8話 声が届く場所

『ねえ音羽、真由子の彼氏とったって本当なの!?』

 泣きじゃくる彼女の肩を庇うように抱いて、もう一人の友人は疑惑の目を容赦なく音羽に向けた。

『違う……!!私、そんなことしてない!!』

 音羽はすぐに否定したが、間髪入れずに彼女が口を開く。

『でもっ、浩介が……音羽のことが好きになったから、別れてくれって……っ急に……!!』
『私は、本当に何も言ってないよ……!』

 違う、と真剣に何度も伝えるが、彼女は聞く耳を持ってくれない。

『嘘……!!じゃあどうして突然、浩介が別れようなんて、言い出すのっ……!?あんなに私のこと、好きって、言ってくれたのに……っ!!』

 音羽をきつく睨み付けて言いながら、彼女は次第に声を震わせ、わっと泣き出した。
 そんな彼女を慰めるように、友人はその背を上下に擦る。

『でも……、私は本当に、何も……』

 責める瞳を一心に向けられて、音羽は項垂れた。


 ――何もしていないし、何も言っていない。本当だった。

 ただ廊下を歩いているときに、前を歩いていた彼が筆箱を落としたから、それを拾ってお礼を言われただけだ。

 それ以外、クラスも違って面識さえない音羽と彼に、接点や関わりがあるはずもない。

 彼がなぜ、あの一瞬の出来事でそんな血迷ったことを言い出したのかは分からないが、音羽が何度そう話しても、彼女は一切信じてはくれなかった

『真由子、大丈夫……?今日はもう帰ろう?』
『うん……』

 二人は冷え切った目で音羽を見てから、踵を返して歩いて行く。
 
 仲の良かった二人の背中が、音羽を置いて小さくなった。

 音羽はただぼんやりと、滲む視界でそれを見ていた。





「……やな夢……」

 ぼうっと意識が戻ったのは、自分の部屋のベッドの上だった。
 カーテンから差す朝日を見てゆっくり瞬きながら、音羽は重い瞼を擦る。

 その夢は去年、前の学校で起きた現実の出来事だった。
 音羽にとっては最も苦い思い出であるため、今でも時々あのときの夢を見る。


 ……結局あの一件で、友達だった二人は口を利いてくれなくなり、二人とは疎遠になってしまった。
 しかも、あの“ありもしない噂”まで学年で流れてしまい、音羽は深い友達付き合いも出来なくなってしまったのである。
 
 始めは、一人ぼっちで過ごす時間も人の視線も、とても辛くて怖かった。毎日、学校に行きたくないと思っていた。

 けれど、たまに話しかけてくれるような優しい子はいたし、幸いなことに噂以外には酷いこともされなかったので、音羽は何とか、学校に行き続けることが出来たのだ。

 人間には“慣れ”というものがあるらしく、時間が経つにつれて流れていた噂も薄れていった。
 その頃には、音羽ももう一人で行動することに随分慣れてしまって、今のようによく、一人で図書室に入り浸っていたものだ。

 ただ、あの出来事があったために、音羽が元々持っていた人見知りな性格が、更に激しさを増してしまったことは言うまでもない。
 並中に転校してきて、音羽が積極的に友達を作れなかったのはこのためだった。

 しかし、最近はツナや京子たちがよく話しかけてくれるので、音羽の人見知りも以前より少しはマシになった気がするし、友達と話す楽しさや、学校に行く楽しさをまた感じることが出来た。

