臥竜7
政宗はもう一度掛け軸を見た。
雲と雷をまとい、玉を片手にして空を翔る竜のその姿は誇らしげに見えた。
雲も玉も含めて、竜を構成する要素のどれ一つとして欠けてしまったら、そうは見えないだろう。素直にそう思えた。
そして政宗は考える。
自分にとっての雲と玉は何なのか。
そして、もしどちらかを失ってしまえばどうなるのか。
「……暴竜の行き着く先は二つ。地竜と昂竜じゃ」
政宗を思案の縁から現実に引き戻したのは、和尚の言葉だった。
「地竜」も「昂竜」も、どちらも聞き覚えの無い言葉だった。政宗の怪訝な表情を見たはずだったが、和尚は皮肉な事を言うわけでもなく続ける。
「地竜は落ちた竜、大地で暴れて害を為す。逆に昂竜は昇りすぎた竜、高く飛び過ぎて元いた場所に戻れぬ。……おわかりか?」
和尚の穏やかな表情の奥で、鋭く眼光が光っているのが見えた。政宗は深呼吸して、頭の中を整理する。
「……竜は雲を失えば飛べずに堕ちる。玉がなければ力が制御できずに暴走する。そういうことか?」
政宗は、言葉にすると事の重大さがわかった気がした。
「然り。誠に竜とは難儀な生き物じゃ」
和尚はそう言って喉の奥を鳴らすように笑っていたが、政宗としては笑い事ではなかった。竜が、そして暴竜と称された自分が、まさかこれほど危ういものであったとは思ってもみなかった。
政宗は思わず開いた己の両手を見る。まず眼についたのは剣だこ――竜の爪を振い続けてきたことを示す証拠だった。常に握りこんでいるはずのこの手から零れ落ちようとするものがあることに、政宗は苦笑を禁じえなかった。
一体、何が失われようとしているのだろう。
そして暴竜である政宗自身は、地竜と昂竜のどちらになろうとしているのだろう。
考えている頭の隅から、ある疑問がわいた。
暴竜が地竜や昂竜になる前の状態だとしたら、暴竜の手にはまだ雲も玉もあるということになるのだろうか。
その問いをぶつけてみると、和尚は瞠目してから破顔一笑し、
「左様。若は慧眼ですな」
珍しく和尚が褒めたことに呆然としながら、政宗は再び両手を見た。
本当の竜になるために必要な物、政宗はそれを今はまだこの手に掴んでいる。
「暴竜は、雲と玉のいずれかを失いかけてもがいている竜。失うまいと足掻く姿じゃ。無様かもしれんが竜本来の姿を保つためには必要なこと。若のお悩みも、そのようなものでしょうな」
和尚があまりにも気楽にそう言って笑うものだから、政宗もうっかりうなずきかけて、固まった。
こうして和尚と問答を始める前まで、考えていたのは愛の事だった。
正直苛つく程考えていた。たしかにこうして思い悩んでいる姿はcoolとは程遠い。
では愛は政宗に――独眼竜にとっての雲か玉なのだろうか。
「若がどのような竜になられるかは存知あげんが、お気をつけなされよ」
人の気も知らず和尚は固まった政宗を見ておもしろそうに笑っていた。
和尚に追い出されるようにして帰城した政宗は、寺から借り受けた竜の掛け軸を掛け、人払いをして自室に籠もった。
掛け軸を前にして政宗は、竜と対峙する。
政宗は竜を標榜する自分が、こうして改めて竜について考えることになろうとは思っても見なかった。雲も、玉も、まったく意識していなかった。この際なので、竜とは何か徹底的に考え、探ってみようと思った。
にらめっこでもするように政宗は竜を睨みつけていたが、不意に庭から吹き込む風の冷たさが背中を撫でて、現実に帰ってしまった。
舌打ちしながら庭を見ると、すでに日が落ちかけており、ずいぶん長い間考え込んでいたらしいことに苦笑しつつ、政宗は風の冷たさに冬がまもなく到来しようとしている事を感じた。
冬が来ると、雪のために戦はできなくなる。思えばこの一年はずっと竜の爪を振るっていたと、両手を見ながら政宗は改めて思った。
政宗は初陣から立て続けに出陣した。この剣だこの分だけ経験を積み、それによって今や伊達の跡取りとして実績も名声も、そして家臣たちの信頼も順調に得ている。
父からの信頼もますます篤いし、母とは疎遠なのは相変わらずだが言葉にトゲを感じる事は少なくなった気がする。
家族のこと、家臣のこと、改めて考えるとすべてが順調だ。そのなかで、ひっかかりがあるとすれば、やはり愛だった。
愛のことはあの事件以来、放置してきた経緯がある。戦に出続けていたということもあるが、愛とは不和であるという噂も当の政宗本人にまで聞こえてきてもいる。
だが政宗は愛を手放してはいないし、愛も政宗の妻として勤めを果たしている。それが証拠に、母や喜多たちの城の奥向きでも、そして小十郎や成実たち重臣の間でも、愛の評判は上々だ。
総合的に判断して、多少の問題は抱えているにしても、政宗にとって戦や政務に専念できる体勢が整っているという意味では、申し分ない状況と言えた。
しかしこの望ましい状態下にあって、政宗は苛立っている。愛に関係することにだけに苛立っている。
だが愛の何に苛立ちを覚えているのか。それは政宗にも正直説明できないことに気づいて、また舌打ちを禁じえなかった。
政宗は何かを思い切り暴れたい衝動に駆られた。
考えれば考えるほど、苛つくことばかりだ。これだけ考えて――かれこれ一日中考えていた事になるが、竜についても、愛についても、まったく答えどころか手がかりすら見えない。
脇息くらい蹴飛ばしても良かったが、いくら人払いしているとはいえ、物音がしたら誰かが来るし、それを見られる事はcoolとは言い難いため、政宗は堪える。だがそれによって解消されるわけもなく、むしろ腹の中にますます溜まっていく感覚すらした。
こうなったらどれか一つだけでも、早急にはっきりさせてしまうに限る――政宗はそう思い、廊下に出た。
「政宗さま」
「付いてくんじゃねえ!」
口調も、歩調も、苛立ちそのままにひどく荒く、それに気圧されたのか小十郎の足音は聞こえなくなった。
2010/11/07 : 初出
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