She is taken care xxx.

 モモンガことアインズやアルベドが殺した騎士の一つから腕だけ貰ったアッバルは、腕を飲み込んでは出して味わっている。バジリスクとしての本来の食事をしたのは初めてのことだ、よほど嬉しいのだろう――が、行儀が悪い。アインズがそろそろ注意をするかと口を開きかけたところで、アルベドがアッバルの平べったい額を突ついた。潰れたような悲鳴がアッバルの口から上がる。

「いけませんわ、アッバル様。淑女たるもの食事はマナーを守って品良くしませんと」
「あ、頭が割れるかと……」
「お分かりになりました?」
「分かりました!」

 ガクガクと頭を縦に振って応えるアッバルにアルベドは上品な笑い声をあげ、良い子ね、とさきほど彼女が突いた場所を撫でる。……そして何故かアインズの方をちらちら窺っては「くふっ」だのと怪しい声をあげている。アルベドが何をしたいのか、残念ながらアインズには分からない。

 抜けるような青空の下、日が頭上近くまで上り、明るい日差しに世界が輝いている。宝石とは違う、その一瞬その一瞬しか保たれない生命の発露がここにある。――水滴を抱いてつやつやと光る野の草に、涼しい木陰を提供してくれる緑も豊かな木々、粗末ながら統一されたデザインが美しい村の風景。デジタルは、DMMOは、現実を制限された範囲でリアルらしく映しただけでしかなかった。アインズたちは、本物に似せた絵を見て満足していただけだったのだ……。
 湿った土の発する匂い、不快ではない麦の緑臭さ、人々の生活臭、そして焼き立てのパンの甘い匂い。アインズはしばしそれらに浸った。目を喜ばす美しい風景、鼻をくすぐる優しい匂い。ああ、外界とは本来こういうものなのだ。結論付け、アインズはほうと一つ嘆息した。

 かつて、フランスの田舎の風景はこのようであったらしい。外国なうえ動画でしか見たことのない風景だ、アインズにとって身近に感じられるものではなかったが、長閑で美しい風景だと感じたことは確かだ。アインズにはこれが小麦なのか大麦なのかの区別は着かないけれど、とりあえず畑には麦が植わっている。小鳥の歌と風の音、村の男たちが掛け声をあげながらシャベルで墓穴を掘る音が少し遠くから聞こえる。
 今回の襲撃で村人が数十人死んだ。田舎の村だ、働き手が一人二人欠けるだけでも大変だろうに、老若男女なくこれほど殺されては復興には時間がかかるに違いない――アインズには関係のないことだが。
 いまここに子供の姿はない。アインズの命令に従う善い人食い蛇と紹介したためか、村人たちがアッバルに忌避感を持った様子はないが、人の腕が口を出入りする光景は目に楽しい物ではなかったようだ。十分ほど前、アッバルに興味を示す子供を親や他の大人が引き留め、墓に供える花を摘んでこいと近くの野原へ追いやってしまった。

 アインズは墓を掘る者たちに近づいた。墓穴を掘るシャベルは木製で、先端に金属がついているようでもない。一から十まで木で作られたそれだ。彼らは慣れた様子でそれを地面に差し込んでは土を掘るが、金属製のシャベルとの機能の差はアインズの目にも明白だ。

 掘り返されて強まる土の匂いはしっとりとし、こんもりと積まれていく土の山からは虫や細長い軟体の生き物が顔を覗かせる。何故だろう、土の匂いなど初めて嗅ぐはずなのに、アインズの胸に郷愁の念が湧き上がる。目の裏、耳の奥に流れる、知らないはずの「田舎」。もう引退したはずの名誉会長やら重役やらが、邪魔でしかないのに会社に現れては、社員の耳にタコが出来るほど何度となく語っていた思い出の風景……。

