげに眉を寄せると、あの柔らかな手を患部にそっと当てる。
彼女は瞼を閉じた。まるで、祈るように。静寂が訪れる。
――骸の身体は、ふわりと、何か温かいものに包まれていた。
瞬間、脚の痛みが嘘みたいに消えてしまう。驚いて見てみたものの、傷跡さえ何処にもない。
彼女が“何か”したのは、明白だった。
『ふふ、これでもう大丈夫。……あと、頼まれて買ったものだけど……これ、食べてね』
彼女は安心したように笑うと、懐から分厚い懐紙を取り出した。
中から出てきたのは、数匹の煮干し。匂いに、勝手に鼻がひくついてしまう。
『ごめんね。久々に日本に来たから、これくらいしかないのだけれど――』
彼女が穏やかに語っていたら、
『―――』
『!――すみません、今行きます!』
背後から男の声が呼び掛けて、彼女は慌ててそれに答えた。
『ごめんなさい。私、もう行かなければ……。どうか、逞しく生きてね……』
彼女は言うと、骸の頭を大切そうに優しく撫でた。
少し寂しそうにも見える、微笑みを残して。立ち上がる。
桜の舞う砂利道を歩き去りながら、彼女は何度も心配そうにこちらを振り返っていた。
春の日差しより温かく、眠りより安らかな、短いひととき。
けれど、何度瞼を閉じて開けて、変わらない地獄を見ても。
あのとき見た彼女の微笑みを、忘れることなどできなかった。
◇
「――その後、“人間の生”を得た僕は、彼女が何者であったのか方々調べました」
骸は静かに、言葉を続ける。
「そうして分かったのが、百年前巫女装束を着た日本人女性が、イタリアにいたこと。そして、彼女が“傾国”と呼ばれていたことです」
「なるほど……。すごい執念だな」
「クフフ……何とでも言ってください。僕にとっては、純粋な気持ちですよ」
骸は愉快そうに笑んで、リボーンに答えた。
それから彼は、音羽の方を向き直ると色白の右手を伸ばす。
「傾国……いえ、音羽。僕はようやく、貴女に逢うことが出来ました。貴女を何よりも大切にしたい。だから、僕と一緒に来てください」
「…………」
骸は、音羽を真っ直ぐに見据えていた。
尚も大切そうに、細められている瞳。そこに、音羽を人質に取ろうだとか、そういう魂胆がないことだけはよく分かる。
――けれどそれは、“傾国”だからだ。
“傾国”だから、骸は音羽を尊重する。優しい瞳で、見つめてくる。
……だったら――雲雀は?
「……っ」
考えた瞬間、心臓が重く跳ねた。
堪らなくなって、音羽は骸から目を逸らす。
――雲雀さんも、傾国だから……? 私が傾国だから……だからさっき、私のこと抱きしめてくれたの……?
雲雀のあの優しい瞳も、ぬくもりも。
本当の好きではなくて、おかしな力のせいでもらえる好き、だったら。
そんなの、嫌だ。
苦しい、何も嬉しくない。
本物の、雲雀の気持ちでないのなら。
……それに、こんな厄介な力……。
雲雀は、今の話を聞いて何を思っただろうか。
“傾国”のこと、音羽のこと。
あのとき、抱きしめてくれたこと。
もし、彼のなかで結論が出ていたら……?
あれは力のせいだったって、思っていたら……?
