9話 居心地
バスケ部の一件があった、翌日。
音羽はいつも通りに学校へと向かいながら、憂鬱な気持ちを抱えていた。
つい先日まではあったはずの平穏な日々と、さよならをしなければいけないからだ。
――また女の子たちに敵視されちゃうのかなぁ……。はぁ、やだなあ……。
並中に転校して、平和な学校生活を送れると思ったのに……。それに、獄寺や山本たちとも、これからどう関わっていけばいいのだろう。
二人はせっかく出来た友達だ。でも、音羽が二人と親しげにしている所を見れば、彼等のファンクラブに入っている女の子たちの反感は高まる一方だろう。かと言って、獄寺や山本と口を利かない、というのも出来ないししたくない。
昨日から堂々巡りしている思考に項垂れていた音羽は、息を付いてからようやく顔を上げた。
悶々と考え込んでいても仕方がない。結局、人に何を思われても言われても、音羽自身はどうすることも出来ないのだ。他人の気持ちも言葉も、変えられはしない。
それは、以前の経験でよく思い知っているはず。
自分は自分で、今まで通り普通に過ごしていよう。並中への道すがら、音羽はそう強く思って前を向いた。
――誰になんと言われても、私には好きな人がいるんだから……。
「……」
脳裏に雲雀の姿を思い浮かべると、不思議と心が軽くなった。
音羽が勇気を持って学校に行けるのは、彼がそこにいるから、というのも大きい。
彼を想うと、音羽の視線は自然と手に持っていた紙袋を捉えていた。
作るのに苦労して寝るのが少し遅くなってしまったが、昨日助けてくれたお礼にと思って、クッキーを焼いてきたのだ。
雲雀が受け取ってくれるかは分からないけれど、せめて感謝の気持ちをきちんと伝えたい。
――いつ渡そうかな……っていうか、雲雀さんっていつもどこにいるんだろう? 噂で聞いたこともないけど……。でも、昨日運んでくれてた応接室……ひょっとしたら、あそこにいるのかな……?
いつも図書室で遭遇するので雲雀の所在は不明だが、一先ず手掛かりのある応接室に行ってみよう。そんなことを考えているうちに、音羽は並中の校門の前まで辿り着いた。
いつものように校門を潜ると、これもまた平常通りに風紀委員たちがずらりと整列している。
しかし――今日はなぜか、いつもと様子が少し違った。
「「「…………」」」
彼等は皆一様に、音羽の方をちらと見た。
そして、ハッとしたように目を瞠っては、音羽と視線がぶつかるのを避けるように、すぐに目を逸らしてしまうのである。これだけの人数がいるのに、例外は一人もいない。
「…………??」
挙動不審な彼等の態度に、音羽はただただ首を傾げた。
風紀委員に目を付けられるようなことを何かしてしまっただろうか……と考えると、間を置かず昨日の件が頭を過る。
きっと、あの怖いバスケ部員たちが言っていた“噂”の件だ。渦中の生徒がどんな人間なのか、彼等もきっと興味があるのだろう……。
――風紀委員の人たちも知ってるって……、もう相当広まってるってことだよね……。
一般の生徒と余り関ってなさそうな風紀委員でさえ、あの“噂”を把握しているのだ。昨日何も言われなかったので、雲雀が気にしてなさそうなことだけが救いだが、きっとこの件はもう、全校生徒の知る所なのだろう。
音羽は耐え兼ねて、はあ……と重苦しい溜息をついてしまった。
昇降口で靴を履き替えるときも、階段を上るときも、廊下を歩くときも、すれ違う生徒が皆、音羽を見てはヒソヒソと囁き合う。
もうこうなったら腹を括って、ほとぼりが冷めるのをひたすら待とう。
そう、音羽が決意したとき――。
教室の手前にある廊下の掲示板に、何やら人だかりが出来ているのが目に留まった。
――なんだろう……?
