10話 夜に咲く花

 時間はあっという間に過ぎていった。
 
 テストも無事終わったし、今日の授業が終われば明日はもう終業式だ。そしてそれも済んでしまえば、皆が待ちかねている夏休みがやってくる。

 今学期最後の数学の時間。
 2年A組では、ついにこの間のテストが返却されることになった。


「獄寺ー」

「キャー!!獄寺君、また100点!?すごーい!!」
「うるせぇ!!」

 通常授業を挟み、テスト返却期間になって段々見慣れてきたこの光景。

 獄寺が英語やら国語やら理科やら、各科目で満点を取るたびに、クラスの女の子たちが黄色い歓声を上げ始める。

「沢田ー。もっと頑張れよ!」
「は、はい……」

 ツナは、先生にやや強めに肩を叩かれてフラついていた。重苦しいその表情から、どうやら余り良くない点数だったらしいことが窺える。

「山本ー」
「――おっ!やったぜ!」

「武、何点だったのー?」

 教卓でテストを受け取りガッツポーズをする山本に、近くにいた女子が声を掛けた。
 山本は爽やかに笑うと、テストを表に返して女子に見せる。

「82!ほとんど勘だけどな!」
「えー!武、すごーい!!カッコいいーっ!!」

 と、これもまた女子の黄色い歓声が飛び交った。

「次、女子呼ぶぞー。板川ー」

 男子への返却が終わると、今度は女子が出席番号順に呼ばれ始める。そうしてついに、音羽の番が来た。

「片桐ー」

 音羽は席を立ち、少しドキドキしながら教卓に歩いて行った。
 どうか、雲雀に報告出来る点数でありますように……、と祈りながら。

 その間、背にクラスメイトたちの視線を感じはしたが、それも前ほどではなくなっていた。


 ――雲雀のお陰と言うべきか、獄寺と山本に関する噂はぴたりと止まっていた。
 雲雀の彼女認定は……、ちょっと勘違いされっぱなしではあるものの、そういう好奇の視線にも徐々に慣れ始めてしまっている。

「よく頑張ったな」
「ありがとうございます、」

 先生がにこやかにテストを渡してくれて、音羽は自分の点数を怖々見てみた。

「!!」

 思わず、その場で目を見開いてしまう。
 笑みを隠すことは簡単には出来なくて、音羽は解答用紙でにやけてしまう口元を隠しながら席に急いだ。





 ――休み時間。

 京子が音羽の所に駆け寄って行くのが見えて、ツナはつい、彼女の姿を目で追った。
 
「音羽ちゃん、どうだった?」

 音羽に尋ねる京子の顔は、ツナの席からよく見えた。相変わらず、天使みたいに可愛い笑顔だ。つい見惚れてしまう。

 口の動きで京子の言っていることは何となく分かったが、ここから見ると音羽は斜め後ろの姿しか見えない。だから、彼女の表情は分からなかったのだが――。

 音羽がこくんと頷きを返して何か言った素振りを見せると、京子はぱっと顔を綻ばせた。

「本当!?良かったあ……!音羽ちゃん、これで無事に報告出来るねっ!!」

「…………」

 京子の口がそう言う風に動くのが見えて、ツナも思わず微笑んでしまう。

 ――良かったね、片桐……。

 どうやらあれだけ頑張っていた彼女の努力は、無事に実を結んだようだ。彼女は彼女の望んだ通り、“好きな人”に良い点を取ったと報告出来るだろう。

 でも――。

 ――その相手が雲雀さんなんだよなぁ……!!

 ツナは談笑する京子と音羽を遠巻きに見ながら、未だに頭を抱えたい気持ちを何とか抑える。

 なぜ、音羽は雲雀のことが好きなのだろう。

 ツナが疑問に思うのも無理はないはずだ。
 だって、雲雀ほど怖い人をツナは知らない。……いや、並中生であるなら皆、そうなのではないだろうか。現に雲雀と親しくしている人間を、ツナはこれまで一度たりとも見たことがないのだから。

 ――片桐は、雲雀さんのこと怖くないのかな……。結局、雲雀さんと片桐が付き合ってるんじゃないかって噂もそのままだし。ほんと、あの二人って謎だよなあ……。

 ツナがそんな取り留めもないことを考えているうちに、休み時間は終わり――。


 ――その日の授業も翌日の終業式も、あれよあれよという間に済んでしまったのだった。



 


 


 翌々日――。
 終業式も終わった並中は、いよいよ夏休みに突入した。

 その初日を、音羽は自室のベッドの上で過ごしている。

 平日の昼間からごろんとベッドに横になり、天井の方に掲げて見上げているのは、先日返却された数学のテストだ。音羽の口から、小さな溜息が零れ出る。


 音羽は結局、雲雀にテスト結果を報告出来ないまま、夏休みを迎えてしまった。

 というのも、テストを返却された当日は京子と花に誘われて、京子、花、ハルの三人とラ・ナミモリーヌでケーキを食べることになったからだ。
 
 バスケ部の一件があってからテストも重なり音羽たちは慌ただしかったし、ハルも期末テストで忙しかったそうで皆しばらく会えていなかったらしい。

 音羽も久しぶりに彼女たちと揃ってゆっくり話したかったので、皆の予定が合うなら……と思ってしまい、その日は早くに帰ってしまったのだ。

 だから終業式が終わったあとにでも、雲雀に報告に行こうと思ったのだが――。

 並中ではなぜか、終業式の日は校内に残ってはいけないらしく(風紀委員会が校内を一斉点検して、修理の必要な箇所がないかどうかなどを隈なくチェックするらしい)、早々に帰されてしまった。 

