解散の号令の後、蜘蛛の子のように教室から散ってゆく生徒達から一歩も二歩も遅れて教室を出る背中があった。
その爪先は昇降口へは向けられず、一定の拍を維持するように淡々とした足取りで階段を登って行く。
学級の教室とは離れた場所に位置するその部屋には国語科準備室のプレートが掲げられていた。
灯りはついていないようだったが、ノックひとつせず無遠慮に扉を開く。
慣れた学級教室と比べると、デスクやら書類やらで圧迫された準備教室の中は狭苦しく見えた。
四つほど並べられた事務用デスクの左奥。教室の出入口に立つ彼の位置からは、ちょうど換気のために開けられた窓から吹き込む風でふわりと靡くレースカーテンに遮られる形になった。
まるで舞踏会の婦人のドレスのようにゆらめいていたそれは、一拍置いて窓際へと吸い寄せられ、ただのレース生地に立ち戻る。
すっかり風が止んだ頃、キャスターのついた事務椅子の上に佇む姿勢良い背が目に入り、彼は無言でずかずかと教室に足を踏み入れて行った。
その隣のデスクに行儀良く収められていた事務椅子の背もたれを抱えるような形で無遠慮に座るも、隣人はこちらになどまったく気付かない素振りで手元に視線を落としている。
床を軽く蹴ってキャスターを90°回転させると、椅子の根が軋む。
隣人は視線の出所を一瞥したが、何事でもないふうにその目は流れるように手元へと戻って行った。
白く細い手の中には一冊の文庫本が収まっていて、一頁、また一頁と、紙の擦れる音だけが狭い室内に零れ落ちる。
未だべったりと黒のアクリル絵具を塗ったような瞳がこちらを見ているのに気付いていながら、興味がないといった様子が気に食わなくて彼は彼女の手中から文庫本を抜き取った。
意外にもあっさりと手離されたそいつの表紙を見てみると、タイトルには大きく「変身」と記載されている。
それだけで、その横に記された著者名は見なくともわかった。
カフカなど授業ではやらないが、活字を読める人間なら読んだことはなくともあらすじくらいは聞き齧ったことがあるだろう。
ふん、とつまらなそうに手元の本をデスクへ半ば放ると、男子生徒ははらりと落ちた前髪を撫で付けた。

「どうしてまた"変身"なんて読んでるんです」

国語科教師だからというわけではないが、この"本の虫"なら世界的に有名な作品は大方既に一度読了していることだろう。
読書の邪魔をされた腕は肘おきに置かれたまま所在なさげに指の腹同士を合わせていたが、すぐに緩く指が組まれる。
長くため息を吐いて、心底面倒そうな瞳がようやくこちらを向いた。

「また来たの、尾形くん」

この若い教師は半年前から赴任してきた。
なんでも二年生を受け持っている担当教員が産休に入ったとかで、補充人員として中途半端な時期にやってきたからやけに印象的だったのだ。
見た目の第一印象は地味なやつ、くらいなもので国語科担当と聞いて妙に納得した。
全校集会で前に立たされ、挨拶を促される女をただぼんやり眺めていた。そもそも教師になど興味のなかった彼は、その時は顔さえ見ていなかったかもしれない。
グレーのパンツスーツに紺のブラウスといったシンプルな出で立ちで、今隣に座る彼女も同じような姿をしている。
硬い表情は緊張故か、それとも元々無愛想なのか、感情表現のために筋肉ひとつ動いているようには見えなかった。
なんとなく観察していたその顔に興味が湧いたのは、彼女が一文字に結んでいた口を薄く開いた後だ。
まだ教師経験の浅いことが判る程度には若く見えたが、どちらかといえば幼い顔立ちからは想像のつかないほど、マイクを通したそれは女にしては低い声をしていた。

みょうじ なまえです。
よろしくお願いします。

無駄な言葉を省いた簡潔な挨拶で、生徒のみならず教師までもが面食らってしまう様が滑稽で密かに鼻で笑った。
寝起きなのではと疑うほど気怠げで、それでいて一礼する所作は流れるように自然。折りたたみ椅子に戻って行くまでの歩き姿も整っている。

みょうじの授業を尾形は受けたことがなかったが、三年生は選択科目のため日により始業の時間が疎らになる。
三限から登校した彼がまだ授業中の二年生の学級を通り掛かった時だった。
やけに通る声が聞こえて足を止めると、廊下と教室を隔てる小窓の向こうには件の教師が教科書の一節を朗読している。
初日のあの気怠げなそれではなくはっきりと聞き取りやすい発語で、授業なんて普段は眠くなってしまうがあの音色ならいつまででも聴いていられそうだと、柄にもなくそんな感想を抱いたのだ。
読み終えた後ほんの一瞬だけ窓越しに廊下へ視線が遣られて、目が合った。そう思った次の瞬間には既に彼女は授業に戻っていて、別人のように低い掠れた声がありきたりな苗字を指名した。