 ――もう二度と、あんな想いはしたくない……。

 今の平和な日々を想うと、尚のこと。
 あの罪悪感と孤独に呑まれる日々が、怖くなる。
 
 たまに話せる友達が、ほんの少しいるだけでいい。特別仲の良い友達なんて求めないから、ただ、穏やかに毎日を過ごしていたい。

「……」

 音羽は余り寝た気のしない体を起こすと、学校に行くために朝の準備を始めるのだった。





 音羽は身支度を整えて、学校に向かった。外は今日も曇り空で、通りに出ると湿度の高い空気が肌に纏わりつく。

 音羽は住宅街を歩きながら、もう一度鞄の中を確かめた。……よかった、ちゃんと体操服も上下きちんと揃っている。
 音羽は安堵して、荷物から前に視線を戻した。

 今日のテストは音羽の好きな国語と、取り分け好きでもない体育の実技テストだ。
 運動は特別苦手でもないが、得意という訳でもない。まさに、普通。
 
 テスト内容も一般的な体力テストで、基本的に走ったり腹筋したりするだけなので、難しいことは何もなかった。

 今日の学校自体は気楽で、ただただ時間が過ぎるのを待つばかり、なのだが……。

 ――また考えちゃったけど……やっぱり分からない……。

 音羽の口から、小さな溜息が零れ出る。
 考えているのは勿論、彼のことだ。


 雲雀は一体どういう意図で、あんなことをしたのだろう。


 彼に直接理由を聞いてみたいけれど、音羽が求めるような答えはまず返って来ないだろうし、ひょっとしたらまた何か彼の気を損ねてしまって、怒られるかもしれない。
 
 それにそもそも、自分の気持ちを知っている雲雀を前にして、冷静に話しかけられるだろうか……。
 ……いや、きっと出来ない。たぶん真っ赤になってしまったところを、また揶揄われてしまうだけな気がする。

 

 悶々と、答えのない問いについて考えているうちに、音羽は学校に到着した。
 ぼうっとしながら昇降口で靴を履き替え、廊下を歩き、2年A組の教室に向かう。
 
 ガラ――と、教室の扉を開けると、黒板の近くに集まっていた数人の女子と目が合った。

「……?」

 普段こんなにクラスメイトと目が合うこともないので、音羽は少し不思議に思ったが、余り気にしないようにして自分の席に向かう。
 
 椅子に座って鞄から教科書を出しながら、ふと、何の気なしに目線を持ち上げてみると。
 また、クラスの女の子たちと視線がぶつかった。

 ……しかも、何だかその視線が痛いと感じるのは気のせいだろうか。

 自意識過剰かもしれないと思ったが――固まっている女子たちは、確かに音羽のことを見ている。
 何度ちらりと窺ってもそうなので、音羽も次第に、彼女たちが見ているのは自分なのだと確信した。

 彼女たちは、音羽を見ては怪訝な顔をして、何かヒソヒソと囁き合っている。

「……」

 ずっしりと重くなるような、もやもやした気持ちが胸に広がった。
 けれど音羽には、彼女たちに睨まれてしまうようなことをした覚えがない。

 ――何だろう……?私、何か変なことしちゃったかな……。

 音羽はどこか憂鬱な気持ちを抱えたまま、一日を過ごすことになった。





 国語のテストも体育の実技テストも、問題なく終わった。
 音羽は体育館にある更衣室で制服に着替え、京子と、そして同じくクラスメイトである黒川花と共に、体育館を後にする。

 京子と花が隣で話しているのを意識の外で聞きながら、音羽は体育の時間にも感じた視線のことを思い出していた。


 並中の体育は通常、女子と男子に分かれて授業が行われる。それは実技テストの今日も同じで、先程の体育の時間は、必然的に女子だけの空間になっていた。

 その中で、彼女たちの視線は相変わらず音羽に注がれており、そこに含まれている“敵意”のようなものを、音羽は何となく感じ取っていた。

 今日一日その原因を考えていたのだが、やっぱり心当りは何もない。
 でも、何かなければ彼女たちもあんな目はしないだろうし……、かといって、自分から原因を聞きに行くような勇気も無論なかった。

「…………」

 学校生活の中で、再びこういう視線に晒されることが嫌で仕方ない。
 けれどやはり以前のように、ほとぼりが冷めるのをじっと待つしかないのだろう……。

 今にも溢れてしまいそうな溜息を堪えていると、不意に、音羽の視界に影が差した。

「音羽ちゃん、今日何かあった……?何だかあんまり元気がないなあって思って……」

 と、心配そうに顔を覗き込んでくれたのは、さっきまで花と話していたはずの京子だ。
 音羽はいつのまにか俯けていた顔を慌てて上げて、勢いよく首を横に振る。

「う、ううん、大丈夫……!心配かけちゃってごめんね、京子ちゃん」
「……」

 苦笑して京子に答える音羽を、花はじっと見つめていた。


 京子はきっと、クラスの女子たちの様子には気付いていないだろうから、何か知らないか聞いてみても、恐らく余計な心配をかけてしまうだけだろう。

 花なら何か知っているかもしれないが……、最近京子を通じて少しずつ話すようになったところなので、こういう話題は少し聞き辛い。

 音羽が微笑むと京子も安心してくれたのか、少し表情を和らげてくれる。

「ねえ音羽ちゃん。もし良かったら、今日一緒にケーキ食べて帰らない?」
「!いいじゃん、そうしよ?」
「……!うん、行きたい……!」

 京子の提案に花もすぐ賛成し、音羽も二人の温かい優しさに感謝しながら、にっこり笑って答えた。

「じゃあ決まりね!早く荷物取りに行って、帰りましょう」
「うん、そうだね!ふふっ、今日は何にしようかなあ。音羽ちゃんは、どんなのが食べたい気分?」
「えっと、私は……――あっ」

