臥竜9
寒さに耐えるように愛の唇が、体が、震えているのが見える。そしてそれ以上に手から見た目以上に細かい震えが伝わってきて、政宗は動けなくなった。
愛が泣いているのを初めて見た。その衝撃が苛立ちを吹き飛ばしてしまった。
周りとともに赤くなったその大きな目は、涙とともに零れ落ちないのが不思議なくらいだ。涙をつたわせる白い頬は、涙の痕が残らないことから白粉をつけていないことがわかったが、つけていないのが不思議なくらいに肌理細やかで、濡れていることを抜きにしても政宗の手にもしっくりなじむようだった。
政宗は今まで、愛が泣くことを警戒したことも、また逆に泣けば良いと思ったこともあった。今までさんざん自分勝手に考えてきたが、いざこうして目の当たりにして、どうしていいものかわからなくなっていた。
ただただ、泣いてもなお美しい愛に多少の感動の感動を覚えながら、政宗は愛の顔を見続けていた。尽きせぬ泉の如く涙が頬を伝うが、蕾のように唇が固く結ばれて声を出すまいとしているのがわかった。
どのくらいそうしていたのだろう。少し涙が収まったのか、愛が口を開いた。
「……申し訳、ございません」
愛が弱々しく首を横に振り、政宗を避けるように後ろに身を引こうとしているのが感じられたが、政宗は手を放さなかった。大した力を込めなくても封じられる愛の非力さに驚きながら。
すると愛は力では敵わない事はわかっているはずなのに、まだなお首を横に振り続け、そしてまた一層涙をこぼし始めた。
「愛……」
「……なさい。ごめん、なさい……」
政宗の手がなかったら、おそらく愛はうなだれていただろう。そのくらい打ちひしがれ、傷ついて、ひどく無防備に見えて、政宗は狼狽して固まった。
「す、ぐに、泣き止みます。だか、ら……」
今の愛は口調といい表情といい、幼い子どものそれで。だが泣き喚いてもいいはずなのに、声は漏らすまいと、そして必死に泣きやもうとしているらしいことが見えた。
「何泣いてんだよ」
何を言っていいのかわからなかったが、政宗の口をついて出た言葉はこれだった。
愛は相変わらず滂沱の涙を流し、舌ったらずな口調で謝罪を続けているばかり。思わず舌打ちが漏れる。
愛は勝手に泣いて、勝手に謝って。何が言いたいのだろう。
こうしていても愛はきっと話さないだろうことは、経験上わかっている。このままでは政宗自身が解決した問題も解決しない。きちんと差し向かいで話をしたほうがいいと、政宗は判断した。だいたい仏の前は厳粛な祈りの場であるべきで、こうした醜態は見せないほうがいい。
「愛、こっちに来い」
政宗は愛の手首を掴んだが、細くて頼りなくて、思わず手を緩めてしまう。
「政宗、さま」
大きい眼をさらに大きくして、しかし愛は体を強張らせて動こうとはせず、緩んだせいもあって愛の手は政宗の手から離れた。
抵抗というにも当たらないものだったが、政宗は妙に苛立ち、愛を抱き寄せた。
予想以上に愛は小さく、だが柔らかく腕の中にぴったりと収まり――昔抱き寄せた時の感覚そのままだった。しかし今度は逃がさないように肩に担ぎ上げる。
愛は固まったまま、小さく息を飲んだことが感じられたが、すぐに何か言っているのが聞こえた気がした。
「……です」
「Pardon?」
「いや!いやです」
そう言って政宗の肩の上で愛がもがき始め、おとなしい愛の意外な抵抗に政宗は思わず手に力を込めて愛を支えた。
「Freeze!落ちてえのか!」
「お願いです!政宗さま」
まさしく懇願と言って良かった。不思議なくらいの、しかし政宗には意味のわからない必死さで、愛は力で敵わないことがわかっていながら抵抗を続けた。だがそれは抵抗と言うには悲しくなるくらいにささやかで、すぐに止んだ。
「置いて行かないで……」
搾り出すようにそう言うと、愛は堪えきれなくなったのか声を上げて泣き出した。それもひどくか細く、口惜しそうで政宗の癇に障った。
「どういう意味だ?」
愛を降ろすと同時に、政宗は正面に座って睨み付けた。
「あの、ここ……」
「お前の部屋に決まってるだろ」
連れて来られた先が自分の部屋だとは思いもしなかったらしい愛は、しきりに瞬きして辺りを見回し、やがて鋭い眼光を向ける政宗に
「どうして、ですか?」
「おい、質問してんのは……」
「政宗さまは、わたくしに愛想が、尽きたのでは、ないのですか?」
声量も気迫も、間違いなく政宗のほうが圧倒していた。しかし両手を唇に持っていき、考えているのか声を出すまいとしているのかわからないが、くぐもった声になっている愛の言葉が聞こえてきた。
睨み付けたまま眉根を寄せたせいか、眉間にしわが入るのが政宗自身でもわかったが、愛は続ける。
「わたくし、は、泣く事は、泣くところを人に、知られるのは、姫としてふさわしくない、と、母から教わりました。けれど、わたくしは泣き虫、で、泣いてばかりで、武家の女としても、何もできなくて……」
しゃくりあげを抑えながら出てくる愛の言葉に、政宗は口を挟まなかった。
たしかに愛は武家の女として驚くほど向いていない。それには全面的に賛成できるのだが、泣いているところを今しがた初めて見た政宗としては、愛が「泣き虫で泣いてばかり」だったようには、どうしても思えなかった。
「世継ぎが欲しかった、のに、わたくしが生まれて……わたくしは母を、失望させてばかりで……泣かないように、頑張っても、駄目で、泣くたびに捨て置かれて……」
言いながら、どんどん愛は俯いていく。
政宗が少し視線をそらすと、開け放たれた障子の向こうに先程までいた持仏堂が見えた。
泣き顔を見た事がない、それは愛が泣いた事がないというのと同義ではなかったのだ。伊達家に来てから泣きたい事があると、きっと愛はあそこに籠もって人知れず泣いていたのだろう。
「伊達家に来て、乳母よりも喜多のほうがずっと親身になってくれて……政宗さま、わたくし、あのとき……」
あのとき――いつを指すのかが明白すぎて、顔が強張るのを政宗は感じた。
2010/12/12 : 初出
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