その前を通り過ぎながら掲示板の方を横目で見ると、瞬間、人だかりの中から「あっ!!」と大きな声が上がる。
「……!!」
こちらを見るその人物と視線がかち合い、音羽も目を丸くした。
それは、昨日のあの怖いバスケ部員の中の一人。
音羽の“噂”を知っていた同級生の男子だったのだ。
勿論、彼が音羽の顔を見て声を上げたことにも驚いた。でも、音羽の驚きはそれだけではなかったのである。
同級生の彼は、なぜか身体中をあちこち怪我して包帯だらけ。しかも足を骨折でもしてしまったのか、松葉杖まで突いている。どう見ても軽傷とは言い難い姿だ。
けれど、昨日は音羽を追いかけて来たくらいピンピンしていたし、少なくともこんな姿ではなかったはず。だから、あの一件のあと、彼がこの姿になってしまったのは間違いない。
一体どうして……と唖然としていると、彼は人だかりから慌てて出て来て、勢いよく頭を下げた。
「き、昨日は、本当にすみませんでした!!!」
「!?」
彼は
「…………」
さっぱり状況が理解出来ず、音羽は周囲の生徒の視線も忘れて暫く呆然としてしまった。
彼が謝ってくれる理由は分かるけれど……、どうしてそんな勢いで?と思うし、何よりその姿になってしまった原因が分からない。
少しして我に返った音羽は、さっき彼が見ていた掲示板に唯一の答えを求めて、そちらを振り返った。
すると、音羽の動きに合わせて、掲示板の周りにいた生徒たちがザッ!!と音を立てて道を開ける。
「……」
何だかそれも、自分の想像していた反応とは違っていて、音羽は困惑した。
“獄寺と山本を誑かした女子”として、きっと陰口を叩かれたり睨まれたりするんだろうなと思っていたが……この反応は寧ろどちらかと言うと、“恐れられている”と言った方がいいんじゃないだろうか。男子も女子も、そんな風な目で音羽を見ている。
……訳が分からないけれど、とにかく。今は掲示板だ。
音羽は周囲の視線を浴びながら掲示板を見上げ――、そして目を見開いた。
◇
HRが始まり、授業が始まっても、人々の視線と囁きは一向に絶えなかった。
クラスメイトの視線はもちろん教師までもが音羽を見やるし、休み時間になるたびに他のクラスや他学年の生徒が、わざわざ音羽を見に来る始末である。
まるで動物園のパンダ状態で、音羽は息が詰まる思いだった。
――どうして……どうしてこんなことになったんだろう……。
学校全体も驚いているようだが、一番困惑しているのは音羽ではないだろうか。そう思ってしまうくらい、音羽には今の現状が理解出来ていなかった。
休み時間になって廊下からの視線も浴びる中、一人机に向かって俯いていると。
「――音羽ちゃん、昨日大丈夫だった?」
すぐ側で声がして顔を上げると、昨日挨拶も出来ないままだった京子と花が立っている。
第一声でそう言ってくれた京子は、本当に心配そうな顔をして音羽を見ていた。花も、珍しく眉尻を下げている。
変わらず声を掛けてくれた二人に、音羽は大きな安心感を覚えてほっと息を吐き出した。
「うん。京子ちゃん、花ちゃん、ありがとう……。昨日は心配かけちゃってごめんね……」
一緒にケーキを食べて帰ろうと言っていたのに……。体育館に行ったきり戻らない音羽を、二人とも心配してくれたに違いない。
申し訳なさに謝ると、京子はぶんぶんと首を横に振った。
「ううん、私たちのことは気にしないで。音羽ちゃんが無事で、ほんとに良かった……!」
「うん、ほんとよ。……でも、びっくりしたわねぇ……。掲示板も“これ”も、昨日のが原因なんでしょ?」
花は言いながら、廊下の窓から音羽を見物している生徒たちを見る。
音羽は「たぶん……」と答えながら、今朝見た掲示板の内容を思い出した――。
◇
――掲示板を見た音羽は、目を見開いた。
そこには一枚のA4用紙が貼り付けてあって、要約すると、『男子バスケ部を喫煙のために活動停止処分にする』というような内容が書かれていた。書面の発行元は、『風紀委員会』だ。
だが、これだけでは単に“バスケ部が活動停止処分を受けた”という内容が綴られているだけで、しかも理由も喫煙であるし、音羽が周囲の生徒たちから怯えた目で見られることもないだろう。
じゃあなぜ……?と考えた音羽は、ふと、さっき勢いよく謝罪してきた同級生の男子生徒のことを思い出した。
――まさか……、あれって……。
ある可能性が脳裏を掠めた、そのとき。
『――ねえ聞いた〜?バスケ部の小谷の話!』
『!』
たった今音羽が歩いて来た廊下の向こうから、女子生徒の大きな声が聞こえてきて、音羽は聞き覚えのある名前に耳を澄ませる。
『あ、それバスケ部の友達から聞いた!小谷、病院送りになったらしいじゃん!』
『そうそう!雲雀さんの女に手ぇ出して、風紀委員にボコボコにされたんだって!ヤバいよね〜!!』
『……っ!!!?』
――雲雀さんの、女……!!?