 柔らかく笑った京子に尋ねられ、ショーケースのケーキを想像しながら、何となく手元を見たときだ。
 
 音羽は、体操服と一緒に持って来ていたはずのタオルがないことに気が付いて、思わず小さく声を上げる。

 きっと、更衣室に忘れてきてしまったのだ。

 今日は、テスト期間の最終日。もう放課になってしまったし、今日はこのあとすぐに運動部の部活動が始まってしまうだろう。

 ひょっとしたら、更衣室を使うかもしれないし――。
 今ならまだ、部活動の生徒たちが来る前に、忘れ物を取って来られるかもしれない。

「――ごめん、京子ちゃん、花ちゃん……!私、更衣室にタオル忘れちゃったみたいだから、ちょっと取りに行ってくる……!」
「あ、私たちも一緒に行こうか?」
「ううん、大丈夫!すぐに戻るから、先に行ってて!」
「……うん、分かった!それじゃあ、先に教室で待ってるね!」

 音羽は手を振ってくれる二人に同じく手を振り返して、急いで元来た方へと駆け出した。





 音羽は息を弾ませて、体育館の前までやって来た。

 体育館の入り口には、テストを終えた運動部の生徒たちが既にぞろぞろと集まり始めていて、中からは気合いの入った掛け声も聞こえてくる。

 どうやら早く来た生徒たちが、もう練習を始めてしまったようだ。

「どうしよう、もう始まっちゃった……」

 体育館の中に入って行く人波を傍で見ながら、音羽は通路の隅で狼狽える。

 更衣室は体育館の中にあるため、タオルを取りに行くのなら、練習中の生徒たちの中を通って行かなければならない。

 もう諦めて帰ってしまおうかと一瞬思ったが、そのまま置いておいたら邪魔になるかもしれないし、誰かに間違えて持って帰られてしまうかもしれない。

 やっぱり取りに行こうと思って、音羽はせめて部活の邪魔にならないよう、体育館の裏手側に回ることにした。

 脇の通路から体育館の奥に回れば、部活の邪魔をすることもない。少し遠回りではあるものの、更衣室に程近い入り口があるから、そこから中に入れるはずだ。
 さっと入って、さっと取ってくれば、大丈夫なはず。

 音羽は生徒の間を縫うように歩いて、体育館の脇の通路に向かった。


 通路はちょうど、体育館の影になっていた。普段から日当たりが悪い場所なのか、足元のセメントには所々青い苔が生えている。
 
 鋼板製の物置や掃除道具も雑然と置かれていて、通路は少し狭かった。
 どうやら、人が通ることは殆どないようだ。雑多に置かれた物たちが邪魔で、とても真っ直ぐには歩けない。

 出しっぱなしで壁に立て掛けられた竹箒、重ねて並べられたバケツ。それらを蹴り飛ばさないように注意深く歩いていると、突然。

「!」

 どこからともなく煙った臭いが漂ってきて、音羽は鼻を突くそれに眉を寄せた。

 ――この臭い……、煙草……?

 音羽は首を傾げる。
 
 でも、まさか。ここは中学校だ、煙草の臭いがするなんて。
 
 そう思って辺りを見回すが、体育館の外側、学校の敷地は背の高い塀に囲われていて、通りから漂ってきているようでもない。
 それくらい、煙草の臭いは強かった。

「……」

 音羽は思わず足を止め、眼前の通路をどっしりと塞いでいる物置の側まで寄る。
 臭いが一層強くなったと思ったら――、男子の大きな笑い声が、幾つも前方から聞こえてきた。

 音羽は何か嫌な予感を抱きながら、物置の影に身を潜め、そっと顔を覗かせる。

「――!!」

 目の前に広がるその光景を見て、音羽は目を丸くして息を呑んだ。

 そこにいたのは、並中のユニフォームを着た五人の男子生徒。彼等は地べたに座って話をしながら、ゲラゲラと笑っている。

 そして、彼等の指先が摘まんでいるものは――間違いなく、煙草だった。

 ――あれって……バスケ部……?

