海


 ここの海は綺麗ね、と彼女は取りつかれたように何度も呟いていた。
 自分からしてみれば、この国の中でもここより綺麗な海辺はたくさんあるし、少し他の国に足をのばしてみればさらに綺麗な海など見つかるだろうに。だけれど、この岬の崎にわざわざ家をかまえている自分の言える台詞ではないだろうと、緩やかに吹く潮風にのせるように溜息をついた。
 静かだ
 この国には流氷がこない。地図上では北方に位置する国だが海岸沿いに流れている暖流のため、それほど寒くはない。それが静かな理由だった。彼女の黒くて長い髪が緩やかな風にながされ、雲のような地のマフラーがはためいた。海風は冷たいけれどずいぶんとおだやかだ。彼女は砂浜にしゃがみこみながらとても小さく歌いだした。なんだか懐かしく感じるような、しかしこの国の言葉ではない。きっと日本の民謡だろうか。哀しいのか愛しいのか、分からない、不思議な曲だった。そういえば、彼女から聞く日本の話はどれをとってもおもしろくて不思議なものだった。




ザザーンザザーン
る るる

波と彼女のリズムが同化する






  岬


 彼女がつくったシチューに街の小さなパン屋でサービスしてもらったフランスパンをひたひたにして咀嚼する。彼女の一口はとても小さい。食べる量も少なく、細い手首はぽきりと折れてしまいそうだった。その手首につけている金のチェーンのブレスレットが僕は好きで、何かに触れてカチとなるのが彼女の存在そのものでもあった。僕はそれに触れたみたくてしかたがなかったのだけれど、とうとう彼女の許しがでる日はなかった。きっと、思っている以上に薄く、細かくそしてつめたいのだろう。考えることはいとも容易いのに、その感触を想像することは直接触れてみないことには不可能だと思った。そんなことを考えているうちに僕はフランスパンを食べ終わっていた。彼女はやはり口が小さいのか。手元に半分以上パンをのこしてブレスレットを小さく響かせる彼女を僕はぼんやりと眺めている。
 少し温くなった紅茶を飲むと、彼女が顔をあげた。僕らとは違った、闇に包まれた双瞳が上向きになってゆっくりと僕を捉える。肌の白さと対になる瞳の黒は僕らがどうしても持っていないもので、彼女が嫌う自身だった。瞳・髪の黒を僕らは―――特に弟は気に入っていた。僕は、彼女に見つめられると目を細めたくなるような感覚にとらわれて、反するようにその感覚を薙ぎ払い見つめる。感じるままに行動できたらどんなによいものか。




少女はパンをハンカチで包み、ポケットへ

まるで
少女は身売りにむかう女だ





   灯台


 僕の家のある岬から、北に二つ行った岬には小さいがたいそうな役割を持つ灯台がたっていた。彼女はとてもその灯台を気に入っていて、二人で訪れては登った。それは今日も例外ではない。冬空に低く浮かぶ雲は、流れがとてもはやく、とどまることを知らない。しかし、この二人の間に流れる時間は、西陽を浴びているような全身に感じるあたたかな光と空気をはらんでいた。彼女と過ごす時にだけ流れるゆったりとした時を僕は、手放したくないと思う。
 ハンカチに包んだパンを小さくちぎってはらはらと落とすと海に住む鳥たちが上手くキャッチしていく。そうして彼女の一部分になるはずだったものは鳥たちの血肉となる。海を越えるエネルギーになる。
 「たあんとおたべ」
 彼女は笑っていた。自分の身体を海鳥に分ける行為をしながら、嬉しそうに笑っていた。

 パンを全てなげてしまうと、彼女は漸くこの寒さに気がついたのか、いそいそと二重・三重にマフラーを巻きつけていく。すると不意にこっちをむいて、ふにゃりと笑った。そして僕の知らない言葉を呟いた。きっと、いや絶対に日本語である。彼女と暮らすようになってから日本語を学ぼうとも思ったけれど、お互いに英語で生活してきたからすぐに止めた。だって、意味がない。だから僕のしっかりと知っている日本語は「ありがとう」と「さようなら」だけだ。何故かはわからないけれど、彼女が真っ先に教えてくれた言葉だった。ありがとう、さようなら。声に出してみるといやにもの悲しかった。



陽が沈む
長い長い夜のはじまり

ランタンと彼女の掌を握って




    波打ち際


 灯台から、地平線に沈む夕陽を見た。僕らの影がとても長かった。冬は夜が長くて、やっぱりいやだと感じる。彼女が何を考えていたかはわからないけれど、陽が沈むまでまっすぐと光を見ていた。そしてブレスレットがきらきらと、輝いていた。僕は彼女についていくだけだから、何も考えずに彼女と見慣れた景色を眺めるだけをする。次はまた砂浜に戻るようで、彼女は僕の腕をとって、のんびりと進んだ。それはもう、いつもの倍くらいのんびりと。
 砂浜と灯台のちょうど真ん中あたりで、僕は立ち止まり、ランタンに灯をともした。このランタンは僕と彼女が唯一、二人で買ったものだった。珍しく街で散歩したときに、たまたま開いていた市場で腰の曲がった老婆が売っていた、老婆の過去が全て詰まったランタン。彼女が見惚れて、僕が買った。あの老婆も少女だったころに、慕っていた少年と二人ならんで歩いたのだろうか。そうだといいと思った。

 夜の砂浜は昼とは全く違った。泡だけが白く浮き出て見える。それから、ランタンのぼんやりした光と、ときどき当たる灯台のまっすぐな光。お互いの顔を確認するには十分だった。彼女は昼と同じ顔をしていた。僕もきっと。
「ノルウェイの海は綺麗ね」
 毎度のことながら、彼女は言った。僕はもう何も言わない。無意味なことだから。僕がどんな返事をしても、彼女はまた同じことを言うのだ。
 夜の海は冷たいだろうに、彼女は波打ち際に座り込み、手を浸けていた。真っ赤な手を想像すると少し痛ましかったが、僕には彼女のしたいがままにさせることしかできない。金のブレスレットが時折、ちかりと反射する。彼女の生だ。


she hopes that she gets
Norwegian marine.

we hope that we are together
for ever

however, I must live

we cannot be together
for ever...




 永遠というながい時間の中であまりにも過ごす時の幅が違いすぎる僕たちには、永遠という言葉をつかうことはとてもできない。僕が生き抜かなければならない時も永遠と呼べるのだろうか。少なくとも、彼女の永遠の中では僕は生き続けられるだろう。

握った彼女の手はとても冷たい

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