その7



 明日山登りをするとは言っても、滝を見に行く程度のことになるというのは分っている。竜太郎によれば凄い滝があるそうだから、その滝を見たら終わり――ってことになる。

 昼間も散々眠った癖に、目が冴えるどころかぐっすりな二人に呆れた。強行軍だし、行ったことのない場所に行くというストレスもあったのかもしれない。音をたてないように部屋を出て、服を脱いでおおかみになった。雲が晴れるように鋭くなる嗅覚が鋭敏に「オスオオカミ」のにおいを嗅ぎ取った。いる、いる、いる! 興奮のあまり庭の真ん中でぐるぐると走り回る。いる! おおかみがいる!

 山に入り、初めての道を、においを辿って走った。オスオオカミは頻繁にあの家へ着ているらしく、においを辿るのは思ったよりも楽だった。

 川を超え、崖を登り、岩場を抜けて――一番高い場所に彼を見つけた。黒々とした青毛の、引き締まり躍動感のある後ろ脚の、夢にまで見た私の仲間。自分を見下ろせば、彼の巨躯に比べてなんとも貧弱な我が肉体に、つい嘆息してしまう。六年のブランクは大きすぎる。

 彼を見上げれば、彼は天高く吠えた。深く、低く、力強く。

 彼と自分が仲間だと思った、自分が恥ずかしくなってきた。相手は立派な狼で、私は軟弱に過ぎる。仲間がいると知れただけで満足しなければならないかもしれない。二度三度と吼える彼に唱和したいのを堪えてその場から去ろうとした、その時。

 強い視線が背中に突き刺さるのを感じて振り返れば、崖の上から彼が私を見ていた。鋭すぎるその視線に背中の毛が逆立つ。圧倒的強者の目だ。駄目だ、殺される。あれは死ぬ。仲間だなんて、なんて私はおこがましかったんだろう? あれは怖い。

 猫背気味の背筋が伸びて行くような、足元から凍りつくような恐怖だった。

 気が付けば、元来た道をも忘れて逃げていた。後ろから追ってくる――気配が追ってくる。ニゲロニゲロと頭のどこかが警鐘を鳴らし、でも、強いオスに興奮している自分もあった。水面から顔を出した石を飛び石に、川を渡ろうとした。濡れていた表面に滑り、気が付けば落ちていた。

 必死に水を掻くも、水流は速く。川底も深かったせいで足が届かず、水に押されるまま岩に叩きつけられた。


「ガァッ!!」


 尖った岩に腹を抉られ、怪我こそしなかったものの息が詰まる。全力で腕を振り回しても、力が入らず、弱々しく岩を叩いただけだった。

 気が遠くなっていく私の耳に、バシャバシャという水音が届く。首を掴まれて持ち上げられた。横目に見えたのは黒々とした毛並みで、そのまま私は気を失った。



 ――祖父に舐められている夢を見た。山の中を駆け回ってぼさぼさになった毛並みを、祖父は優しく直してくれたのだ。私がどんなやんちゃをしても、祖父は笑っていた。幸せだった、満たされていた時の記憶。

 水底から水面へ浮かび上がるように、夢が醒めて行く。私の体を舐めていた相手は、私がピクリと身をよじらせたことで静観に入ったらしい。

 うっすらと目を開く。場所は洞穴の中。私を温めるように丸くなっているのはあの彼。それが分った瞬間、冷や汗がどっと流れた。彼の縄張りに勝手に入ったのは私だ。何をされても仕方ない。


『起きたか』

『――はい』


 唸るような声でそう言った彼は、声の調子からいって、まだ若いようだ。私よりは上だろうけど。


『ここで待ってて』


 のそり、と彼は身を起こすや、どこかへ出てしまった。

 逃げるか。いや、逃げても絶対に捕まるに決まってる。ならここで待つしかない。前足に顔を埋めて待っていれば、十分ほどして、彼が帰って来た。

 顔をあげた私の前に、鴨っぽい鳥が落とされる。


『食べれば温まるから』


 生の鳥を食べるなんて久しぶりだ。むしゃぶりつくようにして食べる私を、彼は離れた場所で静かに見ていた。羽毛が散り、口元が羽根と血で汚れる。

 食べ終わって一息ついたら、私のべたついた口元を彼が舐めた。


『怖がらせてすまなかった』


 彼の落ちついた声に、やっと、彼を怖がっていたことを思い出した。


『初めは敵だと思った。同族なんて姉さんしか知らなかったから――まさか、同族の、それもメスと出会えるなんて、思いもしなかった』


 ゆっくりと話す彼に、思い出した恐怖も萎んでいく。もし、私が彼の立場だったなら、きっと困惑しただろう。警戒しただろう。それは当然のことだ。


『ごめんなさい、困らせた』

『違う。困ってなんかない。嬉しかったんだ、仲間がいるって』


 親愛を表すように顔を舐めてくる彼に、お返しで舐める。


『私も。私が唯一の生き残りだなんて、信じたくなかった。貴方に会えるなんて思いもしなかった』


 おおかみとして生きている彼と、縄張りを失いおおかみでなくされた私。彼が羨ましくてならない。彼が強いのは、きっと、守るべき場所があるから。


『ああ。それは僕もだ』


 見つめあった。お互いの金色の目が、お互いの目に映っている。


『二年、待ってくれる?』

『二年?』

『うん。二年後、必ずまたここに来る。次に来る時は、ずっと貴方と一緒にいるために』


 毛深い人間の腕が私を抱きすくめた。


「本当に……ッ?」

「うん、本当に」


 五本の指で、私も、彼を抱きしめ返した。

 メスが強いオスに惹かれるのは、どんな動物でも当然のことだ。でも、私は、彼が強いから惹かれたわけじゃないと思う。

 この世のどこを探しても、仲間がいない。そんな孤独な目を、私も、彼も、していたのだ。彼の肩に顎を乗せて目を閉じた。

 孤独と孤独が出会って、仲間になった。きっと私はこの手を離さないし、彼も私の手を離さないだろう。それで良い。それが良い。二人ならきっと、幸せになれると思うから。





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2012/07/27


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