12話 抑えきれない気持ち

「どきなさい!また並中生がやられた!」

「!?」

 並盛中央病院。

 尻尾が切れたリボーンの相棒・レオンが色々なものに変化し続けているのを見ていたら、焦燥した声が向こうから近付いてきた。

 ガラガラ音を立てて廊下を通ったのは、人の載った移動ベッド。
 医者と看護師が運ぶその人物を見て、ツナは目を見開く。

「風紀副委員長の草壁さんだ!」
「病院出てすぐにやられたんだって!」

「……!」

 廊下にいた並中生たちのざわめきに、ツナは呆然とした。


 ――だって、雲雀さんが敵をやっつけに行ったはずじゃ……。も、もしかして、雲雀さん……。


 それは、到底信じられない妄想だった。だから、ツナも頭の中のそれをすぐに打ち消してしまう。


「……まっさかー、あの雲雀さんが喧嘩で負ける訳ないよね……」

 雲雀は、ツナの知り合いの中でもずば抜けて強い人だ。あのリボーンすらも認めているのだから。……負けるはずがない。


「――レオンを頼むぞ」
「!あっ、おい!リボーン!」

 ツナが考えていたら、リボーンが変形の止まらないレオンをこちらに投げた。

 駆け出した彼は、移動ベッドで運ばれていく草壁の胸にぴょんと飛び乗り、その口を手で押さえて大きく開けさせる。

「……四本か」

「おい、何してんだよ!」

 口の中を確認して草壁の上から飛び降りるリボーンの側に、ツナは慌てて駆け寄った。

「他に考えにくいな」

「!?」

 リボーンは表情を変えぬまま、ツナを振り返る。

「ケンカ売られてんのは、ツナ。お前だぞ」







 黒曜ランドの暗い室内。
 そこには、絶え間ない暴力の音が響いていた。

 殴って、蹴って。一方的な攻撃が、休むことなく与えられる。


「――おっと」

 男は、力が入らず地に膝を突いた雲雀の髪を遠慮なく鷲掴んだ。
 そのまま、じりじりと痛む顔を上に上げさせられる。顎の端から、雲雀自身の血がぽたりと流れ落ちた。

 
「なぜ、桜のことも彼女のことも知っているのか?って顔ですね。さて、なぜでしょう」

「……、」

 男は言うと、雲雀の髪を呆気なく放した。反動で、雲雀はがくりとその場に肘を突く。

「クフフ、彼女のことは、ずっと昔から知っているんですよ。君が彼女を知る、ずっと前からね……。だから、君に渡す訳にはいきません」

 どこか穏やかにも聞こえる声音で言う男を、雲雀はきつく睨んだ。


 今すぐ体を起こして、この男の息の根を止めてやりたい。

 男の言葉は要領を得ず意味が分からなかったが、この男を殺れればそれでいい。この余りある屈辱と、そしてこの男が口にする“彼女”の存在を思えば、一刻も早くそうするべきだ。