 並中の運動部を観戦したことがないので定かではないが、ユニフォームの感じを見るにバスケ部のように思える。

 体育館裏で煙草を吸っているなんて……まるで、漫画みたいだ。

「……」

 ここを通ることは絶対に出来ないと瞬時に悟った音羽は、物置からそっと離れた。

 こんな場面を見てしまうなんて……誰がどう考えても、非常にマズい事態だろう。
 このあとどうすべきなのかは後で考えるとして、今は彼等に見つからないように戻らなければ……。

 音羽は足音を立てないように、静かに一歩、後退った。
 一先ず正面から体育館の中に入って、タオルを取って、それから――。
 
 頭の隅を働かせながら、ゆっくりと踵を返したその瞬間。

 
 ガタガタガタッ!!

「!!」

 ――うそ……!やっちゃった……!!

 音羽は無造作に置いてあったバケツを、勢いよく蹴飛ばしてしまった。
 胸に焦りが生じるあまり、足元をきちんと見られていなかった。辺りにけたたましい音が響く。

 転がったバケツは最悪なことに隣の竹箒にぶつかって、まるでドミノのように順番に、竹箒が倒れていく。
 そんな惨状の行く末を最後まで見守る余裕もなく、音羽は慌てて彼等の方を振り返った。

「!!誰だ!?」

「!!」

 物置の向こうから、慌てた怒鳴り声が聞こえてくる。
 音羽は咄嗟に辺りを見回して、隠れる場所を探した。けれど、人が一人隠れられるようなスペースは、狭い通路のどこにもない。

 ――こうなったら、逃げるしかない。
 
 そう思って、表の方へ走り出そうとしたとき。

「っ、何でこんな所に女子がいんだよ……!ってかお前、“これ”見ただろ!?」
「!!」

 すぐ後ろから大きな声がして、音羽はビクッと硬直した。

 つい振り返ってしまえば、五人が五人立ち上がって、物置の向こうから音羽を睨み見ている。
 特に、一番前にいる一人は焦燥を露わにしながら、じりじりとこちらに迫って来ていた。
 
 ……今逃げても、きっと彼等から逃げ切ることは出来ない。
 音羽の一般的な足の速さでは、男子――しかもバスケ部の少年を五人も撒かすなんて到底出来ないだろう。結局、捕まってしまうのがオチだ。

 考えを巡らせていた音羽は、無意識に一歩後ろに下がりながら、ぶんぶんと首を振る。

「っ……あの、何も見てません!」
「チッ、その顔絶対見てんじゃん……。なら、タダで帰す訳にはいかねぇよ。なぁ?」
「……!」

 一番前にいた男子が言うと、後ろの四人もニヤニヤ笑ってこちらに近付いてくる。

 ――どうしよう……、もしかして、殴られる……?

 人が殴られている場面なんて、テレビやドラマでしか見たことがない。
 でも、ひょっとすると、今から自分もあんな風に痛め付けられてしまうのだろうか……?
 そう思うと、背筋が凍った。

 そんなことをされなくても、絶対誰にも言わないのに。
 
 この現状をどうしたらいいのか、どうしたら無事にここから逃げられるのか。 
 音羽は恐怖で鈍った頭で、必死に考える。

「あの……っ、本当に誰にも言いませんから……もう、行ってもいいですか……?」

 でも、幾ら考えてもその本心しか出て来なくて、音羽は勇気を出して声にした。

 すると、もう数歩先まで迫っていた五人のうちの一人が、音羽の顔をまじまじと見てから「あっ!」と声を上げる。

「小谷先輩、こいつ2-Aの獄寺と山本を(たぶら)かしたって噂の女子っスよ!確か……片桐、何とかって……」
「!!?」


 ――獄寺君と山本君を、誑かした……!?