 夏は田舎の祖父母の家に泊まり、近くの川で潜ったもんだ。そんとき沢蟹を捕まえて茹でて食ったんだが、周りはみんな掌くらいのでかいのを捕まえてるのに、俺だけその半分くらいの小さいものしか捕まえられなかったから泣いて暴れた覚えがある。子供で、まあ普段は都市部にいるからな、いつも川遊びしていた従兄弟たちに勝てるわけもなかったんだが。……ああ、川魚も旨かったな。ひい祖父さんから祖父さんが習ったという網を打つ様は本当に見事なもんで、祖父さんが網を打つ度に俺たちは歓声を上げたよ。川原で焼いて食べる魚の味の素晴らしさは表現できん。確か鮎だったかな。
 川も良いがうちの田舎は山だったから、山についてなら思い出がある。田舎の従兄に誘われて入った山で、従兄が足を止めて俺に止まれと手を振ったんだ。何かなと思ったら、従兄の指差す方には猪がいて、小川の水を飲んでたんだよ。遠目だったから子細は見えなかったが、木漏れ日がこう真っ直ぐ猪に射し込んでてな、幻想的とはああいうことを言うんだなと幼心に思った。それから従兄と一緒に息を潜めて、ゆっくり山を降りたんだ。夜には親父と二人で森に入ったな。昼間に塗りつけておいた蜂蜜にカブトムシやなんやが集まっているのをエイヤと網で捕まえて、盆開けには友人連中に見せびらかしたものだよ。
 そうだそうだ、どんどん自然が失われていっている時代だったから、大人もテレビゲームとかをさせるより、自然での遊びをさせようとしたんだよな。懐かしい。俺の田舎は農家だった。放し飼いだが鶏も飼っててな、俺は蝉の羽をむしっては鶏にやった。あいつら、蝉が好物なもんで、そうすると甘えた声でコココーって鳴きながらすり寄ってくるんだ。それがあんまり可愛いんで、張り切って何匹も捕まえては与えたもんだ。そのうち俺が美味い餌くれるって学んだらしくて、俺が祖父さんちの玄関を出るとワラワラ集まってくるようになったんだよ。鶏引き連れて行進なんてこと、クラスでは俺以外に経験のある奴はいなかった。
 うちは――おれのところは――近所の牧場で――老人たちの話は、社員らなど忘れた様子で広がっていったものだった。

 自慢話かよ、とアインズは何度となく毒づいたことがある。他の社員たちも羨ましそうに唇を尖らせて、しかし既にタコができた耳をそばだてていた。アインズ――鈴木悟の世代では経験し得ぬ自然を全身で受け止められた年寄りたちの思い出話が、憎くないはずがなかった。羨ましく思わないはずもなかった。だが、聞きたくないわけもなかった。年寄りたちの話を、各々が理想の自然像を想い描く手段としていた。
 屋外で野球に、サッカーに、ラグビーに打ち込む楽しさなど知らない。胸に爽やかな朝の空気を取り込む気持ち良さなど、剥き出しの地面の上を全力で走る楽しさなど知らない。森のしんしんと冷えた空気も、木漏れ日を反射してキラキラと輝く小川のせせらぎも、大樹の北側半分に繁る苔のひんやりと濡れた感触も知らない。川の中から見上げる青空も、裸足で川原を歩く感触も、川底の石を持ち上げて生き物を探す楽しさも……全ては失われて久しく、いまや人類は屋外では生きていけない。アインズは知らなかった。自然とはかくあるものなのだと知らなかった。知らないけれど、想い描いていた。――そして、自然は鈴木悟の予想など遥かに超えて美しかった。穢してはならないと、一歩踏み出すのを躊躇するほどに。
 年寄りたちは、いつか人類が自然を取り戻したとき、自然を知らぬ者たちが尻込みすることのないようにと伝えていたのだろうか? 怖がらずに飛び込んでみろ、自然は懐深いから誰でも受け入れてくれるぞ、と。

 一歩踏み出して見回せば、ここは宝石箱。いや、宝石箱どころではない。万華鏡だ、一瞬一瞬が美しい絵画だ。永久に保存することなどできない砂絵だ。人智を越えた美しい何かだ。
 今、ここにブルー・プラネットがいたならば、彼は瞬きなどできぬと目を見開いて、全てを網膜に焼き付けようとしたに違いない。彼こそこの世界へ来たかったに違いない。しかし異世界転移を果たしたのはブルー・プラネットではなくモモンガ……アインズだった。アインズにはそれが少し悲しく、しかし嬉しく感じられた。

