15話 満ちゆく恋心
「――放して……!」
焦った音羽の大きな声に、獄寺はのろのろと顔を上げた。
獄寺が発作の激痛と、犬に刺された痛みに囚われている間に、音羽は千種に腕を掴まれてしまっていたのだ。
彼女はもがいてその腕を振りほどこうとしているが、千種はびくともしていない。
「っ、片桐……」
助けなければ。
ツナに、彼女を守ると言った。何より音羽の顔に浮かんだ怯えを見たら、居ても立ってもいられなかった。
出血している胸元を押さえながら、獄寺は音羽の方に歩く。
視界が、ぐらぐら揺れていた。足がしっかりしない。ダイナマイトを取り出すが、思うように身体が動かなかった。
「ヒャハハ、ザマーみろ!」
獄寺の胸を刺した張本人、城島犬が嘲笑いながら屋内に入ってくる。
犬は獄寺を見たあと、千種の方を振り返って――音羽に目を留めた。
「んあ?……!柿ピー、まさかその女……」
「そう、片桐音羽……。これから、骸様の所に連れて行く」
「……!いや、放して!!」
千種に腕を引かれ、音羽が叫ぶ。空いた右手で千種の手を引き剥がそうとしているが、男には些細な抵抗だった。
多勢に無勢。獄寺の体が万全であれば……、すぐに助けてやれるのに。
このままでは、音羽が骸の元へ連れ去られてしまう。
「そいつの、手を放、せ……!……ッ、ぐ……!!」
何とか、音羽の方へもう一歩を踏み出したとき。
獄寺の覚束ない両足が絡まった。
ふら……、と身体が後ろに傾いて、背後に引かれていたカーテンに向かってよろけてしまう。
「――獄寺君!!!」
悲鳴に近い音羽の声が聞こえたときには既に、獄寺の目には汚れた天井が見えていた。
カーテンの向こうは階段だった。獄寺の体重で脆いカーテンは引き千切れ、それを下敷きにしたまま、身体が、落下する。
獄寺は短い階段を激しく転がり落ちた。
「ぶっざまー♪」
上から、犬がせせら笑った。
打ち付けた背中が痛い。
顔を上げることも出来ず視線だけを動かすと、階段の上に千種と、捕まったままの音羽が見える。
音羽は眉を寄せて、泣きそうな顔でこちらを見ていた。
朦朧とする意識。けれどここで気を失ったら、音羽は――。
――クソッ……、!
痛みに耐えて、獄寺は歯を食いしばった。
……起き上がりたいのに、身体がもう動かない。
すると――、
「――ヤラレタ!ヤラレタ!」
頭上から声が聞こえた。
バーズが飼っていた、あの黄色い小鳥だ。
どこから来たのか、獄寺の真上の壁の通気孔に留まって、高い声で鳴いている。
――クソ……、ヘンタイヤローの鳥まで嘲笑ってやがる……。何が十代目の右腕だ、片桐一人も守れねえ……。何の役にも、立ってねえじゃねーか……!
仰向けに倒れたまま、獄寺は拳を握る。
音羽を守りたい。
例え彼女が雲雀のことを想っていたとしても、今、彼女を守ることが出来るのは自分だけだ。
――音羽を、守らなければ。
何とか腕に、力を込めようとした瞬間。
「ミドリ〜たなびく〜ナミモリの〜」
「……!?」
あの小鳥が、突然並中の校歌を歌い始めた。高らかな歌声に、獄寺は目を見開く。
なぜ、バーズの小鳥が並中の校歌を歌い出すのか。……答えは、一つしかない。
「へへ……」
思わず笑んだのは、自分でもどこかで分かっていたから。だろうか。
――本当は、この手で守ってやりたかった。
だが音羽の望んでいる通り、やはり彼女を守れるのはこの男、だけなのかもしれない。
「……っ……」
獄寺は残る力を振り絞って、ダイナマイトに火をつけた。
「っひゃー、こいつまだ闘う気かよ」
犬が馬鹿にしながら階段を降りてくる。
しかし、獄寺は自分の頭上の壁目掛けて、ダイナマイトを放り投げた。
◇
――ドガァン!!
