いらはいto彩雲国2
目覚めた時、視力の悪くなかったはずの私の視界はぼんやりとぼやけ、頭が重いので周囲を見渡すこともできずにいた。口の中は舌でいっぱいで、収まりきらずに口からはみ出してしまう。声を出そうとして舌が上手く動かなくて言葉を話せない。出たのはバブリングと呼ばれる赤ん坊独特の喃語だ。バブーというからバブリングだと知った時はその安直さにある種の感動を覚えた。
「だー、ぶー」
これが喃語か……! 私の身近には赤ん坊がいなかったから、自分が乳児だった頃なんて覚えてるはずないし初めて聞く。
「キャッキャッ」
喜びのあまり笑えば、ぼんやりとした輪郭の周囲の物が下にさがった――いや、私が浮き上がった。これが超能力の発現なんだろう、幸運補正もきっと付いてるんだろう。なかなか楽しいじゃないか、やったね来世! いや、もう今生だけど。
「起きたかい黎光――ッ!!」
どこかから声が聞こえた。妙に反響して聞こえるのは、赤ん坊の耳だからだろう。三か月から六カ月の間に人間の耳は十三種ある母音の聞きわけを行うと言い、日本語ではあいうえおの五音、英語では十音、スウェーデン語では十二音の母音を聞き分けるように耳が慣れる。これは聞き分けが終了した後追加することはできない。
「黎光……なんたること」
部屋に入ってきたのはどうやら女性で、私の本能的な部分が安心したから母親かそこらだろう。彼女は私に近寄ると宙に浮かぶ私を抱きとめた。赤ん坊の視力は三十センチが焦点――彼女の整った顔がはっきりと見えた。美人だな。この顔が母親だと言うなら私の顔も将来楽しみなんだろう。
「何故目覚めてしまった……平穏に過して欲しいと言うのに」
彼女は悲痛な声でそう言う。そういえば私は宙に浮いてたんだが、彼女は何故驚かなかったんだろう。超能力一家だからとか。
「黎光、しばし眠れ……妾が黎光を守るゆえ」
ゆらゆらと揺すられだんだんと落ちる瞼に、私はいつの間にか寝入っていた。
「あ、おかえりなさい、黎光姉さん!」
霄太師が来たという我が家に駆け込めば、皺くちゃのジジイが茶を差し出され饅頭をパクついていた。まだあの『金五百両じゃ!』は始まってすらいないらしい――良かった。秀麗が働くのなら私も女官とかその他雑用係になろうがついて行くつもり満々だから、取引が終わったあとではまずいのだ。
「ただいま戻りました。霄太師におかれましては長らくお待たせしまして申しわけありません」
略式の礼をすれば、霄太師の正面に座る秀麗が姉さんってば! と顔を青くしている。そりゃそうか、霄太師は国のトップもトップ、国王に次ぐナンバー2だ。それを相手に没落貴族の娘ごときが略式の礼をとるなどあるまじき行為といえる。
「ですが申し上げます。お恥ずかしながら我が家はこのように貧しく、太師へおもてなし差し上げるには人手が足りません。もし先日のうちに我が家へお越しになるお心算でしたのなら、先日中に一報くださいませ」
アポ取らずに来るな、対等な取引したいならそれくらいその小さな頭で考えろ――と、言外に行ってみた。失礼なふるまいを……と青くなる秀麗に対し、静蘭と父上は別の意味で頭を抱えている。霄太師は肩を震わせ、笑い出した。
「なかなか言うお嬢さんじゃのう、失礼した。昨日にでも家人を遣わせておくべきじゃったな」
「いえいえ、霄太師のこれから仰ろうとされていることほどでは」
口元に手を当ててふっふっふと笑えば向こうもほっほっほと笑う。
「流石薔君の娘じゃのう」
「いえいえ、褒められても何も出やしませんよ」
後から秀麗に言われたことには、まるで狐と狸の化かし合いに見えたそうだ。どこが?
「突然で申し訳ないが、そなたらに頼みがある」
私が卓の末席に座るのを見届け、霄太師は私、秀麗、静蘭の名を順に呼んだ。
「もしこれを引き受けてくれたなら――謝礼として、これだけ払おうと思うておる」
突き出される右手、パーに開いた掌。銅五百両だの銀五両だの、違わい金五百両じゃ!と金の話をする二人を横目に、私はいそいそと席を立ち、霄太師の横に並ぶとその左手を取ってチョキにした。そして右手の下に添える。
「ね、姉さま?」
「これくらい大丈夫でしょう、霄太師は国王に次ぐ方なのですし」
「黎光……」
「お嬢様……」
「……流石は薔君の娘じゃの……」
「そう褒めないでくださいませ」
金二百両を追加して、私たちは王宮で働くことが決まった。
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霄太師のアポなし訪問は、褒められることじゃありません。ついでに黎光がしたことも、褒められることじゃありません。 07/26.2010
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