臥竜8


 荒い足音で、政宗の不機嫌さ加減が知れたのだろう。廊下や庭先で何人かの家臣が居るのが見えたが、誰もが話しかけたりはしなかった。
 たった一人、成実だけはなぜか能天気にもまとわりついてきた。
「和尚さま、元気だった?」
 和尚を尊敬してやまない成実のことだ、元気なのは重々承知しているはずだし、何よりあの食えない坊主が元気でないところなど想像もつかない。
 政宗は黙ってそのまま歩を進めたが、成実は気にした様子もない。
「何処行くの?」
「……」
「……もしかして愛姫んとこ?」
 冷やかすような言い方を成実がしたわけではないのだが、図星を指されて政宗は成実を思いっきり睨みつけた。
「なんだよー、心配してるのに」
 そう言ってむくれて、今度こそ政宗から離れていったが、
「今行かないほうがいいと思うけど」
 と小さく言ったのを政宗は聞き逃さなかった。
「どういう意味だ?」
 政宗の声も小さかったためか、成実はそのままどこかへ行ってしまった。
 こういう時に限って、どうしてこうも――政宗は一層苛立ちが募るのを感じたが、呼び止めるのも癪で、そのまま愛の部屋に向かった。
 進めば進むほど人気がなくなってゆき、妙に静かになっていくのが、冷静ではない政宗にもわかった。
 いぶかしく思いつつも、政宗は歩き続ける。政宗が足を一瞬でも止めたのは、他ならぬ政宗自身の癖――長い間愛の部屋には来ていないというのに、入る前に中を窺うために足を止めている自分に気づいて、政宗は舌打ちした。
 足は止めたものの、中を窺うことはせずそのまま足を踏み入れる。
「愛」
 ほとんど怒っているようにしか聞こえない口調と声量だったが、生憎誰も聞くものはいなかった。そこには部屋の主も、常に付き添っているはずの喜多も、侍女たちすらいなかった。
 誰もいないがらんどうの部屋に、政宗は血の気が引いていくのを感じて息を飲んだ。
 薫物の香り、整った調度品などから生活の痕跡を認め、愛がこの城からいなくなったわけではないことはわかった。
 だいたい、そんなことがあろうはずがない。わかっているにもかかわらず、政宗には愛がいないという光景が、自分自身でも驚くほど衝撃だった。
 奥の部屋に続く襖を開けても、愛の姿は見えなかった。庭に眼をやっても、廊下に出ても、誰もいない。
 政宗は途方に暮れたように、愛の部屋に立ち尽くした。
 たしかに愛があまりに静かに暮らしていて、本当にいるのかどうか不安になった時期もある。だからこそ、政宗には愛の部屋を覗く癖がついてしまっている。だが今まで部屋に愛がいなかった事など、一度たりともなかった。
 政宗の癖は過去の経験に起因するものではなく、愛がいないかもしれないという不安からきたものだ。だが、こうして本当に愛がいないことがこれほど狼狽することとは思ってもみなかった。
「……ずいぶんと情けない顔でいらっしゃいますこと」
「喜多、か」
 背後から声がして振り返ると、いつからそこにいたのか、喜多が端座していた。
 喜多の苦笑を含んだ表情は、頑是無い子どもを見るようで、本来なら政宗の勘に触る部類のもののはずだったが、政宗は誰か――それも慣れ親しんだ乳母がいることに、急速に狼狽が解けていくのを感じた。
「……愛は?」
 喜多は答えず、廊下の奥に眼をやった。そこは城でも最奥といっていい場所で、そこの小さな一室を愛が持仏堂として使っているはずだった。
 頭に浮かんだ持仏堂という単語に、政宗は呻きたくなった。
 愛はあの事件の日、あの時刻になると持仏堂に籠もっている事を思い出した。
「こうして誰も寄せ付けられないのです、この時間だけは」
 喜多もどこか沈痛な面持ちで、持仏堂を見ている。喜多にも、どうしていいのかわからないのだと察せられた。
「私も時々不安で、こうして様子を窺おうとしているんですけれど」
 そういって喜多は首を横に振る。
 政宗は、静けさに包まれた持仏堂に眼をやり、耳をすませるが本当に物音一つしない。
 持仏堂は、祈念の場だ。政宗でも入るのには憚りがある。だが、喜多すら不安になる静けさが気になって仕方なかった。
 まもなく出てくるはずだと、喜多は言って立ち去っていった後も、政宗はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて自然と持仏堂のほうに足が向いた。
 だが入り口の前に立って、ある種の違和感にとらわれた。
 本来持仏堂は、経を読むか写経をする場所であって、読経の声や数珠をたぐる音がしないはずがない。
 一体愛は何をしているのだろう。そもそも、本当にそこにいるのだろうか怪しいくらいに、気配すら感じられない。政宗は思わず戸口に手をかけた。
「愛」
 狭い一室の中に、愛はいた。
 仏像の前で経典も数珠も持たずに、ただ座っていたが、政宗が声をかけると小さく肩が動いたのが背中ごしに見えた。
 そしてゆるゆるとした動きで、入り口に立つ政宗に向き直り、頭を下げた。
 その姿がひどく小さく、政宗は目の前に愛の存在を確認したというのに、妙に不安にさせられた。
「こんなとこで、何してんだ?」
 口がかわいているのか、ひどく声が出にくくなっていることを、政宗は感じた。
 愛が一層体を小さくしたのがわかった。頭を下げたまま、首を横に振ったがひどく力ない様子に見えた。
「話がある、こっち来い」
 また肩が少し動くのが見えた。聞こえてはいる。だが愛からそれ以上の反応はなく、平伏したまま動こうとはしなかった。
 愛が声を発さず、何より顔を見せようとしないことに、政宗は違和感と、ついで苛立ちを感じた。
「愛、顔を上げろ」
 そう言うと、愛は体を震わせて激しく首を横に振った。意地を張る事もあるが、基本的におとなしく従順な愛の拒絶に、政宗のなかで違和感も増大したが、それ以上に苛立ちのほうが勝った。
 政宗は部屋に踏み込み、手で愛の顔を捉えて上げさせて、そして絶句した。
 いつものように政宗を映しこむ大きな眼が赤かくなって、いつも以上に潤んでいた。
 愛を捉えた手に温かく湿った感触がした。少し動かすと、政宗の手を濡らすものがあることがわかった。
 愛が泣いている――政宗が理解するのに、少し時間がかかった。

2010/11/22 : 初出


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