 そのため、音羽は数学のテストを眺めては溜息をついてしまっている、という訳である。


「せっかく報告できる点数だったのに……。夏休み中、雲雀さんに会えるかなぁ……」

 雲雀にクッキーを持って行った日から一度、彼と会う機会はあるにはあった。が、それも随分前のことに感じる。
 
 音羽がいつものように図書室に入り浸っていたら、雲雀が本を取りに来たのだ。
 彼はよく本を読むらしく、他愛のない話が少し出来た。

 ――やっと仲良くなれたと思ったのに……。しばらく会えなくなるの、残念だなあ……。

 テストの点を彼に報告したいのはもちろんだが、何より雲雀に会いたいと思ってしまう。毎年夏休みは楽しみだったはずなのに、学校に行けないのが残念だと思う日が来るなんて。自分でもちょっとびっくりだ。

「はあ……」

 音羽がまたつい、小さく溜息をついたとき。

「――!」

 唐突に、一階に置いてある家の固定電話が鳴った。


「……誰だろう……?」

 家族は全員留守にしているので、音羽はベッドからむくりと起き上がる。

 階段を駆け下りて、リビングにある電話のディスプレイを見たら知らない番号が載っていた。……少し躊躇ってしまうけれど、急な用事だったらいけないし……。そっと、受話器を取ってみる。

「はい、もしもし……」

「あ、音羽ちゃん?」

「!京子ちゃん!」

 電話の主は、なんと京子だった。

 一瞬、電話番号を伝えていたっけ? と思ったが、そういえばクラス内では連絡網が配られているのだ。きっと、それを見て掛けてくれたに違いない。
 すぐに思い至ったものの、京子からの急な電話につい驚いた声が出てしまった。

「ごめんね、突然。連絡網見て電話しちゃったんだけど、音羽ちゃん今大丈夫?」

「うん、全然大丈夫だよ!それより、何かあった?」

 尋ねると、京子はいつも以上に弾んだ声で続ける。
 
「あのね、八月四日に並盛神社で夏祭りがあるんだけど、よかったら音羽ちゃんも一緒に行かない?」

「夏祭り?」

「うん!花火も上がるし屋台も出るから、毎年結構盛り上がるんだよ!ハルちゃんとも浴衣着て行こうって話になってて、音羽ちゃんもどうかなあって!」

「!ほんと……!行きたい!」

 音羽が即答すると、電話の向こうで京子が柔らかく笑った。

「ふふっ、よかった!音羽ちゃんも一緒なの、楽しみだなあ!じゃあ、時間はまた連絡するね!」

「うん、私もすごく楽しみ……!京子ちゃん、誘ってくれてありがとう!」

 じゃあまた、と互いに言い合い、音羽は静かに受話器を置く。
 途端、口元が勝手に緩んだ。

 ――胸の中がそわそわして、落ち着かない。どうしよう、すごく楽しみだ。

「そういえば、夏祭りって久しぶりかも……」

 去年は一緒に行く人がいなくて行けなかったし――というかそもそも、友達と休みの日に約束をして遊びに行くこと自体、随分久しぶりな気がする。

 仲良しの友達と、夏祭りに行けるなんて。夏休み中の良い思い出にならない訳がない。まだ日にちは先なのに、もうワクワクしてしまう。

「すごく楽しみだなあ……――あ!浴衣どこだっけ……!」

 音羽は独り言ちるなり自分の部屋に駆け上がり、クローゼットを開けて中を探り始めた。


 浴衣と帯と、小物と――。
 色々出して見ているうちに、自然と夏祭りの空気が蘇った。

 夜の中に明々と照る屋台。人々の賑やかに浮いた声と、お囃子(はやし)の笛と太鼓の音。喧騒から離れた、境内の仄暗い慎ましさ。そして、夜空に浮かぶ鮮やかな花火。

 周りにつられて、つい気持ちがうきうきしてしまうあの感じが音羽は好きだ。一年のうちで夏にしか感じられない空気が、楽しみで懐かしい。

「……」

 思わず笑みを零してしまっていると――ふと、彼の顔が頭に浮かんだ。

 
 同じ並盛町に住んでいるから、ひょっとしたら彼も――雲雀も、来るかもしれない。


 ……そう少し、思ったけれど。
 雲雀が人の多い夏祭りを楽しむ姿はどうにも想像出来なくて、音羽は苦笑した。

 もし会えるなら、当然嬉しい。でも、会えなくてもきっと充分楽しいはずだ。京子たちと出店を回って、花火を見て。想像するだけで、こんなにも胸が弾んでしまうのだから。去年の自分にも教えてあげたい。


 けれど、もし雲雀が浴衣を着ていたらきっと似合うだろうな、と。
 音羽は頭の中で彼の姿を描いて、心ともなく頬を緩ませたのだった。







 八月四日――。
 いよいよ、待ちに待った花火大会の日がやってきた。

「行ってきまーす!」

 音羽は赤い椿模様があしらわれた浴衣に、生成り色の帯を着付けてもらって、京子たちとの待ち合わせに急いだ。


 夕焼け色に染まった薄暗い屋外は、夏独特のしっとりした空気に満ちていた。カランコロンと鳴る下駄の音が、耳にとても心地いい。
 通りを歩く人の数もいつもより多くて、賑やかだった。皆楽しげに笑いながら、揃って並盛神社の方に歩いていく。

