花さそふ
暖かい春の日差しに恵まれたある日。政宗は愛を乗せて、馬を走らせていた。
しばらくは馬の高さに怯えていたようだったが、次第に慣れてきて
「政宗さま、ほら、あそこにも桜が咲いてますよ」
ちょっとしたことで喜んで、声を上げるようになるのに時間はかからなかった。明らかにはしゃいでいる。
「Be quiet!舌噛むぞ」
そういうと、愛は小さくすみませんと言って黙ったが、その大きな目は興味津々に周りの景色を眺めていた。そして静かにしていたのも、ほんの少しの間だけ。
「桜がたくさん咲いています。綺麗です……政宗さまがおっしゃったとおり」
川の対岸の桜並木に歓声を上げ、まもなく始まるであろう田植えの用意がすすむ田にも目を輝かせ、青々とした葉でいっぱいになっている畑の作物を知りたがった。もはや黙らせようとするだけ無駄と悟り、舌を噛まないように馬の速度を遅くする。
「もう少し走るから、あんまりはしゃいで体力使うな」
また熱を出すぞ、といつもなら付け加えている。持病があるわけではないから、病弱というほどではないのだろうが、愛はしょっちゅう熱を出して寝込んでいるので、もはや口癖のようになってしまっている。だが今日は言ったら最後、愛がしょげてしまう事がわかっているので、政宗は寸でのところで堪える。
「まあ、もっと遠くへ参るのですか」
腕のなかで、愛が人の気も知らないで喜色満面に見上げていた。
事の起こりは三日前だ。戦に出て一ヶ月ぶりに帰ってみると、普段なら部屋でおとなしく待っているはずの愛が、廊下で待ち構えてきた。
「政宗さま」
薄紅と萌黄の襲ねも華やかに、愛が嬉しそうに笑っていた。
「おかえりなさいませ。お待ちしておりました」
政宗にただいまの一言も言う暇も与えず、愛は政宗の手を引く。
「Just a moment!どうし……」
手を引かれて角を曲がると、そこは愛の部屋の前。縁側には毛氈が敷かれ、酒肴とお菓子とお茶が用意されていた。
「昨日満開になったばかりなんです」
半ば強引に座らされると、正面には庭の奥にある桜が、今が盛りと咲き誇っているのが見えた。
「さあ、どうぞ」
目の前に盃が差し出され、条件反射的に受け取ると愛が酌をしてくれた。
ゆっくり飲み干し、また愛が酒を盃に注ぐ姿を見ながら、ようやく政宗は事情――愛が花見の席を設けたことが理解できた。
「ずいぶんご機嫌だな、愛」
戦から帰ってくると、愛は嬉しそうに迎えてくれる――そして、夜に体に怪我があるのを見て、泣きそうな顔をする。
今回も至極嬉しそうに出迎えてくれたが、いつになく強引だし、何だかしゃいでいるように見えた。
「はい。桜が満開になったところにお戻りになったんですもの。一緒にお花見ができて、うれしゅうございます」
そういって愛はお茶を飲んで、庭に目をやる。桜は政宗が物心ついたころにはそこにあったから、樹齢にして二十年くらいのものだろうか。
「しかし花見するのに、庭ってのもな」
城内に限れば一番大きいのだが、目の前に桜が一本しかないのは、どこか物足りない気もする。
「しばらく戦もねえし、どうせなら遠出して……」
具体的な案があるわけではなく、ただ何の気なしに口に出してしまったが、
「本当ですか」
愛の目が輝いている。まだ行くとも言ってないのに、すでに嬉しいを連発して、おおはしゃぎしていて、政宗は宥めるのに苦労した。早まったことを言ったかもしれないとは思ったが、それだけのことで大喜びされて悪い気はしなかった。
その後、愛はまだしばらく興奮して、そしてはしゃぎすぎて夜に熱を出した。
「せっかく明日遠出する予定でしたのに……」
どこまで話を飛躍させてやがるんだ、ていうか出かける前に熱出すって子どもかよ――と呆れたが、涙目の愛にそうは言えず、
「明日行くと言ってねえだろ」
努めて優しく言ったはずだが、たしなめられて愛が一層落ち込んでしまったので、改めて遠出する約束をし、今日は二人で花見に出かけている次第なのである。
目的地について、二人は無言だった。
山の中腹にある、古木の一本桜――花びらは小さく、色は白と見まがうほど。散り初めているのか、間断なく花が降ってくるが、また神秘的に見えた。
政宗自身、思わずため息をついてしまったほどの見事さだ。すると腕のなかの愛が小さく息を飲んだのを感じた。見ると、ここまでの道中ずっとしゃべり続けていたというのに、今では桜をじっと見入っていた。
馬から下してやると、愛の意識は現実に戻ってきたらしく、桜の木の下に毛氈を敷いて、持ってきたお弁当や酒を並べていたが、座ってしまうとまた黙って上を見上げてしまった。
「首痛めても知らねえぞ」