到底信じられないその言葉に、音羽はピシッと固まった。
『雲雀さん、彼女いたんだ〜』と意外そうに言う彼女たちの声が、段々と遠くなる。
同級生の男子の怪我はひょっとしたら風紀委員が関わっているんじゃないか、という一応当たった自分の予想は、あっという間にどうでも良くなってしまった。
それくらい、“雲雀さんの女”という言葉の威力が凄まじい。しかも、それがまさか自分に充てられている言葉だなんて。
――ど、どうしてそんな解釈になってるんだろう……!?いや、私からしたら願ったり叶ったり、そうなったらすごく嬉しいけど……!!
焦って頬の色を変える音羽を周囲の生徒は訝しげに見ていたが、音羽にそんなことを気にする余裕は最早一ミリもなかった。
――どうやら、今学校で広まっている噂はこうらしい。
雲雀の女――つまり、音羽に手を出そうとしたバスケ部は、雲雀の命によって風紀委員にシメられ病院送りになった。
表向きは“喫煙のために活動停止処分になった”ということになっているが、それも“雲雀の女”に手を出そうとした報復である。
と、幸いなことに病院送りにならずに済んだ彼――さっきの同級生の男子や、事情を知っている他のバスケ部員が、事のあらましを話し回っているらしい。バスケ部員たちも勘違いしているのだ。
雲雀はたまたま助けに来てくれただけで、音羽は雲雀の彼女ではない(残念だが)。
そして、彼等が勘違いしたまま噂が広まってしまい、音羽は周囲の生徒から怯えた目で見られている……という訳だ。
きっと皆、音羽に何かすると風紀委員――つまりは雲雀に咬み殺されると思っているのだろう。
どうやら今朝の風紀委員たちの挙動不審な様子も、音羽が雲雀の女なのではないか、という“噂”からきているものらしい。
――どうしよう……、とんでもない噂が広がってしまった……。
赤くなっていた音羽は、今度は顔を青ざめさせた。
せっかく、雲雀と少し距離が近くなっていた気がしたのに……。雲雀がこの噂を知ったら、どう思うだろう。
やっぱり、迷惑だと思われてしまうかもしれない……。
『……』
音羽はがっくり肩を落として、また囁き合いを始める生徒たちの声と視線を背に、とぼとぼと教室に歩いて行くのだった――。
◇
今朝のことを思い出し、音羽はもう何度目になるか長い息を吐き出した。
そして京子と花の姿を見て、ふと昨日雲雀が言っていたことを思い出す。
確か雲雀は、音羽の荷物を“京子と花から預かった”と言っていた。
受け取った鞄の中には音羽が更衣室に取りに行こうとしていたタオルもしっかり入っていたので、たぶん二人が持って来てくれたのは事実なのだと思うが……。
だとしたらきちんとお礼を伝えなければ。どういう経緯でそうなったのかも、気になる所である。
「あの、京子ちゃん、花ちゃん。もしかして昨日、私の荷物持ってきてくれた……?」
尋ねると、花が思い出したように「ああ」と口を開く。彼女がそのまま言葉を発そうとした、そのとき。
「――あの、片桐……。何か色々噂で聞いたんだけど……大丈夫だった?」
と、心配そうに声を掛けに来てくれたのは、ツナだった。彼の隣にはいつものように、獄寺と山本もいる。
「けっ、くだらねぇ噂流しやがって。どうせ全部デマだろ」
「ははっ、でも、片桐が無事そうでホント良かったぜ」
獄寺と山本は音羽のことを心配してくれているが、その様子は普段と何ら変わらない。
気まずそうな顔もしていないので、自分たちと音羽の間に流れているあの噂の件に関しては何も知らないようだ。
それならば、音羽も変に気を遣うのはやめておこうと思って、いつも通り返事をする。
「うん、大丈夫だったよ。ありがとう」
「今、ちょうどその話をしてたのよ。……私たち、昨日三人で帰る約束をしてたんだけど――」