そのようなことがあって以来みょうじにちょっかいをかけに尾形は放課後、度々国語科準備室を訪れるようになったのだが。
どうやらこの不良教師は時間の殆どをこの部屋で読書に費やしているらしいのだ。
サボっている、と揶揄してみれば終業時間までにやることは終わらせているという。
テスト期間前後は普段あまりここに来ない他の国語科教諭も揃ってこの部屋で問題を作ったり採点をしたりと忙しないので尾形も寄り付かないが、確かにその忙しなく働く中にこのみょうじの姿もあったと記憶している。
元より、本気でサボりを働いているのであれば放課後にこのような静かな時間は流れやしないだろう。
気づけば肘掛にあった肘がいつのまにかデスクの上に移動して、みょうじは頬杖をつきながら足の爪先から値踏みするように尾形の姿を観察していた。
まるでやることがなくなったから仕方なく動く物を目で追っている、くらいの感覚だろうか。
面倒くさそうな、つまらなそうな視線は徐々に下から上へと這い上がってきて、瞳を通り過ぎて額の上まで登ると今度は口許に降りてきた。

「それは?」

視線だけで指し示された両頬の下に指を這わせると、ざらついた感触が伝う。

「あぁ…昔事故に遭いまして。そのときの名残です」
「へえ」

まるでいま初めて顔を見た、みたいなみょうじの表情には驚きも興味も対して含まれていなかったが、会話の形をした無意味な応酬が尾形は嫌ではなかった。
むしろ心地よさすら感じる。
今度見たみょうじの視線は、尾形が放った文庫本の上に注がれている。
続きを読みたいのかと思ったが、頬杖をついたそのままに感情の読めない顔で何やら考えているようだ。
開け放たれた窓の向こうからは、運動部の活気溢れる掛け声やホイッスルの音が鳴っていて、それが耳障りに思えた。

「尾形くんは読んだことある?」
「……いえ、冒頭だけ」

みょうじらしからぬ発言だと、そう思った。
今までに自分からこんな会話らしい話題を振ることはなかったし、それに一端の人間染みた表情を浮かべることもしなかった。
物珍しいものを見るような目を向けていると、やはり怠そうに開かれた瞼の向こうから昏い瞳が尾形を刺す。
灯りのついていない薄暗い部屋の中、窓から西陽が差し込む対比でそれはよく際立っていた。
ふいに、尾形の口許に薄らと笑みが浮かぶ。

「先生が読んでくれるなら聴きますよ」

そう呟いて自分でデスクに投げた文庫本を拾って差し出すと、みょうじは暫く見つめてからそれを受け取り、表紙を開いた。

「"ある朝、彼が夢から目覚めると"…」

朗読を始めてから十分程経っただろうか。みょうじの声に暫く耳を傾けていた尾形は徐に手を伸ばし、もう一度本を取り上げた。
己が読めと言ったのではないかと言いたげな彼女の顔が尾形を怪訝に睨む。

「…"こころ"の時とは違うな」

独りごちるような尾形の口調は、どこか責めるような語気を含んでいる。

「物語に感情移入なんて、する意味ないんですよ」

独り言のようにそう言うと細く長く息を吐き出して、前髪を撫で付ける。
癖なのだろうその仕草を眺めながらみょうじが次ぐ言葉を待っていると。
"趣向を変えるか。"
そう呟いて尾形は前へ向き直った。

「…俺の母はね、その話に出てくるような怪虫でした」

俺は不倫で出来た子どもでしたから、物心ついた頃から母は不安定で…あれは確か八つくらいだったかな。
深夜に山道を車で走っている時、事故…いや。あの時母は無理心中しようとしたのか、わざとガードレールを突き破ったんでしょう。
一命を取り留めた俺は、病院で目覚めて母の死を知っても涙ひとつ出やしなかった。

淡々と昔話を始める尾形は、みょうじの手から奪い取った本の表紙を掲げて見せた。

「"変身"、読んだことありますよ」

初めて読んだ時は、人が虫になるなんて馬鹿らしいと思った。
でもね、読んでいるうち思ったんです。
母はきっと虫だったんだ、って。
葬式でも悲しむ素振りひとつない俺に向かって、親戚共は言いたい放題でしたよ。
正直どうでもよかった。
蟻が一匹死んでも悲しくなんてならないでしょう。
それと同じだ。

一呼吸吐くと、尾形の昏い瞳はまっすぐに眼前の女を捕らえた。

「…なぁ先生。俺の話はそんなに面白いかな?」

みょうじの口許には、知らず笑みが浮かんでいた。感情の伴わないそれは、眼前の男のものと酷似している。
取り繕う気ももはやなく、みょうじは変わらぬ顔でじっと尾形を見ていた。

周りは俺をおかしいと言うが、俺と同じじゃないなら、たぶん。

「俺以外が虫なんだろう」

そう呟きながら、椅子から腰を上げるとほんの僅かな歩数を尾形は縮める。
大きな掌が眼前に伸びると、片手で両頬を強く掴むように乱暴に引き寄せられた。

「さぁ…次はあんたの話を聴かせろよ」

外はもうすっかり日が暮れてしまって、いつのまにやら部活動の生徒たちも片付けを始めている。
静寂に満ちた狭い準備室。底の見えない昏がりの中、出口などもう既にどこにもなかった。

怪蟲

- 1 -
prev | next
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -