11話 襲撃

 いつも平和な、並盛町の住宅街。
 
 電灯の光が人けのない道を煌々と照らしている、普段と何ら変わらない午後九時のことだった。
 
「――うっ……ぐはっ……!!」

 並盛町を穏やかに包んでいた夜の静寂(しじま)は、辺りに響いた不穏な呻き声によって唐突に掻き消された。

 地面に倒れ伏した男の袖には、並盛中学風紀委員会の腕章が。
 それを、無情に見下ろす影が二つ。

「よえーよえー、風紀委員恐るるに足らーず!」

「貴様ら……何者だ……」

 風紀委員の男子生徒はあちこち痛む上体をずり起こし、顔だけを後ろに向ける。

「んあー?遠征試合にやって来た、隣町ボーイズ?」

「それ、つまんないよ。早く済ましてよ、犬」

 暗がりで嘲笑する一人に、もう一人の男は気だるい様子で呟いた。

 ――犬と呼ばれた荒々しい物言いの少年は屈んで獲物を見据えると、爛々とした瞳を闇の中に光らせる。

「こいつ何本だっけか?ちょっくら頂いていくびょん!」

「なっ、何をする気だ!?」

 風紀委員は凍り付いた。

 少年の右手には、到底人に対して使用するものではない工具用のペンチ、が。額からこめかみを、脂汗が伝っていく。

「恨まないでね〜、上からの命令だから」

「待て!や、やめ……!」

 髪を鷲掴まれ、強制的に顔を上げさせられた風紀委員の口からは、悲鳴にも似た静止の声が上がった。
 
 ――けれど、救いを求めた彼の手は、虚しく宙を掻いただけ。

「ほい」

「うぎゃああああ!!」

 凄惨なその絶叫は、蒼黒い墨で塗り潰したような夜の下に冴え冴えと響き渡った。







 ――九月九日。

 長かったような短かったような夏休みが終わり、新学期が始まって二週間目の今日。
 音羽はいつもの通学路を歩いて、学校へと向かっていた。

 友達と回った夏祭り。そして何より、雲雀と花火を見たあの夜は、音羽にとって間違いなく夏休み一番の思い出になった。

 休みの間中、何度あのときのことを思い出したか分からない。

 二人で並んで花火を見たことも、手を、繋いで歩いたことも。
 思い返すたびに、沢山の喜びと『どうして』を、音羽の中に残していく。


 いつも何だかんだ、音羽のことを助けてくれる雲雀。

 獄寺たちと一緒に居たとき怒っていたのも、あの夜、手を繋がなくても歩けた場所で、柔らかく手を引いてくれたのも、理由が知りたかった。雲雀の、気持ちが知りたい。

 
 会えない間に膨れた想いは、色んな不安と期待を音羽の胸に忙しなく招き入れた。それはまるで、冷たくも温かくもある体温のようで、日ごとにゆるゆる心の中を行き来している。