 だが――、……出来ない。
 今の雲雀には。

 あの校医に感染させられたという妙な病気のせいで、立ち上がることは愚か、やはり口を開くことさえ不可能なのだ。

 ままならない自身の身体に、何より苛立つ。

「おや?もしかして、桜さえなければと思ってますか?」

 男はゆったりと立ち上がった。

「それは勘違いですよ。君レベルの男は何人も見てきたし、幾度も葬ってきた。――地獄のような、場所でね」

 男が笑うと、男の赤い右目も細まった。漢数字の“六”が刻まれた、気味の悪い眼光が雲雀を捉える。

「さあ、続けましょう」

「……っ、」

 歯痒さに、雲雀は唇を強く、強く噛んだ。口内にまた、鉄臭い血の味が広がる。

 今できた傷なのか、それともこの男に殴られてできた傷なのか分からなかった。でも、そんなことはどうでもいい。

 雲雀は、かつてない怒りと焦燥に襲われていた。

 再開された一方的な暴力。その中でも、浮かぶのは彼女の――音羽の顔ばかり。


 自分がここで倒れれば、この男はいつ音羽の元に向かうか分からない。何としても、この男を彼女の所へ行かせる訳にはいかない。

 
 ――そう、確かに思っているのに。

 まだ、頭上をひらひらと舞っている桜が、雲雀が立ち上がることを許さなかった。


 なぜ、この男は音羽を知っているのか。

 なぜ、彼女を欲しているのか。

 
 唯一許された思考を巡らせても、答えは延々と出ることがない。

 男に対する殺意と、そして何も出来ない己の無力さがもどかしく、雲雀は歯を食いしばる。男は、感情の読めない薄ら笑いを始終浮かべていた。


 ――そんな雲雀と男の様子を、遠くから見つめる小さな影があった。けれど、雲雀がそれに気付くことはない――。







 一時間目から、2年A組の教室はがらんとしていた。

 音羽の右も左も、空席のまま。皆、今回の事件を警戒して欠席しているのかもしれない。

 音羽を含め、出席している生徒は普段通り授業を受けているものの、いつもよりまばらな教室内に先生も困惑しているようだった。

 けれど、実際のところ音羽は席に座っているだけだ。全然目の前のことに集中出来ない。
 気を紛らわすために先生の話を聞こうとしても、すぐに別れ際に見た雲雀の横顔が浮かんでしまう。


