今こそ歌おう、Gloria



 ジョルジョ・ジョバァーナには叶えたい夢がある。それは単純で、普通に日常生活を送っている人々が当然のように享受している「あるもの」を手に入れることである。それは生きているという実感であり、彼の自己主張を認められることだ。

 彼女は彼女が転生したと自覚した際、この世界に対する現実味を失った。彼女は「彼女」であった時に漫画の世界へ飛び込みたいなどと思ったことはなかったし、それ以前に自己主張が苦手な内向的な人間だった。家庭内で勝ち気な姉と甘え上手な弟に挟まれた彼女の主張が通ることは稀で、彼女は自己主張の仕方を学ぶことがなかったのだ。元々持っていないものを惜しいと思う者はいるだろうか? 彼女は自己主張する必要性が分からなかった。自己主張せよと強いる学校では、彼女は本や漫画を読むことで「自己主張しなくても良い」環境を手にした。

 きらきらしい漫画の世界に憧れなかったとは言わない。ただ、本の文字や漫画のコマは彼女の網膜をなぞるだけで、心打つことはついぞなかったのだ。……しかし、彼女は自己主張という概念を学んだ。腹が空けば乳房を差し出されるように、手を差し出せば握り返されるように、求めれば叶うことを知った。彼女の願望は肥大化した。主人公になりたい! なにも全世界の人間に知られることなどなくても良い。ただ輝きたい! 誰よりも、その瞬間を、生きている実感に満たされたい!!

 花京院典明の人生は彼女にとってとても都合が良かった。世界を救う礎となって死ぬとは、なんとも甘美な毒である。何よりも美しい死ではないか。ただひっそりと死んでいくなど彼女には許せないことなのだ。前世と同じような死に方など認めない。彼女が花京院典明の立場に成り代われば、花京院夫妻は一人息子を失わずに済み、花京院典明は死なずに済み、空条承太郎は親友を失わずに済み、彼女は輝くこともなく死なずに済む。誰もが幸福になれる。これ以上ない妙案であると、そう彼女は信じた。

 いま彼女――彼がいるのは、SPW財団に所属する施設の地下……彼にあてがわれた日光のない部屋だ。壁のパネルには観葉植物や多種多様な魚の泳ぐ水槽が映されている。冷蔵庫内にはよく冷えたペリエやコーラが入っており、他にも有名ショコラティエのチョコレートやらなにやらがあった。常に監視の目があることを除けば悠々自適な生活。自堕落な生活を送りたければ可能な環境。ソファベッドにゆったりと横になって過ごす毎日である。彼はここで六部の始まりを待つつもりだ。日光に怯えることなく過ごせる生活のなんと素晴らしいことだろう。

 そんな気ままな暮らしに現をぬかしていたところに、花京院典明が面会を求めていると職員が伝えに来た。ジョルジョは数瞬ばかり悩んだ。もはや花京院典明は彼の輝かしい人生には不要な要素だ。この新しい人生において重要なのはジョルノ・ジョバァーナと空条徐倫、この二人のみである。――しかし、けして悪くない彼の頭脳は、この再会が六部においてなんらかのスパイスになりうるやもしれないと思い付くに至った。悲しい前世の別れ、切ない元兄妹の殺し合い。なんとも魅せる、泣かせる展開ではないか。


「彼をここへ呼んで下さい」


 ジョルジョを前にしてぼんやりと見惚れている職員にそう言えば、職員は顔の前で手を叩かれでもしたかのようにハッと正気付き頷いた。それでも目の奥に熱情がちらちらと光っている――彼の容姿はまるで蜘蛛の巣のようだ。気が付けばがんじがらめに囚われている。気付いて逃げようとしても既に遅く、いつの間にか身動きがとれなくなっている。

 十分も待っただろうか。暗号式のキーを開いて現れたのは花京院典明一人だった。今や三十近い彼は十七歳の時よりも男ぶりが増している。この顔だ、女性からさぞかしもてることだろう。しかしその顔には笑みなど知らぬと言わんばかりの鋭い表情が貼り付いている。彼は立ち上がって彼を待っていたジョルジョの姿を認めるや、『世界』でも発動したのではないかと疑いたくなるほどの速度でジョルジョの正面へ回った。


「本当に、ほんとうに君なのか……承太郎の言う通り、君が」

「そうだよ、典明。君が生きているようで本当に良かった。ダブル・フェイスは確かに君を守ってくれたようだね」


 その瞬間ジョルジョは力一杯に抱きすくめられ、そのままソファへ押し倒された。それに色恋の意味はない――花京院典明はジョルジョの腹に顔を埋め、十余年前に枯れた涙腺を甦らせていた。熱湯のように熱い水が双眸から迸りジョルジョの腹部を濡らしていく。彼の腰に回された腕にはまるで、迷っていた幼子が母親の手を握りしめるような切なさに満ちていた。二度と離さない。けして、また、失ってなるものかと……。








「典明、痛い」

「嫌だ。君は、僕がどれだけ悔やんだか知らないだろう。やっとダブル・フェイスの拘束から逃れてエジプトに行って――君を目の前で失った僕の悲しみなんて知らないだろう!!」