 けれど、もしあの夜触れたぬくもりに、眩しいくらいの希望を見つけられたなら。
 音羽は勇気を出して、雲雀に言おうと思っていた。


 ――そんな、決意じみた想いを抱いて迎えた新学期、……だったのだが。
 
 残念ながら、今の音羽の頭の中は、全く別なものに塗り替えられてしまっている。


 それは、平々凡々なこの並盛町で、現在起こっている一つの事件。
 並中の風紀委員たちが、立て続けに何者かに襲われているという、恐ろしい出来事が原因だった。

 今朝、母から聞かされた話によれば、昨日おとといの土日で並中の風紀委員が八人、重傷で発見されたらしい。

 そして、襲われた風紀委員は皆歯を抜かれ、中にはただの一本も残されなかった人もいるという。

 犯人の目的や動機は不明、その正体も、まだ分かっていない。

 
 そんな恐ろしい出来事が、この町で昨夜あったなんて。想像するだけで肌が粟立つ。

 一見、いつもと変わらぬ平穏に見える景色だが、実はほんのすぐ側に、危険は身を潜めているのかもしれない。

 そう思うと、とても他人事とは思えないくらい怖かった。一体、誰がそんなことをしているのだろうか……。

 それに――。

 風紀委員といえば雲雀である。
 彼ならきっと、誰が襲って来ても返り討ちにしてしまうだろうが、それでも音羽は不安だった。
 
 万が一、雲雀が怪我をするようなことがあったら――。
 考えただけで、胸の底が痛くなる。彼の、傷付いた姿を見たくない。

 ――…早く、犯人が捕まればいいんだけど……。

 歩きながら、音羽はそう切実に祈った。でなければ、このザワザワする感覚はきっとずっと残ったままだ。


 学校に近付くと、登校中の並中生の姿がちらほらと増えてきた。無理もないことだけれど、皆どこか怯えた表情をしている。
 渦中の風紀委員たちも、いつもはしていないはずの校外巡回を行っていた。

 町全体が、目に見えない恐怖に包まれているようだった。それがじわじわと、五感を通して伝わってくる。


 肩に力が入るような憂鬱さを感じているうち、音羽は学校の前の通りまでやって来た。
 校門のすぐ側にもいる風紀委員たちの中に、雲雀の姿がないか思わず探していると――。

「!」

 校門から少し離れたところに、ツナとリボーンの後ろ姿が。

 そして、二人の眼前にはたった今探していた彼がいて、音羽は目を見開いた。
 当然かもしれないが、いつもと変わりないその姿見たらついほっとしてしまう。

「雲雀さん………!」

 安堵と、そして相反する不安に駆り立てられて音羽は駆け出した。風紀委員長を務めている雲雀は、今回の事件の当事者と言っても過言ではない。彼の話が聞きたかった。

「片桐!」

 彼等の側まで行くと、ツナが気付いて声を上げた。雲雀も、こちらを一瞥する。

「沢田君、リボーン君、おはよう!……あの雲雀さん、今起きている――」

「おっ、何だ何だ?うちの可愛い生徒だと思ったら、物凄い美少女じゃないか!」

「……?」

 音羽の言葉を遮ったのは、聞き覚えのない男性の声だった。どこか弾んでいるようにも聞こえるそれは、音羽のすぐ真後ろから。

 訝りながら後ろを向けば、そこには白衣を着た中年の男性が緩い笑みを浮かべて立っていた。どこかで見た気もするけれど……思い出せない。

Dr(ドクター).シャマル!?何でここに!?」

「物騒な話聞いたから、女の子たちを守らなきゃと思って」

 驚いた様子で言うツナに、男はへらりと笑った。
 
 ――Dr.シャマル……そうだ、彼は並中の保健医だ。ツナが呼ぶのを聞いてようやく思い出す。

 女子には過剰なくらい優しくて、男子には尋常でないくらい厳しいことで有名な先生だが、音羽はまだ一度もお世話になったことがないのですぐに気付けなかった。

 この人が噂の……、とつい思っていると、シャマルがずいっ、とこちらに身を乗り出す。

「お嬢さん、名前は?」

「え……?えっと、片桐音羽です、けど……」

「音羽ちゃんか〜〜、見れば見るほど可愛いねえ……。その年でその美貌なら、将来が楽しみだな。どう?これからおじさんと――」

 言いながら、シャマルが音羽の肩に手を載せようした瞬間。

「!」

 ヒュッ、と音羽の目の前で風が鳴った。鈍色に光るものが勢いよく視界を走り、音羽は咄嗟にぎゅっと目を瞑る。

「うわっ!いきなり何すんだ……」
「ひいぃ!」

 ドタッと倒れるような音と一緒に、シャマルとツナの声がした。

 恐る恐る、目を開けてみる、と。

「……!雲雀さん……!」

 音羽の目の前にはトンファーを握った雲雀が悠然と立っていて、彼の目の前の地面にシャマルが腰を突いている。


 ――どうやら、雲雀がシャマルに向かってトンファーを振るったらしい。
 ……まさか、シャマルが音羽の肩に手を伸ばしたから……? なんて。つい、都合の良すぎることを考えてしまう。

