臥竜3


 唇に持っていた右手で口を覆っているせいで、聞き取りにくい声になっているが、愛は続ける。
「お母上さまは、関わって、おられません。お母上さまは……」
 一言一言、息継ぎをしながら愛はそう言い切った。細い肩が上下していることが政宗にも伝わった。
「……お前、それがどういうことかわかってんのか?」
 政宗はひどく冷静だった。
 出した声が自分でも意外なほど低い。喜多も小十郎も瞠目して居すまいを正し、すぐに動けるように跪座をする。ただ愛一人が変わらず、呼吸を整えた後
「厨には田村の、わたくしの侍女しか、おりませんでした」
「ああ、そうだな」
「ですから、お母上さまは、無関係です」
 愛なら、きっとそう言うだろうと思っていた。
 あれだけしごかれても懲りる事なく愛は姑に仕えた、嫁が姑に仕えるのは当たり前、と言って。政宗の妻である、と愛は幼いなりに自負心を持っているのだ。
 確認のように政宗は言った。お前は田村の娘で、オレの妻だ、と。
 動かしようのない事実と、愛の自負心。この二つを並べれば、愛は己の侍女たちの罪であると認めてしまうだろうということを、漠然とではあるが政宗はわかっていた。わかっていながら忌々しさを禁じえず、政宗は舌打ちした。
「政宗、さま?」
 ひどく弱弱しい声で政宗の勘に触る。
 そう、愛は弱い。
 この戦国の世で、弱きは強きにつけこまれ淘汰されるのみだ。なのに愛は体も立場も、こんなにも弱い。なぜそこまで弱く生まれついたのだろう。愛の弱さに怒りがこみ上げる。
 これで愛が泣きでもしていたら、その弱さを詰ることも、怒りをぶつけることもできたかもしれない。しかし、覗き込んで見た愛は泣いてはいなかった。唇をわなつかせ、血の気の引いた顔をしているくせに、目だけは臆することなく政宗を見ている。物言いたげでありながら、何かを惜しむかのように。
 その眼差しも、政宗の気に触る。
 一体、愛は何が言いたいのだろう。愛は何を考えているのだろう。眼差しの意味するところが把握しかねた。
 苛立ちもそのままに、どうしようもなく乱暴に愛を再び抱き寄せて、政宗は小十郎と喜多に睨みつけるように鋭い眼光を向け、うなづいた。
 小十郎と喜多はそれぞれ、目を据わらせる。
 小十郎は息を小さく吐き、半ば威嚇するかのように。
 喜多は大きくを息を吸い込み、静かに確認するように。
 この二人は言いたい事を抑える時、そして政宗に決定を迫る時の表情や仕草はよく似ている。取る行動は間逆にも関わらず、目の据わり方はまったく同じになる。
 血は争えないなと思いながら、四つの目を政宗は一つの目で受けた。だが怯みも逡巡もなく、行けと唇を動かすと、小十郎と喜多は示し合わせたように顔を見合わせ、政宗に一揖し、立ち上がった。
 二人が動く気配がわかったのだろう、愛が息を飲むのが伝わってきて、政宗は腕に力を込める。
「政宗さま」
 この期に及んでも、愛の声には泣いている気配が感じられなかった。
「お前もオレも、決断したんだ」
 正確には違う。愛は姑を庇っただけで、田村の侍女を殺す事に同意したわけではないだろう。「殺すがいいか?」と聞けば否と答えたに違いない。
 だがどちらかを選ぶということは、どちらかを捨てると同義語なのだ。
 愛は決断した――田村の娘ではなく政宗の妻であることを。
 政宗は決断した――母ではなく愛を犠牲にすることを。
 そして、決めたことを覆すことはもはやできない。
「政宗さま」
 耳に届く声はひどく頼りなく、か細い。それでも泣いてはいないようだった。それどころか、政宗を恨んでいるようにも、責めているようにも聞こえなかった。
 いっそ愛が泣けばいいのに。泣いて叫んで罵って――どんな方法でも表現でもいい、感情を出せばいい。それなら政宗も理解できる。
 しかし愛は政宗の心中を知ってか知らずか、小さく首を横に振り続ける。そして、
「政宗さま」
と何度も何度も呼び続けた。それ以外を口にすることができないかのように。そしてその声に嗚咽が混じる事はなかった。
 苛立ちが頂点に達しかけた時、政宗は背中に愛の手を感じた。驚いている政宗を気遣うようにおずおずと手を回していた愛は、やがてしっかりと政宗に縋り付いていた。
 女性特有のいい匂いと柔らかさが伝わってくる。いつぞやに愛を抱きかかえた時に比べれば、ずいぶん肉付きも良くなっている。あの時感じた、胸にぴったりと収まる心地いい感触はそのままに。
「政宗さま」
 何度も繰り返されるその声は、いつまでたっても悲しみを含まない。怒りも滲まない。あろうことか、そんなはずはないのに甘えているようにさえ聞こえる。
 政宗は婚礼の夜のことを思い出した。
 今よりもっと口下手だったあの時の愛は、どう話していいのかわからなくなって、勝手に慌てていたが、最後まで泣くことはなかった。あの時は愛が泣かない事に安堵し、今はそれに苛立つとは皮肉としか言いようがないが、政宗はようやく納得できた気がした。
 何に困っているのか、何を言いたいのか、愛に聞いたところで言えないだろう。侍女、田村家、そして自分のこと、聞きたい事や言いたい事がありすぎて、困惑しているに違いなかった。
 そんな状態の愛の声に甘えを感じるとすれば、愛が頼る先――侍女も、実家も、昔から自分を守ってくれていた存在がなくなったことを理解しているからかもしれない。
 政宗の背に回された手には、力がこもっていた。だがそれはひどく非力で、政宗が軽く愛の肩をつかんで体を離しただけで、あっさりはずれてしまった。
「部屋に戻ってろ」
 下手人の処分、そして政宗の無事の公表を急がなければならない。政宗自身が姿を現し、事の顛末を説明して上で、田村への対応もしなければならない。
 これらを速やかに行うことこそが、愛の不安や困惑の解決にもなるだろうと思った。
「政宗さま」
 こうして見ても、やはり愛は泣いていなかった。その眼は、政宗を映しこもうとするかのように、大きく開かれていた。それを振り切るように、政宗は部屋を出た。背中に愛の眼差しを感じながら。

2010/09/17 : 初出


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