リハンの額にある墨字の「馬鹿」は、擦っているうちに鹿が消えて馬になってしまった。

 鐘が鳴り響き八つ時を知らせる。お腹も減ったことだし、おまんじゅうを食べようかと縁側に座った。


「あれ、あいつ誰だろ。見覚えがねー妖怪だな」


 リハンが指差したのは赤と白の椿を描いた着物を着た女性で、隠す気もないらしい妖気が神域内にも届いている。彼女のかんざしも真っ赤な椿、この時期珍しくもないけど、なんだかおどろおどろしい。


『誰だろうね……』


 氏神様が遊びに出てもう六日。神気は半分ほどに薄まり、朝に見たリハンの護衛さんのように神域内に入ってこれる妖怪もいる。

 結界の扉である鳥居をくぐり、その身元不明の妖怪はふらりと神域内に入ってきた。かんざしから一つ椿を抜き取り、もう片手には鋏が。


「お、おい! てめぇは誰だ!? 何の用があってここに来た!」


 あまりの不審さから立ち上がり絡みに行きそうなリハンの袖を掴んで引き戻す。危険な臭いがする――鉄臭い、死の臭いがする。


「鈴?」


 振り返ったリハンに頭を横に振り、ひっぱって私の後ろに隠した。奴良組は抗争の真っ最中で、そしてこの妖怪をリハンは知らないって言った。なら考えられるのは……敵。


「ぬらりひょんの……」


 私との距離が五メートルを切ったあたりで、彼女は立ち止った。


「ぬらりひょんの臭いがしよる。仇敵の臭いが。しかし、片方は女の童で片方は馬ときよるか――はて、ぬらりひょんの子は娘っ子であったかのぉ」


 女はあだっぽい仕草で小指を唇に付けた。


「ふ、ふふ……男の童であろうが女の童であろうが、どうでも良い。われはただ、狩るのみよ」


 鋏が椿の茎にかけられ、パチン、とその首を落とした。とっさに手に持っていたまんじゅうを放り投げ、リハンを引っ張りしゃがむ。空中でまんじゅうが真っ二つになった。


「首、首、首が欲しいのよ。貴様の首を見せておくれ」


 顔から血の気が引いた。リハンを蹴って床下に転がし、目を皿にして女の一挙一動を見つめる。

 まんじゅうを拾い上げた女が首を傾げた。


「首ではない――まんじゅう? 何故まんじゅうなのじゃ、われは首を狩ったはず」


 女の毛が逆立つ。


「われを虚仮にしよって、ぬらりひょんらしいのぉ……蛙の子は蛙とは良く言うものよ。われを、われを、馬鹿にしおって」


 落ちついた口調のはずなのに、どんどん雲行きが怪しくなっていく。床下から這い出ようとしたリハンをもう一回蹴って転がした。


「憎い、憎い! ぬらりひょんめ、われを何度も馬鹿にしよって! 貴様の子の首、我が、我が狩り取ってやる!!」


 女はかんざしから再び椿を引き抜くと、また鋏を構えた。つまり、この予備動作がないと能力を発現できないってことかもしれない――ううん、きっとそうだ!

 小筆を真っ直ぐ女に投げつける。高さが良かったのか右手に当たり、女は鋏を取り落とした。それに飛びついて鋏を回収、リハンがいるのとは別の方向へ逃げる。横目にちらりと見たところリハンの護衛さんが誰かと戦っていた。多対一なのにどんどん倒してるみたいだ。


「よくもしてくれたなぁ、小童ァ! 貴様は、きさまはぁ!!」


 女は狂ったようにそう叫ぶや私を追いかけ始める。リハンが真っ青な顔で私を見てる。護衛さん早く、早くして!


「ちょこまかと逃げおって、くくっ……所詮子供は子供じゃ。大人の力には敵わぬわ」


 必死に逃げたけど、護衛さんを気にしたりリハンを気にしたりと集中できてない私は遂に掴み上げられてしまった。


「鈴ぅ!」


 床下から這い出たところを敵に見つかって、防戦一方のリハンが悲鳴を上げた。


「この手がっ!」


 鋏を握っていた手を握り潰された。骨が潰れる音がした。悲鳴も上げられずビクリと震えた私に、女は赤い唇をニィと歪めるや、もう力の入らない私の手から鋏をゆっくりと奪った。


「面倒をかけさせおって、ぬらりひょんの子らしいのぉ。じゃが、われは優しいでなぁ……腕が痛いであろ? すぐに殺してやろう、痛みも感じぬようにの」


 くつくつと笑い、女は椿の茎に鋏をかけた。そして、パチン、と音がした。

 リハンの悲鳴が聞こえた、気がした。


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