 窺うように雲雀を見上げてみると、彼は殺気立った冷ややかな目でシャマルのことを見下ろしていた。

「次は咬み殺すよ」

「あ〜、分かった分かった、そんなに怒るなよ。音羽ちゃんには手を出さないから」

 肩を竦めるシャマルに、雲雀はふん、と鼻を鳴らす。不満げな顔のままこちらを振り返った雲雀は――、

「――……」

 何やら違和感でも抱いているようにぴたりと動きを止め、自身の首筋に手を当てた。

「……?雲雀さん?」

 様子の違う雲雀に、音羽も首を傾げてしまう。
 視界の端で、立ち上がったシャマルとリボーンが囁くような小声で話しているのも気になったけれど……何より雲雀に注意が向いた。

 彼は無表情で、でもどこか不可解そうなまま手を下ろし、今度は音羽を見つめてくれる。

「……今回の件は、一方的なイタズラだよ。でも、いつまでも野放しにしておくつもりはない」

 それは、さっき音羽が投げ掛けようとしていた質問の答えだった。
 聞いた音羽の頬は、少しこわばる。

「それって……」

 雲雀が、事の元凶を止めに行く、ということだろうか……? たぶん、そういう意味だ。


 だとしたら、幾ら雲雀が強いと言っても、彼に危ない場所に行って欲しくない……。


 ――けれど。音羽が何と言っても雲雀は行くだろうし、きっと行かなければならないのだ。…………そもそも、音羽が口出し出来るようなことではないのも、重々分かっている。

 それなら、雲雀に何と言えばいいだろう。自分の気持ちに折り合いを付けながら言葉を探していると、不意に。


『緑〜たなびく〜並盛の〜』
 
 音羽の思考とは対照的に、大変のどかなメロディーがどこからか流れてきた。つい先日の始業式で歌ったばかり、並中の校歌である。
 
 一体どこから……? きょろきょろ辺りを見回せば、ツナも同じように音の出処を探していた。

 すると――、雲雀が緩慢な動作で、自身の携帯をポケットから取り出す。

 彼がピッ、とボタンを押して耳に当てると、並中の校歌はぴたりと止んでしまった。
 ……それが意味することに、音羽もツナも一瞬呆然としてしまう。

「「……!!」」

 ――雲雀さんの、着うた……!

 我に返った音羽の身体に、軽い衝撃が走った。まさか、雲雀の着うたが並中の校歌だったなんて……!

 一瞬、自分も設定すればお揃いになるのでは? と思ったけれど、そんな安易な思考にすぐ至ったことが恥ずかしくて、追い払うように首を振った。

 雲雀が並中を大切にしているのは、何度か話して知っていた。でも、まさかここまでだったとは……。
 ツナも、同じようなことを思ったに違いない。まだ愕然としている。

「じゃ、じゃあ片桐、また後で……」

「う、うん」

 ツナは言いながら、いそいそと校門の方を向き直る。

 音羽は雲雀に声を掛けてからにしようと思って、彼の電話が終わるのを待っていた。

 すると、程なくして雲雀が携帯を耳元から放す。彼は、今しがたこちらに背を向けたツナを振り返った。

「――君の知り合いじゃなかったっけ。笹川了平……やられたよ」









「「!!」」

 雲雀の言葉に、音羽もツナも目を大きく見開いた。

 話の流れからして、了平が例の事件に巻き込まれてしまったことは間違いない。ツナの顔は、瞬時に青褪めていた。
 たぶん、音羽も。さっきから背筋に悪寒が走っている。

 余り話したことはないけれど、自分の顔見知りで、しかも友達のお兄さんが被害にあったなんて。容態も心配だし、どうして彼が標的になってしまったのか、とか、気になることも恐怖も山程ある。