「…………」

 音羽は机の下で握り合わせた両手に、ぎゅっと力を込めた。

 ――どうか、雲雀さんが怪我をしていませんように……。無事でありますように……。

 今にも溜息が出そうなのを堪えながら、思わず目を伏せて祈っていると。


「――ねぇねぇ、今病院にいる子から連絡が来たんだけど、」

 音羽の前に座っていた女子が、ひそひそと隣の席の女子に話し掛ける声が聞こえて、音羽はぱち、と瞼を持ち上げた。

「さっき、風紀副委員長の草壁さんが病院に運ばれたんだって……!」

「!!」

 携帯の画面をこっそり見ながら言う女子の言葉に、音羽は息を呑んだ。

「え、嘘……。でも、雲雀さんが敵倒しに行ったらしいって、さっき言ってたんだよね?入れ違いだったんじゃないの……?」

「かなぁ〜……。でも、もしこれ以上被害者が出たら……」

「……そういうこと、だよね……?」


「……」

 沈黙する二人に、音羽は顔を俯けた。
 ……ゾッとする、というのはこういうことなのかもしれない。寒気が止まらなかった。


 確かに、雲雀が犯人の元に向かったのは今朝のことだ。まだ数時間しか経っていないし、草壁がやられたのは犯人との入れ違いだったのかもしれない。

 けれどクラスメイトたちの言うように、もしこれ以上の被害者が出るようならば――。


 雲雀に、何かあったということだ。


「……っ……」

 思った瞬間、手が、カタカタと小さく震え始めた。

 犯人は次々人を襲っては暴力を繰り返し、歯を抜くなんて残酷な行為すら厭わない、とても恐ろしい人だ。

 もし雲雀に何かあって……。彼がどんな目に遭っているのか考えると――不安で、怖くて仕方ない。


 ――でも……。

「……」

 音羽は、震える手を握りしめた。

 まだ、はっきりしたことは分からない。雲雀は無事で、彼の言葉を借りて言うなら、今頃犯人を“咬み殺せて”いるかもしれない。

 ……きっとそうだ、雲雀なら……。


 自分に強く言い聞かせていると、唐突に。前方から、ガタッと椅子を引く音がした。

 見ると、前列の席の獄寺が立ち上がっている。
 
「ケータイの電池切れたから帰ります」

「コラ、獄寺!貴様、遅刻して今来たばっかりだろう!!」

 先生が怒鳴るのもスルーして、獄寺はだるそうに教室を出て行ってしまった。音羽は彼の背中を見つめて、それからまた下を向く。


 こんな怖い事件、早く終わればいいのに……と、願わずにはいられなかった。







「骸さ〜〜ん」

 黒曜ヘルシーランドの中にある、寂れたボウリング場。
 犬が玉を投げながら、後ろに座っている骸に声を掛けてきた。

「んで、どーだったんれすかー?並中のボスの?スズメだっけ?アヒルだっけ?」

「ハズレでしたよ。歯を取るまで、横になってもらってます」

「っひゃ〜、生きてんのかな〜?そいつ」

「クフフ……まだ殺しはしませんよ。……それから、例の件もやはり確かなようです」

 骸は膝の上で指を組み、自然と微笑んでいた。

「彼女が並中に居ることも、間違いありません。さっきの彼も、彼女の虜のようでしたからね」

「へへっ、女が居ることが分かれば、骸さんのものになるのもすぐだびょん!」

「クフフ、その通りです」

 言って、骸はそっと静かに目を伏せる。


 ――待っていてください……。

 胸の内で語り掛ければ、ずっと焦がれていた“彼女”の姿が脳裏に浮かんだ。

 ようやく。ようやく、“彼女”に会える。

 骸の冷えた底に唯一熱をもたらす存在は、すぐ側にいる。手を、伸ばせば届く距離に。

 全ては、時間の問題だった。

 
「――ところで、千種は?」

 ふと顔を上げた骸は、もう一人の姿が見当たらないことに気が付いた。犬は、事もなげに答える。

「柿ピーは三位狩りにまいりました。そろそろ面倒くせーから、加減できるかわかんねーって」

「その気持ちも分かります。なかなか当たりが出ないものね」

 骸は“もう一つの目的”を思い出して、笑みを深めた。

 “彼女”の居所に確証が持てた今、あとはこちらの一件が成功すれば言うことはもう何もない。


 願いが実現しつつあることを感じながら、骸はここに居ない千種からの報告を、じっと待つことにした。







 学校を出た獄寺は、いつもより人通りの少ない商店街を行く当てもなく歩いていた。
 
 何があったかは知らないが、教室に生徒の姿はほとんどなく、ツナの姿もなかった。面倒になって学校を出たは良いものの、することも特にない。

「……とりあえず飯でも食うか……」

 少しの空腹を感じて、獄寺はズボンのポケットに手を突っ込む。

「ゲッ、65円……!」

 出てきたのはそれだけだった。……ツイてない。


「――並盛中学2-A出席番号8番……獄寺隼人」

「……」

 肩を落とすと同時に呼ばれた、自分の名前。
 獄寺は、声のした方をゆっくりと振り返る。


 そこには、猫背の少年が立っていた。

 眼鏡を掛け、白いニット帽を被り、頬にバーコードのような刺青がある。
 着ている制服を見るに、どうやら他校の生徒のようだ。

「早く済まそう。汗……かきたくないんだ」

「んだ、てめーは?」

「黒曜中二年、柿本千種。お前を壊しに来た」

「……は〜〜……」

 静かに答える眼鏡の少年――千種に、獄寺は深い溜息をついた。

 またか、と思わざるを得ない。
 
 自分としては至極地味に生きているつもりなのだが、こう毎日他校の不良に絡まれるのは何なのだろう。

 全く、面倒くさい事この上ないが……仕方がない。

「わーった、来やがれ。売られた喧嘩は買う主義だ」

「……急ぐよ、めんどい……」

 千種を睨んでくい、と手を動かすと、彼は眼鏡の縁を手で押し上げた。


 ――柿本千種と名乗る、この少年。
 彼がただの他校の不良でないことに獄寺が気付くのは、少しあとのことだった――。







 音羽は、教室で帰り支度を始めていた。

 結局、この異常事態では授業もままならないうえ、下校が遅くなると生徒も危険になるということで、学校は午前で終わりになってしまったのだ。

 雲雀にも『今日は早く帰るように』と言われているので、音羽も大人しく家に帰るつもりである。


 荷物を纏めた音羽は昇降口を出て、のろのろと帰路についた。
 一斉に放課になったので、外の通りは並中生の集団下校状態だ。

 人混みの中をとぼとぼと歩きながら、音羽は雲雀のことを考える。

 
 草壁のことを聞いて以降、新しい話は特に耳に入ってこなかった。他の人が襲われたという話も聞いていないけれど、雲雀に関しても、相変わらずどうなったかは分からない。


 ……こんな不安な気持ちのまま、明日がくるのを待つのだろうか……?
 その間に、雲雀に何かあったら……?