花は再び口を開いて、ツナたちにも経緯を説明した。
「音羽が途中で体育館に忘れ物を取りに行って。それで、放課後の体育館辺りって不良が多いって前に聞いたことがあったから心配になって、京子と二人で音羽の荷物を持って追いかけたの」
「そしたら、音羽ちゃんをお姫様抱っこした雲雀さんがやって来て――」
「「「「お、お姫様抱っこ!!!?」」」」
京子のその言葉に音羽のみならず、ツナ、獄寺、山本までもが前のめりになって大きな声を上げる。
まさか、雲雀の腕に抱かれていたなんて……。
知りもしない音羽は、顔を真っ赤にした。頭が、クラクラする。
その行為自体はとてもロマンティックで嬉しいはず……なのだが、気を失って重くなった身体を本当に雲雀に持ち上げられてしまったのかと思うと、恥ずかしくて堪らない。
が、羞恥で内心悶えている音羽とは対照的に、京子はにっこり笑って答えた。
「うん!音羽ちゃん、不良にびっくりして気を失っちゃったから、とりあえず応接室に運ぶって雲雀さんが言って……」
「私たちは、あなたの目がいつ覚めるか分からないから先に帰れって言われて、そのまま雲雀さんにあなたの荷物を託して帰ったってわけ」
「…………」
「雲雀さん……ほんとに片桐を助けたんだ……」
「あ、あの野郎……」
「珍しいな、雲雀が人助けなんて」
ツナも山本もまだ目を丸くして驚いているが、獄寺はプルプルしている。
「……そ、そうだったんだ……。京子ちゃん、花ちゃん、本当にありがとう……」
音羽は二人に言ってから、未だ熱を持ったままの顔を俯けた。
まさか、京子たちと雲雀との間にそんなやりとりがあったとは……。
雲雀が本当にあのあと音羽を姫抱きにして運んで、応接室で介抱してくれたのだということが、じわじわと真実味を帯びてくる。
「……にしても、あの噂本当なの?あなた、雲雀さんと――」
「!ち、違うよ……!」
そうだったらいいけど、という言葉を呑み込んで、音羽は花の質問にぶんぶん首を振った。
「……でもさ、あの雲雀さんに助けられたのよ?しかも、音羽に手を出そうとしたバスケ部、全員シメさせたって言うじゃない」
「そ、それは……多分バスケ部の人たちが喫煙してたから……」
伏し目がちに答える音羽の言葉に、花は「でもねぇ……」と言ってニヤニヤしている。
すると京子が、朗らかに顔を綻ばせて言った。
「音羽ちゃんって、雲雀さんとも仲良しなんだね!」
「えっ!?い、いやっ……えっと、たまにお話するぐらいで……!仲良しって訳じゃ……!」
「えぇっ!!片桐、雲雀さんと話したことあるの……!?」
「えっ……!ちょ、ちょっとだけ……でも全然、ほんとに仲良しってほどじゃないから……!」
驚愕した様子のツナに勢いよく聞かれて、音羽もつい語気を強めて答えてしまう。
音羽と雲雀が万が一仲が良いと思われてしまったら、噂の信憑性が増してしまって雲雀に迷惑がかかるかもしれない。
「実は仲良しなんだ〜!」なんて言ってみたいものだと内心思いながら首を振る音羽に、「いつの間に話してたんだ……」と秘かに呟いて拳を握る獄寺の声は聞こえなかった。
「まあ、いいわよ。“今回は”何もないことにしておいてあげる」
「っ……!」
ニヤリと笑って小声で言う花に、音羽は息を呑んで俯いた。
「…………」
赤くなった顔を下に向け、困り果てている様子の音羽を見て、ツナは、以前彼女が言っていたことを不意に思い出す。
『好きな人に、良い点取ったって報告したくて……』
それは、ツナの家に来てくれる前の道中で、音羽が言っていた言葉。
ツナの頭に、自分でも信じられないと思うようなことが浮かんでしまう。
――まさか……。まさか、片桐の好きな人って……雲雀さん!!?