「雲雀さん!お兄さんは今どこに……!?」

「並盛中央病院」

「病院……!い、行かなきゃ……!」

 端的な雲雀の回答に、ツナはわたわたして音羽を振り返った。

「片桐、オレ、今から病院行ってくる!」

「あっ……!」

 そうだ、京子も。

 京子も今頃、病院で不安な思いをしているかもしれない。彼女はとても兄想いな、優しい女の子だ。もしかしたら……、いやきっと、泣いていると思う。

「っ沢田君、待って……!私も――」
「ダメだよ」
 
 一緒に行く、と言おうとした音羽の声を、今度は雲雀が遮った。

「ど、どうしてですか……?」

 戸惑って雲雀を見上げたら、彼はこれまでに見たことがないくらい真剣な目をしている。

「ここが一番安全だからだよ。君はここに居て。帰りも、残らずに早く帰りなよ」

「……!雲雀さん……」

 青灰色の眼差しが、音羽を真っ直ぐ捉えていた。


 どうしてだろう。涼しげなのに、それが熱い、と感じてしまうのは。

 音羽の頬が熱いから? それとも、彼の手のぬくもりを、未だに思い出してしまうからだろうか。


 雲雀は、音羽の身を案じてくれていた。言外から受け取れるそれを、言葉で表現するのは難しいけれど、でも。

 確かにはっきり伝わってくる。
 その眩しさに、音羽の胸の奥は焼けるくらい熱くなった。

 
 ツナは、音羽の隣で目を丸くしていた。ひょっとしたら、雲雀のそんな言葉や態度が意外だったのかもしれない。
 
 だが、音羽の知る雲雀は確かに時々物騒ではあるものの、本当はすごく優しい人なのだ。(だからこそ、彼の気持ちが余計に分からない、というのもあるのだが……。)