 ――そういえば、この町に来てから並盛神社に行くのは初めてだった。
 でも昨日、口頭ではあるものの道順は親に教えてもらったし、何よりこの人波について行けば、きっと間違わずに辿り着けるはずだ。
 
 音羽はつい綻んでしまう顔をそのままに、並盛神社へと向かった。



 ――それから暫く歩き続けて、音羽は迷わず神社の入り口に到着した。

 境内に続く参道の両脇には所狭しと露店が並び、辺りは人の姿で溢れている。
 京子たちと無事に会えるだろうか、と少し心配になっていると、


「――あ、音羽ちゃん!」
「こっちですー!」

「!……!京子ちゃん、ハルちゃん!」

 丁度二人の声がしてきょろきょろしたら、鳥居の足の隅に彼女たちの姿があった。二人揃っているところを見ると、少し前から来て待ってくれていたのかもしれない。

「ごめんね、お待たせ……!」

 申し訳なく思いつつ駆け寄ると、音羽を見たハルが目を丸くした。

「はひーっ!音羽ちゃん、浴衣姿がとーってもビューティフルです!!」

「ほんとだ!浴衣も素敵だし、髪もアップにしてるからいつもと雰囲気が違うね!とっても似合ってる!」

「あ、ありがとう……!二人も、浴衣すごく似合ってて可愛い……!」

 二人に褒められてぽっと赤くなりながら音羽が言うと、金魚柄で涼しげな水色の浴衣を着た京子と、三葉柄で柔らかい黄色の浴衣を着たハルは、「ありがとう!」と破顔した。

「じゃあ、花火大会は日が沈み切ってからですし、ひとまず屋台でも見て回りましょうか?」

「そうだね、色々見てみよっか!」

「うん!」

 音羽は大きく頷いて、ハルと京子と一緒に鳥居をくぐり参道を歩いて行った。


 外から見た通り、神社の中は人が多かった。露店の並ぶ参道は活気づき、幾つかのお店には行列が出来ている。花火大会もあるくらいだから、やっぱり中々に大きなお祭りみたいだ。

「ひょっとしたら、ツナさんたちも来てるかもしれませんね!並盛では一番大きなお祭りですし」

「そうだね、きっと来てるよ!……あっ、もし見かけたら花火大会誘ってみる?せっかくだし、皆で見るのも楽しそうだよね!」

「はひっ!京子ちゃん、ナイスアイデアです〜!音羽ちゃんも、それで大丈夫ですか?」

「うん、もちろん!皆で見た方が、きっと楽しいと思う!」

「ふふ、良かった!じゃあ、食べ歩きしながらツナ君たちが来てないか探してみよう!」

 歩きながら話がまとまり、京子の言葉に二人は大きく頷いた。

 ――それから、ほんの数秒後。


「――あっ、あそこにいるの!ツナさんたちじゃないですか!?」

 人々の熱気と、生き生きした雰囲気を感じながら周囲を見回していると、ハルが声を上げた。どうやら、早くも彼等の姿を見つけたらしい。音羽と京子は、ハルの視線を追う。

「あ、ほんとだ!獄寺君と山本君もいるね!」

「うん、でも……、何だか夏祭りに来てるって言うより……」

 ――お店、してる……?

 音羽は思わず口を噤んで、首を傾げた。

 見つけた三人が立っているのは、なぜかチョコバナナの屋台の中。どう見ても、売り子をしているようにしか見えないのだ。でも一体どうして、彼等が屋台を開いているのだろう?

「よく分からないけど、ツナ君たち今日はチョコバナナ屋さんみたいだね!ねぇお店、行ってみようよ!」

「ですねっ!」
「うん!」

 歩き出す京子とハルに続いて、音羽も一先ず足を踏み出した。


「――!」

 が、ツナたちの屋台を振り返った瞬間、そこから離れていく後ろ姿、が。
 一瞬だけ目に留まって、音羽はぴたりと足を止めてしまう。

 
 ――彼に見えたのだ。
 遠くからだし、すぐ人混みに消えてしまったので定かではないけれど、どこか見覚えのある姿、だったような……。

「?音羽ちゃん?どうかした?」

「!う、ううん、何でもない!……」

 つい人影の消えた方へ目を凝らしていると、前を歩いていた京子が不思議そうな顔をした。音羽は慌てて首を振る。

 歩き出す前に――もう一度、と思って辺りを見てみても、それらしき人の姿はどこにもなかった。

「……」

 ――……気のせい、かな……? 会いたいって思い過ぎて、幻覚でも見ちゃった……とか?

 だとしたら、我ながら呆れてしまう。

 やれやれと息を付きながら再び歩き出すと、数歩先で京子とハルが足を止めた。

 音羽も顔を上げてみれば、そこにはチョコバナナの屋台が。店先には、ツナと獄寺、山本が立っている。


「「チョコバナナくださーい!」」

「ハル!京子ちゃん!それに、片桐も!」

「こんばんは、沢田君」

 声を揃えるハルと京子に、ツナが驚いた顔をして振り返った。二人の横で音羽も挨拶すれば、ツナは「皆来てたんだ!」と顔を綻ばせる。

「すごーい、お店してるの?」

「うん、まあ……、ちょっと色々あって……」

 浴衣姿の京子に答えるツナの顔は、ちょっとだけ赤かった。――無理もない、京子もハルも、今日は一段と可愛いのだから。


「――っ!?片桐……!!」
「!」

 楽しそうに話す友人たちの姿を側で見守っていると、突如ガタン!!と音がして音羽は肩を跳ねさせた。

 見てみれば、屋台の内側のパイプ椅子が倒れていて、なぜか獄寺が身を乗り出している。

「え?……あ!片桐も来てたのか!」

「獄寺君、山本君、こんばんは」

 獄寺の声で気付いたらしい山本も声を掛けてくれて、音羽は二人に挨拶した。二人とも、わざわざ屋台の方から出て来てくれる。

「あの……皆、屋台お疲れさま」

「ああ、ありがとな!ちょっと訳アリでさ、町内会から特別に許可もらってやってんだ」

「そ、そうなんだ……」

 訳アリってなんだろう……? と音羽は当然のように思ったが、聞かないでおくことにした。山本はあっけらかんと笑っているし、ツナたちの周りに“不思議なこと”が多いのはいつものことだ。
 
