その4



 正平のお爺さんが車で迎えに来てくれるということで、駅の前で荷物の上に座ったりして待った。


「ふぁ……ここ、どこ?」

「××市! 竜太郎まだ寝ぼけてんのかよ」


 手で隠すことなく大きなあくびをした竜太郎の頭を正平が殴った。もう十時を過ぎているし、良い加減起きろと殴りたくなる理由も分る。


「正平の、田舎だっけ。オッケー、起きた」


 竜太郎は殴られた部分を摩りながら目ヤニをもう片方の手で飛ばした。目ヤニの進行方向にいた小太郎は「汚ぇ」と小さく叫びながら飛び退る。


「あと追加情報だ、竜太郎。ここはハルの田舎でもある。後で、ハルが爺さんと住んでた山を見に行くからそのつもりでいろよ」

「おいテメー竜太郎、俺に目ヤニ飛ばすってどーいうつもりだよ」


 竜太郎は正平に襟を掴まれてガクガクと振られながら「オッケー」と返し、「揺れる揺れる、あ、眠くなってきた」と言って目を閉じた。今度は頬を殴られて涙目になった。自業自得が否めないので、私たちは何も言わなかった。

 ブロロロ、というエンジンの音が聞こえて顔を上げれば、蕎麦屋や丼物屋が数軒続くだけの駅前の大通りの向こうに、白い車が見えた。私の視線に気付いて四人も通りを見やる。白い車はどんどん近付き、それが軽トラであることが知れた。


「しょーへー!」


 窓から身を乗り出して手を振るのは七十代半ばの男で、日焼けした肌には深い皺が刻まれている。


「じーちゃん!」


 康雄はキャリーの持ち手を上げ、私と優斗は鞄を持った。竜太郎と正平はリュックだ。

 キキッという音と共に、私達の前で車が横付けした。出てきたのは正平と目元と口がそっくりな、一目で正平の縁者と分る男性だった。


「××町へようこそ、正平の祖父です」


 下げた頭は真っ白で、短く刈り込んであるのが爽やかだ。


「晴です」

「優斗です」

「康雄です」

「竜太郎です」


 軽く頭を下げて挨拶すれば、行儀の良い子だと快活な笑顔を浮かべる正平のお爺さん。後ろの荷台に乗るように指示されたので、先に荷物を乗せた。


「ここって人が乗って良かったか?」

「確か駄目だったと思うよ」


 康雄の疑問に優斗が困り顔で答える。乗ったら駄目なのか。


「良い良い、どうせ誰も気にせんからな。乗って怒られはせんよ」


 正平のお爺さんは「おまわりさんも笑って見逃してくれるわい」と笑った。正平は慣れているのか飛び跳ねるようにして荷台に乗り込み、私達は顔を見合わせてから乗った。

 駅前の閑散として寂しい雰囲気から一転、トマトやえんどうの夏野菜が実る畑を横目に走る田舎道は爽快だった。竜太郎は「美味しそう」と涎を拭く動作をし、正平が「爺ちゃん家に着けばいくらでも食えんぜ」と自慢そうに笑む。優斗は柔らかい風と風景に目を細め、康雄もぼんやりと空を見上げていた。

 空は高く、空気は澄んでいた。懐かしい匂いを胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐いた。やっと家に帰りついた――そんな気分になった。

 対向車のない道を三十分走り、着いたのは祖父と私が暮らしていたのと似た家だった。瓦葺の屋根、縁側、建てつけの悪そうな窓。家の周囲に広がるのは畑だけだ。全部が全部懐かしく思え、少し涙が滲んだ。


「婆さん、正平と友達が着いたぞー!」

「はいはい、そんな大声じゃなくても聞こえますよ」


 正平のお爺さんは車から降りるや家に向かってそう声を張り上げたけど、間をおかずに玄関からお婆さんが現れた。小太りな彼女は私達を視界に入れると、満面の笑みを浮かべる。


「五人ともよく来たね、お入り。冷たい麦茶を出してあげようね」


 荷物を下ろしてから私達も降りた。康雄と竜太郎は眼を見開いて、小さく「すげー」と呟き、優斗は「凄いね」と感心した様子だ。康雄の引くキャリーが、砂でガリガリと鳴った。

 玄関で靴を揃えて脱いで、靴下も脱いだ。裸足にならないなんて、そんなもったいない。正平はもちろん、みんな靴下も脱いだ。ひんやりと冷たい床の上で足踏みして感触を確かめている。


「なんか、フローリングとは違うんだな」


 康雄の言葉に優斗と竜太郎が頷く。「ひんやりしてるのに暖かいね」と優斗が言い、「そんな感じだな」と竜太郎が賛同した。


「そりゃそーだ、こっちは無垢材なんだぜ。建て売り住宅の床と一緒にしちゃいけねー」


 正平が壁に手を突いて斜に構え、顎を反らしながら自慢そうに言った。


「大黒柱なんか、見たらきっとびびる。すっげー太いんだ」


 「大黒柱って何」と竜太郎が康雄に訊ね、康雄は「家ん中で一番太い柱のこと」と答えた。

 正平のお婆さんが、廊下の向こうからお盆を手に現れた。麦茶の中で氷が浮いている。促されて腰を下ろせば、お婆さんは膝立ちでお茶を配り始めた。


「はいどうぞ」

「有難うございます。僕、優斗って言います」

「康雄です」

「晴です」

「竜太郎です」


 正平のお婆さんは正座をして深々と頭を下げた。慌てて私たちも正座をして頭を下げる。優斗はコップを床に置いて良いのか分らなかったんだろう、コップを持った手だけが浮いている。