 音羽は彼の言葉に息を呑み、一瞬窮地に陥っている現状さえも忘れて、呆然と立ち尽くした。

「あぁ?何だ、その噂」
「や、何か今、獄寺と山本のファンクラブに入ってる二年の女の間で噂らしいっス。オレも、それしか知らないんスけど」

 先頭にいたリーダー格の男――小谷に、先程声を上げた、どうやら音羽と同じ学年らしい少年が答える。

「……」

 なぜ、そんな噂が流れているのだろう……。

 獄寺も山本も、確かに音羽と仲良くしてくれているが、彼等は唯のクラスメイト――友達であって、恋愛感情があるとは思っていない。
 現に音羽は、二人に告白された訳でもないのだから。

 ――ああ……でも、だから……。

 音羽は今日一日感じていた、女子たちからのきつい視線を思い出す。
 
 今の話を聞いて、ようやく合点がいった。
 彼女たちは、獄寺と山本のファンクラブの女の子たちだったのだ。

 確かに、幾ら音羽が彼等を友達だとしか思っていなくても、彼女たちからしてみれば、音羽は“突然好きな人と仲良くし始めた女子”だ。当然、良い気はしないはず。
  
 ただ、音羽と獄寺たちとの間に、彼女たちが思っているようなことは何もない。
 けれど、それを幾ら主張したところで簡単には納得してもらえないことを、音羽は身を以ってよく知っていた。

 ――また、悩まなきゃいけないのかな……。

 靄がかった重たい気持ちが、胸の中を支配し始めたとき。
 それまで、俯いていた音羽を舐めるように観察していた小谷が、ついに動いた。

「へぇ〜、あの獄寺と山本がねえ……?確かに、可愛い顔してんじゃん。なあ、俺と付き合えよ、片桐ちゃん?」
「おい、マジかよー小谷」
「マジマジ!だって気分良いだろ?獄寺と山本が入れ込んでる女と付き合うとかさぁ」
「……!」

 仲間の男子にふざけたように笑って答えながら、小谷がこちらに歩んで来る。
 
 音羽が堪らず後ろに下がると、踵に竹箒の柄がこつんと当たった。
 足を止めれば、眼前まで迫った小谷が、屈んで音羽の顔を覗き込もうとする。

「……っ」

 音羽は嫌悪を感じてふいと横を向き、視線を背後に投げた。

 もう、何としても走って逃げないと。このままじゃ埒が明かない。

 さっきドミノ倒しにした箒やバケツをどう避けていくか見定めて――音羽はついに、表に向かって走り出した。

「!!おい、待てコラ!!」
「っ……!」

 追い付かれるのは、きっとあっと言う間だ。でも、人目に付く所まで逃げられたらそれでいい。

 後ろでわっと声が上がり、ドタドタと駆けて来る足音を聞きながら、音羽は夢中で足を動かす。

 捕まったら、何をされるか分からない。
 殴られるかもしれないし――、女の子としては、もっと酷いことだってされるかもしれない。

 焦りと恐怖で、今にも足が縺れてしまいそうだ。でも、転んでしまったらもう逃げられない。

「はぁっ、はぁっ……!」

 息が乱れる。でも、日陰の終わりはすぐそこだ。
 あと少し、あと数メートルで、表に出られる。

 そう思ったとき。

 表まであと一歩という所で、身体が急に動かなくなった。

「!!いやっ……!!」

 ぐん、と腕を掴まれたかと思ったら、音羽の足が己の意思に反してずるずると後退する。

「オイてめぇ、ナメてんじゃねーよ!タダで帰す訳にはいかねーって言っただろ!!」

 激しい怒声と共に、小谷に腕をギリリと掴まれて痛みが走った。それを力一杯引かれれば、嫌でも後ろを向いてしまう。

「なあ片桐ちゃん、ちょっと痛い目みたら分かるよなあ?俺に逆らったらどうなるか……、ちゃんと教えとかないと、うっかり口が滑ったらダメだもんなあ?」
「う……っ!」
 
 小谷は音羽の肩を強引に掴むと、体育館の壁に押し付けた。
 
 怖くて、顔が上げられない。
 でも、このままじゃ駄目だ、何とかして逃げないと……!