 その雲雀がせっかくくれた思いやりを無下にすることなど、音羽に出来るはずもない。

 京子や了平のことは心配だが……、二人のことはツナに託そう。
 音羽は少し逡巡したあと、決意した。


 雲雀の言うように、学校に居れば人目もあるし襲われるような心配もない。だから、音羽は良いのだ。

 心配なのは、雲雀のほう。だから――分かっていても、尋ねてしまう。

「……雲雀さんは……?雲雀さんは、どうするんですか……?」

「これ以上好きにさせる訳にはいかないからね。風紀を乱す人間を咬み殺すだけさ」

「…………」

 眉を寄せ、事も無げに答える雲雀に、音羽は俯いて眉尻を下げた。

 思っていた通りの返答だった。やはり、雲雀は行ってしまう。


 行って欲しくない。
 雲雀が負けるはずないと思っていても、それでもどうしても、心配だった。

 ……けれど、これはきっと、雲雀が行かなくてはいけないのだ。

 彼にとって何者でもない音羽は、彼に行かないで欲しいとは言えない。

 もどかしさに、音羽は手を握り締めた。彼を見送ることしか出来ないのが苦しい。待つことしか、出来ないのが。


「……心配なんかいらないよ。僕は、強いからね」

「――!」

 降ってきた言葉は、音羽の心の中を見透かしているみたいだった。弾かれたように顔を上げれば、雲雀と目が合う。


 彼の声にも、その瞳にも、凛とした強さが宿っていた。
 何者にも侵し難い。そう思わせるような彼の瞳に、心が、惹き付けられてしまう。
 
 そして、そこに変わらず居てくれるやさしさを見つけたなら。音羽は、小さく頷くことしか出来なかった。


「……雲雀さん……気を付けて……」

 喉がつかえそうになるのを堪えて、何とか声を絞り出す。

 本当は、心配で心配で堪らない。彼の服を掴めたら、その後ろについて行けたら――考えているうちに、雲雀はくるりと踵を返す。

「じゃあね」

 向こうに歩いていく彼の背中を、音羽は見つめた。喉の底が痛かった。視界がぼやけて仕方ない。でも、目を逸らすことも出来なかった。

「片桐……、」

「!」

 自分と同じ、心配そうなツナの声に意識が引き戻される。

 その心配が自分に向けられているものだと気付けば、音羽の口はぎこちなくも弧を描いていた。

「ご、ごめんね沢田君、引き留めちゃって……!笹川先輩と京子ちゃんに、お大事にって伝えてくれるかな……?」

「う、うん、もちろんだよ!伝えとくね!……っあ、あのさ、片桐、」

「?」

 言葉を切って俯いたツナは、少ししてまたぱっと顔を上げる。

「全然上手く言えないんだけど……雲雀さんは、オレが知ってる中で一番おっかなくて強い人だから……!」

「!」

「それじゃあ、オレ、行くね!!」

 ツナは言うと、肩に小さな家庭教師を乗せて病院の方に駆け出した。


「……ありがとう、沢田君……」

 音羽の頬は今度こそ、心からの感情で緩く綻ぶ。
 ツナの優しさは、重苦しい音羽の心を励ましてくれた。
 
 雲雀を信じて、待とう。きっと彼なら大丈夫だ。
 数十秒前より、そう強く思えている自分がいる。

 音羽はしばらく、その場に佇んでいた。

「さ、音羽ちゃん。学校に行こうか」

「はい……」

 それまで黙ってそこに居てくれたシャマルに声を掛けられ、音羽はゆっくり学校に向かう。

 君臨者が留守にしている並中の校舎は、心なしかいつもと違う色に見えた。







 並盛中央病院に設けられた、了平の病室。
 室内から出たツナは、扉を閉じるなり声を上げた。

「――あぁ、何でお兄さんがやられてんの……!?一体どうなってんの!?」

「……パニクってんのは、ツナだけじゃねーな」

「!?病院に、並中生ばかり!?」

 静かに言ったリボーンの視線の先、病院の廊下を見てツナも気付く。

 辺りは、並中の制服を着た男女の姿でごった返していた。誰も彼も、皆蒼白い顔をしている。


「――おおダメツナ、大変なことになってんな!」

 思わず立ち尽くしているツナに声を掛けてきたのは、同じクラスの男子だった。

「どうしたの?誰かのお見舞い……?」

「ああ……部活の先輩、持田さんが襲われた」

「ええ!?剣道部の持田先輩も!?」

「それだけじゃない。昨晩から三年で五人、二年で四人、一年で二人、風紀じゃない奴が襲われてる」

「ええ……?風紀じゃないって……!」