激しい爆発音がして、辺りに土煙が舞い上がった。
獄寺が、どうして近付いて来る犬ではなくて、頭上の壁にダイナマイトを投げたのか。音羽にも分からない。
彼の行動に困惑したけれど、きっと、獄寺にも何か考えがあるはずだ。
でも、彼は大丈夫だろうか……? 衝撃で壁が崩れ落ちるのを見て、音羽は思わず身を乗り出す。
「獄寺君……!」
「っひゃー、どこ撃ってんのー?」
犬は心底面白そうに笑いながら、階段を降りて行った。
けれど、倒れたままの獄寺は焦燥した素振りも見せない。
「へへっ……うちのダッセー校歌に愛着持ってんのは、おめーぐらいだぜ……」
獄寺がそう言って、力なく笑ったら。
「……!!」
ガラガラと崩れた瓦礫の向こう、土煙の中に、座っている人影が見えた。
音羽の心臓が、大きく跳ねる。
――息を呑んだ。
「んあ?こいつ……、」
「……並盛中学風紀委員長……、雲雀恭弥」
「―――」
煙が晴れて鮮明に浮かんだ姿は、千種の声にゆるりと顔を持ち上げた。
壁の向こう側で、蹲っていた彼。
その姿を見た途端、音羽の目に涙が溢れる。
「っ……雲雀さん……!!」
大切なその人の名前を呼んだら、もう駄目だった。全然我慢が出来なくて、ぼろぼろ雫が落ちていく。
雲雀は顔も身体も血だらけで、たくさん、たくさん怪我をしていた。痛々しい姿に涙が止まらない。
でも、目の前にいるのは間違いなく、音羽がずっと会いたかった雲雀だった。
「……!」
名前を呼んだから、気付いてくれたのか。目を瞠る雲雀と視線がぶつかる。
それだけで、なんて。胸の奥が熱い。
音羽の願った“無事”ではなかったかもしれないけれど、雲雀にまた、会うことが出来た。彼の瞳を、見ることが出来た。
今すぐ、雲雀の側に駆け寄りたい。駆け寄って、そのぬくもりを確かめたい。
「――っ、」
衝動のまま駆け出そうとしたら、音羽の身体が前のめりになった、だけだった。
そうだ。今、自分は敵に捕まっていたのだ。そんなことさえ忘れてしまうくらい。
雲雀から目を、逸らせなかった。
◇
「……」
雲雀は、ゆらりと立ち上がった。
なぜ音羽がここにいるのか、当然気になる。……だが、今はそれより。
こちらに走り寄ろうとする音羽の腕を、敵の眼鏡の男が掴んでいた。
きつく、男の指で握られた左腕。音羽が小さく眉を寄せる。雲雀のなかで苛立ちが増した。
「元気そうじゃねーか……」
「ヒャハハハ!!もしかして、この死に損ないが助っ人かー!?」
雲雀を解き放った獄寺隼人は、既に虫の息だった。
黒曜中の制服を着たもう一人の男が、喧しく騒ぎ立てながらこちらに歩いてくる。
「……自分で出られたけど、まあいいや。そこの二匹は僕にくれるの?」
「好きにしやがれ……」
獄寺は仰向けに倒れたまま答えた。雲雀は瓦礫を踏み越えて、外に出る。
少し動くだけで、身体中に引き攣るような痛みが走った。
雲雀は元々人より体力があるし、回復も早い。が、流石にここまでの深手を負っては、少々休む程度で状態は良くならなかったようだ。
しかし、それでも身体は動く。感情に突き動かされるように。
こんな場所に、音羽がいること。
彼女は敵に捕まっている。
だが、雲雀はどこか安堵していた。
音羽は、今ここに――自分の目の前にいるのだ。雲雀の手で守れる距離に。
それだけで、抱えていた焦燥が底へ沈んだ。
つい、涙を零している音羽を見上げていると、手前にいたあのうるさい男がこちらに進み出てくる。
「死に損ないが何寝ぼけてんだ?こいつはオレがやる」
「……任せるよ。片桐音羽を、骸様の所へ連れて行ってくる」
「オッケー、こっちは徹底的にやっからさ!」
「ッ、やだ!待って!!まだ……っ、!!」
ぐい、と千種に腕を引かれ、音羽が踏み留まって訴えた。
彼女は言いかけて、雲雀を振り返る。
「!」
懇願するような、必死な瞳。
――目が合ったら、彼女がどうしてここに来たのか、雲雀は何となく分かった気がした。