 腕を振り、どうにかして逃げようと抵抗するが、暴れれば暴れるほど肩を押さえる小谷の手に力が籠る。
 「おい、やり過ぎじゃね……?」と仲間の男子も狼狽して声を掛けるが、彼の耳には一つも入ってないようだ。
 
「っ……」

 ――怖い、どうしよう……。

 恐怖の余り、音羽の膝が小刻みに震え出す。


 逃げられない。
 何をされるか分からない。
 誰も、助けてくれる人はいない。

 
 そう思うと視界がじわりと滲み始めて、足元の景色が揺らいだ。
 目の縁いっぱいに涙が溜まり、零れそうになって、音羽はぎゅっと瞼を閉じる。

 ――雲雀さん……!

 自然と、心の中で彼の名前を呼んでいた。

 今まで見た雲雀の姿が瞼の裏に次々浮かんで、ぽろりと、音羽の頬に涙が伝う。


 ――そのときだった。


「――ねえ君。その手、放しなよ」


 音羽たちのすぐ近く――体育館の表の方から、聞き覚えのある声が凛と響いた。





 ―――数分前―――

 放課のチャイムが鳴ったあと、少ししてから雲雀は応接室を出た。

 特別な用事があった訳ではない。
 見回りの時間にはまだ早かったし、屋上で寝ようという気分でもなかった。

 ただ何となく己の校舎を回りたくて、雲雀が廊下を歩き出すと。
 
 ちょうど、二人の女子生徒とすれ違う。
 以前、沢田綱吉たちと一緒にいる所を見たことがあった。

 確か片方は、あのうるさいボクシング部主将の妹、笹川京子。もう一人は、沢田綱吉に“黒川”と呼ばれていただろうか。
 二人とも、片桐音羽や沢田綱吉たちと同じクラス、2年A組の生徒である。

 雲雀は彼女たちを横目で見やり、それからすぐ前方に視線を戻した。
 気の向くまま、何とはなしに階段の方に足を向けると、

「――音羽ちゃん、遠慮しなくても一緒に行ったのに……」
「―――」

 すれ違いざま、笹川京子が発した名前が耳に届いて、雲雀は殆ど反射的に足を止める。

「あー……、ちょっと心配よね。最近獄寺君とか山本とかと噂になってるし……。それに、たまーに体育館の辺り、ヤバいバスケ部の先輩がいるって話よ」

「えぇっ、そうなの……!?やっぱり私――」

「まぁでも、今は部活中だし流石に大丈夫でしょ。ヤバそうな場所にでも行かない限り、そうそう絡まれたりしないって」

「そう、かなぁ……?でも何か、ちょっと心配だな……」

「じゃあ、あの子の荷物も持って見に行こうよ!」

「!うん、急ごう!」

 そう言うと、笹川京子と黒川は小走りで教室の方に向かって行った。


「―――、」

 ――雲雀は何かに急かされるように、気が付けば体育館に向けて走り出していた。

 自分でも分からない。
 ただなぜか、片桐音羽のことが気になって仕方なかった。


 相手が“強い”かどうか、己の牙と対等に渡り合えるような“力”があるか。
 
 雲雀が他人に興味を抱くのは、いつもその点のみに限られていた。その興味の対象から外れてしまえば、雲雀にとっては全て“どうでもいい人間”だと言っても過言ではない。


 だが、彼女――片桐音羽は、それを何一つ持ち合わせていない人間だというのに、雲雀の関心の内側に入っている。


 笹川京子たちの話を聞いたとき。
 雲雀の脳裏には音羽の不安げな顔が浮かび、浮かぶと同時に足が動き出していた。

 先日、彼女に対して苛立っていたのとは別の苛立ちが、雲雀の中に生まれている。

 あの面白い小動物――片桐音羽を翻弄して、困らせて、あの大きな瞳に涙を滲ませる原因を作るのは自分だけだ、と。

 そんな、他人に対して到底抱いたこともない感情が、雲雀を前へと進ませる。
 けれど――。
 
 走る雲雀の頭に浮かんでいたのは音羽の潤んだ瞳でもなく、春の陽の光を思わせるような、あの柔らかい笑顔だった。







「早く放さないと、咬み殺すよ」
「雲雀さん……っ!」

 片桐音羽は雲雀の姿を見ると、心の底から安堵したようにほっと眉尻を下げた。
 先日雲雀が図書室で追い詰めたときとは違う、恐怖心に満ちた瞳が、あのときと同じように潤んでいる。
 
