臥竜11


 愛のその顔は政宗が知らないものだった。
 改めて愛を見ると大きな目とその周り、そして頬が赤くなって、泣いた事が一目瞭然だった。これだけ泣いた跡が残るというのに喜多もそれを見た事がないのは、本当に泣いていないか、泣いたとしても跡が残らない程度に制御していたかのどちらかだが、愛は自分が泣き虫だと言っていたから、おそらく後者だと政宗は思った。あの日以来、そうやって申し分なき奥方の姿を保ってきたのだろう。
 政宗が観察しながら考えていると落ち着いてきたのか、愛がおずおず政宗と掴まれた手を交互に見た。緩めてやると、愛は懐紙で涙をふいて居すまいを正した。
「申し訳ございません、お見苦しいところを」
 たしかに今の愛はcoolとは言えない。この部屋に来る時乱暴に扱ったせいで髪は乱れ、小袖にも変な皺がよってしまっていた。
 思えば政宗が持仏堂に入った時、愛が顔を上げようとしなかったのは泣き顔を、みっともない姿を見せまいとしての事だ。むしろ焦りから見苦しいことをしたのは自分のほうではないか、という気がした。
「覚悟していたはずでしたのに……」
 少し沈んだ声も、多少悔しそうではあるがひどく落ち着いたその表情も、政宗が知らないものだった。
「覚悟?」
「わたくし、持仏堂では政宗さまのご無事と、政宗さまに言われたら泣かずに出て行けますようにと、祈念して参りましたから」
 言われた瞬間、政宗は背筋に冷たいものが走り抜けたような気がした。胸に痛みを覚えたと同時に、一気にひどく気持ちが悪くなる。
 一体この感覚は何なのか、そしてそれをやり過ごす方法も、政宗にはわからなかった。
 そこへきて原因である当の本人の声は、ひどく静かで落ち着いている。この差も感覚もわからず思わず愛を睨みつける。
「出て行く、だと?」
 自分で言葉にしてみて再び戦慄し、そしてさらに気分が悪くなった。
 政宗は奥歯を噛み締めて感覚に耐えつつ、呼吸を整える。
 視線の先の愛は、恐怖と疑問の表情を浮かべつつも、政宗を心配して顔を覗き込ませていた。
「政宗さま……」
「出て行きてえのか?」
 低くてかすれていて、ひどい声だった。
 愛は目を見開いて、首を横に振りかけて止まり、悔しそうに少し唇を噛んで俯く。
 こうした反応は政宗にとって予想範囲内だったはずだったが、なぜか怒りがこみ上げてくる。
「答えろ!」
 政宗は愛の小さな肩を両手で掴んでいた。その手からは細い肩の震え、小さな体の硬直が伝わった。先刻の手首同様に肩もひどく華奢で、だが今はそれがなぜか悔しく逆に力を込めると、愛は叱られた子供のようにきつく目を閉じ、唇を噛んでいた。
 沈黙など欲しくはない。だが愛が勝手に黙って、勝手に傷を作っている事が、どうしようもなく腹立たしくなって、政宗が更に手に力を込めると、比例するように愛も唇を噛み、ほとんど噛み締めているような状態になってしまう。
 自分の欲求と愛の行動が合致せず、政宗は舌打ちした。
 怒鳴りつけたい気もしたが、言葉が出てこない。取るべき行動も思い浮かばない。対応策が見つからない事が悔しく、もどかしい。
 歯軋りをすると同時に、手からも同様の感覚がして目をやると、愛の肩に政宗の手が深々と食い込み、今にも握りつぶしてしまいそうになっていた。慌てて手を放したが、小袖の上には手形がしっかり残っていて、その細い肩に骨が軋むほど力を入れていた事実を見せ付けるようだった。
 壊したくないものを、壊れて欲しくないものを壊したような気がした。政宗は思わず目をそむけた。愛から距離をとろうとすると、袖が引っ張られる感覚がした。
 白く小さな手が、政宗の袖の端をひっかけるように握っていた。
 驚いていると、愛は政宗以上に瞠目し自らの手を見て、絶句していた。
「あ……」
 政宗の袖を握る自分の手を見て、愛はひどく狼狽して泣きそうになりながら、また唇を噛み締めた。しかし、その手を放そうとはしなかった。
 置いていかないで――政宗に担ぎ上げられて愛は暴れて抵抗して、しかし敵うわけがなくて、どうしようもなくなってこぼした言葉だが、一緒に聞こえてきた泣き声もあまりにもか弱く、だが聞き逃せないほど悲痛だった。今その手に同じものを感じたが、愛は手を震わせながらゆっくり袖を放した。
「おい……」
 袖から小さな重みが消えて、それが無性に落ち着かず、政宗は愛の手を取った。
 手首ごと包み込めそうな小さな手は、少しひんやりとしていて、しかしこうして掌にあるとじんわりと温もりが伝わってくる感覚にひどく安心させられる。
「逃げるな、愛」
 政宗が愛の唇を指でなぞると驚きつつ、愛は力を緩めた。歯形に沿って少し血が滲み、それでなくても赤い唇が充血していた。
「言え、オレから離れる気か?」
 言ってから、政宗は驚いた。
 愛が離れる、つまり自分の前から居なくなる事。
部屋に姿がなかっただけで無様に狼狽したのは、つい先刻。それでよくもそんな台詞を口にできたものだと、心のどこかで嘲笑の声が聞こえて今度は政宗が唇を噛む。
 あれだけ苛つきながらも、離れるなど一度も考えなかった。
 そして「離れる」という言葉につきまとう、戦慄と気分の悪さ――おそらく嫌悪感というやつは、心か体かわからないが、愛がいなくなる事を政宗の何かが拒否している。こうして詰問するのは本音が聞きたいわけではなく、離したくないからだと政宗は認めるしかなかった。
「わたくし……」
 政宗の手の中で、愛の手が握り返そうと動く。首も大きく横に振って、離れるつもりはない事を訴えている。
「でも、わたくしは何もできません」
 手の中で、ゆっくりと愛の手の熱となじんでいく。同時に嫌悪感が遠のいていく。
「……うるせえ」
「わたくしは、政宗さまのお荷物や障害になりたくありません」
「Shut up!」
 政宗はもう片方の手で、愛を腕の中に押し込めた。
「オレは出て行けとは一言も言ってねえぞ。そういうのを僭越ってんだ、覚えとけ」
 肩をいたわるように撫でると愛から力が抜け、腕にきれいに収まる感覚がした。

2011/02/08 : 初出


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