「――百獣の王、ライオンチャンネル!!」
「……」
目の前の獲物が歯型のピースのようなものを取り出して、雲雀はゆっくり視線を戻す。
男がそれを自分の上歯に取り付けたら、獣のような鋭い爪と、牙が。
どういう仕掛けかは知らないが、多少面白くなったようだ。
けれどそれでも、この男の力量は知れている。すぐに倒して、音羽を掴んでいるあの男も始末すればいい。
足元に落ちている己の牙をちらと確かめ、雲雀は目を細めた。
「ワオ、子犬かい?」
「うるへー、アヒルめ!!」
男が走り出すと同時に、雲雀はトンファーを蹴り上げる。両手で素早く持ち手を掴むと、馴染み深い感触。
飛び掛かってくる敵に振るえば、ヒュッ――と風が鳴った。
「ひょい♪」
男は雲雀の攻撃を易々と躱し、こちらの背後に回る。が、その動きはもう見越していた。雲雀の口に、薄い笑みが浮かぶ。
「!?――ぐあぁっ!!」
瞬時に後方を振り返り、雲雀はそのまま敵の頬を殴打した。怯んだ隙にもう片方のトンファーも腹に打ち込み――。
そのまま、男の身体を階上の窓の外に投げ飛ばした。
◇
「犬!!」
「雲雀さん……!」
窓ガラスを突き破って犬が外に放り出され、千種と音羽は同時に声を上げた。
音羽はすぐ、雲雀を振り返る。
「……!」
雲雀はゆっくりと、階段を上って来ていた。ふらついているその足を見たら、今すぐ駆け寄りたくなる。
「――その手、放してくれる」
「!!」
犬の姿を目で追っていた千種は、雲雀の声がすると身構えた。
いつもより低い、威嚇しているみたいな雲雀の声。
けれど、千種は音羽を離さない。
「雲雀さん……」
雲雀はトンファーを静かに構え、千種の挙動を窺っていた。
千種も武器のヨーヨーを取り出すが、音羽を捕まえているせいか、すぐに動き出すことはなかった。……張り詰めた空気が流れる。
――私がここに居たら、雲雀さんが動けない……。何とかして、この人から離れないと……!
ささやかな抵抗しか出来ないかもしれない。でも、すぐそこに会いたかった雲雀がいる。
音羽は勇気を出して、千種を見上げた。
「お願い、放して!!」
「――っ!」
一際強く訴えたとき、初めて、彼のぼうっとした目と目が合った。
刹那、千種は息を呑んでそれを見開く。
彼はパッと音羽から視線を逸らしたけれど、なぜか困惑しているようだった。
その理由を音羽が考える前に、千種の手の力が、少し緩む。――その隙を見逃さなかった。
「っ……!」
「!しまった……!」
音羽は千種の腕を思いっきり振り切って、雲雀の方へ駆け出す。
間のほんの数メートルが、とても長い。緊張のせいか足の感覚が余りなくて、どう走っているのか曖昧だった。
それでもちゃんと、彼との距離は縮んでいく。
ようやく辿り着いた雲雀の前で、音羽は足を止めた。
「……雲雀、さん……」
傷だらけになった、雲雀の顔を見たら。
いつの間にか引っ込んでいたはずなのに、涙がまた勝手に出てきてしまった。
彼に伝えたいことはたくさんあった。
だからここまで来たはずだけど、雲雀の姿を見たら……言葉が出てこない。
――嬉しかった。
とても無傷とは言えないけれど、それでも雲雀の無事な姿を見られて。
また、会うことが出来た。
「…………」
音羽が涙ぐんでいると、雲雀がじっと見つめ返してくれる。
ここに来るまで、来てからも。
何度も思い出したその瞳。
「下がってなよ」
「……、はいっ……」
雲雀のその声が余りにも優しくて、涙が零れる。
音羽が大きく頷くと、雲雀は僅かに表情を緩めて、それから顔を上げた。
前を向き直った雲雀は、同じ瞳に鋭さを湛えてトンファーを構え直す。
音羽が彼の背後に移ると、雲雀が歩を進めた。
「次は君を、咬み殺す」
「…………」
殺気立つ雲雀を前に、千種は焦りの色を顔に浮かべて武器を構えたのだった。
◇
「――ぐっ……!!」
