ラルフローレンシュテルンビルト支社長のルイ・ミュレーは貧乏ゆすりをしていた。現在午後三時、夜ではなく昼である。昨日の晩から目が冴えて眠れない彼は秘書が迷惑そうに顔をしかめるのも構わずガタガタと机を揺らし、回転椅子を回し、修学旅行前前夜の小学生のようである。仕事に忙しくあるべきはずの彼が夢と希望に胸膨らませるのに忙しいとなると部下たちがてんてこ舞いになるかと思いきや、そこは彼の秘書がその有能さを発揮して事なきを得ている。秘書の有能さで首の皮が繋がっている男のようだ。


「支社長、支社長!」


 だがいくら秘書が有能だとしてもできないことはあるわけで、支社長であるミュレーが見なければならない書類は机の右端に山となっていた。普段ならばその四分の一以下の在庫であるはずの未確認書類が着々と日本アルプスからエベレストになっていく様子を見かね、秘書は遂にミュレーを呼んだ。


「――あ、ああ。なんだね」

「書類が溜まっております」


 ミュレーは机の上を見た。いつにないほど山積みの書類に彼の口の端は引きつる。彼の優秀な秘書は彼が見る必要のある書類しか回して来ない。つまり、この山となった書類は全て彼が読み込まなければならないものだということであり、ヒーローがイメージキャラクターになったら何をしようかなどという夢想に浸っていられる暇などないことを示していた。

 ミュレーの休み時間は終わり、普段以上の忙しさが彼を出迎えた。HERO-TV以下メディア各社が訪れるのは午後七時――あと四時間弱の間にどれだけ終わらせることができるだろうか? 彼は笑みを浮かべかけて失敗した。

 彼の命令で新聞社各社に広告を載せさせた。ホームページにも突貫で特設ページを作り大々的に宣伝している。――しかし、今晩エキセントリック本人が来なければ意味がないのだ。いくらエキセントリックの着たブランドと名乗っても、明日別ブランドのスーツを着て登場されては「エキセントリックが着た」という宣伝文句は意味がなくなってしまうのだから。今日一日の間にどれだけの収益が見込めるだろう? 果たして広告費を取り返せるだけの利益が出るのか? シュテルンビルトは広いが、その中でスーツを着て働く人口が一体何割を占めるというのか。そしてまた、その何割がわが社のスーツを今日この日に買うというのか。

 ミュレーは万年筆を握りしめた。力を籠めすぎて折れる――などということはない。金属製なのだ。ペン胼胝がぐにりと歪み、指先から血の気が失せて真っ白になる。


「支社長」


 秘書は、彼の心の機微など見通しているかのようだ。落ち着いた声でミュレーを呼び、近寄って彼の手をその手で包み込んだ。


「今から悩んだところで、来るものは来ますし来ないものは来ません」

「うん」


 秘書は彼の手から万年筆を取り上げ机の上に置く。有能だが頭が少し足りない――ではなく、善人の彼は感情の起伏が大きく「泣いた烏がもう笑った」タイプだ。今回はその逆で「さっきまで笑っていたはずの烏が急に泣き出した」だが。その彼を運転するのがこの秘書に課された仕事の一部である。よしよしと撫でられる中年男性という図はなかなかシュールだった。


「カトリーヌ、もう大丈夫だ。ありがとう」


 ミュレーは微笑みを浮かべ、秘書――カトリーヌにしっかりと頷いた。カトリーヌはしばらくミュレーの顔を見つめ、ルージュのきっぱりとした唇を緩ませる。どうやら合格だったらしい。




Danach→


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