「……でも、すごいね!皆でお店してるなんて。屋台も本格的だし……」

 店構えと屋台の中に並んでいるチョコバナナの材料を見ながら率直な感想を伝えると、獄寺がふい、と視線を横に逸らした。

「べ、別に、大したことねぇよ。……っそれより片桐――」

「あ、そっか!何かいつもと雰囲気違ぇなーって思ったら、片桐、浴衣着てんだな!すっげー似合ってるぜ!」

「!山本……てめぇ、オレがたった今言おうとしていた事を……!!」

「……ん?何かマズかったか?」

「あ、あの……!ご、獄寺君も山本君もありがとう……!」

 首を傾げる山本に、鬼の形相をした獄寺が今にも飛びかかりそうで、音羽は慌てて横からお礼を言う。
 
 獄寺は尚も山本に喰いかかりそうではあったが――、音羽と目が合うと握っていた拳を下ろしてくれた。代わりに、屋台の方に向かって行って中から何かを取ってくる。

「……片桐。やるよ、これ」

「!これ……でも、売り物なんじゃ……?」

 差し出されたのは、チョコバナナだった。戸惑って獄寺を見上げると、彼はぐいとそれをこちらに突き出す。

「気にすんな。いいから持ってけよ」

「獄寺君……。じゃあ、せっかくだから頂くね、ありがとう……!」

「ああ」

 チョコバナナを受け取ると、獄寺はどこか満足そうに微笑んだ。彼が笑った所はそういえば余り見たことがなかったので、音羽も少し嬉しくなる。微笑み返すと、彼は少し目を丸くした。