「でも、とても綺麗なんですもの。お外でこうして見ると、桜は本当に美しいのですね」
お茶にも、大好きな甘い菓子にも、そして何より政宗にも目をくれず、桜を見上げる愛は目元がほんのり赤く染まり、まるで酔っているかのようで、政宗は面白くない。
「そんなもんか」
そう言って、愛の膝の上に頭を預けてみた。抜けるような青空に映える桜と、愛の目が零れ落ちそうなくらいに見開かれているのが見えた。
「政宗さまっ……」
「たしかに、いい眺めだな」
口角を上げると耳たぶまで真っ赤にして、小さく、はい、と遠慮がちな返事が返ってきたことに、政宗は少し満足感を覚えた。
いつもは下に見える愛の顔を見上げるというのも、新鮮な感じがした。気遣わしげに自分を見つめる愛の、そのやわらかい膝が心地いい。
その心地よさに誘われるように目を閉じる。
しばらくすると冷たく柔らかい指が、額から髪の生え際辺りをそっと撫でるのを感じた。驚いて一瞬体を硬直させた政宗だったが、再び額に、今度は先程よりは若干温もりのあるもの――手のひらの感触がした。
どうやら愛に撫でられているらしい――何度か撫でられて、ようやく政宗の体の強張りが解けた。愛の体はいつも、どんな季節・気候でも、なぜか政宗より少し冷たい。その冷たさが時に政宗を不安にさせるのだが、今日は暖かいせいだろうか、その優しい感触とともに何とも言えない心地よさだった。
思わず眠りそうになったが、こんなところで無防備に寝るのはcoolではない気がして、目を開けた。
目の前には仏のように、有るか無きかの微笑を湛えて、自分を見下ろしている愛がいた。いい表情だったが、愛はすぐに申し訳ございません、などと口のなかでもごもご言って、そっぽを向いてしまったので、少々面白くなかった。
起き上がった政宗は、愛の手を引いた。片胡坐をかいた膝を枕に、頭が来るように調節したのは当然のことだ。
「いい眺めだろ。これなら首も痛めないだろうしな」
「あの、そんな……」
突然の事で、どうして自分がこうなったのか飲み込めていないらしいが、とにかく体を起こそうとする愛の顔を両手で包み込み、政宗は顔を近づけ口角を上げる。
「いい眺めだよな、なあ愛」
「あ……」
「あの姿勢じゃオレは酒も飲めねえからな。これでお前は首を痛めずにすむ。なんか問題あんのか。」 愛はしばらく目を瞬かせていたが、やがて首を横に振り、おとなしくなった。
政宗はさらに笑みを深め酒を飲みながら、先程されたように愛の額を、ついで髪をゆっくり撫で、さらには毛氈の上に扇のように広がっている髪を梳いた。
「政宗さま、ありがとうございました」
いつの間にか、愛が桜ではなく政宗を見上げていた。
起き上がろうとする愛の額を撫でるふりをして、政宗は愛を押さえつけた。
膝にかかる愛の重みや、サラサラとした髪の感触が惜しい。愛に触れる事はいつでもできるが、この姿勢はなかなかできるものではない――おそらく愛が当分は恥ずかしがってしてくれないだろう。
観念した愛は、政宗の膝に頭を預けたまま言った。
「わたくしはこの桜も、道中にあった煙るように連なるたくさんの桜も、大好きです」
「It's so good!何よりだ」
「わたくし、政宗さまの治める領内を初めて見ました。本当に美しい所でございました。政宗さまは、よいお殿様でいらっしゃるのですね」
「愛……」
ここに来るまで、愛はただはしゃいでいたわけではなかったのかもしれない。いや、最初はそうだったのだろう。しかし今にして思えば、愛は途中から喜んでいたのだ。自分が治める国が平和であること、豊かであることに。政宗がよい領主であることに。
「政宗さま」
呆然としていた政宗が我に帰ると、愛が微笑んでいた。
「今度は、藤が見てみたいです。連れて行って下さいませね」
子どもだ子どもだと、思い続けてきた。
頭も察しも、いいわけではない。
体ももっと丈夫になって、ついでにもう少し育つといい、と思う。
だが、こうして自分のしたこと、することを喜んでくれる――愛のその笑顔が嬉しい、心地いい。
「All right。今度は熱出すなよ」
言ってからしまったと思ったが、次は大丈夫です、と愛の笑顔が返ってきた。
「どっからくるんだ、その自信」
笑いを抑えることができなかった。
玩んでいる愛の髪に、桜の花びらが落ちて絡んでいる。一幅の絵のように、美しかった。
きっと藤も悪くない。そう思って、同じくいつの間にか花びらが浮かんでいる酒を、花びらごと飲み込んだ。
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