「起きて、フランシス」
「ん……」

寝返りをうつ彼の頬に、金糸の髪がはらりとかかった。そしてその拍子にほんの少し、赤ワインの香りがする。昨日は帰りが遅かったから誰かと飲んだのかもしれない。家に二人でいるときには上品な振る舞いで微笑む彼は、外では皆を盛り上げる側に回っていることが多いらしい。それは親しい人が多いということだろうが、なんだか奇妙に感じた。昨日、彼と飲んだのが男か女かは知らないが、きちんと家に帰ってきて寝ているということは付き合ってはいない、友人なのだろう。ならば今、ここで彼が起きるのを待っている私はいったいなんなのだろう。そう、彼の帰りを待ち焦がれる度に考えてみれば、その度に哀しくなる。

「もう、起きてよ」

いつも彼が作ってくれる豪華な朝食にはどうしたってかなわないような、簡単なものだけどきっかり2人分、作ったのに。冷めちゃうのはもったいないし、自分の分は食べてしまおうと、少し乱れている高級感のあふれだす毛布を整えて、ぽすんと軽く叩いた。スープだって冷めちゃうんだからね、心の中で呟いて勢いよく立ち上がるとベットから小さな唸りが聞こえた。反射的に振り向いて、ひとつ溜息。彼は私を引き止めるのが、ひどく上手なのだ。








彼の休日は少ない。だけどその休日のほとんどの時間を私に割いてくれているから、1日の寝坊くらい甘受してあげるけれども、今日はせっかく朝食をつくったのに、二人で舞台を観に行こうと言っていたのに。珍しく誘ってきたのは彼の方で、主演の女優さんと知り合いなんだとか。彼女の招待ならば、私が行かないことにはなんの問題もないが、彼は行かなければ失礼にあたる。予定していた時間にまだ余裕はあるけれど、彼は家を出るまでの時間が女性のそれと同じくらいかかるからなるべく早く起きてほしい。

思えば、彼は約束ごとはきちんと守る人だった。仕事に出かけるにも約束した十数分前には目的地についているような。普段の彼とは大きく違っているから、あまり気付いている人はいないかもしれないけれど、そういうところは嫌にきちんとしているのだ。( 私は、しってるよ )ならば、どうして。疑問がはらはらとふってくる。彼は国として、誠実に生きていると、私は思っている。これをイギリスさんに言ったら大声で笑われたが、彼の自国に対するひとつの思いは貫かれているし、私と違い飽き性ではなくひとつのものに対して一途な思いを抱き続けるというのは彼の得意分野だ。例えば あのこ とか
それから、彼はとても優しい。優しいというよりは親切といった方が少し近いかもしれない。殆どの時間家のなかにいる私だけど、たまに外にでると、彼が観光客に道案内をしているのは何度も見かけたことがある。彼は優しさから、私をこの家に住まわせているのだろうか。いや、違うはずだ。日本に帰るといったら、とめられたことがある。色々な訳を並べていたけれど、特に的を得ているものがあった訳ではない。それでも私は母国に帰ることより彼のもとに残ることを選んだ。


「…おはよう」

声がして、寝室の方を見てみると寝間着で髪が乱れたまま申し訳なさそうに立っている彼がいた。数年この家で一緒に暮らしているけれど、彼がねぼうするところも身仕度せずにダイニングまで出てくるのもはじめてみた。いつもの自信満々の彼じゃなくて捨てられた猫みたいな彼は、なんだか私の母性本能をくすぐる。ねこじゃらしがそわそわと触れるようだった。フランシス、かわいい。そう呟くと、少しびっくりしたようい口を開いてなんにも言わずに呆れたように小さく笑った。そうして、いつものフランシスに戻って、朝ごはんはどうしたんだいと尋ねる。

「私、作ったんだよ」
「わあ、アーサーとどちらが美味しいかな」
「イギリスさん、料理が下手なの?」
「そりゃもう最っ高にね」


くすくす、お互いの笑みにほっとした。私たちは、仲なおりの仕方をしらない幼い子どものように喧嘩をするのをさけて来た。なんでもない冗談を言って微笑んでそしてなにもなかったことにする。先に話したフランシスの一途なところは、脆さとおなじことだった。何かに自らを捧げないと生きていけない、国、友、国民、守るために生きているのだ。それにはきっと私も含まれていて、彼に守られて生きている。私は日本人で、彼の友人というには近くにいすぎだし、彼を知らなすぎるのに。馬鹿みたいにまっすぐで周りに甘えるのが苦手なあなた。私は彼の歴史のなかでとてもちっぽけな一人の女。ただ少し特別、同じ家にいるということだけ。彼とキスしたことのある女と、キスはしたことがないけれど一緒に暮らしている女はどちらが特別なのか、知りたいけど、それを言葉にする勇気は私にはなかった。それは同じように、フランシスにもない。


「ごちそうさま。おいしかった」
「フランシスがつくった方が全然おいしいよ」
「きみが つくってくれたから、おいしいんだ。」


ありがと、呟くような小さな声になった。フランシスはときどき、彼には考えられないくらい甘ったるい言葉を紡ぐ。そんなときはいつも、私の好きな笑みを携えていて、それがまた質が悪い。私は背骨がぎゅっと縮こまるように猫背になって、きょろきょろと慌ただしく動き回る目玉と赤くそまった頬を隠すようにぐっと俯いた。「そ、そんなことより、劇はどうするの。遅れちゃうよ」照れ隠しのためだとばればれの台詞を、何もしないよりはましだととりあえずつげる。そうだ、こんなにのんびりしている場合ではない。舞台は待ってくれないのだから、きっとすごく綺麗で女らしい女優さんがあなたを待っているんだから。


「今日は、気分じゃないんだけど」
「でも、約束は…」
「君が良いなら行かなくてもいいさ。彼女の舞台はこれからもやる」


急にお腹がぐるると鳴って、彼が笑った。


やっぱり今日は家に居よう
僕がランチを作るからさ




うん、頭を一つ落とせば二人の距離はぐんと縮んだように思えた。たった一つの簡単な言葉と動作で、こんなに簡単に距離が縮むなら、今までの時間は無駄だったんだろうか。そんなことはないんだと胸をはって言える。立ち止まったり回り道をしてみたり、そこで見つけた大切なものがあるから、だから今こうして小さな一歩が踏み出せるんだって、私とフランシスには絶対必要な時間だったんだって胸はって言えるよ。


こんにちはわたしの




今日はよい夢を見て