私の祖国は美しい。
長い髪は艶やかで、上にちょこんとのっているリボンもとても似合っている。いつも可愛らしい洋服を着ていて、月並みな表現だが人形のようだ。もっとも、あんなに怖い顔をした人形なんて無いと思うが。きっと微笑んでみせたらもっと美しいのに


「なあ」


ナターリャはわたしに会うたびに自分は美しくないと嘆く。わたしは心の底から、あなたは美しいわ、とても、と言うのだけれど彼女はわたしに背中を向ける。彼女の細い背中はわたしの中の大切なところを確実にかする。ほんのり触れて、はたと離れてゆく。もどかしくて、手を伸ばしてしまって、だけど触れるほんの少し前に拳を握ってしまう。
触れたい、のに








ナターリャのお兄さんは、彼女の想い人でもあった。彼女の愛しているという言葉はすべて矢のように一直線にイヴァンの方に向かってゆく。だけど、的を射ることはなく、さらりとかわされている。彼女は美しいのに、兄妹という理由でかわされてしまう。ただ、決してそれだけではないのだけど、彼女はその理由を知らない。
ナターリャが、私をイヴァンのところへ連れていくことはよくあった。普通に訪ねていれば、彼だって普通に通してくれるのだ。たまにライナが暖炉の前にあるソファに座っていて、そういう時は、彼女が紅茶を煎れてくれた。ロシアの寒い冬空のもとから暖かい部屋に入り、じんわりとにじむような紅茶をいただく。小さいけれど幸せだ。きっとナターリャもそう、感じているはずだ。







おちる

本当のことは分からないけれど、彼女がこの世で彼に会った時から、彼女の心は彼に一直線だったのだろう。彼女が“人”ならば、80の老婆になっても美しい容姿を持ち、ブロンドの髪を持ち、変わらない想いを持つのだろう。そしていつか、死ぬ
私が彼女と知り合った時には既に、彼女の病的な愛情表現は存在していた。ナターリャの周りにあまり人が寄りつかないのはその為だ。そして自分のことをあまり気にしないのもその為だった。彼女の身なりが綺麗なのは、イヴァンに見られるからであって他の理由なんかひとつもない。彼女の部屋がひどくちらかっているのは、綺麗にする必要もない――イヴァンに見られることがないからだ。
いったい、彼女には禁忌を犯しているという感覚は、あるのだろうか







ナターリャの部屋は汚いのではなくて、散らかっているだけだった。洋服は脱いだまま、髪飾りはテーブルの上に錯乱している。花瓶に活けた花は、枯れている。
週に1回。決まって木曜日にナターリャの家へ訪れた。林の奥の奥、少し拓けたけたところ。そこにナターリャの家はある。私の役割は、掃除、洗濯、たくさんの家事。それから、彼女を外の世界へ連れ出すことだった。下手をすればイヴァンの家へしか行かないから、とライナに頼まれたのはもう何年も前だ。
最初のころは出るのを渋っていた彼女も、今ではその日の気分で映画も見に行くし、洋服も買いに行く。喫茶店はお気に入りができて、外出する度にその喫茶店のココアを飲んでいる。





おちる

全てがいとおしいと思った。スクリーンを真剣に見つめる瞳が好きだ。洋服を選ぶときの細くて綺麗な指先が好きだ。彼女の好みが好きだ。ココアを口に含むときの柔らかく、艶やかなくちびるが、好きだ。
こんなに好きなのに、彼女はイヴァンが好きで、だけど、そのひたすらな姿すらも私は大好きだなんて心底救われないわ、私って。








イヴァンと私は、他人に近い存在だった。私は、ナターリャとはもちろんのこと、ライナとも仲が良かったけれど、彼のことは少し苦手だった。彼が、ナターリャの好きな相手だというのもだけれど、本質的にあまり得意とするタイプではなかったのだ。たまにイヴァンの家で会う、トーリスという彼も同じような事を思っているようだった。
威圧感のある大きな背丈も、いつも笑みをたたえているその顔も、美しい彼女の想いを受け入れないところも、気にくわないことばかりだった彼から、妙な視線が送られていると感じたのはいったい、いつだっただろうか







おちる

イヴァンが何を考えているか、私は分かったためしがなかった。分からなくて困ることもなかったし、困るような時にはライナがこっそりと耳うちしてくれたからだ。
しかし、私の思考は誰を介する訳でもなくイヴァンへすぐに伝わってしまった。単純に、私がすごく分かりやすい人間だというのもあるけれど、意外に勘の鋭く、付き合いの長いライナよりもはやく気づかれてしまうというのは、そういうことなのだろうと、私は考えている。ただ、ナターリャがそういう機微に疎く、イヴァンも控えめであることが唯一の救いである。









「ねぇライナ。なんで彼は私なんかを?」

「……そうかしら?あなたはすごくいい子だと思うけれど。それに、よく考えてもみてほしいの。あなたは兄妹間や同性での恋は禁忌だという。それならば一番大衆的なのは、だれ?」


よく考えなくてもわかることだった。そんなこと、何度も考えたことはあるし、泣きそうになることもあった。イヴァンが私の目を見て、好きだと告げてくれたなら、私はきっと彼のことを好きになってみせる。だけど、私はナターリャが好きなのだ。愛している。
もしもそうなってしまったら、ナターリャは、私を殺すだろう。彼女の愛でまみれたナイフで死ねるのならば本望だ。だけど彼女は、イヴァンへの愛と私への嫉妬を私に突き刺すのだろう。そんな死にかた、したくない。
ライナが言うとおり、愛情の方向や思考がおかしいことは私が一番分かっている。「ライナは、嫌かな」

「いろんな愛の方向があっていいと思うの。わたしは三人とも好きだから、みんなが愛を知っていることは、わたしの自慢よ。」




ライナの言葉は温かかった








「なあ」


ナターリャはわたしに会うたびに自分は美しくないと嘆く。わたしはいつもならば「あなたは美しいわ、とても」、と言うのだけれど今日は少し違う。

「あなたは美しいわ、美しき我が祖国」


いつも背中しか見せない彼女が振り返った。髪が舞って、頭上のリボンが揺れた。目が少し大きかった。いつもより優しい顔をしていた。
「ありがとう」



私はいま、幸せな恋をしている




◎ あの子はきれいです 様