「そんなに改まらなくて良いのよ。――正平、寝るのは仏間だからね。一息ついたら案内してあげるのよ」

「はーい」


 玄関に座って外を見やれば、すぐ正面の庭に真っ赤なトマトがたわわに実っていた。

 荷物を置いた後、そうめんを頂いた。刻んだ大葉と一緒にそうめんを食べると、口の中で大葉の香りが引き立った。都会から出たことのない優斗と竜太郎がその香り高さに驚き、「スーパーで買ったのと全然香りが違う」と興奮しきりだった。

 首にタオルを巻きリュックには水筒と飴を入れ、つばの広い帽子を被って家を出る。午後は私の住んでいた場所へ行くことになっていた。


「ハルの住んでた場所ってどんなとこだった?」


 竜太郎が私の横に並んだ。


「電気なんて通ってなくて、でも暗くなんて全然なかったよ。毎日のように裏山に入って山道を駆け回った」


 足跡の読み方も、他の肉食動物との共存の仕方も、全部祖父から教わった。


「自然児だったんだ」

「そうだね」


 見覚えのある形の山へ向かって歩いて一時間半、私が暮らしていた山の入口に着いた。

 六年前は土だった道はコンクリが敷かれ、道は幅十メートルほどのゆったりとした二車線。歩道も二人並んで歩ける幅があった。ところどころ掠れた白線が、私の知らない六年という月日を思わせる。


「なあ、この看板……」


 正平が言いずらそうにどもりながら、道の横に立った看板を示した。××霊園。


「嘘だ。絶対に嘘に決まってる」


 嘘に決まってるんだから。

 立ち止まってしまった四人を置いて先へ進む。空は爽快な程の快晴、入道雲が山から市街地へ手を伸ばす様に動いている。夏の強い日差しが、道の横に植えられた並木の下に濃い影を映す。

 先ずは靴を脱ぎ捨てた。踝までしかない靴下も一緒に。鉄板のように焼けたコンクリが足の裏を焼き、土の地面とは違うのだと理解させられた。そして、リュックも捨てた。崖の足元に転がったリュックはトプンという音を立てた。――上半身を低くして、駆け出す。初めは二本足で、次第に四本足で。

 半円を描くように伸びる道をひた走る。パンツの中がもぞもぞして、聴覚が冴えわたった。手と足には鋭い爪が生え、柔らかい肉球が衝撃を殺す。

 一台も車がない駐車場を過ぎる。××霊園駐車場と書かれた看板がかかっていた。

 まだ上る。公衆トイレが設置されていた。そして上る。そして。


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 視界に広がったのは、墓石が並ぶ高台だった。田舎の町を見下ろせる――そんな、墓場。穢された。この山を穢された。奪われて、潰されて、消されてしまったのだ。この山は。お爺ちゃん、お爺ちゃん、消えちゃったよ、お爺ちゃんの山が。消されちゃったよ、私の山が。

 膝から力が抜け、地面にへたり込んだ。人間のそれに戻った手で地面を弱く殴った。両腕をゆっくりと上げて、膝を叩いた。日光がうなじをチリチリと焼いている。

 もう何もしたくない。私のアイデンティティーは全て破壊されたのだ。ここで朽ちて死にたい。この山を守れなかった責任を取って死にたい。


「ハルー、ハル、やっと追いついた! お前さー、靴もリュックも投げてっただろ。回収しといてやったぜー」


 無気力に座り込んでいる私を見つけ、四人は安堵した様子で駆け寄ってきた。先頭にいた正平が、私の正面に広がる墓の群れに一番に気がつき、表情を強張らせた。

 康雄や竜太郎が足を止める中、優斗が私の横に膝を突く。


「ハル……」


 背中に当てられた手に労わりの念を感じ、でも、それでも私の絶望はどうしようもなかった。


「これが、私が山を守れなかった結果。お墓になっちゃったよ、ハハ……お爺ちゃん、守れなかったよ私、私、守れなかったよ……!」


 涙が止まらない。頬を滑り顎から落ちて服に染みを作っても、まだまだ溢れてくるのだ。口が震え、鼻水まで出た。大雨の日の川の様に、涙は次から次に零れて、止まる様子を見せなかった。タオルで顔を拭いてくれる康雄の、背中を摩ってくれる優斗の、頭を撫でてくれる竜太郎の、顔を拭くタオルを水に濡らして来てくれた正平の、優しさが、身に染みた。

 晩、寝るのは本間敷きで八畳ある仏間だった。スイカを食べて、花火をして、濃い初日に疲れ切った四人はぐっすりと眠りこけている。タオルケットを蹴り飛ばしている竜太郎の上に、タオルケットをかけなおす。寝相まで行儀が良いらしい優斗、腹の上に三つ折りにしている正平、抱きこんでいる康雄。