嘘ーーっ!!あり得ない……!!と、ツナは頭を抱えた。
けれど、音羽のあの赤く色付いた頬や、揺れる瞳。雲雀との関係を何度も否定する様子は、まるで自分の気持ちを他人に悟られたくないかのようにも見える。
――つ、付き合ってはないって言ってたけど……。片桐のこの感じ、絶対そうだよなあ……。二人は気付いてんのかなぁ……?
ツナはチラリと、隣にいる獄寺と山本を見た。
が、案の定というか、獄寺は「雲雀……あの野郎、カッコつけやがって……!」と怒りに燃え、山本は「雲雀と仲良くなるなんてすげーなっ!」と呑気に笑っている。
――二人とも、絶対気付いてないよ……。
ツナは「はあぁぁ」と溜息をついて、自分から彼等には何も言わないでおこうと決めた。山本はともかく、そんなことを獄寺が知ったら面倒なことになるのは目に見えている。
ツナは気を取り直して音羽を見た。
音羽は熱を持っていそうな頬を片手でそっと押さえながら、眉尻を下げてぼうっとしている。周りで話している京子と花の声は、今は届いてなさそうだ。
恋する乙女そのものの横顔に、やはりツナも信じざるを得なくなる。
――まさか、片桐の好きな人が雲雀さんだったなんて……。オレ、応援するって言っちゃったけど……片桐、どうしてあんなおっかない人が好きなんだ……!?
ツナは、チャイムが鳴るまで微妙な顔をするしかなかった。
授業のチャイムが鳴ると、花やツナたちも自席に戻った。
音羽は、花からの手厳しい尋問を何とか潜り抜けられたことにほっと胸を撫で下ろしながら、教科書を出して授業の準備を始める。
前の噂が払拭されたのは本当に良かったが(言いたくても言えないのかもしれない、恐ろしくて)、変わりにこれまたすごい噂が流れてしまった。
……雲雀は、このことを知っているのだろうか。
もし知っているとしたら、やっぱり迷惑に思われているかもしれない……。彼は、どう思っているのだろう……?