「並中生が、無差別に襲われてんだよ!」

「うそ!!何でそんな恐ろしいことに!!」

 ツナは顔面蒼白、あんぐりと口を開けた。顔見知りの持田まで襲われたことに驚きを隠せないのに、犯人の標的は無差別だなんて。

「マジやべーって、明日は我が身だぜ!!」

「ってことはオレも関係あるの!?どうしよう!!」

「やっぱり、護身術習った方がいいな」

 内臓が震える心地のツナに対して、リボーンは相変わらず落ち着いている。さすがのツナも、一瞬“それ”の必要性を考えようとしたときだった。


「!風紀委員副委員長の草壁さんだ」

 クラスメイトが廊下の向こうを見て、小声で囁いた。

 見れば、学ランを着て腕章をつけた体格の良い風紀委員が二人、向こうから歩いて来る。

 廊下にいた並中生たちは皆、彼らが前を通り過ぎるときに頭を下げた。ツナも、クラスメイトに後頭部を押さえつけられ、深々と礼をさせられる。

「――では、委員長の姿が見えないのだな」

「ええ、いつものように、恐らく敵の尻尾をつかんだかと……。これで、犯人側の壊滅は時間の問題です」

「そうか」

 葉っぱを咥えた風紀委員副委員長、草壁は、一緒にいた風紀委員の言葉に頷いた。彼らは通りすがりに話をしながら、歩いて行ってしまう。

 
 ……雲雀はやはり、あのあとすぐにこの事件の犯人の元へ赴いたらしい。

 病院に来る前、雲雀や、そして音羽と話したときのことが脳裏を掠める。

「聞いたか?」

「うん……」

 草壁たちの姿が消えると、クラスメイトが明るい声色で尋ねてきて、ツナは小さく頷いた。

「雲雀さんは無敵だぜ!これで安心だな!あとは頼みます、神様!雲雀様!!」

「…………」

 喜んでいるのはクラスメイトだけではなく、周囲の並中生もそうだった。皆、安堵したように顔を綻ばせている。

 ツナも、ホッとしなかった訳ではない。ただ――。


 ――…片桐……きっと、心配してるんだろうな……。

 別れる直前、不安そうに雲雀の背を見送って目を潤ませていた音羽の顔が、ツナの頭には浮かんでいた。







 黒曜ヘルシーランド。

 荒廃したその建物へと続く道には、黒曜中の制服を着た男子生徒が数え切れないほど伏していた。

 苦悶の表情を浮かべる彼らを背にして立ち止まったのは、風紀の腕章を掲げた一人の少年。


 ――雲雀は、血に濡れたトンファーを構えながらぺろりと舌なめずりをした。

 シャツに付いたまだ新しい赤は、勿論雲雀のものではない。返り血の鮮やかな色、今しがた牙で捉えた肉の感触を思い出せば、自然と興奮は高まっていく。

 雲雀が狙う大きな獲物は、恐らく近い。


 肉食動物を思わせる鋭い瞳を光らせて、雲雀はガラスの割れた入り口から建物の中に足を踏み入れた。破片を靴で砕く音が、静まり返った屋内に響く。

「……」

 前の壁の影に、一人。
 隠しきれていない殺気を感じる。これまでと同じ、咬み応えのない肉の塊だ。

 相手の力量を気配だけで測りながら、そのまま足を進めると――。

「オラァァ!!」

 思った通り壁の影から、男が一人飛び出してきた。勢いよく振り下ろしてきた男の斧を雲雀は軽々と(かわ)し、代わりに男の空いた腹にトンファーを思い切り打ち込む。

「ぐあぁっ……!!」

 雲雀より体格の良い男は、易々と後方に飛んだ。

 その身体はけたたましい音を立てて奥の部屋のガラスを破り、暗い室内を露わにする。
 ボロボロのカーテンの隙間から、外の僅かな光が入り込んでいた。

 室内には、窓からの光を背にしてソファに座る人影が一つ。黒々としたその影に、雲雀は目を細める。


 ――当たり。

 ここに来て一番強い殺気だ。ようやく、大きな獲物を見つけた。

 床に散らばった破片を踏んで、雲雀は朽ち果てた室内に入る。
 
 その男は、傷んだソファに悠々と座っていた。


「やあ」

「よく来ましたね」

 雲雀の声に、男は静かに答えた。
 焦燥も怯えもないその声音に、雲雀は薄く笑みを浮かべる。

「随分探したよ。君がイタズラの首謀者?」

「クフフ、そんな所ですかね。そして、君の街の新しい秩序」

「寝ぼけてるの?並盛に二つも秩序はいらない」

「全く同感です。僕がなるから、君はいらない」

 男は、はっきり言い切った。どこか楽しげにも聞こえる男の口調に、雲雀はつ、と眉根を寄せる。

「君はここで咬み殺す」