 チョコバナナにはチョコがたっぷりかかっていて、とても美味しそうだった。たくさん振られたカラーチョコスプレーも、カラフルで可愛い。


「――あーっ!獄寺さん、こっそり何配ってるんですか!ハルにもください!」

「うるせぇ!やるから騒ぐな!」

「もうー!その態度の差は何ですか!失礼ですっ!」


「――片桐」
「!山本君、」

 獄寺とハルのやり取りを苦笑しながら見ていたら、山本に声を掛けられた。顔を上げると、彼はなぜか少し申し訳なさそうな顔をしている。

「悪りぃ。オレ、今あげられるもの何もねえんだ。けど、ボールの的当てやったら景品どっさり貰えるからさ、後で好きなのやるよ!」

「そんな、気を遣わなくても大丈夫だよ……!」

「いや、オレがあげたいんだ。だから、もうちょっと待っててくれよな!」

 山本は言い切ると、いつものように爽やかに笑った。

 彼の表情に無理をしている様子はない。
 だったら、せっかく言ってくれているのだし……、ここはありがたく厚意を受けようと思って、音羽も頷く。

「わかった、それじゃあ待ってるね。ありがとう、山本君……!」

「おう!こっちこそサンキューな!」

「おい、野球バカ……!」
「でも、ちょっと残念です」
「!」

 獄寺が山本に食い掛かるのと、ハルのしょんぼりした声が聞こえたのは同時だった。音羽はつい、彼女たちの方を振り返る。

「皆で花火見ようって言ってたんですけど……。屋台があるなら、ツナさんたちは難しそうですね……」

「そうだね……」

「なぁ!?花火……!?」

 チョコバナナを食べるハルと京子の言葉に、ツナが声を上げた。……どう見ても「行きたかった」、という顔をしている。

 でもハルの言う通り、出店を営業しているのなら店を離れる訳にはいかないだろう。音羽も、皆で花火を見るのは楽しそうだと思っていたから……とても残念だ。
 
「……じゃあ、私たちはそろそろ行きましょうか!皆さん、頑張ってください!」

「またね!」

「あの、皆ありがとう、頑張ってね……!」

 音羽たちはそれぞれに言ってツナたちに手を振り、チョコバナナを食べながら再び参道を歩き出す。



 ツナは、そんな彼女たちの姿を立ち尽くして見送っていた。

 ――ああ……京子ちゃんと花火……、一緒に見たかったなぁ……。

 浴衣を着た可愛い京子と並んで花火を見られたら、どれだけ幸せだろう。ツナが思わず想像していると、

「――ツナ、全部売っちまおうぜ。そしたら、オレたちも花火見に行けんじゃん?」

「そうっス、十代目!売り切りましょう!」

 さっきより気合いの入った声で山本と獄寺が言った。

 二人も、いつもより大人っぽく見えた浴衣姿の音羽と、一緒に花火を見たいのかもしれない。

「そ、そうだね!!早く終わらせちゃおう!」

 ツナは頷き、早速屋台の中に戻って作業を始める。

 三人はこれまで以上に、チョコバナナ売りに精を出すのだった。







「――あ、そろそろ、お神輿が始まる時間かな?」

 たこ焼きやりんご飴、色んな屋台を巡って歩いていたら、ふと京子が言った。

「ほんとですね、何だか音も聞こえる気がします!せっかくですし、見に行ってみますか?」

「うん、そうだね!音羽ちゃんも行こう!」

「うん!」

 三人揃って境内の方へ歩いて行くと、お囃子の音が大きくなった。いつの間にか日は落ち始めていて、辺りは薄暗い。人の姿も、夕方より増えていた。


「――さっきの子たち、危なかったわねぇ!こんな人混みの中階段も走って行って……転んで落ちたらどうするのかしら!」

 人の間を縫うように歩いていると、すれ違った年配の女性が大きな声で零していて、音羽はつられて顔を上げた。女性の言う、階段の方を見てみる。

 並盛神社の境内に続くそれは急で、そしてとても長かった。
 でも、女性が言っていた“危なそうな子たち”の姿は、特に見当たらない。

 走って行ったみたいだし、もう居なくて当然か……。視線を、元に戻そうとしたら――。

「あ、れ……?」
  
 階段を上る細身の後ろ姿が目に留まり、音羽の足が石みたいに動かなくなった。


 かなり遠いけれど、服装ははっきり分かる。白の半袖シャツに、黒のズボン。左腕に付いている腕章みたいなもの、は。

「……雲雀さん……?」

 まさか。

 こんな人の多い場所に、彼が来るはずがない。
 ……そう、はっきり思うのに、心臓はもうドキドキと高鳴っていた。

 間違いない、あの後ろ姿は雲雀だ。見れば見るほど確信してしまう。

 どうしよう。今、すぐにでも追いかけたい――。

「!音羽ちゃん、どうかしましたか?はぐれちゃいますよ!」

「――っごめん、ハルちゃん、京子ちゃん!私、どうしても行かなきゃ……!先に行ってて!!」

「あっ、音羽ちゃん!」

 音羽は二人にに申し訳なく思いながらも、どうしようもない想いに急かされて、人混みの中を駆け出した。

 まさか、ここで雲雀に会えるなんて。

 どうしても、会いたい。会って、彼と話したい。声を聴きたい。

 下駄をコロコロ鳴らしながら、音羽は境内に続く階段を急いで上った。
 上を見上げても、雲雀の姿は既にない。もう、上りきってしまったのだろうか。


「はあ、はあ……」

 駆けるようにしてようやく階段を上りきった音羽は、手を膝について肩で息を繰り返した。
 
 すると――。


「うまそうな群れをみつけたと思ったら、追跡中のひったくり集団を大量捕獲」

「雲雀さん!!」

 ずっと聞きたかった声。それはなぜか楽しげで、そしてどこか殺気を帯びていた。

 しかも、雲雀のあとに続いた聞き覚えのある声は――、今頃チョコバナナの屋台にいるはずのクラスメイトのもので。

「……!!」

 まだ息も整い切っていないうちに顔を上げた音羽は、眼前に広がる光景にようやく気付き、驚愕した。


 なんと、ガラの悪い男が数十人。雲雀と、そしてツナを取り囲んで、物騒な武器をちらつかせているのだ。
 
 誰でも分かる、これは間違いなく大変な非常事態だ。音羽の顔から、サッと血の気が引いていく。

「――おい、何だその女!?」

「っ!!」


「――!」

「え、えぇっ?!片桐?!」


 目が合った瞬間、音羽の真向かいにいたリーダー格の男が声を上げ、雲雀とツナが同時にこちらを振り返る。

 音羽は、思わず後退った。

 目の前にいる年上らしい男の人たちは、ナイフやら鉄パイプやらを握っていて、その恐ろしさはこの間追いかけて来たバスケ部の男子の比ではない。

 音羽の存在も認識されてしまった今、彼等の標的の中に音羽が含まれいてもおかしくはないのだ。

「なんだ、あの女?こいつらの知り合いか?」

「……うわ、よく見たらすっげぇ可愛いじゃん!!なあなあ、オレらと一緒に遊ぼうぜ?」

「……っ!」

 音羽の近くにいた不良が二人、ニヤニヤ笑って迫って来る。
 
 ――早く、逃げなきゃ……!また雲雀さんに迷惑掛けちゃう!……なのに、なんで……、!

 足が、竦んで動かない。

 今すぐにUターンして、階段を駆け下りて、この場から離れなければいけないのに。膝はただ、震えるだけ。

「ほら、来いよ!」

「や、来ないでくださ……、」

 不良の一人が音羽に向かって手を伸ばし、近づいてきた。その反対の手には、サバイバルナイフが握られている。

 恐怖で半歩後ろに下がった、そのときだった。


 ヒュッ、と風を切る音がしたかと思えば、眼前に影が走った。続く鈍い打撃音に、音羽は思わず目を瞑る。

「うっ……く、」

「……!雲雀さん……っ!」

 男の苦しげな呻き声に怖々目を開けてみれば、トンファーを握った雲雀がいとも容易く男を殴り倒していた。彼は自身の得物を掴んだまま、ゆるりとこちらを振り返る。

「てめえ、よくも……!」

「っ!」

 もう一人の男がバットを振り上げ、雲雀の背後から襲いかかった。
 危ない!と、音羽が声を出す前に、雲雀は見向きもせずトンファーを握り直してぐっと腕を後ろに引き、男の腹に的確な深い一発を打ち込む。