「……!」
そういえば、と。
音羽は鞄の中に入っている紙袋の存在を思い出して、教科書を捲る手を止めた。
――どうしよう……。これ、渡しに行ってもいいのかな……。
それからあとの時間、音羽はじっくり悩むことになったのだった。
◇
「――失礼します」
放課のチャイムが鳴ってすぐ。軽いノックをして、草壁は応接室に入った。
並中の支配者である風紀委員長は今日、ソファではなく執務机に向かって、黙々と書類にペンを走らせている。
彼は相変わらず、草壁が室内に入っても見向きもしなかった。長い睫毛を伏せて、手元に意識を集中している。
執務中の彼を邪魔するべきではないが、これは雲雀にとっても重大な案件だ。事実を確かめ、彼に迅速に報告し、早急に対処する必要がある。
草壁は自らにそう言い聞かせ、雲雀の方に数歩足を進めた。
そして重たい口を開き、単刀直入に“例の件”に関して尋ねる。
「――委員長、執務中申し訳ありません。以前から気になっていたのですが……、片桐音羽は何者ですか?」
――“例の件”。それは勿論、今学校内で噂になっているあの件についてである。
その噂を聞きつけて、草壁は真偽を確かめるべくここにやって来た。
雲雀はいつも、風紀委員たちからの報告で情報収集をしているため、“例の件”に関してはまだ知らないだろう。
だとしたら雲雀に報告する前に、片桐音羽が雲雀にとって何者なのかを、予め知っておくべきだと思った。
雲雀は顔を上げると、不躾に何を聞いているの?という、あからさまに不機嫌な顔をする。
彼の顰められた眉に、背筋がやはり冷やりとした。
「……片桐音羽については、副委員長。君に調べさせたはずだよ」
「は、はい……、そうなのですが……」
「何?はっきり言わないと咬み殺すよ」
思わず口籠る草壁を、雲雀はきつく睨み付ける。その瞳が爛々とした光を宿し始めているのを察して、草壁は意を決した。
こうなれば彼の言う通り、はっきり正直に報告からするしかない。草壁は話し始めた。
「……
草壁は大変気まずく思いながらそう言って、いつのまにか下げていた視線を持ち上げ、雲雀の顔を窺い見る。
雲雀はいつもと変わらぬ涼しい顔で草壁を数秒見て、やがて再び書類に目を落とした。
「そう。それで?」
「え……いえ、それだけですが……放っておいて良いのですか?」
予想していたよりずっと反応の薄い雲雀に、草壁は驚きを隠せない。
群れることを何より嫌う雲雀なら、誰かと――しかも、女子生徒と群れているような噂が立てば、その張本人を咬み殺すことで噂を相殺すると思っていた。
だが、雲雀の口がいつもの剣呑な言葉を発することはなく、彼の周りに怒気を孕んだ空気が漂うこともない。
……雲雀とは長年一緒にいるが、未だに彼は掴み所がなかった。
「僕には関係ないよ。弱い草食動物たちが勝手に言っている事だ。取り合うのも馬鹿馬鹿しい」
雲雀は事もなげにそう言うと、またペンを動かし始める。
草壁は呆然として、その様子を見守った。
雲雀が掴み所のない人物だからか?
それとも、相手が“彼女”だからか?
草壁は思考する。
一体、片桐音羽は、雲雀にとって何者なのだろうか。
問題行動するわけでも、“手応え”を感じさせる訳でもなさそうな一般的な生徒だというのに。
雲雀自身が調べさせたり、助けたり。こうして例の件を報告しても、対応は放置のみである。
雲雀の女だという噂は、彼の反応を見るに恐らく真実ではないのだろうが――草壁は、ある一つの可能性を考えていた。
そうして、つい草壁が佇んでいると――。
コンコン、と控えめなノック音が応接室に響き、少ししてから、
「失礼します……」
「!」
と、これもまた遠慮がちな女子生徒の声がして、草壁は息を呑んだ。
まさかと思いながら後方を振り向けば、扉がそろそろと開けられる。
その先には、たった今話題に上がっていた彼女――片桐音羽が立っていた。
「――!!す、すみません……!」
片桐音羽は、数歩先に立ち尽くしていた草壁の姿を見つけると、申し訳なさそうに身を竦めた。