 くぐもった悲鳴が室内に響いた。ダブル・フェイスは入れ代わりの能力。彼女が花京院典明の行動をなぞらねばならないのと同じく、花京院典明は彼女のした行動をなぞらねばならなかった。とはいえその拘束力は日々弱まり、彼はその『おかしさ』を自覚した。どうして自分が日本にいるのか? 何故彼女がエジプトへ行ったのか? その答えは、彼女のスタンド能力を知る彼には明らかすぎるほどに明確だった。

 彼がエジプトへ行けば……何らかの不幸が彼の身に訪れる。もしかすると死、軽くとも日常生活が送れなくなる程の障害が残るか。彼女が身代わりにならねばと判断する程のことが『花京院典明』に振りかかる。彼はそれに気づいた瞬間、ザァと音を立てて顔から血の気が引いていくのを感じた。卒倒してしまいそうだった。恐ろしい能力だ。あまりにも恐ろしく、切ない能力だと今さらながら理解した。

 日本とエジプトという大き過ぎる距離が空いたためだろう、承太郎ら一行が日本を出て四十日目になる頃にはダブル・フェイスの影響はほぼないと言えた。だが、花京院典明がダブル・フェイスの拘束力を逃れエジプトへ着いた時……既に遅すぎた。目の前で、見るからに致死量だと分かる血を流しているのは誰だ。彼がこの世で一番愛している存在が、彼が初めて心を許した存在が、彼の唯一が、腹部に穴を開けて貯水タンクに埋まっていた。


「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 信じたくない光景だった。信じられない光景だった。悪趣味なオブジェだと誰かに言って欲しかった。


「嘘だろう……ねえ、冗談なんだよね? そんなのただの特殊メイクで、僕をからかってるんだろう」


 項垂れた彼女に近寄りその頬に両手を添えて顔をあげさせる。頬を血で濡らしながらも美しい微笑みを浮かべた彼女。花京院典明はそれに安堵し、冗談にしては酷すぎるドッキリを詰ろうと口を開いて……閉じた。彼女は既に時を止め、人生という舞台の幕を引いていた。ああ、彼女は瞬きをしていないのだ。触れていれば感じるはずの熱が刻々と失われていくのだ。なんたることか! 彼は遅すぎた。あと五分、いや、一分早く来ていれば彼女の命はまだそこにあったというのに! 彼はたった数十秒遅すぎたのだ。

 彼女はキリストの救いをその目にしたクリスチャンのように満たされた笑みを浮かべていた。しかし聖痕とは果たして腹に空く穴のことだっただろうか? 穴からはピンク色の縄――否、腸が溢れ、まるで薔薇のように鮮やかな腸の花が開いていた。グロテスクであるのに何故かそれは美しく、快楽殺人者とはもしかするとこのような刹那的な美に魅入られたあまり引き返せなくなった者のことを言うのではないかと考えてしまうほどである。

 だが、何故! 彼女はこの様な笑みを浮かべているのだ。死が怖くなかったのか? 彼女はただの女の子でしかなく、怪我や痛みとは無縁な人生を送ってきた……怖くなかったはずなどないのだ。だというのに何故。何故これほど満たされた表情をしているのだ。

 花京院典明はその瞬間、泣きだした。彼女の狂おしいほどの愛が彼の身を打ちのめさんばかりに降り注いでいた。愛! 彼女は花京院典明への愛のために身代わりの道を選び、その望みを果たした。全ては彼のために!! 全ては花京院典明という男一人を救うためだけに! 肩はぶるぶると震え、口は戦慄いた。

 もはや冷たい彼女を壊れたタンクの残骸から救いだし、水のかからぬ場所へその身を横たえてやり。花京院典明は立ち上がった。彼の体には愛が溢れていた。聖母の愛だ。無私の愛だ。涙よ止まれ、今は流れてくれるな。全てが終わった後ならば、体中の水分を涙に変えて乾き死んでも構わない。

 彼は空条承太郎と息を合わせ戦った。そして掴んだ勝利の後、仇をとったというのに、涙は全く出てくれなかった。涙腺は乾ききってピクリとも反応しない。彼はいくら泣きたくとも泣けなくなった。

 その涙が、十余年を経た今やっと活動を再開したのだ。


「今の君がDIOの血を引いているとかいないとかなんて関係ない。君が息をして、温かい体温を持ってるなら……それだけで僕には十分だ」


 冷えていく体温を知っている。濁っていく瞳を知っている。あれから彼は魚のカシラを見られないのだ。濁って白い瞳がフラッシュバックするのだ。聖母の微笑みに不釣り合いな白濁した瞳が。

 ああ、ああ! 花京院典明は、今やっと、十余年を経た今になってやっと、救われた。命は既に救われたが、心はあの時に死んでいた。凍りついていた時間は解け、時計は新しい電池によって再び時を刻み始めた。


「ああ、典明……僕はこの世で一番幸福な生き物だよ」


 腕の中のヴァンパイアハーフはうっとりと微笑む。それはまるで、この世全てを祝福するような笑みだった。


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