「ぐはっ……!!」

 不良は腹を抱えてうずくまると、そのまま気を失って地面に倒れ込んだ。

「……あ……」

 助かった……、そう思ったら、急速に身体から力が抜けていく。
 立っていられずその場にへたりと腰をつくと、トンファーを下ろした雲雀が呆れたように音羽を見下ろした。

「全く……何でこんな所に君がいるのさ」

「ご、ごめんなさ……っ……雲雀さんを追いかけて来たら、こんなことになってて……」

 発した声は、自分でも分かるくらい震えていた。人が気絶する場面なんて初めて見たから、というのもあるかもしれないけれど、雲雀の姿を見たらもう大丈夫だという安堵が自然と胸に広がって、目にじわりと涙が浮かぶ。

 雲雀は感情の読めない目で音羽をじっと見つめると、ややあって片膝をついた。
 必然的に、彼と、目線の高さが同じになる。

「!ひ、雲雀さ……」

「……ここから動いたら咬み殺すよ。僕が来るまで目も瞑って、耳も塞いでいて」

 雲雀は音羽の耳元に口を寄せると、静かな声でそう言った。

 不思議だった。雲雀の低い滑らかなその声を聞いたら、怖くても気持ちが落ち着いてくる。

 ――きっと、大丈夫。雲雀さんなら……。

「はい……」

 音羽はしっかり頷いて、雲雀に言われた通り固く目を閉じ、両耳を手で強く塞いだ。

 暗闇の中、聞こえてくる微かな足音。
 それは、ゆっくりと音羽から離れていった。





 ――それから、どれくらい経った頃だろう。随分長く、感じた気がする。


「――片桐音羽」

「!!」

 肩を軽く揺すられて、音羽はハッと目を開けた。見覚えのある革靴。顔を上げると、そこには傷一つない雲雀がいる。
 
 彼の顔を見た途端、暗い恐怖が吐息のような安堵に変わるのを感じた。

 喧嘩も勿論怖いけれど、雲雀が傷付いてしまうのはもっと、もっと怖かったのだ。
 

「雲雀さん……!良かった……、雲雀さんが無事で……!」

「僕がこんな連中相手に怪我する訳ないでしょ。……ほら、立ちなよ」
 
 思わず零した音羽の言葉に、雲雀はムッとした表情をしたが、すぐに腕を掴んで立ち上がらせてくれる。「ありがとうございます、」と言って、音羽は辺りを見回した。


 あんなにいた不良たちは、一人残らず地面に突っ伏していた。
 そして、その側にはなぜかパンツ一丁になっているツナがいて、いつの間にか獄寺、山本の姿もある。三人は音羽と目が合うと、慌てた様子でこちらに走って来た。

「片桐!大丈夫だった!?」

「なっ……!片桐もいたのか……!?」

「!茂みの側にいたのか……!気が付かなかったぜ……!でも、怪我はなさそうだな!よかった!」

「うん、私は大丈夫。皆も、無事でよかった……!」

 ほっと胸を撫で下ろして言えば、獄寺の顔がみるみる顰む。彼は、鋭い目付きで雲雀を見た。

「……っおい、雲雀!てめぇか……!?こいつをこんな危ねぇ場所に連れて来たのは……!?」

「……」

「ち、違うの獄寺君!私が勝手に、雲雀さんを追いかけて来ただけで……!さっきのに巻き込まれて、雲雀さんは助けてくれたの……!」

「なっ……!片桐が、雲雀を……?」

 獄寺が目を見開くと、それまで黙っていた雲雀は三人を睨みつけた。

「僕はひったくり犯が盗んだ金を回収しに来たんだ。君たちのそれも、渡してもらおうか」

「い、いや!これはみんなで集めた、大事なお金なんです……!」

「ああ、渡す訳にはいかないな」

 凄む雲雀に、ツナは青褪めながら持っていた手持ち金庫を抱え直し、山本も珍しく厳しい眼差しを向けている。
 けれど、そんな威嚇は些細なもの、とでも言うように、雲雀は小さく頷いた。

「そう。じゃあ、渡したくなるようにしてあげなきゃね」

「「「「!」」」」

 既に血で濡れているトンファーを構え直す雲雀に、ツナは怯え、獄寺も山本も臨戦態勢に入ってしまう。

 初めて見るクラスメイトたちの険しい顔付きに、音羽はおろおろした。

 今にも、殴り合いが始まってしまいそうで。怖い、以上に、胸がズキズキする。

 音羽にとっては大切な友人たちで、とても、好きな人で――彼等に絶対、争って欲しくない。

「――っ」

 反射的に、音羽は側にいた雲雀のシャツを掴んでいた。





「!」

 背中をくい、と引かれて、雲雀は目を瞠った。背後にいるのは、たった今自分が引き起こしてやった片桐音羽。

 顔だけを後方に向けてみると、彼女は不安げな顔をして雲雀を見上げている。

「雲雀さん……」

 音羽は瞳を潤ませて、小さな声で雲雀を呼んだ。
 
 何と言ったらいいか分からないけれど、とにかく争わないで欲しい……。

 全身で、彼女がそう訴えているのが伝わった。
 
 恐らく、状況なんてまだ理解し切れていないだろう。だが、いつも真っ赤になっている音羽が、自分から雲雀の服を掴んでくるくらいだ。

 余程、この事態が嫌らしい。

 何となく察すれば、雲雀の闘争心が不思議なことに萎えていく。

 ……雲雀は、深く溜息をついた。



「……その金以外は、全部風紀が貰うよ」

「!」

 静かに言った雲雀はトンファーを下して踵を返し、不良のリーダー格が握りしめていた封筒を取り上げた。
 その姿に、音羽はつい呆然としてしまう。

「あの雲雀が……」

「喧嘩をやめた……、すごいよ片桐!!ありがとう!!」

「えっ……、いや……?」

 ツナにお礼を言われたものの、音羽もまだ事態が飲み込めていなかった。

 咄嗟に雲雀のシャツを掴んでしまったけれど、彼が本当に自分の訴えを聞いてくれるなんて思ってもいなかったのだ。

 でも、雲雀は戦わないでいてくれた。
 音羽の心情を、汲んでくれた……のだろうか?