 村長がアインズを呼ぶ声がする。村長は村の中心から少し離れた墓地にアインズの姿を認めると、お待たせしていてすみません、どうぞ我が家の中でお休みください、と彼の家へアインズを誘った。アインズはそれに鷹揚に頷きを返し、村長の案内に従う。アッバルがアルベドに赤子のようにあやされているのを見たが、見なかったことにしてアルベドに命令を下す。

「アルベドよ、アッバルさんを……そうだな、村の子供たちが帰ってきたら一緒に遊ばせてやってくれ」
「畏まりました、アインズ様」

 そして今度はアッバルに〈伝言〉を繋ぐ。

『アッバルさん。アッバルさんには村の子供たちからこの世界の情報を引き出して貰いたいのですが、頼めますか?』
『もちろんですとも。このプリティーでキュートな私にかかれば子供たちなんてメロメロのメロウですよ』
『例えがいまいち良く分かりませんが、ではお願いしますね』

 胸を張るアッバルだが、結果を見るまでは彼女の得意分野であるか分からない。アッバルは社会に出ていないため年齢の割りに子供っぽいところがあるし、もしかすると子供同士で仲良くなれるかもしれない……今のところ、それは理想に過ぎないが。


 葬儀のために村長の家を出たアインズが見たのは、村の腕白小僧に抱えられたアッバルの姿だった。五歳くらいの少女が次は私の番だと小僧の腕を引いている。アインズよりよほど村に溶け込んでいるようだ……子供の輪に加えさせたのは正解だったらしい。
 蜥蜴ならば尾に当たる部分を撫でられては右へ左へ尾を振るため、アインズには何が楽しいのかいまいち分からないが、子供たちは楽しそうに歓声を上げている。――つい数時間前に恐ろしい襲撃があったのだ、子供が笑顔を取り戻せたのは良かった。たとえ親や兄弟が死んでしまったとしても、笑顔を忘れなければいつか乗り越えられる。鈴木悟としての実感だ。

 死者たちは神の御元へ召し上げられ、安らかに死後の世界で暮らすであろう、という死者への葬送を終え、先程の話の続きを聞くため村長の家へ戻ろうと踵を返したアインズの視界に、アルベドかアインズの殺した騎士の死体を囲み、斧を振り上げては騎士の肩辺りを切り落とそうとする遊び……ではないだろう何かをしている子供たちの姿が映った。アッバルはどこかと言えば、その子供の円から外れた場所で、五歳くらいの少女に抱き抱えられ子守唄を聴かされている。

「うー、切れない……」
「ファイトだよ! バルちゃんのご飯なんだからね」
「悪い奴はバルちゃんに食べてもらわないとなんだよ」

 アインズは頭痛がするような思いで〈伝言〉を飛ばす。

『アッバルさん、何してるんですか……』
『無実です、冤罪です! 私なにも言ってませんし頼んでませんし! なんかこの子達ってば私のことを、村を襲った悪い奴を食べてくれてるいい子、なんて思ったみたいで』
『……』
『善い人食い蛇ってことは悪い奴を食べちゃう蛇さんなんだね、とある子が言い出したんです。それで妙に行動力のある子供が薪割り用の斧を持ってきてしまい……このように。止められなくてすみませんでした……』

 葬式の最中でしたから大声で止めることもできず、とアッバルの声は沈んでいる。怒られると思ったためだろう。……ないはずの脳味噌がキリキリ痛む心地がして、アインズは目の付け根に当たる部分に指先を添えた。仮面を着けているうえ元々筋肉も皮もないので揉むことはできないが、気持ちだけでも揉みたくなったのだ。アッバルは悪くない、子供も悪くない。子供の純粋さが引き起こした不幸な事故だ。――子供の歓声があがる。どうやら無事に切り落とせたようだ。

 ああ、手の中が寂しい……。そう思いつつ手を握ったり開いたりすると突如その願望が消える。沈静化したらしい。色々なことがままならないと、アインズは小さく項垂れたのだった。