 ――考えても、音羽はやはり雲雀を信じて待つことしか出来ない。


「…………」

 ずっとずっと、音羽の頭の中には、雲雀がふと見せてくれるあの優しい瞳が浮かんでいた。

 もどかしい。雲雀に会いたい。
 会って、彼の無事を確かめたい。

 たったの半日が、途方もなく長く感じた。


 ――雲雀さん……。

 息を吐き出して、音羽は俯いたまま校門の方に向かう。皆その辺に集まって、今回の事件のことを色々と話していた。

 誰か、雲雀の話をしていないだろうか。ぼんやりしたまま、つい耳だけを澄ませていると。

「ええっ!?うそーっ!!」

「!」

 校門を通りすぎる直前、急にその側に集まっていた女子の集団が声を上げ、音羽はハッと顔を上げた。

 見れば一人の女の子が中心になって、集団の中で話している。
 よくよく見たら、獄寺のファンクラブに入っている二年の女の子たちだ。音羽のクラスの女子もいる。

 彼女たちは、どこかおろおろした表情で話し手の女子を一心に見つめていた。音羽も思わず、歩くスピードを落としてしまう。


「――ほんとだって……!職員室から戻る途中、怪我してる獄寺君が保健室に運ばれてるの見たもん!なんか、意識がないみたいで……結構ヤバそうだった……」

「嘘……獄寺君っ……!!」

「大丈夫かな……絶対、今起きてる事件絡みだよね!?」


「…………、」

 今にも泣きそうな彼女たちの声に、音羽も呆然と立ち止まった。


 頭の中が、ぐるぐるしている。

 力が、上手く入らない。
 危うく鞄を取り落としそうになって、音羽は意識してそれを握った。


 獄寺の身だって、もちろん心配だ。命に別状はないのか、怪我の具合はどうなのか、気になることは沢山ある。

 けれど、獄寺が被害にあった、ということは――。


 雲雀の身に、何かあったに違いない。

 
「――っ」

 音羽はそのとき、初めて湧き上がった感情に歯を食いしばった。

 どくり、どくりと、心臓が鳴る音より強く、その感情が心と体を巡っていく。なんて言ったらいいか分からない。けれど、こんな。


 全身が熱くなって、急き立てられるような感覚は生まれて初めてだった。
 自分の中に、こんな強い気持ちがあったなんて。初めて知った。


 ――雲雀、だからだ。
 相手が雲雀だから、『待たなければ』と思っていても、『大人しく帰れ』と言われても、ちゃんと出来ない。

 だってもう、待つだけでこんなに辛い。


「っ……!」
 
 音羽は思わず駆け出した。校門を出て、通りを全速で走っていく。
 
 もう立ち止まっていることなんて、少しも出来なかった。

 駆ける音羽の頭には、初めて雲雀を見たときのことが過る。



 初めて、雲雀を見たあのとき。

 桜の下で佇んでいた彼を見た瞬間、彼は一瞬で音羽の心に焼き付いた。

 本の中でしか知らなかったはずの気持ちが、実は自分の心のなかにも、些細な日常のなかにも、小さな欠片みたいに散らばっていたこと。彼でなければ、見つけられなかったかもしれない気持ち。

 雲雀に恋をしたあのとき、音羽はそれを知った。彼を、見つけることが出来ただけで、嬉しかった。

 遠くからその姿を見られるだけで、何度胸の奥が熱くなったか分からない。
 
 彼に、存在すら気付かれることがなくても、ただ秘かに思うことが出来たら。
 音羽は、それで充分だったはずなのだ。


 ――けれど、雲雀と話すことが出来て、少しずつ彼を知って。初めて見たあのときよりももっと、彼のことが好きになった。

 図書室で過ごす時間に、別の大切な意味が出来た。夕焼けの空の色が、酷く綺麗に見えるようになったことも。全部、雲雀を好きになったからだ。


 ……なのに。

 音羽は雲雀に、それを何一つ伝えられていない。

 怖かったから。音羽には勇気がなかった。

 雲雀に拒絶されたら、もう、彼と話すことも出来なくなってしまう。雲雀の瞳に映してもらえることも、きっとなくなる。

 彼のことを知ってしまった今、そんな現実に直面することを想像したら……簡単に口に出すことが出来なかった。


 でも、気付いたのだ。こんな状況になって、音羽はようやく。


 もう音羽は、雲雀を遠巻きに見ていることなんて、出来ない。
 雲雀の気持ちがどうであっても、音羽の彼への気持ちは、もうこんなに。

 溢れすぎて、抑えきれないほど膨らんでしまっていたのだ。足が、こんなに勝手動いてしまうくらい。


 早く、早く伝えたい。どうしても、雲雀の無事を確かめたい。

 自分に何か出来るなんて、これっぽっちも思わないけれど、でも、待っているなんてもう出来なかった。

 
「雲雀さん……!」

 音羽は、並盛中央病院を目指した。

 彼の行き先の手がかりを握る人物は、きっとそこにいる。


 ――雲雀さん、どうか無事でいて……!!


