万寿聖節


 庭の萩がいつも間にか、満開になり、虫の涼しげな声が聞こえている。つい数日前くらいから風が急に冷たくなり、秋も深まってきたと感じ初めていたある日のこと。
 政宗は一日政務に追われ、愛の部屋を訪れたのはいつもより少し遅くなっていた。
「What’s happen?」
 愛は縹(はなだ)の襲――桔梗と呼ばれる青の色目で、打掛は雉と花が刺繍してある華やかな着物で、晴れやかな微笑みとともに迎えた。着飾るような時間帯ではないだけに、政宗は不審な思いにかられたが、愛はさらに困惑するようなことを言った。
「はい、今日は万寿聖節です。おめでとうございます」
「万寿聖節?」
 ただただ、愛は嬉しそうでならないといった風に笑みを深める。
「喜多から聞いたんです」
 喜多は医学書を読み漁る過程で、朝鮮や明国の書物にまで手を出し、和尚までも巻き込んで漢文に磨きをかけていることは聞いていた。最近ではどうやら持ち前の凝り性を発揮して、医術や薬に関係ない書物にまで手を出しているらしい。
「明国では、皇帝さまがお生まれになった日を万寿聖節というそうです。隣国の使節が都に来るほど、重要な行事なんだとか。喜多は本当に物知りですね」
 愛が喜多の博識を褒め称えているのを見ながら、政宗は今日さんざん書面で見た日付を思い出した。
「わたくし、生まれた日をお祝いしたことも、意識したこともございませんでした」
「そうだな」
 政宗自身、まったく気づかなかった。忘れていたというよりも、明国とは違って生まれた日を祝う風習がないためだろう。
「ですから、どうしようかと思ったのですけれど、やはり政宗さまがお生まれになった特別な日ですし、何かできないかと……」
 言いながら、愛はそわそわし始め、挙句に声も次第に小さくなっていく。
「あの、ご迷惑だったでしょうか?わたくし、その……」
 たしかに愛は浮かれているように見えた。ついでに生まれた日を祝うという発想にも、慣れていないせいか政宗も困惑のほうが勝っている。しかし愛がこれほど自分を考えてくれることが、面映いながら嬉しい。
「勝手に落ち込むんじゃねえよ。まあ、何をしようとしてたのかは知らねえがな」
 愛が何かに取り組んでいることは、実はずいぶん前から政宗は気づいていた。
 政宗は傍らで眠っている愛の手を探ることが、ひそかに癖になっているのだが、手荒れがずいぶんひどいことを確認していた。
 愛の手は、体は、なぜか何時如何なる時も少しひんやりしている。
 そのせいだろうか、愛は暑さに弱い。少し暑くなったと思っていたら、あっという間に食欲が落ちて、周りを慌てさせる。ここ数日ようやく食欲も戻ったようだが、抱き心地が悪いし、無理させられないし、それでなくても政宗はご機嫌ななめだったのだが、それ以上の手荒れは不快だった。
 愛は昔のように頻繁に熱を出すようなことはなくなったが、体が弱いのは相変わらずで、政宗には意味不明なことが未だに起こる。その中でも一等理解不能かつ、政宗を不機嫌にさせるものが手荒れだ。
 愛は筝と縫い物のせいで年がら年中、手を荒らしていると言っていい。
 筝は専用の爪をつけた右手で弦をはじき、左手は直接弦を抑えたりして、音の調節をする。愛は熱心に弾くのだが、冬場になると左手の指先がぱっくり割れて、時に血を見る。
 そこへ来て愛は縫い物も好きだ。最近は陣羽織も一部ではあるが縫えるようになってきて、ますます針仕事に忙しい。
 しかし、陣羽織のように固いものを縫うには力がそれなりにいるが、愛はそもそも力がない上に爪が薄くて弱い。割れたり欠けたりすることも、珍しくない。
 ――わたくしの爪は、薄いかもしれませんが、その分生え変わりも早いから大丈夫です。
 愛はそう言っていたが、出来上がってくる物に血が付いていないことが不思議ですらある。そもそも爪がそんなに簡単に割れたり、あまつさえ生え変わりが早いものなのだろうか。とにかく疑問を挙げればきりがない。
 しかしこれだけははっきりしている。愛は何かに打ち込んでいると、手に出る。
「お前が何かしようとしてることくらいは、お見通しだ」
 政宗が手を取ると、愛は少し顔をしかめた。どうやら傷に触れたようだとわかって、政宗は包むように、力を入れないように持ちかえる。
「こんなにしやがって」
 常に喜多に言って、手荒れに効く薬を常備させてある。愛は手がべたつくと嫌がるのだが、つい先日半ば嫌がらせに、非常に粘性の高いがよく効く軟膏を手袋と一緒に贈ったのだが、効いている様子はない。
 小さくて白くて柔らかい、しかしところどころガサガサしていて、切れていて、赤くなっている愛の手。そして政宗が少し力を入れただけで、あっさりへこんでしまうほど脆弱な爪は大半が欠けていて、いびつな形をしている。
 一方政宗の手は、愛の手をすっぽり包めるほどに大きく指も長く、剣だこが武骨ではあるが、傷一つついていない。
 荒っぽいことをしているくせに綺麗な自分の手と、あまりにも対照的で、それが一層政宗の不機嫌に拍車をかける。
「……お気づき、でしたか」
「気づかねえほどオレが朴念仁だと思うか?」
 きつく叱られた子どものように、愛はうなだれる。
 愛は知っている――自分の手が荒れることを、政宗が嫌がっているという事を。
 政宗は知っている――愛の手は冷たいが、その手からできた物には温もりがある事を。
 その温もりを手放したくない。それをくれる愛も、大事にしたい。