 答えも出ないまま立ち尽くしていると、雲雀が不意に、こちらを振り返る。


「――ねえ君、僕に何か用があったの?」

「……!は、はいっ!あります……!」

 雲雀とばっちり目が合って、音羽は慌てて返事した。視線に促されるまま、彼の方に駆け寄る。


「あ、あの……っ」

 話したいことは沢山ある、のに。何から伝えたらいいのか分からない。
 
 音羽の言葉を待つ雲雀の瞳も、背中に刺さるツナたちの視線も。こんな時に限ってはっきり感じてしまうのだ。もごもごと口が動くだけで、ちゃんと言葉が出てくれない。

 ああ、早く言わなきゃ。
 焦っていると、雲雀が僅かに身体を動かす。見上げれば、彼は怒っている風でもなく、音羽の顔をじっと見つめていた。

「……行くよ」

「え……?は、はいっ」

 くるりと踵を返して歩き出す雲雀に、戸惑ったけれど。音羽はすぐ頷いた。スタスタ歩く雲雀の背を、小走りに追いかける。

「あっ、片桐……!」

「!皆ごめんね、また今度……!」

 ツナの声に振り返り、音羽は三人に手を振った。
 

 
 暗がりに消えていく二人の背を見送って、ツナたちはその場に立ち尽くす。

「……行っちまったな」

「それにしても片桐……あいつ、何で雲雀を……。――っ!まさか……!!」

 獄寺が、ハッとして声を上げたとき。

「――やっと気づいたのか。まだまだ甘ちゃんだな、お前ら」

「!リボーン!」

 何処からともなく現れたツナの家庭教師が、ひょいと軽やかに山本の肩に乗る。彼は獄寺を見ると、楽しげな笑みを浮かべた。

「獄寺、お前が思っている通りだぞ。音羽は、雲雀のことが好きなんだ」

「!」
「えっ!そうなのか!?」

「山本、まだ気づいてなかったのー!?」

 ツナのツッコミに、山本はああ、と頷く。が、彼はすぐに、いつもの屈託のない笑顔を爽やかに浮かべてしまった。

「でも、オレが片桐を好きなことには変わんねーしな!大した問題じゃねーって!」

「そ、そうなのかな……、結構大事なことだと思うけど……」

「山本、オレだって諦めるつもりはねぇからな!」

「ふ、お前ら、鈍いけど気概だけはあるな。ツナも、ほんとに京子が好きなら花火ぐらい誘ってみろ」

「んなっ……!そ、そんなの、すぐに出来たら苦労しないよー!!」

 ツナはわっと叫んで、リボーンに差し出された替えの衣服を鷲掴んだ。







 ――音羽は雲雀の後に続いて、境内の横にある脇道を歩いていた。

 脇道のすぐ左側には雑木林の斜面が広がっていて、下は真っ暗。お祭りの灯りも、お囃子の音も遠ざかり、社の上にぽつりぽつりと灯った電灯の光だけが足元を照らしている。

 道幅は少し狭くて、暗い道もちょっと怖い。下手をすると転げ落ちてしまいそうで、自然と足取りが慎重になった。何とはなしに、雲雀の背にぴたりと引っ付いて歩いてしまう。

 彼は、何も言わないままだった。
 ただ右側にある社に沿って、奥へ奥へと進んで行く、だけ。
 そんな彼の背を、音羽はそっと見上げた。


 ――もしかして雲雀さん、私が沢田君たちの前で話せなかったから、気を遣ってくれたのかな……。でも、どこに行くんだろう……?

 この先に何かがあるとは思えないし……。それくらいは、聞いてみてもいいだろうか?

「……あの、雲雀さん。どこに行って――っ、きゃ……!」

 彼に、遠慮がちに問いかけた瞬間。

 音羽の身体が、左側に傾いた。履き慣れない下駄を履いた足が、暗がりの斜面の(きわ)に着地してしまったのだ。

 突如、くらりと揺れる視界。重力に従って落ちる感覚。

 小さな悲鳴が出ると、刹那、雲雀がこちらを振り返った。

 彼は素早く音羽の手を掴むと、そのままぐいと、強い力で傾いた身体を引っ張り上げてくれる。

「はあ……あ、ありがとうございます……」

「……気をつけなよ。君、かなりそそっかしいようだからね」

「は、はい……すみません……」

 滑り落ちそうになったせいか、雲雀に手を掴まれたせいか。心臓がドキドキと、早鐘を打っていた。


「……、」

 未だに握られている手が、熱い。

 おずおずと顔を上げてみれば、明度の低い灰色の瞳が、音羽を静かに捉えていた。
 

 桜の樹の下にいた、彼と同じ。
 夜の闇の中、仄かな光に薄く照らされた彼は、どこか神秘的とも思える空気を纏っていた。

 それが、いつにも増してとても綺麗で。また、心臓が大きく跳ねる。


 雲雀は、やはり何も言わなかった。音羽の手を掴んだまま、ただじっと。
 全てを彼に視られているのではないか、と意識したら、すぐ顔に熱が集まる。

 何か……何か、言わないと。とてもこのままでなんて居られない。

「あ……えっと……、あ!あの、さっき言おうとしていたことなんですけど……!私、数学のテスト91点でした!雲雀さんが教えてくれたので、こんなに良い点数初めて取れて……!」

「知ってるよ。だから今、ここにいるのさ」

「……え?それって、どういう……?」
 
 表情を変えず頷く雲雀に、音羽はつい小首を傾げた。
 けれど、彼は答えをくれず――。

「っ……!」

 そればかりか、雲雀は音羽の手を引いて歩き出してしまう。
 音羽は信じられない光景に、大きく目を見開いた。

 ――雲雀さんと、手……!手、繋いでる……!