 しかも、その頬に薄っすらと伝っているのは――、よく見なくても分かるだろう。
 気付いた瞬間抱えていた苛立ちが大きさを増し、雲雀は細めた目を事の元凶へと向けた。

「げっ、雲雀……!!何でここに……!」

 音羽の眼前に迫った男子が、雲雀を見て顔色を変える。口をひくりと引き攣つらせ、目には恐れを、額には汗を浮かべて、雲雀を凝視する。
 取り巻きの男子生徒たちも、側で顔を青くしていた。

 しかし音羽の目の前にいたその男子は、まるで襲い来る恐怖に抗うように、音羽の肩を掴む手に力を込める。

「ぃ……っ!」

 肩を潰すように握られて、音羽の顔が歪んだ。
 痛みに耐え切れなかったのか、小さな声を上げた音羽を一瞥して、雲雀は男子生徒を見据えながら彼等の方に歩を進める。

「君、聞こえなかったの?手を放せって言ったんだけど」

「ッおい、小谷!もうやめとけって!!」

 取り巻きが口々に喚いて、小谷を止める。
 だが、愚かなその男子は雲雀を睨み返してきた。
 
「う、うっせぇな!!雲雀、てめぇには関係ねぇだろ!?」
「あるよ。風紀を乱す者に制裁を加えるのは、僕の仕事だからね」

 雲雀は静かな声音で、けれど強くそう言って得物を構える。
 雲雀の手の中でギラリと光るトンファーに、いよいよ全員の顔が強張った。

「な、何だよ雲雀……!獄寺、山本だけじゃなく、お前もこいつに惚れてんのか!?」
「……何それ?」

 小谷の言葉に、雲雀は顔を顰める。

 そういえば、『音羽が獄寺や山本と“噂になっている”』というようなことを、先程黒川が言っていた気もする。
 あの二人の名前が出てくるのが、またとても不愉快だが――今それはどうでもいい。

「気に入らないな……。何の噂か知らないけど、これは君たちに対する制裁だ。馬鹿な事言ってると、加減しないよ」

 殺気を剥き出し、ヒュッとトンファーを唸らせると、小谷は「ひっ」と情けなく息を呑む。
 彼は蒼白な顔で慄き震えて後退り、音羽を掴んでいた手をようやく放した。

「っ、クソッ……!行くぞ、お前ら、!!」
「!」

 小谷が上擦った声を上げて取り巻きの男子たちと逃げて行くと、解放された音羽の身体が、ぐらりと傾く。
 
 雲雀は音羽に駆け寄って、その身体が地面に崩れ落ちる前に抱きとめた。
 頼りない重みが、雲雀の胸に寄りかかる。

「……」

 音羽からは反応がなく、雲雀は少し身体を離して、上から彼女の顔を覗き込んだ。


 音羽はぐったり目を閉じて、気を失っていた。けれど呼吸は規則的、外傷もどこにもない。

 恐らく、恐怖と緊張が一気に解けて、失神してしまったのだろう。
 それくらい、彼女にとっては恐ろしい状況だった、ということだ。

「…………」

 雲雀はまだ燻る苛立ちを感じながらも、一先ず無事な音羽の姿に息を付く。

 安堵を覚えながら、雲雀は音羽を両腕で抱えて、応接室へと向かうのだった。







「…………」

 ――目が覚めると、見慣れない天井が視界いっぱいに広がった。
 背中がふかふかして、柔らかくて気持ちいい。

 ――ここ……どこだろう……?さっきのは、夢……?


 本当に怖くて、嫌な夢だった――夢、だった……?

 明瞭でない意識で、さっきまで“見ていた”はずのものを思い出そうとしていると、コツ、と。
 足音が聞こえたかと思ったら、上から声が降ってきた。

「――目、覚めたかい?」
「…………!」

 尋ねる声は、紛れもなく彼のものだった。
 低くて滑らかなあの雲雀の声に、途端、音羽の意識が覚醒する。

「雲雀さん……!」

 慌てて跳ね起きると、お腹の辺りから何かがバサリと落ちた。

「……?」

 下を見ると、音羽の太ももの上に“風紀”の腕章が付いた学ランが載っている。――雲雀の学ランだ。

 それがどういう状況だったのかを理解する前に、音羽は自分を取り巻く景色に気を取られた。
 
 見覚えのない部屋だ。
 音羽が寝ているソファの向かいには、もう一式革張りのソファがあって、その間には綺麗に磨かれたローテーブルもあり、まるで応接間のような雰囲気が漂っている。
 一体ここは、どこなのだろうか……?

