5
マルフォイの介添え人がレイノだとパーキンソン? とかいう女の子が言った時、ハリーは頭がクラクラするような感覚に襲われた。
レイノが、何だって? 介添え人というものが何なのかは知らないけれど、レイノが『マルフォイ側』だということに怒りが湧いた。馬鹿を言うな、レイノは僕のだ! と叫びそうになって、自分の考えたことながら慌てた。
なんだ、なんなんだ? これはまるで、僕がレイノを好きみたいじゃないか。付き合ってもいないのに自分のモノ扱いして、嫉妬して――嫉妬。そうだ、僕はあの時スネイプ――薬学教授の方のスネイプだ。レイノじゃない――に嫉妬してたんだ。親子だからってレイノを占領するなんて、許せない、と。
ハリーはますますマルフォイに負けられない気がした。『ただの』同寮の少年であるマルフォイに勝てなくて、どうしてスネイプに勝てるというんだ?
「遅いな、たぶん怖気づいたんだよ」
トロフィー室でレイノとマルフォイ(マルフォイはもはやついでだ)を待ち始めて数分が過ぎ、来ない二人を腰ぬけだと顔に書いたロンが囁いた。マルフォイはともかくレイノが腰ぬけとは思えず、ハリーは首を横に振った。
「スネイプ先生、本当にここに生徒が?」
二つある扉の片方から、フィルチの声が聞こえた。足音は二つ――フィルチの言葉から、一つはスネイプだろうと分かる。
「ああ――マルフォイがポッターと決闘の約束をしたらしくてな。レイノまで巻き込んでいたから課題を与えて帰らせた……。少なくともポッターと、その介添え人がいるはずだ」
スネイプの言葉に、今は減点の危機だというのに、ハリーは安堵した。レイノが来ないということ、それはレイノが危険な目に遭わないということを示している。
「さあ、良い子だ。しっかり嗅ぐんだぞ。隅の方に潜んでいるかもしれないからな」
扉が開き、ミセス・ノリスを連れたフィルチとスネイプが入ってくる。だがその時には既に、ハリーはロンやハーマイオニー、ネビルと共に曲がり角に消えていた。うかうかとしていられない、速く逃げなければ減点なのだ。
心臓が凍るように痛い。冷たすぎて逆に熱く感じるように、血の気が引いているはずなのに心臓は跳ねるように鼓動を打っていた。冷たい空気が胸を焼いた。
「どっかこのへんにいるぞ。隠れているに違いない」
「もしくは、ポッターたちが腰ぬけであった、ということか」
スネイプの言葉にロンが顔を見る間に真っ赤にした。ロンは状況を忘れ文句を言おうと口を開いたが、ハリーは見つかっては敵わないのでその口を慌てて押さえた。
恐怖で強張った足を動かし進んでいると、張りつめた緊張に耐え切れなくなったらしいネビルが突然悲鳴を上げて走り出した。ロンに抱きつき、もつれ合って倒れる――それも、鎧に向かって。
静かな夜を引き裂く大音声。悲鳴を上げる二人の姿に逆に頭の冴えたハリーは先頭に立ち三人に叫ぶ。
「逃げろ!」
どこを走っているのか、彼らを導いているハリーにさえ分からない。まだ二週間目なのだから完全に分かる筈もない。とりあえず走って走って走り続けて、裂け目のあるタペストリーの向こうに見えた抜け道を行き、妖精の魔法の教室近くで立ち止まった。
「フィルチを巻いたと思うよ」
ゼイゼイと息を弾ませながら言えば、ハーマイオニーが深呼吸をしながら鋭い目でハリーを見た。
「だから――言ったじゃない。自分のことばかり気にして……もし見つかって減点でもされてみなさい、明日の汽車で家族への言い訳を考えないといけなくなるんだわ」
「僕に親はいないよ」
知ってるでしょ、と答えれば、ハーマイオニーは更に顔をしかめた。
「育ての親ってことよ。揚げ足取らないで」
「そんなのどうでも良いよ。グリフィンドール塔に戻らなくちゃ、できるだけ早く」
二人の間に流れた剣呑な空気を読まないロンはそう言い放つ。その意見にはみんな賛成だった。
寮に戻ろうとハリーたちは歩き出した。今フィルチに見つかったら減点どころでない気がした。鎧をめちゃめちゃに倒してきてしまったし、逃げたし。
「おお〜ぅ」
歩き出したとたん、空き教室から誰か出てくるのか、ノブがガチャガチャ鳴る音がした。四人の足は止まる。――ピーブズだった。
「黙れ、ピーブズ……お願いだから――じゃないと僕たち退学になっちゃう」
「真夜中にフラフラしてるのかい? 一年生ちゃん。チッ、チッ、チッ、悪い子、悪い子、捕まるぞ」
初めこそ強気に命令したが、この小男に命令できるのは血みどろ男爵と校長先生だけだと思いだし腰を低くして頼む。だがピーブズは聞かず指を振るばかりだった。
「黙っててくれたら捕まらずにすむよ。お願いだ、ピーブズ」
「フィルチに言おう。言わなくちゃ。君たちのためになることだものね」
ピーブズはまるで聖人君子のように胸の前で手を組み、祈りを捧げるように言った。だが、その目には意地悪な光が輝いているのが四人にははっきりと見えていた。
「どいてくれよ」
気の短いロンが鋭い口調でピーブズを払いのけようと手を振った。その動作にピーブズの目がキラリと光る。一瞬でニンマリと口元が歪み、ピーブズは大声を張り上げた。
「生徒がベットから抜け出した!――妖精の魔法教室の廊下にいるぞ!」
さっきの鎧の倒れる音よりもはるかに大きい声だからフィルチの耳に届いていることは疑いようもなかった。四人はピーブズの下をくぐり抜け走り出す。廊下の端――なんてことだ、ここは行き止まりだ!