 涙で滲む視界のなか、音羽はただひたらすら走り続けた。







 ツナ、リボーン、獄寺、山本、ビアンキの五人は、黒曜ランド行きのバスに揺られていた。

 ツナは未だに、先刻までの事もこれからの事も信じ切れずにいる。


 ――柿本千種と名乗る黒曜生との戦いで負傷してしまった獄寺は、あのあとシャマルのトライデントモスキートに救われた。時折発作が出てしまう可能性はあるものの、獄寺の命に別状はない。

 千種も、獄寺のダイナマイトでかなりの深手を負っていたはずなのだが、気付いたときにはもう彼の姿はなかった。


 リボーンの情報によれば、今回の事件を起こしているのはイタリアで集団脱獄した裏世界の人間たちらしく、その主犯は“六道骸”という男。

 そして、イタリア最大のマフィアと言われるボンゴレ。その十代目候補であるツナを狙って、彼等は日本にやって来たらしい。

 マフィア関係者なのかと思えば、六道骸らはマフィアを追放されたのだとリボーンは言うし。

 そのうえ、九代目から『六道骸ら脱獄囚を捕まえるように』と指令が出され、断るとツナが殺されるかもしれない、というとんでもない事態である。

 ツナからしてみれば何が何だか分からないし、本当にただただ恐怖しかない。

 しかも、リボーンは“掟”のために今回は戦えないそうだ。それならば、と唯一の頼みの綱だった死ぬ気弾も、生産者のレオンが繭状態になってしまったために僅か一弾しか残っていなかった。

 死ぬ気弾があるのならまだしも、素の、自分のような文字通りの“ダメツナ”が、こんな恐ろしい事件を何とか出来る訳がない。
 本気でそう思っているし、そう言っているのに……。

 ツナは今、なぜかこうして仲間たちと共に、隣町にある敵アジトに向かっている。


 ――はあ……、平和な日々に戻りたいよ……。

 ずっと心の中で溜息をついているツナに、無情にもバスは止まって目的地に到着したことを知らせてきた。

 憂鬱な気持ちでバスを降りると、辺りはツナの不安を増長させるようにしんとしている。この通りは大きな道なのだが……車の通りはほぼないと言っていい。

「静かね……」

「新道が出来て、こっちはほとんど車が通らねーからな」

 リボーンの言葉を聞きながら、一行は歩いた。やがて、広大な廃墟の前にやって来て、五人は足を止める。

「うわっ」

 土砂が雪崩れ、荒廃し切ったその場所は人けがなかった。薄暗くて、いかにも不穏な空気が漂っている。

「既に不気味だ……」

「これ一帯が廃墟っスか?」

 獄寺の問いに、山本の肩に乗ったリボーンが頷いた。

「ああ……。ここは昔、黒曜センターっていう複合娯楽施設だったんだ」

「ん……?黒曜センター……?……あっ」

 “黒曜センター”。改めて聞いたとき、ツナの脳裏に一つの記憶が蘇る。

 母と、そして父と。手を繋いで、そんな名前の所に遊びに行ったことがあった。
 確か、まだ小学校低学年の頃だ。映画館や、ガラス張りの動植物園があったことを何となく思い出す。