 少し大きな雲雀の手。
 それが、自分の手を心地よい力で包んでくれている、なんて。

 感覚という感覚が全て、自分の右手に集中しているようだった。
 触れているのは間違いなく、雲雀の温度だ。


「君の数学の点数は、既に報告に上がってるよ。予想以上にいい出来だったから、ここに連れて来た」

「……?」

 右手を凝視していた音羽は、淡々と告げた彼の言葉にようやく視線を上げた。

 報告に上がっている……とは?
 
 雲雀が音羽の数学の点数を、風紀委員に調べさせでもした、と言うのだろうか。
 でも、なぜ……? 彼がそんなことをする必要はないはずなのに。

 それに、彼の言う“ここ”も、よく分からない。音羽は困惑するばかりだった。


 何一つ分からないまま、でも大人しく雲雀について行くと、急に視界が広くなる。音羽たちはいつの間にか、少し開けた所に出ていた。


「――わあ、綺麗……!」

 色んな疑問を忘れて、唐突に音羽が心の声を漏らしてしまったのは、小高い丘になったそこから並盛町の一角が見渡せたから。

 街灯や建物から零れる、沢山の灯り。温かなそれらの光は、遠くから見るとキラキラ輝いているように見えた。

 ……雲雀は、これを見せるためにここに連れて来てくれたのだろうか?

 景色に見入りながら考えていると、雲雀はふと足を止め、音羽の手をゆっくり放す。

 温もりが離れて、名残惜しい想いが湧いた。
 音羽は、隣に佇んでいる雲雀を見上げる。

「雲雀さん、もしかしてこれを――」

 見せるために? 問おうとした瞬間、


 ――ドォォン!


「!!」

 空に大きな音が響き、視界が一瞬明るくなった。

 ハッとして町の上、瞑色の空を見上げると、赤い花火が。
 夜空いっぱいに咲いて、ゆったりと時間を掛けて滴るように、川の方に落ちていく。

「わぁ……!」

 その余りの美しさに、音羽の口からは感嘆の声が溢れてしまった。

 胸の底まで響く音。絶え間なく鳴るそれに合わせて、色とりどりの鮮やかな華が次々と空に昇っていく。

 黄色や青や、緑、白銀。雲一つない空も、眼下に広がる並盛町も、花火の色に染まるごとに違う表情を見せてくれる。

 落ちる火の雫は、どれもこれも一つ残らず煌めいていた。
 それが綺麗で、とても綺麗で。

 ひたすらに、胸の中が感情でいっぱいになる。

 音羽の心を満たすものは、目に見えるあの光の粒と同じだった。

「雲雀さん……!」

 彼が、“ここ”に連れて来てくれた理由。

 きっと“ご褒美”なのだと分かった今、音羽は隣を振り返らずにはいられない。

 雲雀は、花火に紛れた音羽の声をしっかりと拾ってくれた。こちらを一瞥すると、彼は再び光る夜空に視線を戻す。

「ここは毎年人が来ないからね。静かに花火が見えるから好きなんだ」

 彼の横顔が紡いだ、その言葉が。
 どれだけ嬉しかったか、とても音羽の言葉では表現なんてしきれない。

 雲雀の好きな場所に、連れて来てくれたこと。
 雲雀と一緒に今、花火を見られていること。

 それがこの上なく幸せで、贅沢で。

「ありがとうございます、雲雀さん。ここに、連れて来てくれて……」

 結局音羽が言えたのは、そんなありきたりな感謝の言葉だけだった。
 
 けれど、そんなことも気にしていられないくらい、目の前に広がる景色はどこまでも美しくて、そして優しい。

 音羽はずっと、大輪の華を見上げていた。





 雲雀は、空を見る音羽の横顔を見下ろした。
 
 音羽の頬はさっきからずっと幸せそうに緩んでいて、潤った瞳は空に映る輝きをつぶさに閉じ込めている。

 花火が打ち上がるたび、音羽の姿は色を変えて闇の中に鮮明に浮き上がった。

 髪を結った姿、きちんと着付けた浴衣。
 初めて見る彼女の佇まいは、素直に綺麗だと思った。


 音羽の澄んだ微笑みの中に、あの透明感を見つける。
 けれど、とても温かい幸せが、その横顔には確かにあった。


 ――彼女が、側に居れば良いと思っている。


 俄には信じ難いそんな想いが、自分の中に生じていることに。雲雀は少しずつ、気付き始めていた。

 さっき感じていた音羽の手のぬくもりが、まだ自分の手の中に残っている。

 雲雀は、それを受け入れながら。また、ゆっくりと花火を見上げた。


 草に落ちた二つの影は、柔らかに寄り添う。


 ――ずっと、この時間が続けばいいのに。
 音羽は心の中で願いながら、雲雀の隣に佇んで、夜空に咲く華をいつまでも見ていた。


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