「もうダメだ!」
唯一の逃げ場所である教室は鍵がかかっていて入れない。逃げ場はない――もうダメだ、ハリーもそれを確信した。
「おしまいだ! 一巻の終わりだ!」
呻くロンを押しのけ、ハーマイオニーがハリーの杖を構えた。ひったくるように取られたせいでハリーの手は無意味に浮いている。
背後からフィルチの足音が近づいていた。
「ちょっとどいて――アロホモラ!」
鍵が開いた。四人は雪崩れのように教室に潜り込み素早く扉を閉め、耳をそばだて外を窺った。
「どっちに行った? 早く言え、ピーブズ」
「おねがいします、と言いな」
フィルチが詰問するのをスルリと逃げて、ピーブズはいやらしく言った。
「ゴチャゴチャと言うな。さあ、連中はどっちに行った?」
「お願いしますと言わないなら、なーんにも言わないよ」
ハリーは夢中で祈っていた。フィルチ、『お願いします』だなんて言わないで、さっさとどこかへ行ってしまって、と。
「仕方がない――お願いします」
言った、と思った。だけど、ピーブズはやはりピーブズだった。
「なーんにも! ははは。言っただろう? 『お願いします』と言わなけりゃ『なーんにも』言わないよって。はっはのはーだ!」
ピーブズが消える時のいつもの音と、フィルチの悪態が聞こえる。助かった、とハリーは安堵の溜息を吐く。
「フィルチはこのドアに鍵がかかってると思ってる。もうOKだ――ネビル、離してくれよ!」
さっきからずっとハリーのガウンを引っ張っているネビルを振り返れば、その背後のモノもしっかりと目に入った。――悪夢だろうか。今日はもう一生分くらいのスリルを体験したと思うのに、まだ続くのか?
低く喉を鳴らすように、三つの頭を持った犬が唸った。犬は巨大で、廊下をギッチリと体で埋め尽くしている。涎が床に小さな池みたいな水たまりを作っていた。
四人は言葉もなくその廊下を飛び出した。悲鳴を上げる余裕などなかった。フィルチに見つかったとしても、命まで奪われることはない。だけどあの犬なら、ハリーたちをその三つの頭で一人ずつ食べてしまえることだろう。犬の胃袋に収まるのは御免こうむりたかった。
太った貴婦人がいぶかるのにも答えず、四人はその日の冒険を終えた。談話室がこれほど安心できるとは思いもよらなかった。
「あんな怪物を学校の中に閉じ込めておくなんて、連中はいったい何を考えてるんだろう」
ハリーは身を震わせる。校長先生はちょっとお茶目なだけの――良識ある人だと思っていたのに。あんな化け物が何故あの廊下に?
ロンが肘掛け椅子に深く座ったまま、顔も上げずに呟く。
「世の中に運動不足の犬がいるとしたら、まさにあの犬だろうね」
「あなたたち、どこに目をつけてるの?」
そんな二人の様子を見てハーマイオニーが馬鹿にしたように言った。彼女の息はもう落ち着いていて、態度も普段とそう変わらなかった。
「あの犬が何の上に立ってたか、見なかったの?」
そしてハーマイオニーに叱りつけられ、三頭犬が仕掛け扉の上に立っていたと知る。
「グリンゴッツは何かを隠すには世界で一番安全な場所だ――たぶんホグワーツ以外では……」
七百十三番金庫の中身の像が、薄らと見えてきた。