 仕込み棘のトンファーを構え、雲雀は鋭い瞳で男を睨みつけた。

 ……だが、男はゆったりソファに腰を掛けたまま。少しも動こうとはしない。

「座ったまま死にたいの?」

「クフフフ、面白い事を言いますね。立つ必要がないから、座っているんですよ」

 歩みを進めながら問えば、男は笑った。余裕が崩れないのは、自身の力を自負している証だ。それは良い、咬み応えがある方が雲雀も楽しめる。

 だが、この男との言葉の応酬は不愉快で、そして一向に腰を上げないことに苛立った。

「……君とはもう、口をきかない」

「どうぞお好きに。ただ、今喋っておかないと二度と口がきけなくなりますよ」

「――!!」

 男の、言葉の意味を考える前に。

 雲雀の身体に異変が生じた。ゾクリと、背筋を走る悪寒。思わず息を呑む。

「どうかなさいましたか?顔色がわるいですよ」

「黙れ」

 雲雀の首筋に冷や汗が伝うのを見ると、男はニヤリと笑んだ。

「自分では気付いていなかったようですね。君が喧嘩を売った人物が、何者なのか……。僕も驚きました。トライデントシャマルと呼ばれる超一流のヒットマンが、こちらに来ているなんてね」

「……何の事?」

 シャマル――今朝見た校医を思い返すが、頭が、上手く働かない。力を込めても足がふらつき、雲雀の身体は勝手に揺れる。

「彼の得意技は不治の病原菌を持つ蚊を操り、敵を病死させる、トライデントモスキート」

「!!」

 男の言葉に、雲雀は目を見開いた。

 ――思い当たる節があった。
 今朝、音羽に触れようとしたあの校医を牽制したときだ。

 違和感を感じた首元。触れたとき、虫刺されのような小さな腫れがあった。

 特に気にするものでもないと思ったあれが、まさか、今の事態を引き起こしているのか。だとしたら、その正体は何だ。

 考えても思考は纏まらず、視界が回る。雲雀は唇を噛んだ。

「しっかりしてください、僕はこっちですよ」

 男は雲雀を嘲笑って言う。

「君がトライデントモスキートに感染したのは、サクラクラ病。桜に囲まれると、立っていられなくなる病です。……でもまさか、あの男から“彼女”を守るために取った行動で不治の病に感染してしまうなんて、皮肉ですね」

「……!!」

 “彼女”――。
 明瞭としない雲雀の頭に、音羽の顔が浮かんだ。――この男は、音羽のことを知っている。

 ……嫌な予感がした。滅多にないことではあるが、だからこそ雲雀の勘は大きく外れることがない。

 雲雀はこれまでになく殺気を放って、男を睨んだ。男の言葉通り、口をきくのが難しくなっている。

「クフフ、なぜ“彼女”を知っているか、ですか?……そうですね、一つだけ教えてあげましょう」

 男は言うと、初めてソファからゆっくりと立ち上がった。闇に光る昏い眼が、こちらを見据える。

「君が彼女を欲しているように、僕も彼女が欲しいんです。……片桐音羽を、ね」

「!!!……それは、させない……」

 声を捻り出すと、身体がぐらついた。正直、立っていることに注力しなければ崩れそうだ。
 ――だが、ここで倒れる訳にはいかない。


 男の声に宿る生半可ではない意志が、雲雀の思考と力を繋いだ。

 男は、雲雀を脅すために音羽の名前を出したのではない。どういう理由か定かではないが、男は本気で音羽を手に入れようとしている。

「っ……」

 それがはっきり分かるからこそ、雲雀はふらつきながらトンファーを構えた。

 
 音羽を、この男に渡す訳にはいかない。

 
 反射的に戦闘態勢をとる雲雀に、男は不敵な笑みを浮かべる。

「クフフフ、良いですよ。この状況で戦えるなら、ね。……でも、君は僕に葬られる。彼女を頂くのは、君を始末した後でも遅くはないでしょう」

 男は右手をゆるりと上げると、手の内に持っていた何かのスイッチを押した。

「ほら、見てください。君のために急いで用意したんですよ。この、美しい桜をね」

「――!!」


 雲雀の視界、いっぱいに広がったのは。

 淡く儚い色をした、薄紅色の桜だった。
 頭上で満開に咲き誇るそれに、雲雀は目を見開いたまま――ぴくりとも動けない。


 『――雲雀さん』

 ふわりと舞う花びらに、自分を呼ぶ音羽の柔らかな声が、彼女の温かな笑顔が、見えた気がした。


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