 あのときはとても賑やかで、楽しい場所、だったはずなのだが……。見る影もない様子に、ツナは静かに驚いた。

「改築計画もあったらしいが、一昨年の台風で土砂崩れが起きてな。それから閉鎖して、この有様だ」

「夢の跡、ってわけね……」

 一行が廃墟をまじまじと見つめていると、獄寺が入り口の門の鉄格子に触れた。

 門は古い鎖で固定されており、破られた形跡はない。

「カギは錆びきってる……。奴らは、ここから出入りはしてませんね。……どうします?」

「決まってるじゃない。正面突破よ」

 獄寺の問いにビアンキは簡潔に答えると、お得意のポイズン・クッキングを取り出した。

「なっ、ちょっ、ビアンキ!」

「ポイズン・クッキング、溶解さくらもち」

 思わず止めに入るツナに構わず、ビアンキはそれを鎖にぶち当てる。
 ブジョアァ……という何とも禍々しい音とともに、門を括り付けていた鎖が溶けた。

 そうしてツナたちはついに、不気味な敵アジトへと足を踏み入れたのだった――。







 並盛中央病院で、草壁は一人部屋に用意されたベッドに横たわり、病室の真っ白な天井をぼんやりと見つめていた。

 歯を抜かれ、骨を折られ、さんざん痛め付けられて重傷を負ったものの、何とか意識も戻って安静にしている。
 
 現在も体中に痛みを感じはしているが、幸か不孝か余り意識がそちらに向かない。

 草壁は今、自分が最も尊敬している人間――雲雀のことを考えていた。


 雲雀が事件の犯人を咬み殺しに行ったのは、数時間前のこと。
 その報告を受けたのと自分が襲われた時間は大差ないので、犯人と雲雀との間で入れ違いがあった可能性は捨て切れない。

 ……が、草壁は、何か嫌な予感がしていた。

 治療が終わったあと、看護師の隙を見て何度か雲雀の携帯に電話を掛けてみたのだが、通じなかったのだ。……今までになかった事である。

 あの雲雀が負けるはずないだろうと思っているが、自分が襲われたことや、彼と連絡もつかないことを考えると……少し、可能性はあるかもしれない。


 ――恭さん、無事であればいいが……。

 立場上、普段は呼ぶことのない名を心中で呼んで、草壁は目を閉じた。

 残念ながら、比較的役に立つ風紀委員の人間は殆ど重傷者としてこの病院に入院しているので、現在の雲雀や並中に関する状況を草壁にまともに報告出来る人間はいない。

 かと言って、草壁自身がすぐに動ける状態でもなかった。
 やはり、雲雀から何かしらの連絡があるまで待っているしかないのだろうか。

 そんなことを、取り留めもなく考えていたときだった。


 ――コンコン!

「!」

 病室の扉が強めにノックされて、草壁は目を開けた。扉に視線を向けながら、ゆっくりと上体だけを起こし、背中を枕に凭せ掛ける。

「はい」

 返事をすると同時に、扉は勢いよく開かれた。

「――!!」

 そこに現れた人物、は。


「片桐、音羽……」

 まさか、想像すらしていなかったその姿に息を呑むと、彼女はハァハァと肩を上下させながら、急ぎ足でこちらに歩いてきた。

「突然、しかも、怪我をされてるのにすみません……!でも、草壁さんなら、知ってると思って……!」

 息を切らしながら、どこか必死な形相で言う彼女は明らかに普段と様子が違った。

 どちらかというとおっとりしていて、慌てることもなさそうな印象だったのだが……、ここまで急いで走って来たのだろう。
 草壁を見る瞳には焦りと、なぜか懇願のような色が浮かんでいる。


「草壁さん、雲雀さんがどこに行ったのか、教えてください……っ!」

「!」

 どうして彼女がここにいるのか――まだ草壁の理解が追い付いていない内に、片桐音羽が以前より大きな声で言った。

 その声が余りに真剣で、そして同じく切羽詰まった眼差しなので、草壁は神妙な心持ちになって彼女を見る。

「なぜそんな事を聞く……?」

 雲雀の行き先を聞いて、音羽は一体何をするつもりなのか。

 理解出来ずに尋ねると、彼女は潤んだ瞳を伏せて、震える声で言った。

「雲雀さんが、戻って来なくて……!草壁さんも獄寺君も被害にあったから……、雲雀さんに、何かあったんじゃないかって……」

「!」

 草壁は目を大きく見開いた。
 
 まさか、自分の後に続いて更に被害者がいたとは……。
 しかもそれが、雲雀が目を付けているあの三人組の一人、獄寺隼人である。

 獄寺の腕が立つのは彼にシメられた風紀委員たちから聞いていたし、何より草壁が襲撃されたあとに獄寺が襲われたと言うのなら……。


 確かに、雲雀の身に何かあったと考える方が自然だ。


 音羽がここに来た理由も、ようやく理解する。彼女の表情を見れば、雲雀のことを心底心配しているのがありありと感じられた。
 きっと、気が気ではなかったのだろう。その気持ちはよく分かる。

