その1



 幼いころ、私は祖父と二人暮らしだった。両親は電車で二時間の、他県の中心部に住んでいて、私は祖父の住む田舎にいた。

 祖父は私の頭を舐めながら、頻繁にこう言った。「お前はきっと、最後のおおかみおんなだよ」と。祖父はニホンオオカミと人間の間に生まれたおおかみ人間の末裔で、おおかみおとこだった。でも、その娘である母は人間だった。血が薄くなったからだと祖父は言っていた。母よりもっと薄いはずの私は隔世遺伝なのだろうと。

 母は私を祖父に預けた。都会よりも人の少ない田舎であれば、おおかみ人間同士である祖父であれば、私を育てるのが楽だろうということからだった。幼い私は母に捨てられたのだと思ったし、母が私に会いに来ることは片手で数えるほどしかなかった。

 都市部でおおかみ人間を育てるのは難しい。語彙の少ない子供に理屈を並べても理解できないし、理解できたとしてもすぐに忘れるからだ。実際に、幼い私は自らの変身を自制することは出来なかった。自制しなければならない理由が分らなかった。人間になったりおおかみになったり、夜には当然遠吠えをして。祖父はいつも笑っていた。

 私が四歳になった梅雨のある日。降りしきる雨のカーテンのせいで風が通らず、家の中はむしむししていた。木の臭いが籠って濃くなり、シナモンのように甘い匂いが湿った鼻面に触れる。スンスンと鼻を鳴らしながら臭いを嗅げば、まるで、お菓子の家に暮らしているかの様に思える。ついこの間祖父の背中に乗って行った、キョウトとかいう白粉臭さと木の匂いが混雑した場所を思い出す。あそこで食べたナマヤツハシとかいう柔らかいお菓子もこれと似たような匂いがしたはずだ。


「じーちゃん」

「どうした」

「ナマヤツハシのにおい、するよ」

「生八橋か――この匂いは生八橋の匂いとは違うんだ。杉や檜や……この家に使われている木の匂いなんだよ」


 この匂いは檜、これは楓、これは松。次の日から、祖父は木片をどこかから手に入れてきては、一つ一つ手にとっては私に嗅がせた。その匂いそれぞれが私には新しい発見で、裏山に生えている生の木のそれとは少し違うことを気付かせた。削ると立ち上る匂いと、表面からにじみ出る匂いが違うこと。その発見を祖父に言えば、祖父は私を抱き締めて「良く分ったな」と喜んでくれた。自然の中で生きるには必要不可欠の知識だったから。

 晴れた日は庭や裏山を駆けまわり、雨の日は祖父の大きな体に包まれて昼寝をした。祖父は私におおかみにならないようにと言うことはなかった。人の姿であれば人間としての知識を、おおかみの姿であればおおかみとしての知識を、余すところなく教えてくれた。

 平日の昼間は、祖父の菜園を手伝った。家で採れたトマトは皮が売り物よりも分厚かったけど、何倍も甘かった。菜園のキュウリを勝手に食べても怒られることは一度としてなく、それどころか、塩の入った袋を渡されて「それをかけて食べると美味いぞ」とさえ言われた。

 午後からは裏山に走った。着脱が楽だということで祖父は着流し、私も薄っぺらい着物を帯紐で結わえただけの簡単な格好だった。おおかみになれば服なんて無用のものだった。

 川のせせらぎ、鳥の声、イノシシが頭を擦り付けて皮が禿げた木。人間では近寄れない場所も祖父と一緒に駆けまわり、裏山で私が知らないことは一つもなかった。祖父は、祖父の知る全てを私に教えてくれた。

 山で採って来たうどやぜんまいの天麩羅やおひたし、丸々太った玉ねぎの入った味噌汁、勝手に庭に生えてくる紫蘇の葉の天麩羅、菜園の茄子の達磨焼き、枯れ葉でじっくり焼いた焼き芋。祖父が台所に立つと、反射的に涎が溢れた。台所の入口で襟を涎で濡らしている私を見る度、祖父は笑い声をあげて私の頭を掻くように撫でた。

 「この山も、屋敷も、全部お前にやろう」、「私が死んだら、全部お前のものになるんだよ」、「私の次はお前がこの山を守りなさい」。祖父は言葉を変えて、何度も何度も繰り返した。この山を守るのは私だ――どんな人間よりもこの山のことを、動物たちのことを知っている私が、祖父の跡を継ぐのだと。そう信じた。

 祖父の乗るバスが、タンクローリーと接触事故を起こした。その連絡が入った時、私は六歳だった。足のない私のために警察の人が迎えに来て、私はパトカーに乗って病院に行った。祖父の遺体は見せてもらえなかった。石油を積んでいたせいで爆発が起き、原型が分らないほど焼けたのだと言う。

 すぐに身元が分ったのは、祖父が抱き締めていた鞄に入っていた運転免許証のお陰らしい。運転免許証は熱で溶けて変形していた。祖父の写真など家には一枚もなく、唯一の写真も溶けて原型をなくしていた。

 警察や病院が手配してくれたのだろう、次の日には両親と親戚がやって来た。物が少なく閑散として見える家に顔をしかめ、「こんな田舎にどうして暮そうと思ったんだか」とか「変な爺さんだったからな」とか、聞き捨てならないことを口々に言っていた。母は、私を横目に見て、背中を丸めた。まるで、私を引きとらなければならないことを嫌がっているかのように見えた。

 伯父だという男が、ここを売り払おうと言いだした。誰も反論せず、それが良いと賛同し始めた。


「ここは、私の家だ!」

「晴ちゃん」

「裏山も、家も、全部、お爺ちゃんは私にくれるって言った!」

「晴ちゃん」

「売るなんて許さないよ――お爺ちゃんの跡を継ぐのは、私なんだから!!」

「晴ちゃん!!」


 とある女が語気を荒めた。叔母の一人のはずだが、名前なんて知らないし、私がここで暮らし始めてから一度として会ったことがなかった。他人も同然だ。


「これは大人の話です。出て行きなさい」

「他人だもん! この六年、全然お爺ちゃんに会いにも来なかったくせに。親戚なんかじゃない、あんたたちは他人だ! 私の家から出てけ!!」

「晴ッ!」


 母が、私を生んだだけの母が、私の頬を張った。


「この部屋から、出てお行き」


 張られた頬が痛いけど、山で怪我した時の方が何倍も痛い。


「嫌だ! あんただって、私に会いに来たことほとんどないじゃないか!! みんな出てけ、出てけ!!」


 そう怒鳴れば、母の頬はさっと赤く染まった。ペンで描かれた眉を吊り上げ鬼の形相になった。


「言って良いことと悪いことがあるわ、晴! こっちへおいで!!」


 私を抱え、母は逃げるように部屋を飛び出た。


「私はあんたのことを思って父さんのところに預けたのに、あの人の教育はやっぱりおかしかったんだね! お尻を叩かれたいかい、私は怒ってるのよ!!」


 祖父の悪口を言われたことに腹が立ち、私は目の前にある母の腕に噛みついた。ギャアと叫んで私を離す母。


「出てけ、この家から出て行け!!」


 祖父と私の匂いが染みついたこの家。私の庭である裏山。全て、私の物なのだ。


「やっぱり野蛮なんだね、おおかみ人間っていうのは! 狩られるのも当然さ、獣なんだから!!」


 後ろ手に縛られて部屋に放り込まれた。次の日には、山の売却が決まっていた。





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2012/07/26


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