「――音羽」
呼んだのは骸の声だった。
俯いていた顔を上げると、彼は柔らかく微笑する。
「僕なら、貴女の力も全て受け入れられる。貴女を想う気持ちに、変わりはありません」
だから、僕のところに来てください。
見透かしたように、骸は囁く。
彼にとって、きっと嘘偽りのない言葉。
けれど……、それでも。
「……っ……私は――」
音羽がようやく、口を開こうとしたときだった。
「――さっきから聞いてれば……。音羽音羽って、気安く呼ばないでくれる?」
「……!雲雀さん……」
音羽を庇うようにして骸の前に立ちはだかったのは、険しく眉を寄せた雲雀だった。
◇
「おやおや……。まるで、彼女が既に君のものにでもなったかのような口振りですね、雲雀恭弥」
骸は雲雀の方を見ると、あからさまに目つきを鋭くした。
後ろからでは見えないけれど、きっと雲雀も……同じように骸を睨んでいるのだろう。雲雀の背中から、強い敵意――殺気のようなものが漂っているのを感じる。
「事実、僕のだ。渡すつもりはないよ」
「クフフ、それは面白い冗談ですね。君が彼女を求めているのも、君自身の意思ではないかもしれないのに」
「!」
骸の言葉に、音羽は息を呑んだ。思わず雲雀の背中を凝視してしまう。
「君は、“傾国”である彼女に心を奪われているだけかもしれない。違いますか?」
ドクドクと、胸が重たく鳴っていた。雲雀の顔が見えたらいいのに、そう思った。
彼の声を待つ少しのあいだが、長くて、怖い。
けれど、音羽が目を伏せたくなった直後――。
きっと、骸が尋ねてからほとんど間はなかったと思う。
「――愚問だよ」
雲雀のはっきりした声が、耳に届いた。
「僕が音羽を側に置くのは、僕自身の意思だ。彼女が何者だろうとね」
「……!」
「……ほう……。なぜ、そう言い切れるのです?形もなければ、目に見える訳でもないというのに」
骸は訝しげに目を細めた。
「僕がそう決めたからさ。第一、僕にとって彼女は普通の女子生徒でしかない。“天女”だなんて、思ったこともないからね」
「っ……!」
迷いのない、その言葉が。
どれだけ嬉しかったか分からない。
おかしな力を持っていても、側に置いてくれること。
雲雀にとっては、ただの女子生徒だと言ってくれたこと。
雲雀の強くて明瞭な声は、音羽の心のなかにじんわりと染み込んで、そこに広がっていた曇りをあたたかく溶かしていく。
雲雀は、音羽が傾国だから。抱きしめてくれたのではない。
さっきの優しい眼差しも、あのぬくもりも、全部。
全部、本物だった――。
「……雲雀さん……っ」
込み上げてくるものが余りにも大きくて、音羽はつい彼の名前を呼んだ。
涙のせいで滲んだ視界のなか、少しだけ振り返ってくれた雲雀の横顔が見える。
……ああ、彼の顔がちゃんと見たいのに。嬉しいのに、涙が引っ込んでくれない。
ぼやけた雲雀は、それからすぐ骸を向き直った。
彼は確かに、音羽のために振り返ってくれたのだ。
「……まあ、いいでしょう。君の気持ちがどうであれ、結果は同じです。彼女を頂くのは僕ですから」
「君が欲しがってるのは音羽じゃない。その百年前の女だって、気付いてないの?」
雲雀は機嫌悪そうな声で言いながら、床に落ちていたトンファーを拾い上げた。
「僕にとっては、どちらも同じ彼女です。僕の知る傾国は彼女と、そして音羽しかいませんからね」
「……音羽が誰のものか、君には力で分からせるしかないようだね」
雲雀が息を一つ付き、トンファーを構える。
「……覚悟はいいかい?」
「クフフ……、出来るものならどうぞ?減らず口を叩いていても、本当は立っているのもやっとのはずだ。骨を何本も折りましたからね」
「?!」
骸のその言葉に、音羽は目を丸くして雲雀を見た。
目尻に浮かんでいた涙を急いで拭うと、真っ直ぐ伸びた雲雀の背中。
――そうだ。
