果てなく広がる紫紺へ水が差される。時間を掛けて徐々に滲み広がる淡い色合いが、水彩画のようだと彼女は思った。
"春はあけぼの"。
かの有名な随筆の冒頭をそのような言葉から綴った作家も、きっとこのような景色を詠ったのに違いない。
未だ遠い山の輪郭を縁取る程にしか昇っていない朝日を、なまえはただ眺めていた。
それは先に挙げた詞のように、景色や季節を尊ぶ趣きとはまったく異なっている。
いまの彼女には眼前に広がる壮観な光景への感嘆など微塵もない。
視線すら動かぬ瞳になにかを映しているようでその実なにも見てはいなかった。
澄み渡る明け方の空気の中、冷えた風とともに溶けてしまうのではないか。
呼吸ひとつ感じさせない佇まいはそのように思わせるほど儚く虚ろで、彼女はこの瞬間、間違いなく朝景の中の一部分であった。
暫くそうして自然と同化していた人型は、ある種幻想的にもおもえる閑かな空間へ突如不釣り合いな"音"が投げ込まれたことにより立ち所に人間へと還る。

「また勝手に出歩いてんのかよ、なまえ」
「…………」

音。もとい呆れを多分に含んだ声の主を見遣ると、先まで人形のように無表情だった顔はみるみるうちに不快一色に染められた。

数日前に出会った少女、スイカに連れられて科学軍が駐屯するこの丘へとやって来た日になまえは倒れている。
そしてその翌早朝にも、ちょうど今日のように小屋から出て徘徊しているものであるから、彼女の"主治医"は一人で勝手に外を出歩かないよう口を酸っぱくして言いつけたのである。
が、当の本人は意に介さないといった具合で話を聞かず、彼はこの患者に手を焼いていた。
例えば昨日はといえば、なまえの主治医も兼ねつつ科学軍の筆頭である千空と、幻が考案した"作戦"の真っ只中のことである。
村人達総出で作り上げた科学兵器、もとい携帯電話での通話中に、いつのまにやら寝床から抜け出して来たなまえがスイカ達に混じって一連の様子を伺っているのだ。
"歌姫役"の幻も、"通訳役"の千空も、これに気が付いた時にはつい言葉が詰まり掛けたが、なんとか無事にやり過ごした。
通話を切ると真っ先に小言を言ってやろうと振りかぶった千空は、しかしすかさず投げかけられたなまえからの質問に閉口させられる。

「ねぇ、これどこに繋がってるの?」

そう問う彼女の爛々とした瞳は、遥か遠く3700年前から見慣れた其れとなにひとつ変わらないものだった。
郷愁にも似た思いが胸に舞い込むが、千空は誤魔化すように軽口を叩く。

「…あー?決まってんだろ、地球の裏側だ」

彼の口振りから茶化されていると理解して、その瞬間なまえは眉間に皺を刻んだのであった。
彼女が千空を見ると嫌な顔をするのは、なにも初対面の悪印象のみではない。
羽京の元を発ってからこの丘へやって来るまで、目に入る大自然の変化に心躍ったように、記憶を失って尚彼女は自らの好奇心に素直だった。
それは原始の世に存在する科学の発明品に対しても同様であったのだが、いかんせん千空は真面目に取り合おうとしないものであるから、益々なまえは彼を小憎らしく思うようになったのである。

そうしていま現在も、自分一人の時間を過ごしていたところに嫌な顔と対面してしまった彼女はいじけた子どものようにそっぽを向いた。
指図される謂れはない、ということだろう。
意地でも動こうとしない態度に深いため息を吐き出すと、背後にあった気配は足音と共に段々遠退いてゆく。
再び訪れる静寂と平穏。そこは妙な安堵感に包まれていたが、息をつく間もないなまえの胸になにかが引っ掛かった。

石神千空という男は、文明の滅んだ世界に科学を齎している狂気の人間だ。
それだけで彼女にとっては非常に興味深い存在なのだが、実際に会ってみれば頗る口の悪く、どういうわけか自分にだけ不躾な言動を繰り返す。
だが、それでいて言葉に刺があるというわけでは決してないのだ。
顔を合わせれば挨拶をして来るし、弱った体を労わるような素振りも見せる。
急に現れた自分の存在にどこか警戒しているというわけでもなさそうだった。
言葉には言い表し様のない、そんな漠然とした千空への違和感について気を取られていたなまえは、頸になにかが触れる感覚で我に返る。
背後に突然現れた何者かの気配に肩を跳ね上げさせ、勢いよく振り向けばそこに居たのは先程この場を去った筈の男。
ちょうど今、彼女の思案の中心にいた千空その人であった。

遠い山陰の奥から顔を見せ始めた朝日に照らされて、煌々と燃えるその辰砂の瞳に思わず息を飲んだ。
理由を考えてみてもきっと解るはずはない。どうせ聞いたところでまともな返事など返ってこないとも解っていたが、次の瞬間なまえは既に口を開きかけていた。

「千空。私どこかで……」

そう口走ってしまったところで、言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。
朝日が横目を刺して霞む眼前の男の顔が、微かに強張ったような気がしたからだ。
実際にはそんなことはなかったのかもしれないが、何故か彼女はそれがひどく恐ろしい顔のように思えた。
次ごうとした言葉が何であったのかすら忘れてしまって、所在なさげに視線を落とす。
そんな自分の脈だけがやけに煩く鼓膜を打った。

「風邪ひかねぇうちに戻れよ」

去り際に掛けられた言葉が一歩遅れて脳へと届く。
意味を理解した頃には彼は少し離れたところで発明品である自動車をじ、と眺めていて、その佇まいを目にすると胸中に小波が立つ。
"そこ"へ触れてはいけない何かを感じて視線を日の出の方角へと滑らせた時、先ほど自分の首元を擽ったのが毛皮の外套であったことに漸く気が付いた。
じんと滲むこの温度は、日が大地を照らし始めたからか、あるいは。

sunrise

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