 しかし、そのために手だろうが何だろうが、荒らしたりして欲しくはない。
 荒れたその手は、自分の手に収まるほどの小さなものすら、守れていないような気にさせられることまで、愛は知っているだろうか。
「まさかbirthday presentとは思わなかった。で、ここまでして何を作ってたんだ?」
 そう言うと愛は俯けていた顔をあげ、逆に政宗の手を取って部屋に招きいれた。
 部屋の中には、酒肴の用意と着物が入った櫃が一つ。
「初めてわたくしが一人で作ったんです」
 そういって、長櫃から愛が広げたのは陣羽織だった。
「お前……」
 こんなもののために、と言いたくなった。一見すると黒い生地を使っている以外は、いつもと変わらない陣羽織だったからだ。
 しかし手に取った瞬間、赤の裏地とそこに施された刺繍が見えた。
 肩には一頭ずつ竜。
 後ろ身ごろの左右に一頭ずつ青い鳥。下には山、火、酒器が並ぶ。
 そしてそれらの上に君臨するように大きな竜。
「……excellent」
 肩と中央の竜は青。鱗の一つ一つが金糸で丁寧に縫いこまれており、緑や白の雲を纏って手足の爪を大きく広げ、体を躍動させている。
「お前が考えたのか?」
「いえ……お軸や屏風の絵を参考に致しました」
 そういう愛は恥ずかしそうというより、申し訳なさそうに暗い表情をしている。
「どうした?謝りたそうだな」
「……本当は、図柄も何もかも、全部作りたかったんです」
 どうやら愛は悔しがっているらしいことに、政宗は気づいた。
「やれやれ。ずいぶん気合が入ってるじゃねえか」
 愛は推しも推されもしない奥州一の大名の正室だ。本来ならば、奥向きの差配をしていればいいのだ。縫い物をするにも、本当なら侍女にさせればいい。しかし愛は政宗の着物を作ることをやめない。政宗自身も止めたことはないし、止める気もない。
「それは、そうです。わたくしは、ご無事をお祈りすることしかできません。わたくしにできることは、本当に少ないんです」
「愛……」
 愛は小十郎のように背中を守ることはできない。喜多や母のように、武芸に秀でているわけでもない。
 しかし戦から帰って自分を迎える愛の笑顔も、こうして作られてくる着物も、愛に関わる全てが温かい。これだけは愛にしかできないものだ。
「You are very obstinate.お前のそのできることが、重要なんだぜ」
「え?」
 きょとんとした顔の愛に、政宗は苦笑した。
「こいつは昇竜、だな」
 政宗は中央の竜の鱗に触れ、ゆっくりとたどってみた。下絵は愛が描いたのだろう。鱗の線が細く、女性的とは言わないものの、優美さが感じられるその竜は、掴もうとしているのか、守ろうとしているのか、黒と青で二重に縁取られた白い玉を追いかけて、上に大きく口を開けて空を舞っている――昇り竜。
 愛は静かにうなずき、
「政宗さまが、更なる高みに昇られますように」
 祈る事しかできない愛が、まさしく祈りを込めて作ったのだろう。
「ああ……Thanks」
 よかった、と愛が笑ったが、やはりその手が痛々しい。ずいぶん張り切ったものだ。 戦勝祈願の願掛けのように、一から全て自分の手でやり遂げなければ意味がないとでも思ったのか……。
「願掛け?」
「政宗さま?」
 眉間にしわを寄せて、固まった政宗を愛は心配して覗き込んだが、次の瞬間口角を上げて微笑む政宗を見て、思わず後ずさったが手を取られてしまった。
「愛。薬はどうした?」
「はい?」
 愛の声が不自然に高い。政宗は笑みを深くする。
「手荒れに効く軟膏だ。しっかり塗ってんだろうな?」
 願掛けの際は、水垢離・お百度などを同時に行うのが一般的だ。政宗が戦に出ている最中の出来事のため、愛の願掛け話は伝聞になるが結構な来歴だ。
 水垢離は健康上の問題で、真っ先に喜多が禁止した。
 お百度はやってみたら足がもつれて転倒したため、やはり喜多に厳重に禁止された。
 結局断ち物をしようとしたが、病み上がりのくせにやろうとして「城中に稲妻が走った」と今もって伝説的に語られるほど喜多を怒り狂わせた。
 以来愛の願掛け話は聞かないが、考えてみれば断ち物は食物に限らない。例えば薬断ちもその一つだ。
「あ、はい。大事にとってあります」
「Overly honest person!いいことだが、夫の配慮を無視したわけだな」
 愛の泣きそうな表情が、全てを表していた。
「お仕置きが必要だ、なあ愛」
「……お許しを」
 どうすることも出来ず俯いて、小さくそういった愛は、政宗は一層笑みを深めたことを知らない。
「そうだな、手荒れが治ったら許してやる」

2010.09.09(旧暦08.02) 初出

引用:『明史』巻六十六、輿服三。
皇太子冠服。……洪武二十六年に制定し、……黒の衣に赤の裳で、衣は五つのしるし、山・龍・鳥・祭器・火をいれる。……永楽三年に制定したことには……黒の衣に五のしるし、龍は肩に、山は背に、火・鳥・祭器は袖に、毎袖にそれぞれ三つ入れる。
 親王冠服。……永楽三年にまた制定し……、東宮と同じものとした。
(皇太子冠服。……洪武二十六年定、……玄衣(糸へんに熏)裳、衣五章、織山・龍・華蟲・宗彝・火、……永楽三年定、……玄衣五章、龍在肩、山在背、火・華蟲・宗彝在袖、毎袖各三。
 親王冠服。……永楽三年又定冕服・皮弁制、倶与東宮同。)



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