彼女の姿を見たことは当然ある。
だが、声を聞くのは、そういえば初めてかもしれない。
がたいの良い草壁からすれば随分小さく見えてしまう彼女は、以前見たときも思ったが可憐な容姿をしている。
獄寺や山本が惚れているという一瞬流れた噂も、本当かどうかは知らないが頷ける話だ。
音羽は草壁と目が合うと、慌てて扉を閉めようとした。
邪魔をしてしまったと思ったのか、再び扉がゆっくり閉まりかけたとき。
部屋の主が、顔を上げた。
「入っていいよ」
「「!!」」
雲雀のその一声に、草壁も音羽も目を丸くする。
取り分け草壁は、彼の異例の対応をすぐに信じることが出来ず、雲雀を振り返って凝視してしまったくらいだ。
今まで雲雀は、この部屋に風紀委員以外の人間を自主的に入れたことはない。
以前、雲雀の根城だとは知らずにうっかりここに足を踏み入れてしまった者もいたが、雲雀は彼等も暴力によって退けた。
いよいよ、草壁の考えていた可能性が、“確かなもの”に変わっていく。
どういう感情に
片桐音羽は雲雀にとって、何か“特別”な存在なのではないだろうか。
雲雀を知る草壁からしてみればとても信じられないことではあるが、ここまで普段の彼とは違う行動を目の当りにすると、そう思わざるを得ない。
「…………」
草壁はつい、室内に入って来る片桐音羽を見下ろした。
おずおずと自分を見上げながら躊躇いがちに入室した彼女は、まさに小動物のようである。
草壁がそう思っていると、彼女は草壁から少し離れた所で足を止めた。
すると、雲雀がペンを置いて視線を上げる。
「……!――」
草壁は彼のその姿を見て目を瞠り、一礼して、応接室を後にした。
――雲雀の、片桐音羽を見る瞳。
あれほど満足そうで、そしてどこか優しさもあるような雲雀の目は、恐らく初めて見た。
確信めいた自分の直感が当たっているのかは、まだ分からないが――。
雲雀にとっては確かに、彼女は特別な存在なのだろう。
果たして雲雀は、そのことに気が付いているのだろうか?
――恭さんの事だ……。きっと、気付いていないな……。
普段は控えている呼び名を胸の内で呟いて、草壁は小さな笑みを零す。
これからの二人の行く末を見守ってみよう。そう思って、草壁は静かな廊下を歩いて行った。
◇
「あの……草壁さん行っちゃいましたけど、お邪魔してしまいませんでしたか?」
片桐音羽は、今しがた副委員長が去っていた扉を見ながら申し訳なさそうにそう言った。
「いいよ、もう用は済んだみたいだからね。……それより、何しに来たの」
「えっと、今日はお礼を言いたくて……」
雲雀が問えば、音羽は呟くように小さな声で言いながらこちらに歩いてくる。
執務机の横で足を止めた彼女は、持っていた紙袋を雲雀の方へ差し出してきた。
「き、昨日はありがとうございました……!お礼にと思って作って来たんですけど……、良かったら食べてください……!」
「何、これ」
「あ、えっと……クッキーです。……!もしかして、嫌いですか……?」
音羽は明らかに「しまった……」という顔をして、心配そうに雲雀を見つめている。
「別に、好きでも嫌いでもないよ」
「!良かったぁ……!」
特に突き返す理由もないので受け取ってやれば、音羽は傍目にも分かる程度にほうっと息を吐き出し、安堵したように肩の力を抜いた。
余程嬉しいのか、満面の笑みを浮かべている。
その顔を見ると――雲雀は何か、表現しがたい想いを感じた気がした。
これまでの経験から似たものを想起しようとするが……、出てこない。
そもそも、彼女といると感じたことのない感情ばかりに触れている気がしてならなかった。
彼女は弱く、そこら辺にいる草食動物と生き物的に変わりないうえ、雲雀の牙を研ぐための役にも立ちそうにはない。ただの少しも。
けれどそれでも、なぜか興味を惹かれてしまう。
音羽が他の人間と群れているのも、雲雀以外の人間に振り回されているのも、何かとても気に入らなかった。
彼女の不安そうな顔を思えば苛立って、無事でいると安堵して。
