臥竜10


 固まる政宗をよそに、愛は口元から両手をゆっくり離した。
 頬が濡れているものの、もう泣いてはいなかった。
「乳母たちが死ぬとわかっていても、悲しくなかったのです」
「愛……」
 出した声はひどくかすれていて、政宗は自分がひどく驚いていることに気付かされる。
 そんな政宗の様子に頓着することなく、愛は微笑んだ。驚きで満ちているはずの頭の中で、綺麗だと素直に感嘆する感情が生まれるほどに。
 政宗さま、と愛は笑みをたたえ静かに続ける。
「乳母たちがわたくしのせいで死んでしまうってわかっていたのに、政宗さまが、お前は田村の娘で、オレの妻だ……そうおっしゃって下さって。それが、本当に嬉しくて」
 政宗は思わず息を飲んだ。
 田村の娘で、オレの妻だ――政宗も覚えている。愛に決断を迫った、計算ずくで言った、口にした自分が忌々しくてどうしようもなかった言葉だ。それを愛は嬉しいと言う。昔からその口から出てくる言葉は理解を超えたものが多かったが、今回も政宗は困惑するしかない。
「わたくしは、妻としても人質としても何もできません。乳母のことも、わたくしは対処できませんでした。本当なら、捨て置かれても当然なんです。でも政宗さまは、大好きな方はわたくしに居場所を下さいました」
 懐かしいものを見るように、愛は微笑む。
 その淡々した口調は感情が抜けてしまったかのようだった。しかしそれでも、大好きという言葉が妙に耳に残る。
 ただその声も姿も、ひどく力がなく、崩れてしまいそうだった。 
 政宗は思わず手を出しかけたが、その手をどうしていいのかわからず固まってしまった。
 どうしていいのかわからない。政宗にはそれがひどくもどかしくて、そして胸が痛んだ。
 自分の手と愛を見比べるように交互に見ていると、愛はやがて再び持仏堂の方を見た。
「あんなことになって……なのに政宗さまはお優しい。わたくしは、何もできないのに。けれど、一人になっても、時間がたっても……どうしたらいいのかわかりません。そのせいで、喜多たちもずいぶん困らせてしまいました。乳母たちの供養を思い出したのも、ずいぶんたってからでした」
 どうしてこうなのでしょう。そう言って愛はますます遠くを見る。
「わたくしは自分の事ばかり考えて……母の言うとおり、姫としてふさわしくありませんでした」
 愛は気づいていない、自分の母の話をする時にひどく悲しい目をしている事に。
 つい先刻愛の泣き顔に驚いていた事を棚に上げ、そして今までも何度も思ったように、いっそ泣けばいいのにと、政宗は奥歯を噛み締めた。
 昔はなぜそう思うのかわからなかったが、今は違う。
 愛は泣かないのではなく、泣き顔を見せないだけなのだ。喜多ですら愛の泣き顔を見た事がないくらいだから、持仏堂に籠もっても、おそらく目を腫らす程思い切り泣く事もできなかったし、しなかったに違いない。
 これは武家の姫として愛の覚悟であり、また母親という影のなせる業だ。母親、という言葉に政宗は、さらに奥歯を噛み締める。
「政宗さまが初陣なさる時、実は泣いてしまいました。政宗さまがこのまま帰って来られないんじゃないかって……」
 初陣の時、愛は迷子になって途方に暮れる子供のようだと思ったが、今もそれに近い表情をしているような気がする。
「……縁起でもねえな」
 言いたい事が喉の奥でわだかまっていたが、政宗が口に出せたのは正直な感想だけだった。だがそれで、今まで政宗を避けるように遠くを見ていた愛の目が、政宗に向いた。
「申し訳ございません。勝っても負けても、わたくしを捨て置いて行かれてしまう、そう思いました」
「おい……なんだそれは」
 おそらくそんなはずはないが、自分の安否の心配はしなかったとも取れる言葉に、政宗は思わず問い返してしまった。
「わたくしは、結局自分の事ばかり考えて、泣いて……これで最後にしようと決めました。政宗さまの事を考えて、行動しようって」
 思えば、あの日を境に愛から幼さが消えた。無邪気で無防備なあの笑顔も。
 同時に妻として役割を果たし、周囲もそれを認める申し分なき存在にもなった。
 政宗は化粧を施し、急に大人びた愛に狼狽した事を思い出した。今愛は化粧をしていないというのに美しい。臈たけた、という表現がふさわしいほどだ。
 こうした変化は愛が大人になったというより、奥州筆頭の正妻として勤めを果たそうという覚悟を決めた為なのかもしれない。
「You are not telling the truth. さっき泣いてたじゃねえか」
 異国語がようやく政宗の頭に浮かんだ。言いながら口の端に、意地悪な笑みを浮かべる程度には余裕も出てきたらしい。
 しかし言いたいのはこんなことではない。わかっているのに、なぜか口をついて出るのは愛の言葉に対する率直な意見のみで、今度は政宗が愛から視線を外す。愛が一つうなずくのが視界の端に映り、思わず舌打ちしたくなった。
「先程、政宗さまの足音が聞こえてきて……怒っていらっしゃるようでした」
 実際は怒っていたわけではなく、ひどく苛立っていただけだったが訂正するのも馬鹿らしい気がした。
 横目で見ると愛はその沈黙を肯定と受け取ったのか、目に涙を溜め込み、右手を口元に持っていっていた。
 いつもの考える時のように唇をなぞるような動きはなく、口を抑えるようだった。
「わざわざ持仏堂に近づいていらっしゃったときは、話がおありなのだろうと思いました。ついに政宗さまに愛想を、尽かされたのかもしれないって……話があるっておっしゃられて……やはり、そうなのだって……」
 愛の声は小さくなって、さらに手で口元を抑えてしまった。泣いてはいなかったが、声を出すまいと歯を食いしばっているのがわかった。きっと今までもこうして一人で嗚咽を堪えてきたのだろう。それが痛々しく、そして苛立たしくなって、政宗は愛の口元を覆う手を掴んで引き寄せた。
「なんだ、最後まで言えよ」
 相変わらず口下手のようだが、ここまで愛が話すのを初めて聞いたと、政宗は言いながら思った。
 愛がいやいやと首を横に振るのを見て、さらに強く手を引くと、大きく開かれた目から涙がこぼれるのが見えた。
「……お前、一体いつからそんな表情するようになった」
 近くに寄せた愛は大きな目も、綺麗な目鼻立ちも、変わっていない。
 唇をわなつかせ、少し開いた口で小さく息をし、目を涙で潤ませ、必死に声も涙も言葉も堪えていた。
 姫としての、ひいては伊達政宗の妻の顔――愛はこれを崩す事を全力で拒否している。

2010/12/30 : 初出


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