千種は雲雀に呆気なく倒されて、窓の外に投げ出された。
辺りはしんと静まり返り、敵が反撃してくる気配もない。
やがて雲雀がゆっくりとトンファーを下ろしたので、音羽は彼に駆け寄った。
――が、瞬間。
雲雀の身体がふらりと揺れる。
「!!雲雀さん、大丈夫ですか!?」
よろめいて側の壁に凭れ掛かった雲雀は、ずるずるとその場に腰を落とした。
音羽も慌てて雲雀の隣に膝を突き、彼の顔を覗き込む。
「っ……」
間近で見たら、雲雀の怪我は酷かった。
身体中も傷だらけで、白いシャツのあちこちが赤黒い血で汚れている。
端正な雲雀の顔も、今は擦り傷と痣だらけだった。血が滲んでいて、痛々しい。
「…………」
気付いたら、音羽の目からはまたぽろぽろと涙が零れていた。
こんなに傷だらけになって、ボロボロになるまで戦って。
雲雀の無事を確かめられて嬉しいのに、彼の傷付いた姿を見るのがとても辛い。
視線を落として、音羽はぼやける視界に雲雀の傷だらけの手を見た。
触れたかったぬくもりが、そこにある。
確かめたい。けれど、少し触れたら、それだけで痛んでしまうかもしれない。
戦いとは無縁の生活を送ってきた音羽は、今、彼が感じている痛みを理解しきれないことが歯痒かった。
こんなときどうしたらいいのか、何を言ったらいいのか。そんなことでも迷ってしまう。
触れたくても触れられないのは、音羽が彼にとって何者でもないからだ。
「――!」
そうして、少しのあいだ雲雀の手を見つめていたら――。
不意にそれが、ゆっくり動いた。そのままこちらにその手が伸びて、音羽は目を丸くする。
雲雀の指先は音羽の頬にそっと触れると、流れていた涙を拭ってくれた。
微かに触れた感触、温度。
そのぬくもりを感じたら、せっかく掬ってもらった涙が、また零れてしまう。
――ああ……、彼は本当に無事だったんだ……。染み込むように、実感した。
「……君、何でこんな所に来たの?」
雲雀に静かに尋ねられて、音羽はのろのろと顔を上げた。
怒られるかもしれない、と思ったけれど、雲雀の声に音羽を咎めるような響きはない。
それどころか、見つめ合った青灰色の瞳はやっぱり、優しかった。
傷も痛むはずなのに、呼吸もいつもより苦しそうなのに。
そんな瞳で、音羽を変わらず見てくれる。
――やっぱり、この人が好きだ。
雲雀だから、音羽はこんな場所まで我を忘れて来てしまった。
立ち止まることなく、ここまで来られた。
その手にも、心にも。
触れることは出来なくても、音羽は手を伸ばしたい。
ずっとずっと溢れている自分の想いを伝えるために、音羽はここにいるのだから。
音羽は手の甲で涙を拭い、俯いた。
「……来ちゃいけないって、思いました。でも、私……」
喉が詰まって、声が震える。
だけど、ちゃんと雲雀に伝えたい。
俯いたまま、音羽は拳を握った。
「雲雀さんに、どうしても会いたくて……!私にとって雲雀さんは……とても、大事な人だから」
「!」
詰まり詰まり口にした音羽の言葉に、雲雀が驚いたのが気配で伝わってきた。
ついに、彼への気持ちを吐露してしまった。
元々伝えるつもりでここに来たのだから、後悔はないけれど……。
でも、本人を前にして自分の気持ちを口にするのは、やっぱり恥ずかしい。
それに、少し……怖かった。
自分の想いを信じていても、雲雀に強く拒絶されたら――。
……そう考えてしまうのは、きっと仕方のないことだ。
「……っ」
心臓の音が、雲雀に聞こえてしまうのではないかと思うほど、うるさく鳴っていた。
ほんの少しの沈黙さえ苦しい。とても顔を上げられず、音羽は目の端に浮かんでいた雫を拭う。が、そのとき――。
「――!」
背にふわりと温もりを感じ、音羽の身体はそのまま強く引き寄せられた。
思わず息を呑んだ先には――雲雀のシャツと、首筋が。
音羽の身体は硬直して、涙もぴたりと止まってしまう。
音羽は、雲雀に抱き寄せられていた。