どれも、これまでに雲雀が感じたことのない想いだ。
そして不思議なことに、それを微かにもどかしく思っても、不快だとは思わなかった。
それが、自分でも一番の疑問ではあるが――。
音羽がこうして雲雀の目に付く範囲にいるのも、彼女との馬鹿らしい噂が流れているのも、別にいいと思っている。
――そう考えて、ふと。雲雀は疑問を持った。
音羽は、あの下らない噂話を知っているのだろうか、と。
「――ねえ、君は知っているの?噂」
「!!」
不意に雲雀が問うと、音羽は分かりやすく目を丸くした。
「すみません……雲雀さんにご迷惑をかけてしまって……」
「何で君が謝るのさ」
済まなそうな顔で項垂れた音羽にそう言えば、彼女は顔を上げて目を瞬かせる。
雲雀の答えが意外だったのかもしれない。そういう顔をしていた。
光を反射して飴色にも見える潤った瞳が、雲雀をじっと見つめている。
「弱い草食動物たちなんて、幾らでも吠えさせておけばいい。いちいち相手にする方が馬鹿だよ」
きっぱりと言い切れば、音羽はきょとんとしたあと「そうですね」と。
少し悲しげにも見える表情で、微笑んだ。
「雲雀さんが、羨ましいです」
「……羨ましい?」
聞き返せば、音羽は小さく頷いて、視線を窓の外へと向ける。
「私、前の学校にいたときも嫌な噂を流されたことがあって……。その時も、すごく気にしていたんです。だからこの前も――獄寺君とか山本君とかの話をバスケ部の人たちから聞いたときも、またかと思って……少し、怖かったんです」
彼女の口から出た“名前”に雲雀はつ、と眉を寄せたが、黙っていた。
一つひとつ慎重に言葉を紡ぐ音羽の横顔が、とても静かで寂しげだったからだ。例えるとするならば、日陰にぽつりと咲いてしまった一輪の白い百合かもしれない。
音羽のその横顔には、彼女を初めて見たときと同じような、あの透明感があった。そこにある光や空気に溶け入ってしまいそうな、あの透明感である。
彼女の過去や経験が、彼女をそう見せているのだと予想するのは難しくなかった。
そして、いつもより動きの硬い唇も。
誰かに話したことは、これまで余りなかったのかもしれない。
「でも……雲雀さんは強くて、私も見習おうって思いました」
そう言って雲雀を振り返った音羽は、もうにっこりと笑っていた。
けれど、彼女を包むその空気は消えない。
「……」
見ていると、手を伸ばしたくなった。相変わらず、どうしてかは分からない。伸ばしたあと、どうしたいのかも。
だが、雲雀が動くより早く、音羽はハッと息を呑んで我に返ったようだった。
「す、すみません……!変な話しちゃって……!」
慌てて言った音羽はいつものように頬を染め、「気にしないでください」と消え入るような声で呟く。
「…………」
雲雀は黙して音羽を見つめたあと、持っていた紙袋を徐に開けた。
中には、綺麗にラッピングされた包みが入っている。取り出せば、良さそうな色に焼けたクッキーが入っていた。
包みを開けて一つ手に取り、雲雀はそれを口に運ぶ。
音羽は雲雀の反応が気になるのか、こちらを食い入るように見つめていたが、別段気にもならなかったのでそのままにしておいた。
咀嚼すると、程よい甘みが口に広がる。
「……まあまあだね」
雲雀が言うと、音羽はぱあっと、いつもの嬉しそうな顔をした。
「ありがとうございます……!」
「褒めてないよ」
「でも、食べてくれたのが嬉しくて……」
「…………」
そう言って温かく笑う音羽に、やはり言葉にしがたい何かを感じる。
だが――。
「ねえ、お茶淹れてくれる?その辺にあるから」
「!あ、はいっ!」
雲雀が部屋の隅にある戸棚を指して言うと、音羽は素直にぱたぱたとそちらに駆け寄り、ポットやら湯呑やらを取り出し始めた。
わたわたと準備をする後ろ姿を見ながら、雲雀はまた一つ、クッキーを齧る。
――嫌ではない。“ここ”に居てもいいと思う。
雲雀はふ、と笑みを浮かべた。
理解しがたいものも、悪くはない。
それが、彼女であるならば。