その2



 晴ちゃんは元から成績が悪くないからだろう、応用問題で唸ることはあっても、十分も二十分も悩み続けるなんてことはなかった。私が軽く助け舟を出せばすぐに解いてしまって、こういう教え子なら教師も楽だろうなと思った。

 ほぼ記憶力が物を言う問題でも、彼女が解くのは速かった。元素表も、「エッチでリッチなケイコさん、ルビーせしめてフランスへ」なんて唱えながらサクサク書いていた。あれ、覚え方って「水兵リーベ」じゃなかったの? 「日本のポルシェ明日はサービス日」とか、「オッス先生鉄砲でポン」とか、何ソレ。関西の覚え方なの? 意味不明なのばっかり聞こえてきて、もう何に突っ込めば良いのか分らない。

 さくさくと宿題を解けたお陰で、晴ちゃんの宿題はもう四分の一が終わっていた。キリの良いところまで終わったらしく、晴ちゃんはホチキス止めのそれをパタンと閉じた。


「明日も朝一番に山に行くんでしょう? なら早仕舞した方が良いわ。お風呂を沸かしたからお入りなさい」


 母さんが大きなスイカを手にそう言った。私が帰って来たと聞きつけた土肥のおじさんが昼に持ってきてくれたのだ。今までずっと縁側の下に置いた桶に入れて冷やしていたから、きっとキンキンに冷たいだろう。


「晴ちゃんはお風呂から上がったら食べましょうね」

「はい、有難うございます」


 晴ちゃんは嬉しそうに笑いながら頭を下げた。テキパキとお膳の上に広げた宿題と筆記用具を片付けて、あんまり物の入ってないリュックに入れた。私も広げていた宿題を閉じて時計を見れば、九時ちょっと過ぎだった。

 晴ちゃんは六時過ぎにやって来たから、まだ三時間しか過ぎてないってことになる。たったこれだけの時間で四分の一を終わらせたのだから晴ちゃんはかなり手際が良い。――まあ元々、宿題の量が少なかったのもあるんだろうけど。私が中二だった時の宿題の量と比べると、どうも一割から二割ほど厚みが少ない気がする。これが私立と公立の差なのかもしれない。


「では、お先にお湯、頂きますね」


 いそいそと風呂場へ向かう晴ちゃんを見送る。外はねの髪がぴょこぴょこと跳ねている。


「丁寧な子ね」

「ええ。雨にはもったいないくらいの良い子だわ。――あの子が雨を選んでくれて、本当に良かった」


 台所へ行ってそう感想を漏らせば、母さんはフフと小さく笑い声を上げた。スイカが乗せられたまな板がガタガタと鳴った。


「本当に良いスイカだわ。詰まってる」

「そうね」


 見た目よりも重いそれに、母さんの持った包丁がザクリと入った。人間の倍は鋭い嗅覚がスイカの芳香を嗅ぎ取る。

 先ず半分にし、片方は表面にラップをかけた。残った片方をまた半分にして、またそれを三分割した。十二分の一になったそれの両端を上から抑え、バキリと割る。夏のイラストでよくある半円形のスイカは、口の周りがベタベタになって食べにくいから。


「お風呂、頂きました」


 夏場だからカラスの行水でも構わないけど、今さっき入ったばっかりだと思うのだけど。


「晴ちゃん」

「あ、はい」

「一緒に入るわよ」

「はい?」


 目を丸くする彼女の腕を掴んでそのまま風呂場へ向かう。母さんが私たちの後ろで、切ったばかりのスイカを冷蔵庫に直した。お母さんグッジョブ。

 困惑した声を上げる彼女を引きずり脱衣所へ連れ込み、着たばかりのシャツをひんむいて、私も服を投げ捨てた。寮で生活してる私には、同性の他人に裸を見せる気恥ずかしさなんて全くない。胸の前で腕を交差させて赤面する晴ちゃんの背中を押して、二人で一緒に風呂場へ入った。


「あ、あの……」

「あのね、晴ちゃん」


 視線が定まらずうろうろと左右や上を見ている彼女の肩に手を置いた。


「私にはまだ、貴女が雨のお嫁さんになる子だって認識は、ないの。だってそうでしょ? 雨はまだ十五歳だもの。私だって、結婚なんて……そんな、えっと、考えてもないの。全くよ。……全然考えてなんかないんだからね」


 草ちゃんの顔が浮かんだけど、頭を振って追い出した。


「でもね。貴女が私の家族になるのは、初めて会った時に、受け入れたのよ」


 彼女からは、私と同じようにおおかみ人間の匂いがした。なんとなくだけど、目を見た時に分ったんだ――この子は雨と同じなんだって。人間になることが受け入れられず、おおかみであることを選んだんだろうと。そう思ったら他人だなんて思えなくなった。


「遠慮なんて必要ないの。貴女、遠慮してお湯に浸かってないでしょ? 夏場でもちゃんとお湯に浸かって温まらないと駄目よ」


 湿った頭を撫でる。晴ちゃんは耳まで真っ赤にして、「有難うございます」と囁くように答えた。くう、雨ってばこんなに良い女の子を捕まえて、果報者めっ!

 やっぱり裸が恥ずかしいらしく湯船に肩まで浸かった晴ちゃんと話しながら、体を洗った。


「私と雨のお父さんはさ、自分が最後のおおかみ人間だって言ってたの。なのに、四国にも生き残りがいたなんてね」

「そうですね。私も、自分が唯一の生き残りだって思ってました。……私は隔世遺伝で、お爺ちゃんがおおかみ人間なんです。弟がいるんですけど、ただの人間なので、きっと――もう、血が目覚めることはないと思います。人間の血が濃くなりすぎたので」


 ということは、将来に私が生むだろう子供もただの人間な可能性があるってことか。その可能性は考えてなかったな。――まだ気が早い話だけど。


「だから嬉しいんです。この世でたった一人なんだって思ってましたから、同じおおかみ人間ってだけじゃない、力あるオスに出会えて。雨となら……雨となら、大丈夫だと思うんです」


 目を閉じたまま嬉しそうにそう呟く晴ちゃんに、私はなんとも言えない気持ちになった。雨も晴ちゃんも、動物としての本能が強いんだろう。だから恋や愛じゃなくて、ただ「お互いが何よりも必要だから」惹かれあった、という面が大きいように思う。

 もし、おおかみ人間が絶滅しかけてなかったら、ニホンオオカミが絶滅してなかったら、雨にも晴ちゃんにも選択肢があったはず。心の傷を舐め合うつがいなんて、悲しくないだろうか。


「ねえ、晴ちゃんは、幸せ?」

「はい?」


 私の突然の質問に、晴ちゃんは目を瞬かせた。ふんわりと笑む顔は美人じゃないのに、引き込まれるような吸引力を持っていた。


「幸せになります」

「そう。そっか」


 晴ちゃんの持つ引力の謎が一つ解けた。彼女は全力で、全身で、前を向き続ける努力しているからだ。小学生の時に「意志は顔になる」と聞いたことがある。まさしくそうだと思う。

 同族でなければ解消しようのない、おおかみ人間としての孤独。その孤独を脱却するのだという覚悟と自信が、けっして美人じゃない彼女にこれ以上ない魅力を加えていた。

 私が「選ばなかった」道――それを歩いてる晴ちゃんは本当に眩しくて。おおかみである道は険しく厳しいはずなのに、彼女は気高く真っ直ぐな目をしていた。






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2012/08/02


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