臥竜5


 初陣から帰ってきて即、政宗は母の義姫にわざわざ報告に出向いた。
「よしさんもお前の帰りを楽しみにしている」
 父の輝宗は戦のなかでも義姫からの手紙が来ると、必ずそう言って眼を細めていたせいでこうなったのだが、政宗にしてみると母は絶対にそんなこと思ってないだろうし、何より帰ってきてすぐにそんな煩わしいことしたくないというのが本音だが、父の勧めを断ることはできなかった。
 そういえば、愛からは陣中見舞いと称して酒が何回か送られてきた。それに添えられている手紙の内容はというと
「熱を出す事もなく、恙無く暮らしております。ご心配なく……云々」
といったものばかりだった。
 その筆跡は流麗というには程遠く、また力強さにも欠けていた。だが読みやすく、それが書面を整って見せていると言えた。
 手紙といい筆跡といい、初陣前に会った愛の印象そのままだ。幼さが消えて、一体何を考えているのかわからない。それは陣中において苛立ちの原因にもなったし、手紙の内容も手伝って政宗が書く返事の手紙もおざなりなものになったことを思い出し、政宗は暗い気分が更に沈んでいくことを感じた。
 ただ、義姫が初陣の時同様に妙に上機嫌で
「無事の帰参、まずはめでたい」
 そう言って政宗を労ったことには、面くらいつつも緊張が解けるのを感じた。
「しばらく見ぬ間に、たくましくなるものじゃ」
 そして「しばらく見ぬ間」の事――元服して間もないという理由で留守番になった従弟の時宗丸改め成実が、存外しっかりと役目を務めていた事、今年は気候が良く大雨も日照りも冷害もなかった事などを、得々と話す姿に政宗は唖然とするしかなかった。滅多に顔を合わせないのはいつものことだが、その「しばらく見ぬ間」の事をこうして政宗が聞くのは初めてだった。
 唖然としすぎて、ほとんどの話の内容は耳に残らなかったが
「愛殿も近頃は体も丈夫になられた様子。まもなく本祝言を挙げねばのう……」
 返事もそこそこに部屋を辞したが、政宗の頭の中はまだ整理されたとは言い難かった。
 婚礼を挙げたあの日、「三年床入りは罷りならん」と母は言っていた。もう少し先だが、その三年にまもなくなろうとしている事実よりも、あれほど反対していたくせに、今こうして逆のことを当の本人から切り出してきたことに、政宗は当惑するしかなかった。
 あの機嫌の良さといい、一体どういう風の吹き回しなのかと考えつつ、廊下を歩いていると菊の香りがしたような気がした。
 すでに菊の季節は過ぎたはずと、訝りながら足を止め庭に眼をやろうとして
「政宗さま」
 小さいがそのきれいなその声を聞き逃すことができなかった。振り返ると案の定、愛が遠目にもわかるその大きな眼を見開いて、棒立ちになっていた。
 まさしくばったり出会ってしまったのは政宗も愛も同じのようで、呆気にとられてお互いを見ることしかできなかった。
 妙に居心地の悪い沈黙が流れた。聞こえるはずがないのに、愛がそっと詰めていた息をゆっくり吐く音が感じられるようだったが、それを破ったのは意外にも愛の方だった。
「おかえり、なさいませ」
 おずおずと、何かを確認するかのように発せられた声は、相変わらず通りが良く耳に心地よかった。
「ご無事で、ようございました」
 政宗が生きている事を確認すると、急に安堵して力の抜けた表情を浮かべる様子は、あの日の愛と寸分違わなかった。
「……ああ」
 誘われるように政宗は愛に近づいた。
 愛は手紙で「熱を出す事もなく……」と綴っていたし、母も丈夫になってきたと言っていたが、こうして見ると確かに細くなったとまではいかないまでも、心なしか小さくなったように見えた。
 そして肌の白さも気になった。もともと色白だったし、どこがどうと明確に説明できないのだが、今の愛は少し色づいた頬と艶やかなまでに赤い唇が妙に映えて政宗を不安にさせた。
「見違え、ました」
「pardon?」
「背丈……」
 語尾は聞こえないくらい小さくなってしまったが、どうやら政宗の背丈が伸び様に驚いている事は感じ取れた。実際、この半年で背丈がぐんと伸びた。
 そこで政宗は、愛が小さく見えた理由がわかった。
 愛が小さくなったのではなく、自分が大きくなったのだ。むしろ、心なしかと思う政宗が程度には、愛も成長したのかもしれない。
 ただ、目の前の愛は頬を紅潮させてもごもごと何か言おうとしている姿を見ると、口下手は相変わらずだと思っていたが、愛はやがて意を決したように
「頼もしくおなりで、驚きました」
 それだけ言うとますます顔を赤らめる愛を見ながら、
「You launched a surprise attack on me」
「はい?」
 本人に自覚がないだけに性質が悪いが、政宗は愛は不意打ちがうまいのも相変わらずだと思った。
 そのたった一言で政宗がどれだけ動揺したのか、愛にはきっとわからない。同じことを母に言われても何とも思わなかったのに、愛に言われた瞬開から心臓が早鐘を打つのを感じたし、その音が愛に聞こえるのではないかと思ったくらいだ。
 舌打ちしたいのを堪えて天を仰ぐと、風が吹いた。先程政宗が思わず足を止めた香が、より強く混じっていた。
 菊花香か落葉香か――先程政宗が菊の香りと思ったのは薫物の香だとがわかった。
 だが、今はそれにかすかに脂粉の香がした気がして、思わず愛を見る。
 あの唇の赤は紅の色であることを、政宗はようやく理解した。
 妙に不安にさせられた肌は、白粉のせいだろうか。いや、白粉はしていないのかもしれない。時に女から漂う化粧独特の刺激のある匂いは、政宗には感じられなかった。
 脂粉の気というほどではないにしても、艶かしさが混じっていたような気もした。
 政宗は今度こそ舌打ちを禁じえなかった。
 初陣を果たし大きく成長したつもりでいたが、こんな些細な愛の変化で動揺するとは。
「政宗さま」
 政宗は愛に背を向けて歩を速めた。
 衣擦れの音が後を追ってきたが、どんどん遠ざかっていく。それにまた、妙な不安を覚えてしまう自分に、歩みは荒くなった。
「政宗さま」
 ようやく追いついたのは声だけ。それもずいぶんと頼りなげで、政宗を苛立たせた。そのまま政宗は馬に乗って城を飛び出した。

2010/10/12 : 初出


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