「っ、雲雀、さ……、」
すぐに状況を呑み込めず、上擦った声が口から漏れ出る。
けれど、背に回された手はあたたかい。
本当に、雲雀に触れられている。
ようやくそれを信じられるようになった頃には、音羽の頬はもう真っ赤になっていた。心臓も、さっきよりドキドキしている。
おずおず雲雀を見上げると、彼は小さく微笑んで、音羽の瞳を変わらない眼差しで見つめ返してくれた。
優しいその虹彩が、音羽を捉えて離さない。――それが何より雄弁に、彼の心を伝えてくれているようだった、から。
音羽は雲雀のシャツの裾をぎゅっと握り、ぬくもりに導かれるまま彼の肩に額を寄せた。
あたたかさが心地よくて、幸せで。
今度はゆっくりと、言葉を紡げる。
「……信じてました……。雲雀さんなら、絶対大丈夫だって……」
「……当然だよ」
雲雀はいつもの声音でそう言うと、音羽の背に回していた腕に柔らかく力を込めた。
それに併せて音羽の身体も更に、彼の方へと引き寄せられる。
音羽は頬に熱を感じながら、ずっとずっと、ドキドキしていた。
けれど同時に、どこか安心してしまう。
音羽は雲雀の胸に寄り掛かり、そのあたたかさに微笑んだ。
◇
「……」
雲雀は音羽を抱き寄せたまま、彼女の体温を感じていた。
――音羽が、ここに来た理由。
分かったような気はしていたが、喉を詰まらせる音羽の言葉を直接聞いたら、反射的に。……そう、せずにはいられなかった。
音羽の香りは甘かった。心地良いほど。
指先に当たる柔らかな髪はつい触れたくなるし、このぬくもりを離したくないとも思う。
雲雀は、音羽が自分の腕の中にいることに、強い安堵と満足感を覚えていた。
これで良いのだと、胸のうちで確信する。
雲雀はこれを――、音羽が自分の側にいることを、求めていた。
自分にとって必要なものは、強さだけ。
雲雀は今までそう信じていたし、疑ったことなど一度もない。変わるはずがない、とも思っていた。だが、今は違う。
音羽を守りたい。
自分自身の力で、彼女を。その笑顔を。
今は、そう思う。
「……私、」
考えていたら、音羽がゆっくりと雲雀の胸から顔を上げた。
見下ろせば、音羽は真っ直ぐに。
「私、雲雀さんに伝えなきゃいけないこと、まだたくさんあるんです」
仄かに頬を染め、音羽は真剣な瞳で雲雀に言った。
彼女が何を言いたいのか。それは、言外に伝わってくる。
――きっと、自分も同じだからだ。
雲雀はふ、と思わず口を緩め、音羽の背に回していた手をその頬に添えた。
親指で頬を撫でれば、彼女はくすぐったそうに目をぎゅっと閉じて、また頬を赤くする。
そんな音羽に、雲雀は確かな想いを感じた。
「僕もだよ、音羽」
「……!……雲雀さん……」
音羽は驚いたように目を丸くしたが、やがてふわりと、幸せそうに笑った。
潤んで澄んだ茶色の瞳が、キラキラと輝いている。
温かい何かが、雲雀のなかに流れ込んでくるような気がした。
雲雀は柔らかく音羽を見たあと、彼女からゆっくり目を逸らす。
「でも、今は――」
六道骸。
あの男を倒さなければ。
自分のために、そして音羽のためにも。
雲雀は宙を見据え、音羽の身体をそっと放して立ち上がった。
――そうして、ふと気付く。
身体の痛みが、僅かながら和らいでいることに。
「……、」
「雲雀さん?」
動きを止めた雲雀の様子を、音羽が不思議そうに見つめてくる。
密室に閉じ込められている間じっとしていても、良くはならなかったのだが。
……まさか、音羽といたこの少しの時間で、多少回復したとでも言うのだろうか。
だとしたら、音羽と過ごす時間が、雲雀を癒したのかもしれない。
――自分が、ここまで誰かを大切に想うとは。
それが不快でないのはやはり、彼女だからなのだろう。
雲雀は表情筋を僅かに緩め、しゃがんでいる音羽の手を取って立ち上がらせた。
「……君は必ず守る。だから、行くよ。六道骸を咬み殺しにね」