 蚊帳を払い、ギシリと軋む縁側から、裸足で外へ出た。パジャマのボタンをパチリ、パチリと外していく。パジャマもシャツも、パンツも脱いだ。

 夜空には星が輝き、月明かりさえ眩しい。両腕を広げて月の光を全身に受ける。伝説やおとぎ話ではないから、月光で元気になるなんてことはない。けど、まるで、物語に言われるおおかみ人間のように。満たされていく感覚がした。

 腕は前足になり、大きく尖がった耳とふさふさの尻尾が伸びた。弱い皮膚を、硬い毛が覆い隠していく。六年ぶりのおおかみの体は、今までが抑圧されていたせいか、人間の身体とはまるで違って感じられた。軽い。気分が浮き立つ。――私は、私は。自由だ。後ろ脚にぐっと力を入れて走り出した。

 切り裂く風が心地良い。生ぬるい風と冷たい風の帯が交互に横腹を撫で、さわさわと揺れる稲が月光をキラキラと反射した。用水路で蛙が大合唱し、お帰りと言われている様に思えた。六年の間に体力は幾分か落ちたけど、それでも人間より速く走れる。昼に歩いた道を走り、駐車場を過ぎて霊園も後ろ目にひたすら上る。目指すは頂上。

 人の手が入っていないけもの道を駆け抜けて、祖父と二人、毎晩のように立った天辺に着く。

 すう、と息を吸い込み、深く長く遠吠えをする。もしかしたら、どこかにいるかもしれない、私以外のおおかみ人間に。しばらく待った。返す遠吠えはない。それでも満足して二度三度と吠えた後、踵を返した。

 昼は川に行き泳いだり、山を登ったり、正平のお爺さんとお婆さんの畑を手伝って、夜は森を縦横無尽に駆け廻り、失われたものを見て、生き残った物を見た。――私の夏休みは、そうやって過ぎて行った。

 日が明ければ帰るという夜、祖父との想い出の場所を巡った。ここの川の水を飲んだ、ここでツクシを採った。全てが懐かしく、そして切ない。

 後ろ髪を引かれながら正平の祖父母の家へ帰った私を待っていたのは、縁側に座った四人だった。慌ててきた道を戻ろうとする私に康雄が「待てよ!」と叫んだ。


「――待ってくれよ。俺たち、もう、知ってるんだ。ハルがおおかみ人間だって」


 康雄は落ちついた声でそう言った。


「三日前にさ、何か物音がしたから、目ぇ覚まして。そしたら外でハルが外で服脱いでて……びびって皆起こして。見ちゃったんだ、ハルが変身するとこ」


 三日前、竜太郎は遊び疲れでダウンした。昼間に睡眠が足りたから眠りが浅かったんだろう。まさかバレるとは思いもしなかった。いや、気が抜けていたのだ。遊び疲れて寝ているはずだと。


「ねえハル、こっちへ来てよ。一緒に話そう」


 優斗は私を安心させるように微笑みながら、ちょいちょいと手招きした。


「スゲー、本物のおおかみだ」


 二メートルの距離で立ち止まった私を見て、竜太郎が目を輝かす。触りたそうに手を握ったり開いたりしている。


「服、ここ置いとくから。着替えたら話そう」


 康雄が黙ったままの正平の腕を引き、竜太郎は私を触りたそうに、優斗は何を考えているか分らない笑顔で、仏間へ引っ込んだ。


「どうして……」


 時間が惜しく、ボタンは二つ着けただけで仏間へ飛び込む。四人は正座していた。


「どうして、誰にも言わないの。私がおおかみ人間だって知ったのに、どうして?」


 咳き込む様に訊ねた私をどうどうと抑えたのは康雄だ。正平が真剣な表情で口を開いた。


「だって、ハルはハルじゃねーか。おおかみ人間でもさ、そうじゃなくてもさ、ハルだろ。俺たちの仲間の、ハルだろ」


 正平の言葉に、私の体を電撃の様なものが走った! 私を生んだ母でさえ嫌がった、おおかみ人間という事実を、四人は受け入れると言うのだ!!

 優斗が正平の言葉を継いだ。


「ハルがおおかみになったって、怖くないし、嫌いになったりもしないよ。だって、僕たちは、六年も一緒にいたんだよ」


 優斗はゆっくりとした動作で私の頬に触れた。触れられた場所が熱い。優しく私の頬を撫でるその手を掴んで、何を言えば良いか分らなくて、口を開いて閉じた。


「ハル、裸見てゴメン」


 竜太郎の言葉で、出そうだった涙が引っ込んだ。


「それはないだろ、少なくとも今は。くっそ、このKYが……」


 康雄が呆れて顔を抑え、正平の笑顔は固まり、優斗は天井を仰いだ。


「竜太郎、そこに直れ」

「えっと、はい」


 それから一晩中、竜太郎叱り付けた。睡眠不足の竜太郎が、帰り道も電車からの風景を見られなかったのは、自業自得だと思う。





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2012/07/27


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