臥竜 2


 それは、初陣直前のある日のことだった。
 早足だが静かな足音と、今まで聞いたことがないくらい忙しない衣擦れの音がした。
「政宗さま!」
 肩で息をする音とともに、高い声が部屋に響く。走ってきた、というわけではないのだろうが、今までしたことがない早足だったのだろう。息を切らせて、愛が大きな眼を潤ませて政宗を見て、ついで泣きたいのか笑いたいのかよくわからない、中途半端な表情を作って動かなくなってしまった。
 城中では奥向きでももっとも表に近い一室。敷かれた寝具の上で、政宗は上半身を起こしてそれを見ていた。
 愛の後ろで障子が閉められ、出入りを禁じるように喜多と小十郎が並んで座した。
 しかし愛はひたすら、政宗一人を見続ける。その目は、怯えと安堵とがないまぜになったものだった。
「政宗、さま」
「愛」
 政宗は口元に笑みを浮かべ、手招きした。
「え?」
 今いる褥のすぐ横を指差すと、愛は戸惑って政宗とその指が指した先を交互に何度か見ていたが、やがて政宗が示したところに座り、じっと政宗を見つめた。
「そうじゃねえ」
 そういって、政宗は愛の手を引っ張りさらに近くに引き寄せる。ぎくりと愛が硬直するのがわかった。
「なんだ、オレは幽霊じゃねえぜ」
 愛がゆっくりうなずく。政宗は愛の手を己の額に当てた。
「熱もねえ」
 ようやく愛から強張りが取れ、目からは怯えが消え、安堵の色が急速に広まっていく。
「……よかった」
 そう言う声も表情も、力が抜けていて妙な感じになっていたが、政宗の事を心底案じていた、としか言いようのないものだった。
「オレが死んだと思ったか?」
 愛は妙な表情はそのままに、首を小さく、だが何度も横に振っていた。
「倒れられた、と……びっくりして、その……」
 泣いているわけでもないのに、愛はどんどん言う言葉につまっていく。こういう時は、結論だけを言わせるに限る。ようやく愛の口下手にも慣れてきた。
「What did you think about?オレは無事だったぜ」
 何度も何度もうなづいて、それでもどういっていいかわからない様子の愛から、ようやく出てきた言葉は
「よかった、ご無事で」
「それだけか?」
 愛は何回が口を開閉させたが、結局うなだれて
「……申し訳ございません」
「That gives me satisfaction.謝るな」
 政宗はその愛の頭を抱え込み、宥めるようにその髪を撫でる。そして、愛に間違っても顔が見えなくなると笑みを消し、控えている小十郎と喜多に目を向けた。
 喜多は愛を見ながら首を横に振った。政宗がさらに目で促すと喜多は声を出さず唇を動かした。
「……なあ、愛」
 喜多の報告が終わると、愛の髪を撫でていたはずの手に、いつの間に力が入っていた事に気づいた。しかし愛の髪は柔らかくさらに指どおりがよく、いい手触りでありながら政宗の力を吸収しているようでさえあった。
 その感触が惜しかったが、政宗は手を止め愛の耳に口を近づけた。
「母上の侍女の部屋から、毒の入った薬包紙が見つかったそうだ」

 出陣前のこの時期に、政宗の食事に毒が入れられた。
 幸い政宗の口に入る事はなかったが、政宗は早々に自分の無事を公表すること、そして下手人を処分する必要性に迫られていた。
 前者は政宗が無事なので問題はない。問題は後者だった。
 まず侍女の犯行は間違いない。その侍女は大きく分けて三つ――伊達家関係者、政宗の母義姫が連れてきた者、そして愛が連れてきた者がいる。
 怪しいのはそれぞれの実家と密に連絡を取っている、義姫の侍女か愛の侍女か。
 義姫は政宗とは疎遠で、弟を伊達の跡取りにしようと動いているとも聞いている。
 愛の侍女たちは愛の世話もそこそこに、家中をかぎ回ることに躍起になっていると、喜多からずいぶん前から聞いている。
 疑う要素はいくらである。ありすぎるくらいだ。
 仮に義姫の侍女の仕業であったなら、それはおそらく義姫の指図だ。政宗も、喜多もそれは同意見だった。政宗は母には疎まれているという自覚がある。憎まれていると思ったことはないものの、あの気丈な母なら、意に染まない息子の排除に動くのではないか。そんな気がしてならないからだ。
 しかし、侍女はともかく母である義姫には手出しはできない。いかに正統な理由があろうとも、母殺しは世間が認めるところではない。
 では逆に愛の侍女の仕業だったとしたら。愛の指図なのだとしたら。愛の処遇は。
 愛のことについて多くの疑問符が頭を過るというのに、その対処について即答する事が、政宗には出来なかった。
 そうして現れた愛を見て、政宗は確信した、愛は何も知らない、と。こうして喜多がこの部屋に連れて来たことが何よりの証拠だろう。
 政宗の胸は高鳴った。
 愛が小十郎や喜多には目もくれず、政宗一人を目に入れて一途に心配している。
 喜多や小十郎をはじめ、政宗を心配する人間はたくさんいる。何かあったら他人から多大な配慮がくるのは、政宗には当たり前のことだ。しかし、政宗には愛の心配が自分でも驚くほど嬉しかった。
 我知らず無意識に力を込めた手に伝わる柔らかい感触に、狼狽し同時に痛みも感じた。
 こうして己が値踏みされているとも、おそらくは己の侍女のした事も知らない、無力で無知で子どもの愛。しかしいつの間にか成長している。
 政宗も、そして愛も、変わらないではいられない。決断しなければならないのだ。
「そんな!」
 愛が顔を上げようとするのを、政宗はそっと抑えつける。今、自分がどんな顔をしているのかはわからないが、愛に見られたくはなかった。
「お母上さまが関わっておられるはずが……」
 悲しくなるくらいに微々たる力で、愛が腕のなかでもがく。政宗はさらに声を低くして
「なら、今回の事は田村の仕業、ということになるな」
 愛の体が固まる。しばらく呼吸すら忘れたのか、身じろぎ一つしなくなった。
「厨には、田村の侍女しかいなかったって話だ」
 そして、体が次第に震えているのが伝わってくる。しかし、やがて右手が動いたのが感じられた。愛が考えている時の癖――愛は一体何を考えているだろう。
「薬をもっていた最上の侍女。厨にいた田村の侍女。どちらかが、どちらかの犯行に見せかけてオレを殺そうとした。そういうことだろうな」
「……」
 愛の頭が少し動いた。うなずいているようだった。現実を拒否しているわけではないらしい、そう思って政宗はこれまでわかっている事を、ただ事実のみを並べる。
「どっちの仕業にしても、オレは殺されかけた。内密に処理……はできねえ」
「はい」
 愛がようやく口を動かした。しかし、それは政宗にしか聞き取れなかったに違いない。そのくらい掠れた、小さな声だった。
「それからお前は田村の娘で、オレの妻だ。奥向きで起きたことに、お前が無関係ってわけにはいかねえ」
 愛の体は小刻みに震えていた。
「……せん」
 政宗の耳元に、愛の声がした。いつもなら小さくても聞き取りやすい愛の声が、耳元で発せられているというのに、震えて聞きとれなかった。
「愛?」
「お母上、さまは……悪く、ございません」

2010/08/28 : 初出



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