「あの、私……?」

 困惑して隣に立っていた雲雀を見上げると、彼は落ち着き払った眼差しで音羽を見下ろした。

「君が気を失ったから、応接室に運んだんだよ」
「気を……?……――!!」

 雲雀の言葉に、音羽はようやく全てを理解した。 

 やはりあれは夢でも何でもなくて、現実に起こったことだったのだ。

 雲雀が来てくれて、不良に手を放されて、気が抜けてしまって。――それから先を、覚えていない。
 
 きっと雲雀の言うように、音羽は安堵の余り失神してしまったのだろう。


「…………」

 音羽は、太ももに被さっている雲雀の学ランに目を落とした。

 ――雲雀さん……助けに来てくれたんだ……。


 雲雀の姿を見たとき、全身の力が抜けてしまうくらい安心してしまった。
 彼の姿を見たら、もう大丈夫だと自然に思えて。……嬉しかった。

 音羽は心に広がるあたたかな気持ちを感じながら、自分の脚元を覆ってくれている雲雀の学ランに、そっと手を当てる。
 これを雲雀が掛けてくれたのだと思うと、胸が震えた。

「雲雀さん……ありがとうございます」

 嬉しくて顔が緩むのに、どうしてか視界が潤む。
 安全な状況を改めて実感しているのか、それとも、彼のはっきりした優しさに触れることが出来たからか。

「別に。僕は風紀を正しただけだよ」

 雲雀はふい、と踵を返して窓の方に歩いて行くと、いつものように素っ気なくそう言った。

 音羽は彼の背中を見てからもう一度学ランに視線を落とし、つい微笑みを浮かべてしまう。


 雲雀がこの前怒っていた理由も気になるし、自分の気持ちも知られてしまって、恥ずかしいことには変わりない。
 
 けれど、音羽を助けに来てくれたこと。
 ここまで運んでくれたことも、制服を掛けてくれたことも。雲雀が見せてくれた優しさが、何より嬉しい。

「でも……ありがとうございます。雲雀さんが来てくれて、本当に嬉しかったんです。……あ、でもどうし――」
「――片桐音羽」
「!は、はいっ」

 「どうして助けに来てくれたんですか?」と聞こうとしていたら、雲雀が些か不機嫌そうに音羽を呼んで、こちらを振り返る。

「目が覚めたなら帰ってくれる?もう夜なんだから」
「……えっ!?――あっ!!!」

 雲雀の言葉に慌てて腕時計を見てみると、彼の言う通り針が八時を過ぎていて、音羽は声を上げた。
 
 そういえば、雲雀の向こうにある窓の外は真っ暗だ。
 さっき彼の方を見たのに、全然気が付かなかった。音羽は急いで、ソファから立ち上がる。

「ひ、雲雀さん、ごめんなさい!!私のせいで、こんなに遅く……」
「全くだよ。君には貸しだからね」
「……!はい!」

 溜息交じりに答えてくれた雲雀に、音羽はにっこり笑って頷いた。


 あんな非日常的な出来事があったせいか、雲雀とまともに話せている。
 
 胸の中があたたかいを通り越して、熱くなるように感じた。
 
 ほとんど変わらないその表情も、普段分かりにくい優しさも。
 知れば知るほど、もっと、彼のことが好きになってしまう。


 ――いつか……雲雀さんに言えたらいいな……。


 伝えるつもりなんて、あの頃はなかったけれど。
 いつか、彼に伝えられたら――。
 
 心の中では何度伝えたか分からないその言葉を、音羽は大事に包んで仕舞い直した。







 それから音羽は、雲雀がなぜか「京子たちから預かった」と言う自分の荷物を受け取って、無事家に帰った。

 結局、雲雀がどうして音羽の危機を察して来てくれたのかは分からない。

 でも、それを深く考える余裕もない程度には、音羽も疲れていた。
 今日は本当に怖かったしそれに、憂鬱になってしまう噂も聞いた。

 けれど、音羽には雲雀という“好きな人”がいる。
 誰に何と言われても、彼に対して抱いているこの気持ちは変わらない。

 この気持ちがある限り、音羽は音羽でいられるような気がした。


 ――が、翌日――。

 音羽を待っていたものは、音羽が想像していたような憂鬱なものでもなければ、また、音羽の望む穏やかなものでもないのだった。


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