彼は痛みを訴えないし表情にも出ないから、ついいつも通りだと思ってしまうけれど……。
雲雀は今、酷い怪我をしているのだ。
でもまさか、そんなに何本も骨を折られていたなんて……、思わなかった。
それでも顔色一つ変えずに動けるのは、やはり雲雀だからなのだろう。
……本当は、これ以上無理をしないで欲しい。
けれど、音羽が何か言って入れるような空気じゃなかった。
二人の間にはお互いに対する殺気が漂い、満ちている。
「遺言はそれだけかい?」
「クフフフフ、面白いことを言う。仕方ない、やはり君から片付けましょう」
骸がそう言った瞬間。
彼の右目に、炎のようなものが揺らめいた。
「一瞬で終わりますよ!」
「!」
槍を構えた骸が、雲雀目掛けて駆け出した。
振るわれる槍。雲雀はトンファーで、確実に骸の攻撃を受け止める。
金属同士がぶつかり合う、激しい剣戟音が絶え間なく響いていた。
二人とも、余りに動きが早すぎて目で追えない。
「……、」
音羽が手に汗握り、二人の戦いを見ていると、
「音羽、危ねーからこっちに来てろ」
「!は、はい……」
リボーンに声を掛けられて、音羽は後方にいたツナとリボーンの側に移動した。
◇
「君の一瞬っていつまで?」
トンファーと槍が鍔迫り合いになったとき、雲雀が言った。
二人の戦いは互角だった。打っては防ぎ、防いでは打ち、互いに一切引けを取らない。
骸は顔を歪めて口角を上げ、槍を引いて後方に飛び退いた。
「やっぱり強い……!さすが雲雀さん!!」
「こいつらを侮るなよ、骸。お前が思っているより、ずっと伸び盛りだぞ」
「……なるほど、そのようですね」
ツナとリボーンが言うと、骸は頷く。
「彼が怪我をしていなければ、勝負は分からなかったかもしれない」
「!」
「――っ!!」
雲雀の肩から噴き出した赤に、音羽は凍り付いた。
鮮血がポタポタ床に落ち、雲雀の身体が左右によろめく。
激しすぎる動きのせいで、傷口が広がったのだ。「雲雀さん……!」音羽は彼の名を呼んで、ぐっと強く、痛むほど拳を握る。
痛みで自分を律しなければ、今にも駆け出してしまいそうだった。
「時間の無駄です。てっとり早く済ませましょう」
骸の赤い右目の瞳孔が、揺れた気がした。
刹那、上からはらりと落ちてきた淡い色。
「―――、」
雲雀はぴたりと動きを止めて、上を見上げている。
音羽も彼と同じように、彼の頭上に目を凝らした。
「……桜……?」
間違いなかった。
さっきまで何もなかったはずなのに、いつの間にか雲雀の頭上に、美しく咲き誇る満開の桜が広がっている。
皮肉にも、音羽が初めて彼を見たときと同じ光景だった。
「雲雀は桜を見ると動けなくなる、サクラクラ病だぞ。シャマルが前に、トライデントモスキートを雲雀に使ったんだ」
「ええっ!?」
「っそんな……!」
ツナと音羽は声を上げた。
サクラクラ病、なんて、聞いたこともないけど……でも、これで合点がいってしまう。
並中最強と謳われている雲雀が、あそこまで痛め付けられてしまったのは。きっと、この桜のせいだ。
でなければ、あの状態で骸と互角に戦っている雲雀が、あんな傷を負うはずもない。
「クフフ。さあ、また跪いてもらいましょう」
「……」
満足げに笑う骸。
雲雀は彼を睨んで――ふらりと揺れた。
「「雲雀さん!!」」
傾いていくその身体、に。音羽とツナが叫ぶ。
「……!!」
その瞬間、音羽は見た。
細めた雲雀の瞳のなかに、強い闘志が煌めくのを。
――トンファー強く握り直した雲雀は、前のめりになりながら骸の腹を殴打した。
「おや?」
骸の口の端から流れたのは、一筋の鮮血。
「へへ……甘かったな。シャマルからこいつを預かってきたのさ。サクラクラ病の処方箋だ」
「!」
壁に凭れていた獄寺が掲げたのは、内用薬の袋だった。
そういえば、さっき獄寺が雲雀に何か渡していたような気がする。……あれは、この処方箋だったのだ。
