おれ、しおんのなまえ、きらい


僕は仔犬たちを洗っていた。僕がこっちに来る前は知らないけど、来てからは僕の仕事になっていた。こんな場所で、動物(犬だけだけど)に触れあえる仕事なんて、幸せだ。でも、イヌカシがどんな顔をして産まれたばかりの仔犬を洗ってやるのか、とても気になった。彼でも、笑うのだろうか。卑しい笑いではなく、生を見つめて笑うのだろうか。彼は人間より犬を愛しているのだから、きっと僕が見たこともない様な優しい笑みが犬には向けられるのだろう。僕はふと、何百年も前にどこかの国にいた“犬将軍”と呼ばれた人を思い出した。イヌカシは現代の犬将軍だな、とも思った。
僕の返事が無かったことに苛ついたのか、イヌカシが地面を蹴る。


ごめんよ。どうして僕の名前が嫌いなの?


紫苑のやつがオレの言葉を無視しやがって、何か考え事をしているのがいやにムカついた。仕事中にぼーっとするなと叫んでやりたくなったけど、オレから話しかけたことを思い出したから寸前で止める。生きるか死ぬかの世界、ヒトゴロシ、そんなこと大したことじゃない世界で生きてるのに、無視なんてとびっきり小さな事が目の前で起こることの方が苛々する。地面を蹴った。
紫苑が来てから色々、考えるようになった。こことあっちの違いとか、オレと紫苑の違いとか、ネズミとオレの違いとか。今まで当たり前でしかなかったことに僅かな可能性が入り込む。だけど僅かすぎて、以前のオレだったら気にしなかったのに、紫苑とネズミとオヤジと一緒なら変えることができるかもしれない、できる限りのことをやってみたいと思うようになった。死に急ぐことになるだけなのに、あれもこれも全部、紫苑のせいだ。
リアルとNo.6の違いと同じくらい、オレと紫苑の違いはたくさんあった。眼が違った。身に付けるべき知識が違った。思想が違った。どこをとっても同じところは無かった。名前ひとつとってもそうだ。“紫苑”ってなんだよ。花だか知らないけど、なんでそんなに幸せそうな名前なんだよ。呼ぶ度に心のはしっこが密かに傷つく。紫苑・ネズミ・イヌカシ。一目瞭然じゃないか。


自分で考えろよ


名前が嫌いだと言われて、真っ先に思い浮かんだのは母さんの姿だった。母さんの作るパイが食べたい。ネズミやイヌカシにはこんなことを考えられる相手もいないのだ。少し思いを巡らすだけで、たくさん違いが見つかる。リアルにも数は少ないが、母子はいる。一目見ただけではどんな境遇かは分からないが、母が子に向ける視線は僕の知っているものと変わりはなくて、少し安心した。あの特有の眼はどんな苦境に居ても普遍なのだ。今、母さんは何を思っているのだろうか。僕のことを想ってくれているのだろうか。
イヌカシのお母さんは、亡くなっている。イヌカシの名前は、親から名付けられた訳ではなく、周囲が彼の職を呼ぶだけだ。名のある警察官がお巡りさんと呼ばれるように。彼がそれを嫌がる様子も疎ましく振る舞うこともなかったけれど、沈殿してこべりついたような、今まで気にしていなかっただけで本当は心の奥底にずっとあり続けた思いが今となって、“紫苑”という外部の存在によって出てきたのだろうか。


イヌカシって名前、いい名前だよね



僕の手元で仔犬が気持ち良さそうにくうんと鳴いた
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