その3



 十時には布団に入ってしまった晴ちゃんは、朝五時に家を出たらしい。帰ってくる電車やバスで疲れきっていた私は九時までぐっすりだったけど。

 お膳の上にラップをかけて置かれていたご飯を食べる。母さんは七時半頃に家を出て、今はもう仕事の最中だろう。


「あふ……」


 寝過ぎたせいでまだ眠気が醒めない。つい漏れたあくびをかみ殺す。昨日の晩に母さんに頼まれた、紫蘇を一畝分引っこ抜いて、その天地返しをしなくちゃいけないってことを思い出した。去年の紫蘇の種が芽を出した分だから、シソの実の佃煮にするには実が少し硬すぎるんだって。


「軍手ってどこに置いてあったっけ……」


 いつもは母さんと二人でこういう作業をしてるし、軍手は母さんがどこかから持ってくる。良く考えてみれば、どこに何が置いてあるのか、場所をちゃんと知らない。きっと納屋のどこかにあるんだろうけど。

 お茶碗に麦茶を注いで飲んだ。開けっぱなしの外を見る。木に囲まれたここは、天気予報が言う気温よりも三度から四度は低いように思う。都市部よりも過しやすく、ジリジリとした日差しも和らいで見える。とはいえ、これからどんどん暑くなっていくことに変わりはないから、早く済ませてしまおう。

 お皿を洗い、農作業用の服に着替えて、私専用の長靴を履いて納屋に入った。ひんやりとした空気がひたひたと腕や足に触れる。空気が停滞した場所のはずなのに、爽やかな匂いさえするように思える――実際にしてる。


「あ、空気が籠ってるからか」


 家の中にいれば慣れる木の匂いも、こうも籠れば香りが濃くなる。スンスンと鼻を鳴らしながら匂いを嗅いだ。これで湿度が高かったら雨の日みたいね。

 納屋の中をキョロキョロと探せば、すぐに軍手は見つかった。母さんのことだから、良く使うものは絶対に分りやすい場所に置いてると思ってた。壁のでっぱりに引っ掛けてあったショベルを持って納屋を出る。

 土が柔らかいから、紫蘇は簡単に抜ける。靴先に根っこの部分をぶつけて土を取り、畑の横にポイポイと飛ばす。五分もかからずに、この畝の紫蘇は全てなくなった。

 ショベルでサクサクと土をひっくり返す。腐葉土を入れ、炭を混ぜ、生ごみを埋めた畑は柔らかい。


「あ、卵の殻」


 腐りにくい卵の殻が出てきた。どうせそのうち腐るからそのままにして、深さ四十センチ程度に掘り返していく。母さんに指示されていた通りに苦土石灰をパラパラと撒いて、雑草を積み上げた小山に紫蘇を投げれば、今日の仕事は終了。

 アイスを食べながら縁側で足をぶらぶらさせること十分。洗濯物は母さんが干して行ったし、掃除もない。ぼんやりすること以外に、宿題するしかないことに気付いた。


「はあ」


 ため息をひとつ。空は清々しいほどに青い。


「そーらはこんなにあおいのに、かぜは、こんなにあたたかいのに。たいようはとってもあかるいのに」


 頭が痛くなっちゃうよ。

 夏休みの子ども劇場で見たアニメの歌詞をうろ覚えながら口ずさみ、ぼんやりと空を仰いで、全く動かずに過す。――時々、どうしようもなく虚しくなる時がある。それは授業中のふとした時だったり、何もない日常のとある瞬間だったりする。まるで、自分から大事なものが何かコロリと転がり落ちてしまって、なのに私はそれに気付いていない、みたいな。背中から倒れ込んで、縁側に伸びる。自堕落だ。大きく息を吸い込んで、深く吐き出す。肺の中を入れ替えるように何度もそれを繰り返し、目を閉じた。

 うぉぉぉぉぉぉぉぉん……山から、そんな遠吠えが風に乗ってきた。目を開けば縁側の屋根が視界に映る。そして、先の遠吠えと唱和するように、もう一つの遠吠えがそれに続いた。


「あは」


 衝動的にこみ上げた笑いは、治まるどころかどんどん悪化した。縁側を転げ回ってゲラゲラと笑い、しまいには笑い疲れて動けなくなった。目頭が熱い。横隔膜が痙攣したように息が詰まる。


「うっく、うっ……うう」


 涙が頬を伝って縁側を濡らして行く。雨の遠吠えは満ち足りていた。晴ちゃんの遠吠えもそうだ。彼らは全身でお互いの存在を喜んでいた。でも、どうしてかな……雨が、私の近くから消えてしまった――そんな気がする。雨はもう五年も前に家を出て行ったはずなのに。


「雨、雨ぇ。なんでなのよぉ」


 雨が山に入ったことなんて、本当は受け入れてなんかいなかった。雨は私が守らないといけない弟で、たった一人の兄弟で、唯一の同族だった。たとえ何が起きたとしてもこの関係は変わらないんだって、思ってたから。

 晴ちゃんは、私にとって唯一の同性の同族だ。彼女の人となりも好きだし、三歳も下の彼女を守りたいと思う庇護欲がある。おおかみであることを選んだ彼女を尊敬している。雨と結ばれることを祝福している。

 でも本当は――本当は、雨には選んで欲しかったんだ。人間を。いつか雨が人間として戻って来てくれるんじゃないかって、おおかみであることを捨ててくれるんじゃないかって、そう願ってた。でも、あんな声を聞いたらもう、そんなこと思っちゃいけないんだって、理解させられてしまった。おおかみとしての生き方以外で、雨の幸福はないんだ。だってあんなに満ち足りてる。

「どうしてよぉ」


 この世にたった三人しかいないのに、中の二人は、私の手がけっして届かない場所へ行ってしまったのだ。


「寂しいよ……」


 お昼を過ぎても涙は止まらなかった。





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2012/08/02


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