「それじゃあ……!」
ツナの声と共に、音羽も雲雀の方を見た。
鋭い瞳が骸を捉え、雲雀は、トンファーを大きく振るう。
「――がは……ッ!」
重い一撃は、骸を身体ごと投げ飛ばした。
吐血して、鈍い音を立てて床に倒れる骸。
彼の持っていた槍も、衝撃で先端の穂と柄に分かれて散る。
さっきまでそこに舞っていた桜も、忽然と姿を消していた。
――それが意味する所を、音羽はやっとの想いで噛みしめる。
「桜は幻覚だったんだ!っていうか、これって……」
「――雲雀さん!!!」
呆然と立ち尽くすツナの横を過ぎて、音羽はトンファーを下ろした雲雀の側に駆け寄った。
「……っ」
「大丈夫ですか、雲雀さん……っ!」
荒く息をしている雲雀。
見上げたら、会ったときよりももっと血だらけになっていた。
青灰色の瞳が、どこか虚ろでぼんやりしている。
「…………ぅ、」
とうとう堪え切れなくなって、音羽はほろほろ涙を零した。
雲雀がこんなに怪我をしているのに……。
自分は、本当に何も出来ない。こうして泣いているだけで……、歯痒くて仕方がなかった。
そっと彼の腕に触れたら、雲雀がこちらを見てくれる。
「音羽……」
「!雲雀さん……!」
少し動くのさえ、しんどいはずなのに。
雲雀は音羽の名前を呼んで、確かにその瞳に音羽の姿を映してくれる。
雲雀の瞳は、安心したみたいに微かに揺れた。
けれど、刹那、ふっ――と瞼が下りてしまう。
「、雲雀さん!!」
倒れ込んできた雲雀の身体を、音羽は両手で抱きとめた。
意識を失ってしまったのだ。
「……っ」
重い身体を支え切れず、音羽は彼を抱きしめたままその場にゆっくりとしゃがみ込む。
あんなに無茶をしたのだから、当然だった。寧ろ、今まで立って動けていたことの方が、信じられないくらい。
目を閉じて静かな呼吸を繰り返す雲雀を、音羽は見つめた。
「雲雀さん、片桐!大丈夫!?」
「沢田君、リボーン君……」
駆け寄って来てくれた二人を振り返る。
「こいつ、途中から無意識で戦ってたぞ。一度負けたのが余程悔しかったんだろうが……。それ以上に、音羽を骸から守りたかったんだろうな」
「!……雲雀さん……」
音羽を守るように、骸から庇ってくれた背中。
思い出したら、また涙が溢れてきて。
音羽はぎゅっと、雲雀の身体を抱きしめた。
こんなになるまで、戦って欲しくはなかったけれど……でも、彼はこんなにも温かい。
音羽の心のなかにつっかえていたわだかまりを溶かしてくれたのは、このぬくもりに違いなかった。
「雲雀さん、ありがとうございます……」
囁いて、彼の肩に顔を埋める。
音羽は彼の鼓動を音で、肌で、感じていた。
◇
「――そうだ!早く皆を病院に連れて行かなきゃ……!」
音羽と雲雀を見守っていたツナは、ハッと声を上げた。
辺りには雲雀の他に、ビアンキとフゥ太も倒れている。外には山本とランチアもいるのだ。
「それなら心配ねーぞ。ボンゴレの優秀な医療チームが、こっちに向かってる」
「そうなの!?よ、よかったぁ……」
「――その医療チームは不要ですよ」
「「!!」」
場に、突如響いたのは骸の声。
ツナを含め、全員の顔が一気に強張る。
「なぜなら、生存者はいなくなるからです」
起き上がる気配は、微塵もなかった……はずだった。
しかし骸は上体を起こして、どこに忍ばせていたのか一丁の拳銃を握って銃口をこちらに向けている。
「てめぇ!!」
「ご、獄寺君!!」
今にも骸に殴りかかりそうな獄寺を、ツナは必死で止めた。
「クフフフ……」
「!な、何、して……」
骸は妖しく笑うと、音羽を見つめて銃口を動かした。
自らのこめかみに。
カチャリ、と骸は撃鉄を起こす。
音羽が震えた声を出して、ツナたちも息を呑んだ。
「傾国……僕は必ず、貴女を手に入れます。どんな手を使っても」
骸は音羽を見たまま、その引き金に手をかける。
「
銃声が、響いた。