 しかし――。

「……聞いてどうする?まさか、委員長の所へ向かうつもりじゃないだろうな……?」

 以前も思った通り、どう見てもただの女子中学生である音羽に敵地で戦えるような術はないだろう。

 音羽が雲雀の元に向かっても、雲雀を救うどころか逆に彼女が犯人の餌食になってしまうのは想像に難くなかった。


 音羽も、草壁が考えたことを察したようだ。眉尻を下げて、彼女は困ったように俯く。

「……分かってます、私じゃ何も出来ないって……。でも――」

 音羽は言いかけて顔を上げると、強い意志の籠った瞳で、草壁を見返してきた。

「でも、どうしても雲雀さんに会いたいんです。会って、伝えなきゃいけないことがあるんです……!」

「!…………」

 その、必死な訴えに草壁は狼狽えた。


 前々から、音羽が雲雀を見る瞳には、彼に対する好意が映っていた。学内では恐れられているはずの彼に積極的に接触していることからも、彼女の気持ちを知るのは難しくなかったように思う。

 ……だが、危険を承知の上で、それでも雲雀のところに行きたいと言うほど、控え目に見える彼女が雲雀のことを好いているとは……。正直、思わなかった。


 草壁を見据える音羽の瞳には、覚悟がある。
 これまでに数度見た、普段の彼女からは想像もつかないほどの、強い意志。

 ――これはきっと、草壁が説得したところで簡単に折れはしないだろう。


 だが、草壁は迷った。

 音羽がそのつもりでも、雲雀は恐らく、彼女が敵の本拠地に乗り込んで来ることを快く思わない。
 例え、それが自分のためだとしても。


 雲雀は、彼にしては異例なことに音羽を何度も助けている。バスケ部の一件も、夏祭りでの一件も、草壁は風紀委員の人間から報告で聞いていた。


 しかも何より、草壁はこの目で見ている。
 音羽を見る雲雀の瞳が、かつて見たこともないほど優しくて、穏やかだったことを。

 音羽にとってそうであるように、雲雀にとってもまた、音羽は大切な存在になりつつあるのだ。きっと。


 ならば、そんな彼女が危険な敵地に現れたとしたら……。そして、それを教えたのが草壁だと知ったなら――雲雀は間違いなく、草壁を咬み殺すだろう。

 ……まあ自分の身はともかくとして、雲雀の意に沿わぬことをしても良いものか……。


「――草壁さん、お願いします……!!」

「…………」


 沈黙して考えあぐねていると、音羽が懇願した。

 彼女の顔を見てみれば、瞳に、薄く涙が浮かんでいる。 
 けれどそこには、あの意志が変わらず光を放っていた。

 草壁は迷った末――、……ゆっくりと口を開く。


「隣町にある、黒曜ヘルシーランドだ……」

「……!草壁さん、ありがとうございます……!!」

 音羽は安堵したような、嬉しそうな笑みを浮かべると勢いよく一礼した。


 草壁は、彼女の可憐な相貌に絆されて雲雀の行き先を教えた訳では決してない。

 音羽から伝わってくるその決意の大きさと、強さ。そして――。


 音羽が側にいたのなら、雲雀もまた、彼女を守るためにより一層強くなれるのではないか。そう、思ったからだった。
 

「草壁さん、本当にありがとうございました……!お大事に……!」

 音羽はもう一度草壁に頭を下げると、半ば駆け出すように病室を後にする。

「……」

 その後ろ姿を見送って、草壁は彼女と、そして雲雀の無事を願うのだった。





 音羽は病院の受付で黒曜ヘルシーランドへの行き方を聞いて、病院を飛び出した。近くにあるバス停を目指して、通りを再び全速力で走って行く。

 
 これから行くのは、こんな恐ろしい事件を引き起こした犯人のアジト。

 もちろん、とても怖い。痛い思いをするかもしれない。雲雀の傷付いた姿、傷付けられる姿を、見てしまうかもしれない。

 でも、それでも。

 音羽は一刻も早く、雲雀に会いたかった。ただ、それだけだった。


 道の先、揺らめく陽炎(かげろう)を真っ直ぐ見据えて、音羽は決意を胸にひた走る。


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